独立後(1946~1973)

スポンサーリンク

(4)フィリピンの言語政策の年表(独立以後の時代)

○第2共和国時代は全分野で国語運動が推進されたが、戦後は主に教育制度を通して、言語政策が推進された。当初は経済復興に集中して、言語問題への関心は薄かった。

1946年4月30日:トルーマン大統領は、ベル通商法に署名する(フィリピンには不利な内容)。

1946年7月4日:フィリピンの独立が宣言された。ロハスが大統領として就任する。@ With the proclamation of Philippine Independence on July 4, 1946, the Filipino National Language became one of the official languages. The nomenclature, Tagalog, which was adopted during the Japanese occupation was discontinued and the term “National Language” was restored. (Asuncion-Landé p.686)

1946年:ケソンprovince の Tomas Morato はスペイン語の公立学校での教育を定めた法案を提出するが、ロハス大統領は、資金不足を理由に拒否権を行使する。

1946年:英語・スペイン語・国語が公用語となる。

1946: 7月4日タガログ語をフィリピン共和国の国語(Lengua nacional)に定めた。

1946ー1948年:The Philippine Community School Movement が生じる。国の社会的、経済的な現状と戦うために、この運動が起こった。これはマグサイサイ大統領の地方発展計画と関連すると主張する人がいる。識字率の向上を目指し、それは土着語の使用を通してであった。イロイロ、バターン、カガヤンの州においての実験的なプログラムから出発した。これは、50年代はある程度の成功を収めたが、60年代になるとその評判は落ちてきた。School Movementのあとでは、教育の中心は、地方共同体の発達よりも、three R’sの修得におかれた。(Bernabe 1986:79)

1947: The Chinese schools were established in the Philippines by virtue of the 1947 Treaty of Amity signed with the Republic of China. This treaty permitted the opening of Chinese schools and the Chinese Embassy began to exercisae supervision, to issue orders to license local Chinese teachers and to recruit teachers from Taiwan (Tan 1988:189).

1948-54年:イロイロ実験、州教育長(Division Superintendent of Schools for Iloilo) Jose V. Aguilarのもとで6年間にわたって実験がおこなわれた。ヒリガニョン語と英語のどちらが初等教育の教育言語として、効果的であるかを調べるために、7つの実験クラスと同数の統制クラスの第1と2学年の児童が対象となった。この実験の目的は、下の通りである。
(1)reading,算数、社会と言語の教育言語として、英語とヒリガニョン語のどちらが、効果的であるか調べること。
(2)ヒリガニョンから英語へ、英語からヒリガニョンへの転移がみられるかどうか。
(3)3年生になってから、英語でreading,算数、社会と言語を勉強するが、どちらの言語がより効果的であったか。
(4)4年生になってからの、個人的、社会的な適応性にどのような効果がみられたか。
その結果は土着語の使用クラスの方が、算数、社会、言語、読書において成績がよかったことが示された。さらにBernabe(1987: 82)では the pupils in the experimental group were more dominant, emotionally stable, and emotionally mature than the pupils in the control group. …the children in the control group, are shy, timid, and have difficulty in expressing clearly their ideas. との報告を紹介している。つまり、実験クラスの方が、性格がdominantであり、感情の上で落ち着いていて、成熟しているとの報告があるBernabe(1987: 82)。さらに重要なことは、英語の能力も差がないと報告されたBernabe(1987: 81)。また、これは統計的に有意ではないが、実験クラスの方が退学率がすくなくて、児童はより学校に関心を持っているように思えた (Bernabe1987: 82)。土着語の使用は数多く提言されていたが(Bernabe 1987: 80)、1935年のケソンの調査委員会が提言したように科学的な実施調査が必要であった。@ところで、この実験の前段階として、1925年のモンロー調査団の報告書(Monroe 1925: 25-6)の中で、フィリピンの教授言語に関しては、実験と科学的調査のあとで、その問題は答えられるだろうと述べている。
@1948-54: The Iloilo Experiment was undertaken. The results of this experiment indicated that the use of Haligaynon was more effective than English in enabling the pupils to understand and learn social studies, language, reading, and arithmetic. Moreover, the results showed that the use of Hiliganyon in grades 1 and 2 did not impair the learning of English at the intermediate level. @ the findings is that in the initial stage of learning, the substance of education could be more easily acquired in the vernacular than in a foreign language, specially English, … This experiment became the basis of the decision of the Board of Education for the use of the vernacular as the medium of instruction in grades one and two as embodied in the Revised Educational Program of 1957. (Soriano 1977: 6)

1948: Some enterprising and resourceful superintendents of public schools started experimenting with the community schools.

1948年:The Joint Congressional Committee on Education (JCCE)が教育問題について調査をおこない、土着語使用の問題点を列挙した。同一クラスに複数の土着語の話し手がいたり、児童や教師の転校・転勤が困難になる点、教授資料の問題点が上げられた。しかしイロイロ実験の結果待ちで性急な改革は主張しなかった。また国語問題に関しては、(1)タガログ語が国語ではなくて、国語の土台であること、(2)外来語でも広く普及しているならば純粋なタガログ語の代わりに教えること(3)書記法は純粋なタガログ語文法ではなくて、英語やスペイン語の書記法にも合致するようにすることを提案した。

1948年:The Bureau of Education は名称を the Bureau of Public Schools に変える。

1949年:フィリピン・ノーマル・カレッジでフルブライト・プログラムが始まり、第2言語としての英語教授法がClifford Prator,Jr. を講演者として始まった。そこで強調された理論は言語とは習慣形成であること、言語の音声面の強調であった。Bernabe p.108 (私見では Prator はフィリピンの言語教育に大変な影響を及ぼしているようである、1957年の教育改革で英語の第1-2年は音声の訓練のみになったのは明らかに彼の影響であろう)

1949年:UNESCO Consultative Education Mission (UCEM)が組織された。米国、カナダ、コスタリカからの専門家がフィリピンの教育家の援助を受けて、フィリピンの教育問題を調査する。フィリピンの初等中等教育の問題は英語を教授言語としていることと、タガログ語を非タガログ地域に教えているためであるとした。しかし現状の言語教育を続けることを提言した。また非タガログ地域での国語教育への反感がとりわけ教師の間に見られることを報告している。(Bernabe 1987: 86-88)
@UNESCOは公式報告を出さなかったけれども、意図は上の通りである。(Prator 1950: 23)

1949年2月26日:ソート法(Sotto Bill:Ley Sotto)=共和国第343号法(Ley de la Repu’blica, No.343)が発令される。ケソン地方選出のトマス・モラト(Tomas Morato)国会議員が法案を作成し、その主旨はすべての公・私立のhigh schoolにスペイン語を可能な科目(one of the possible subjects: las asignaturas posibles)とすることであった。安井(p.136) Bernabe(p.95)で激しい反対が教育者から出たことが書かれている。

1950年:Flag Law は官庁における国産品の使用・保護または教科書、副読本の国内印刷、製本を規定する。←大竹(比島ナショナリズム)

1950年: Clifford H. Pratorが Language Teaching in the Philippines を発表した。彼は(1)国語を非タガログ地域に教えるのは、少なくとも中間学校intermediate gradesまで延期する;(2)初等教育の1、2年は民族語を使用する;(3)1、2年では、英語を教科として教え、それ以降授業の言語として英語を使用する。(4)最初の2年間は音声訓練に徹底して、それから読解に進むこと。原文(Bernabe 1987: 88) @Prator(1950: 52-54)のなかで、「フィリピン英語」に触れて、これを教育のモデルにするのは相応しくないとしている。@Prator(1950: 5)は、INLは超保守的であり、あまりに puristic な考えにたっており、Malolos, Bulacanのような田舎のコミュニティの素朴な方言を栄光化しており、首都のよりコスモポリタンでmore adaptable な方言に関心を払っていないと非難している。@ Pratorの提案に沿って、いろいろな発展があった。

1950: Largely through Prator’s efforts in collaboration with Philippine education officials, a Philippine project on second language teaching was established at the University of California at Los Angeles with financial support from the Rockefeller Foundation. This led to two important programs: (i) the training and education of Filipino teachers, supervisors, and administrators at UCLA and other American universities an in the Philippines; and (ii) the establishment of the Philippine Center for Language Study (PCLS) in 1958. (Sibayan 1999, 13)

1951年:パリで UNESCO 会議が開かれた。母語での教育を提唱する。

1952年:公立学校局が「フィリピン公立学校制度に関する調査書」をユネスコに提出し、地方語による教育を提唱する。

1952: エンリケ・マガロナ(Enrique Magalona)上院議員によって、ソート法の改正案が提出され、国会で承認され、翌年6月5日、共和国第709号法として承認された。同法はマガロナ法(Ley Magalona)とも呼ばれ、これは(2年間?)大学・高等学校で12単位のスペイン語を必修とすることを規定し、1952-53年より実施することにした。安井p.136 これらソート法とマガロナ法がスペイン語教育復活の最初の具体策であった。@これに対して、Constantino (1982:15)スペイン語の24単位の強制について、嘆かわしいとしている。

1953年:Cresencio Peralta of the National Teachers College は52の地区と8つの年へ土着語使用に関してアンケートを行う。回答のあった36地区の内、12地区では土着語を使用していた。使用しない理由として、教科書の不足、教師の能力不足、土着語がまだ標準化されていないこと等であった。

1953年:教育法で40年法で劣悪化した初等学校の教育学校の改善が目指された。(綾部編 1995:193)

1954年:INLは新しい語彙集を刊行する。Vocabulary Lists for Teaching Various Subjects in the Filipino Language; Economic and Allied Terms; Legal Terms; Parliamentary Terms and Usages; Arithmetical and Geometrical Terms; Geographical Terms; Traffic Signs and Terms; Agricultural and Farming Terms.しかし科学技術の用語は刊行されず1964年以降の仕事になる。

1954年6月16日:共和国法第1124号が通過、the Board of National Education (NBE)の設立を規定する。The Board が a policy-making body となり the Secretary of Education はその政策を遂行してゆくことが目的となった。(Bernabe 1987: 97)

1955年6月3日:BNE が組織化された。政府側から7名の委員(1)the Secretary of Education as chairman (2)the Director of Public Schools (3)the Director of Private Schools (4)the President of the University of the Philippines (5)the Chairman of the UNESCO in the Philippines (6)the Chairman of the Committee on Education in the House of Representatives (7)the Chairman of the Committee of Education of the Senate. その他各部門から8名合計15名のメンバーであった。しかし1965年にこの数は8名に縮小された。(Bernabe p.97) 組織で問題は a Technical Committee→ the Standing Committee → the Board の順に審議されてゆく。

1955年9月6日:ローレル・ラングレー協定

1955年:イロイロ州での実験を受けて、公立学校局(the Bureau of Public Schools)は、初等教育の1,2年生が民族語教育をうけることはserious considerationsに値すると提唱する。(Bernabe 1987: 82)

1955年: in a move to erase the regional connotation of Tagalog and to forestall further bitterness among the people, some officials in the Cabinet and the Department of Education proposed in 1955 that the National Language be called “Pilipino.”…. Since that time, Department of Education Circulars have referred to the language as “Pilipino.” (Asuncion-Landé p.688)

1955年:レクトがリサール法案の原案を起草する。カトリック勢力の強い反対を受ける。

1955年:あらゆる教育機関での毎日の国旗掲揚儀式の施行される。(綾部編1995:193)

1956年5月12日:リサール法、全国のあらゆる学校および大学にリサールの生涯とその著作を学習するリサール課程を設立することを義務づけた。@ The Rizal Bill is passed into law, providing for the compulsory reading of Jose Rizal’s Noli me tangere and El filibusterismo in all universities and colleges in the Philippines. The bill, sponsored by Senator Claro M. Recto, meets opposition from the Catholic Church and its defenders, among them Senator Francisco “Soc” Rodrigo. The final version makes it possible for students to be exempted from using the unexpurgated editions on grounds of religious belief. (Totanes 1998: 219)

1956年:BNE の56年5月31日の会議で下の表のような動議が満場一致で採択された。これは、Dr. Eduardo Quisumbingが提案したものであり、Congressman Carmen Consingによって、その動議が支持されたものである。地方語を低学年の授業用語に採用した。その結果は次のようである。これはイロイロ実験の結果を踏まえ、1901年から続いた英語の単独授業用語の歴史に終止符を打つものであり、地方語を授業補助語とする1940年の決定(Secretary of Education Jorge Bocoboによる)からの発展である。(Bernabe 1987: 103)
なお、当初は初等教育4年間を地方語を教育言語とする予定であったが、当初の2年間だけにする。(Bernabe 1987: 103)
『現代アジアの教育』p.179の表をBernabe (1987:104)によって改良する。Sibayan (1999: 344)も同じ内容を述べている。
授業で用いる言語 科目として教える言語
中等学校 英語(補助としてタガログ語) 英語、タガログ語
6学年 英語(補助としてタガログ語) 英語、タガログ語
5学年 英語(補助としてタガログ語) 英語、タガログ語
4学年 英語(補助として地方語) 英語、タガログ語
3学年 英語(補助として地方語) 英語、タガログ語
2学年 地方語 英語(オーラルのみ)、タガログ語
1学年 地方語 英語(オーラルのみ)、タガログ語
注:タガログ語のことは、Bernabeでは、the Filipino language としている。

言語教育の過重負担で中途退学、教育の質の低下が目立った。しかし低学年に地方語を持ってきたことで、中途退学者もある程度の識字能力を身につけることができた。私立学校では教授用語は相変わらず英語であった。
 Sibayan(1999:360)は地方語の使用に関して、興味深いことを述べている。When the Department of Education ordered the use of the vernacular of the locality as a medium of instruction in Grades 1 and 2, starting in the school year 1957 – 1958, many private schools, especially the so-called ‘exclusive’ schools, did not follow the order. They continued to use English as the main medium of instruciton. Pilipino, however, was taught as a subject in these schools. It is interesting and perhaps instuctive to go into the reasons for this seeing ‘disregard’ for a Department of Education Order. According to Dr. anrciso Albarrancin, a lawyer who was Director of Private Schools at the time, (以下日本語でまとめる)母語教育の利点は、速く簡単に学べる。さらに、半数以上の子供が、4年生以降に退学してゆく。そのため、母語で教わった方が知識の定着が著しいだろうと思われる。その意味で、vernacular education は貧しい人のためのプログラムである。そのため、裕福な人は、自分の子供が退学することはないと感じていれば、vernacular educationの必要性は感じないのである。その理由で、the National Board of Educationがvernacularを教授言語からはずし、補助教授言語にした理由である。
@なお綾部編(1995:193)によれば、中等学校の4年間を2年づつに分けて、前期の2年間で普通教育を行い、後期の年間で大学教育準備教育と職業技術教育にコース文化させる「2ー2プラン」などの改革も実施された。

1956: The present version of the national anthem (Pilipino version) was made official on 26 May 1956. (Sibayan and Segovia 1984: 30)

1957年:議会がスペイン語をhigh school, university, collegeでの必須科目にする法案を通す。Agoncillo p.545はまったくの無駄と批判している。@The Spanish Law (Republic Act No. 1881) は政治がカリキュラムに介入した例としている。一般に知らされずに、突然議会で法律化されたとしている。The Board of National Educationは始めから反対であった。(Bernabe 1987: 126)

1957, June 23: 前述のマガロナ法が改正されて、クエンコ法(Ley Cuenco)=共和国第1881号法として、発令した。内容は、公立・私立を問わず、すべての大学の法学部、外交学部 foreign service、人文学部 liberal arts、商学部 commerce、教育学部は 24単位のスペイン語を履修することが必修となった。安井137。前期はスペイン語の基礎知識を習得させ、後期はフィリピンの代表的な作家や詩人Rizal, Babini, Apostol, Palmaの作品を鑑賞させることである。Bernabe (1987: 125)で述べているようにThe Spanish Law(Republic Act No.1881)は大衆が議題が議会で審議されているなどまったく知らないうちに決定されてしまった。BNE は当初から強く反対する。@ Corpuz (p.219)によれば、スペイン語文化とは無関係なイスラム教徒でさえこの法律の適用を受けることになり、滑稽だとしている。@Sibayan (1999: 404)の中では、無駄と考えているようである。彼によれば、Spanish, which is offered as optional subject in the high school, is a required subject in college. Every college student has to take twenty-four units of Spanish, which is roughly twenty percent of his entire academic load during his four years in college. This requirement, which was legislated, is known as the Spanish law. There have been complaints by students, parents, teachers, and the general public on the heavy demand of Spanish on the college student’s academic load. … the students has to finish 24 units of Spanish, 12 units of Tagalog, and 18 units of English – a total of 54 units of languages alone. This is more than 1/3 of the entire load of the four-year college course.

1957年:Pambansang Samahan ng mga Tagamasid/Tagapagtaguyod sa Filipino (PASATAF) was organized in 1957 by a group of National Language Supervisors together with some Bureau of Public Officials and representatives from the Institute of National Language, the primary objectives of PASATAFare: 1) to unify all P (F) ilipino Supervisors of the country with the aim of making language supervision and teaching more effective, in consonance with school policies, regulations, ang programs; and 2) to help in the development and propagation of the national language in coordination with other language institutions and organizations, government and non-government. (Internet: Belvez)
1957年6月―1958年2月:BNEとthe Board of Textbooksの間で、初等教育の1,2年生の教科書に関してconfrontationsがあった。Mariano V. de los Santos, Chairman of the Board on Textbooks, は次のような理由で、民族語による教科書との印刷に反対した。①87あまりの初歩読本を印刷しなければならない。②費用が膨大になる。③民族語を教えることで、国語に悪影響を与える。④民族語での読み物はないのであるから、初期のうちに読み方を覚えても、いずれ使う機会がなくて忘れてしまう。
 それゆえに、①テキストを印刷する前に、その有効性が実験で証明されること。②あらゆるテキストは民族語の対訳のついた国語であること。③テキストは一種類だけ印刷されること。を提案した。(Bernabe 1987: 106)

1957: A landmark development was the passage of Congress by Republic Act No 1224 embodying the Revised Philippine Educational Program. The National Board of Education resolved to use vernaculars in the first two grades of elementary schooling on a nationwide basis. Tagalog would be taught increasingly as one went up form the lower levels to the higher levels of elementary education, while English would be offered as a subject in the first two grades and employed as an instructional means from grade 3 upward. This decision terminated the monopoly of English as the medium of instruction in the educational system.

1957: To help educators cope with the task of implementing the teaching of English as a second language, the Rockefeller Foundation donated funds which made possible the establishment of the Philippine Center for Language Study.

1957: The Philippine Congress passed a law making to Spanish language compulsory in all high schools, colleges, and universities.

( ): The institution of programs in language teaching and linguistics, such as those of the Institute of Language Teaching at the University of the Philippines, the Language Center of Ateneo de Manila University, and the Language Study Center of Philippine Normal College. The activities of these centers were augmented by the work of American Peace Corps volunteers and the Summer Institute of Linguistics.

1957年:The Philippine Center for Language Study (PCLS)がマニラに設立された。教師の訓練と教授用使用の作成をおこなう。非政府機関であり、the Rockfeller Foundation から補助を受けた。これはフィリピンの英語教育に関しアメリカ(the University of California, Los Angeles)から助言をもらうために設立された。Bernabe p.109 →ここがフィリピンでの英語教育の中心地なのか?

1957年:The Revised Educational Program (Republic Act No. 1124) と the Revised Philippine Educational Program (R.A.No. 1224)が発令された。これは言語政策に関連するという。(Bernabe 1987: 103)

1958年2月7日:BNEとthe Board of Textbooksの間で、民族語による初等読本の内容に関する合意ができて、同年の6月7日までに印刷されること、民族語の語彙集と国語による同義語が巻末に載せられること、読本の目的は、読解力をつけることと民族の美徳を涵養すること、で合意がみられた。(Bernabe 1987: 106)

1958: the establishment of the Philippine Center for Language Study (PCLS). (Sibayan 1999, 13)

1959:医学法(Ley Medicina)では医学専攻生は4単位のスペイン語を必修として履修することが規定された。安井137
スペイン語教育の現状:クエンコ法の通過以来国内にさまざまな不満の声があがった。政府による調査研究の結果、いくつかの問題点が指摘された。(→この政府報告を入手したい。)問題点は、有資格教員の不足、植民地支配への反発、適切な教科書の不足。対策として1961年より現職教員のための語学研究所を設け、スペイン語諸国との文化交流も計った。→安井(1979:121)

1959: The Swanson Survey が行われた。国際協力局International Cooperation Admistration (ICA), フィリピン国民経済審議会the National Economic Council of the Philippines(NEC), 公立学校局the Bureau of Public Schools の協力のもとで、Chester L. Swanson を議長とする委員会であった。答申は、フィリピンでは、4つの言語(英語、スペイン語、国語、民族語)を用いることは、負担であるとしている。さらに、児童の25年と47年の調査の時よりも、小学校6年生において、読解、言語、算数において、一年ほど遅れを示している。英語が不十分な理由として、教科書の不備や教師の力量不足、初等教育1,2年生の時に、時間が減らされたこと、初等教育の3年生でも、民族語が使われていること、などを理由とした。高等学校での英語の水準の低下は、ピリピノ語やスペイン語の負担が増えたためとしている(Bernabe 1987: 115)。このチームは最終的に次のような提言を行った。(1)教授言語を英語へ移行する時期は何年生の時が一番適切であるかを研究調査すること(2)将来の適切な時期に、ピリピノ語を初等学校1年生からの教授言語をすること(3)現行の言語政策を継続することとしたが、ただし、非タガログ語地域では、ピリピノ語を第1,2学年からではなくて、第3学年で教科としてはじめて取り入れることとした。(非タガログ語地域での言語負担を軽くするために)(Bernabe 1987: 117)。スワンソンチームの提案は一年生と2年生においては一つだけの第2外国語の導入、つまりピリピノ語の導入は3年生からと提案しており、その点でBNEが一年生からピリピノ語の導入をとなえたことと異なる。それゆえに、the Direcotor of Public Schoolsが教育長(division superintendents)の委員会を設けて、事態を検討して、適切な答申をするようにといった。しかし、彼らの間で意見の一致を見ることはなくて、3種ほどの提案が平行して出された(Bernabe 1987: 117-8)。@ A joint Philippine-American survey of Philippine public education took place with Chester L. Swanson as head. The Swanson Survey Team agreed that Tagalog should continue to be developed as the national language, but it also recommended that English should be introduced as a subject in grades 1 and 2.

1959 (August 13): Tagalog was renamed Pilipino. During the celebration of National Language Week (13-19 August), the use of “Pilipino” as the official name of the national language was ordered then by Secretary Jose E. Romero through Department of Education Order No.7 , “to impress upon the National Language ‘the indelible character’ of Filipino nationhood.” (Gonzalez 1980: 102)

1959年4月2日:The Spanish Law に対する不満から、BNE はthe Committee on Spanish を設立して、the Spanish Lawの改訂案を提示するように指示した。しかしこれは、施行されずに、代わりに、スペインご教育の状況とその学生と親に対する影響を調べる委員会が作られ、Antonio Isidro が委員長に任命された。(Bernabe 1987: 126)→1961年6月21日

1959年8月13日:国語週間(8月13ー19日;いつ12月から変更になったか?)に教育長官Jose E. Romero は省令第7号で、国語はピリピーノと呼ばれることが義務づけられる。to impress upon the National Language ‘the indelible character’ of Filopino nationhood. のために。

early 1960s: Vernacularization further received a boost with the favorable results of the experiments conducted by the Philippine Center for Language Study and by a second Iloilo Experiment.

1960年5月19日:The Sinco Report. BNEは委員会を作る。これは、UPの学長であるVicente G. Sincoを議長として、スワンソン報告をたたき台にして、必要な政策を提言することを目的とするものであった。それは、1961年4月21日に報告がなされた(Bernabe 1987: 122-3)。

1960ー1964年:土着語が識字能力を高めるのみ最も有効であるとの仮説を検証するために、9つの調査が the Research and Evaluation Division of the Bureau of Public Schools によって行われた。土着語、ピリピノ語、英語の順に容易に識字能力を付けることが判明した。また非タガログ語の生徒は5、6学年で、英語が教授言語として使われ、ピリピノ語は教科として教えられているに過ぎないにもかかわらず、ピリピノ語の識字能力が英語のそれよりも高いことがわかった。また土着語とピリピノ語では識字力の transfer があることが分かった。(Bernabe 1987:120)

1960年:国勢調査では、セブアノ語を第一言語とする人(653万人)は、タガログ語を話す人(569万人)を上回る。(大上正直 1997:50)

1960年:Philippine Normal College で第2言語教育の大学院が開設。同様のプログラムがフィリピン大学(the Institute of Language Teaching)とアテニオ・デ・マニラ大学(The Language Center of the Ateneo de Manila University)で作られる。

1960年:Organized in 1960 by a group of professors in colleges and universities of Metro Manila, the KAPFIL [Kapisan ng mga Propesor sa Filipino] (formerly KAPPIL) was then composed of a handful of college professors teaching Filipino. Presently KAPFIL has around a thousand members all over the country mainly professors, instructors and teachers of Filipino. Its main objective is to help in the development of effective teaching strategies of the Filipino (Language and Literature). Among the regular annual activities of KAPFIL are the holding of seminars, workshops, conferences, symposia, and the publication occassionaly of its journal, the “TINIG ng KAPFIL”. (Internet: Belvez)
1960: The Swanson Survey was conducted. One of findings was that the achievements of the 1960 pupil were a year behind that of the 1925 pupil. (Asuncion-Landé p.686-7) @It recommended that only one nonnative language be introduced at a time, in non-Tagalog speaking areas. (Pascasio 1977: 6)

1960-1966:リサール実験 The Rizal Experiment by the Philippine Center for Language Study. Part I:タガログ語地域で英語の読解は第2学年の第2シメスターから始まるが、これを早めようとの意見があり、実験を行った結果、読解の導入の時期(第1学年の第2セメスター又は第2学年の第2セメスター)には関係がないとされた。適切な教科書や読本の存在が大きく影響するとした。提言は第一学年の第4月から英語の読解を始め、出来るだけ多くの読本を読むことであった。Part II:タガログ語地域での社会、科学、算数等の成績が教授言語によっって異なるかの実験が行われた。両者の比較のテストは1961年1月に、英語とピリピノ語の試験という形で生徒達の実力を調査した。教授言語として使う期間が短くなっても、ピリピノ語ではさほど影響はないが、英語では非常に影響が多くて、学生の英語のレベルが極端に下がるという結果が判明した。Frederick Davis 1967. The hilippineLanguage Teaching Experiments. PCLS Monograph Series No.5. Quezon City: Alemar-Phoenix.にこの経緯が記されている。Davis はその他の本の中で、教授言語の変化は低学年からではなくて、大学から行うべきとしている。それから、ある程度の期間教授言語として英語が使われないと、ものにならないとしている。(Bernabe p.129-132 @ It aimed to determine when it is better to introduce reading activities to Tagalog-speaking children –at the end of the third month of grade one or at the end of the third month of grade two. 結果は一年生の時も二年生の時も4技能の発達は同じであるとした。(Pascasio 1977: 7)

1960-62: A study was conducted in five major linguistic areas (Bicolano, Cebuano, Hiligaynon, Ilocano, and Pampango) and it was repeated in 1963-64 and its finding is that children taught in Pilipino as the medium of instruction could read and write equally well in both the vernacular and Pilipino. 両言語は似ているので言語間に転移があるということである。(Pascasio 1977: 6)

1960年:雑誌 The Philippine Journal of Language が The Philippine Association for Language Teaching によって発刊される。

1961年4月21日: The Sinco Report が出される。これは、前年の5月19日に創設された委員会の答申である。それは、3年生から、英語が教授言語となり、ピリピノ語が科目の一つになることであった。民族語は識字力を付けるための目的に使われるのであり、そのために、2年生以降は必要ないと考えられた。(Sinco and others 1961: 3)しかしこのレポートは英語の時間の増加を唱えるなど、ややアカデミック志向であると非難を受けた。(Bernabe 1987: 123-123)

1961(April 21):The Sinco Report が提出される。Vincente G. Sinco, President of the University of the Philippines を議長として、the Swason Survey の提言を検討することを目的とする委員会を BNE は1960(May 19)作る。提言はピリピノ語の開始を第3学年として、土着語は第1、2学年だけ教える。ピリピノ語と土着語は構造が似ているので、第3学年以後はピリピノ語で土着語の学習の代用になり、負担軽減の考えである。(Bernabe 1987:123)

1961年6月19日:Sinco Reportに対してthe Philippine Association of School Superintendents (PASS)は、BNE でピリピノ語を1,2年生に教えることを持続するようにresolutionをsubmitした。(Bernabe 1987: 124)

1961年6月21日:スペイン法について、Antonio Isidroは24の学校での5000通のアンケートについてのまとめを a Board meetingで発表した。それによれば、スペイン語の習得への不満が学生などのあいだに多くて、法が施行されたときの所期の効果を上げていないとしている。(Bernabe 1987: 126-7)

1961年8月17日:Sinco Reportに対して、The Catholic Educational Association of the Philippines (CEAP)は、代表のWaldo S. Perfectoを通して、初等教育の当初の2年間に民族語を使うか否かは各学校の裁量に任されるべきだと意見を述べた。(Bernabe 1987: 124)

1961年11月14日:マカパガル大統領の就任演説ははじめはタガログ語で始め、次に英語に移した。Gonzalez p.99. (次のマルコス大統領はピリピノ語と英語をswitchしながら演説をする。またキリノ大統領、マグサイサイ大統領、ガルシア大統領は演説では常に英語を使った。(Gonzalez p.99)

1961ー1964:イロイロ実験(Ⅱ)が行われた。その目的は、第2言語は一つだけ学習することを勧めた the Swanson 勧告の有効性を調べることであった。ヒリガイノン語を教授言語とするこの地域で、対象者を3つのグループに分ける。その内容は、ヒリガイノン語を教育言語とする地域で、対象者を3つのグループに分ける。英語とピリピノ語の両方を一年と2年に勉強するグループ(1)と、英語を第1学年で、英語とピリピノ語を第2学年で学習するグループ(2)と、ピリピノ語を第1学年で、ピリピノ語と英語を第2学年で始めるグループ(3)の、それぞれの児童の成績を調べた。結果は近代的な方法が伝統的な文法中心の方法よりも有効であることを証明した。つまり、方法methodと教材materialと動機motivationの3Mがある限りは英語とピリピノ語を同時に導入しても大丈夫であるという結果がでた。(Bernabe 1987:133-34)

1962年4月:下院議員R.M.MercadoはLope K. Santosの国家に対する貢献、とりわけBalarilaの筆者であることに感謝して終身年金を贈ることを提案する。しかし反タガログ人からの反発をかい、結局のところ撤回される。

1962年:Panlasigui の著書 The Language Problems of the Philippines の中で、フィリピン民族を実際に結びつけているのは英語とスペイン語であって、タガログ語はかえって民族の分離を招いているとantipuristの立場から論を張る。(Gonzalez 1980:121 で紹介しているが同書の販売会社が明示されていない)。

1962年:マカパガル大統領はマレー民族のサミットを提案する。フィリピン、インドネシアとマラヤである。

1962年:「スペイン語法律反対学生同盟」が結成され、議会に向かってデモ行進が行われた。(藤田 1973 )

1963年2月8日:Ferrerはマニラ地方裁判所(Manila Court of First Instance)にINL関係者を、全フィリピン語に立脚した言語ではなくて、タガログ語を国語として普及させようとしていると訴えた。1965年2月25日敗訴、彼はthe Court of Appeals に控訴するも1970年4月20日再び敗訴、最高裁判所に上告するも同年同月27日下級裁判所の決定を支持する。○ Santiago (1979:15)によれば、Congressman Inocencio V. Ferrer, a Visayan が次の人に対して訴訟をおこす。Jose Willa Panganiban, Director of the Institute of National Language; Alejandro R. Roces, Secretary of Education; Emmanuel Pelaez, Secretary of Foreign Affairs; and Carlos P. Romulo, President of the University of the Philippines. 内容は純粋なタガログ語をピリピノとの名で普及させようとしており、人々を欺いているとの内容である。しかしこの訴訟は Judge Gregorio T. Lantin, Court of First Instance, Manila によって敗訴となる。

1963年5月~6月:マフィリンド構想に関して、スカルノはラーマンと東京で会談した。ついでマニラで三国外相会談が開かれている(永積昭 1979: 382)

1963年6月7ー11日:マニラで閣僚級のマレー民族の会議が開かれ、16個の合意とみた。通常マニラ協定Manila Accordと呼ばれる。8月6日首脳がマニラ宣言を発し、三国はMaphilindo と呼ばれる。Agoncillo p.540  マカパガル大統領はマレー民族に共通の祖国を創立しようとする。これは不調に終わる。@インドネシアが音頭をとって、Mushawara Maphilindo(a contraciton of Malaya, the Philippines, Inodonesia) ,を設立する。スカルノ大統領、ラーマン首相である。しかしこの協定は数週間後に、マレーシア連邦が北ボルネオとサラワクを含めようとしたことに対して他の2国が反対して、とん挫する。スカルノ大統領はkonfrontasiと呼ばれるゲリラ活動をサラワクに公に開始する。この活動は1967年まで続く。(Kasaysayan No.9: 103-4)

1963年7月31日:スカルノ、ラーマン、マカパガルの3首脳がマニラで協定に調印した。問題のボルネオ住民の意向については、「独立かつ公正な権威、すなわち国連事務総長またはその代表によって、ボルネオ地域の住民の支持が確認されるならば」インドネシアとフィリピンはマレーシア結成を歓迎する、としるしてあった。しかし、マラヤ政府が国連の住民の世論調査の結果を待たずに、連邦を発足させると声明したために、スカルノは態度を硬化させて、この構想はドン座する。(永積昭 1979: 382)

1963年12月19日:マカパガル大統領は大統領令第69号に署名する。それは国歌斉唱時は英語ではなくてフィリピン語の歌詞を義務づけるものである。Gonzalez p.99

1963: A Visayan congressman brought a court case against the director of the INL and other government officials for unconstitutionally propagating Tagalog as the national language; the case finally reached the Supreme court in 1970 and was there decided against the plaintiff. (Miller 1981:146)

1963: Senator Rodrigo が新聞 Philippines Free Press (Jan. 12) の中で、’Let’s start all over again’ と言うエッセイを載せている。その中で、息子の宿題がpuristic な立場で作られた用語を用いているので、理解できなかった経験を述べている。彼はタガログ語の作家であり、ラジオの評論家であり、Cyrano de Bergerac をタガログ語に翻訳した人である。彼は、puristic な立場での国語の普及を反対した。(Santiago 1979:13)

1964年5月24日:Lupon sa Agham (Committee on Science) は the National Science Development Board から資金援助を受けながら創立される。フィリピン語の科学・技術用の語彙を造成するためであった。65年から67年にかけて毎週担当者会議が行われ、最初の talasalitaan (vocabulary) は69年に発行された。69年にはまたMaugnaying Talasalitaan Pang-Agham Ingles-Pilipino (Maugnayig Scientific Vocabulary English-Pilipino)を刊行する。これは主にGonsalo del Rosario の仕事による。序の部分で語造成の原則を述べるがこれは重要であるから入手すること。Lupon も主としてpuristの立場をとる。Gonzalez(1980:119)によれば、Del Rosario の造語は普及しなかったと述べている。○Santiago (1979:28-31)によれば、UNESCO National Commission of the Philippines によって設立された Linangan ng Wikang Pilipino (Academy of the Pilipino Language) によって、作られた委員会である Lupon sa Agham によって、最初のフィリピンの科学語彙を発達させようとの試みが行われた。Maugnayig は5つの分野の用語を示している。数学、物理、化学、生物学、社会科学である。この本は60人ほどの有識者の協力によって作られた。造語の優先順位(1)現代のタガログ語、(2)古代のタガログ語、(3)他の主要な地方語から、(4)スペイン語と英語から(5)他の主要な世界語から、との順であった。Del Rosario は用語体系は首尾一貫しており、合理的であって、小学校の児童にも用語の内容が自明であるようにしたいとしていた。しかし色々批判があり、INLのDirectorであるPineda でさえも、賛意を示すのを留保した。@Sibayan (1999: 317)によれば、Aranete大学のGonsalo del Rosarioは、maugnayinの使用を提唱しただけではなくて、Araneta大学の自分のクラスで、実際にその用語を使用してみた。彼は、the National Science Development Board (NSDB)から刊行されたモノグラフの中に maugnayinに関するものがある。しかし、彼が没後、数年たつと、maugnayinは忘れ去られてしまった。

1964年6月:月刊誌 Katas は1961-63年にかけて、INLの影響にあり、その言語は純粋タガログ語であった。しかしこの年から反旗を翻して、マニラ・リンガ・フランカで書き始めた。これは他のマスコミのTaliba dailies などもこの例に倣った。Santiago(1979:17) なおKatas という雑誌は小中から大学までの学生と教員のための月刊誌であり、1961年4月24日に the Bureau of Private Schools によって、さらに同年8月11日に中間学校と中等学校の読み物として the Bureau of Public Schoolsによって、承認された。しかし1964年10月27日に Acting Director Rufino Alejandro によって、the public school からは禁止された。その理由は INL の Director Jose Villa Panganiban によって定められた基準から逸脱したとの理由である。Santiago (1979:25)

1964年10月:カイロで第2回非同盟諸国首脳会議が開かれる。

1964年:Lauceusta はThe National Language Anti-Purism Movementを始める。

1964年:子供達の識字率を高めるために最も有効な言語は何か(英語、ピリピノ語、民族語の中で)という調査が行われた。小学4年生の段階では、識字率が民族語が50.89%ピリピノ語が48.69% 英語が33.41%という結果であった(Bernabe 1987: 119)。

1964年:バリオ・ハイスクールが設立。中等学校が都市部に偏在していたので、村落地域の児童に中等教育を受ける機会を与えるために生まれた。初等学校の授業終了後の校舎を利用することであった。

1965年:Alejandro G. Abadilla: Mga Piling Tula (Seleted Poems)と Amado V. Hernandez: Mga Ibong Mandaragit (Birds of Prey)はフィリピンの作家の中で最高の作品との評価もある。

1966年:フィリピン大学は実験的にピリピノ語で教えるクラスを始めている。

1966年:PCLS からthe Language Study Center of the Philippine Normal College が機能を引き継ぐ。

1966年:Constantinoは miseducation論を発表する。サピアーウオルフ仮説によっている。Nationalistic な考えの復活である。

1966年10月22ー23日:Lacuesta は the first Anti-Purist Conferenceをthe
National Press Club で開催する。

1966 (October): M Tolentino, a brilliant legal scholar and legislator, urged that English be discontinued as a medium of instruction.

1966年:秋からKM(民族主義青年同盟)は第二次プロパガンダ運動とピリピーノ文学を興す。

1967 (March 10): A speech delivered on the floor of the House of Representatives by Congressman Aguedo F. Agbayani, chairman of the Committee on Education and member of the Board of National Education, virtually started the word-war on Pilipino. →Aguedo F. Agbayami, “Development and Evolution of Our National Language,” Manila Times, 10 March 1967. (Sibayan 1999, 91) @In response to Agbayni’s speech, the House voted unanimously to reeamine the procedures… The congressional hearings that followed were conducted by committees on education and national language and brought forth the purinst and the anti-purist. The anti-purist, led by Geruncio Lacuesta, a lawer and publisher of a magazine called Kantas, were most active in the hearings. (Sibayan 1999: 2)

1967年:PJL Vol.24 No.1 p.17 (Gonzalez) の説明によれば、Geruncio Lacuesta が初めて Manila Lingua Franca という用語を使い始める。この年 Filipino (Manila Lingua Franca) versus Pilipino (Abakada Tagalog) Queozon City: The National Language Anti-Purism Movement.を出版する。なおManila Lingua Franca については 彼の MOLAM (The Modernizing the Language Movement) の主張はフィリピンの国語はタガログ語の純粋な形式(ブラカン、リサール、ラグーナ、バタンガス、カビテ、カマリネス・ノルテといった地方での方言に立脚した deep Tagalog =malalim na Tagalog)よりも首都圏で語られる口語に基づくべきとの考えである。

1967年:(Santiago 1979:16) によれば、新聞 Taliba (owned by the Manila Times Publishing Company) は1967年 28,000部しか一日に売れなかった。この新聞は当時純粋なタガログ語を用いていたが、易しいタガログ語と外国語を交ぜた文体で書き始めたところ、購読率が30%上昇した。@After the switch from pure Tagalog to conversatonal Filipino the daily circulation of the paper rose from 19,000 (January 1967) to 30,000 in a month’s time. On June 30, 1969, the audited circulation (after return of unsold copies) was 77,096, and in January 1969, two years later, the average daily circulation had gone up to 122,853. This is an indication of how readable the converstaional Filipino style had become. (Sibayan 1999:100)

1967 and 1968: Ten congressmen caused congressional hearings to be held on the issue of whether the INL, identified as the leading force for Pilipino’s encouragement and diffusion and no longer seen as representative of all the major language groups, should be abolished. (Miller, 1981:147)

1968: The Language Survey (by the Committee on Curriculum of the Board
of National Education)が行われる。254のコミュニティの2379人の世帯主と2342人の教師の言語態度に関するアンケート調査をおこなう。The Survey Team はピリピノ語を資格試験に取り入れること、高等教育にも導入すること、文献をピリピノ語に翻訳することを提言した。

1968年:Panganiban がTalahulugang Tagalog-Ingles(Tagalog-English Vocabulary)を刊行する。

1968: The National Board of Education decided to take another look at the system of elementary education. Pursuant to this reexamination, the Board created the Committee on Curriculum, tasked with formulation a new language policy in relation to elementary education.

1968: Surveys were conducted to determine the pulse of the people with regard to language use. English appeared to be the most popular. If the choice, though, was between Pilipino and the local language, the vernacular spoken in the locality was desired as the language of instruction.

1968年1月13日:Lacuesta は the second Anti-Purist Conference をフィリピン大学で開催した。(フィリピン大学の大学院の学部長のLeopoldo Y. Yabes教授の協力のもとで)この運動は1968年Modernizing the Language Approach Movementと名称が変えられた。

1968年10月:Lacuesta は10人の下院議員に下院議案第11367号を提出させようとした。その内容はINLを廃止してAcademy of the Filipino Languageを創設する。20文字のアルファベットを32文字にすること、土着語からの語造成をやめ、外来語にたよることであった。

1969: President Ferdinand E. Marcos created the Presidential Commission to Survey Philippine Education. This body eventually advocated bilingualism in Pilipino and English for purposes of instruction.

1969年: Maugnaying Talasalitaan Pang-Agham Ingles-Pilipino (Maugnaying Scientific Vocabulary English-Pilipino)を Lupon が刊行する。(Santiago 1979:28)

1969-1972: この時期が国語としてのピリピノ語への関心がとりわけ強かった。ナショナリスティックな感情が強かった時期である。The emphasis on the national language was especially strong during the intense nationalistic period from 1969 to 1972. (Gonzalez 1997: 31)

1969年12月:マルコス大統領が大統領令第202号を公布する。The Presidential Commission to Survey Philippine Education (PCSPE)を設立し、教育問題を検討させた。
これは1970年に提言をまとめ、1972(July 11)に大統領に提出する。初等教育では第1、2学年では土着語を教授用語として、ピリピノ語をそれ以後用いる、ピリピノ語と英語は中等と高等教育の教授用語とすることであった。The Commission believes that bilingualism in Pilipino and English is both a fact of Pilippine life today,…the decision on the language question be taken at the level of higher politics, possible through action by the Constitutional Convention. として問題を政治決断に委ねることにした。Bernabe p.144

授業で用いる言語 授業科目
中等学校 ピリピノ語、英語
6学年 ピリピノ語のみ 英語・?
5学年 ピリピノ語のみ 英語・?
4学年 ピリピノ語・地方語(補助) ピリピノ語
3学年 ピリピノ語・地方語(補助) ピリピノ語
2学年 地方語・ピリピノ語(補助) ピリピノ語
1学年 地方語・ピリピノ語(補助) ピリピノ語

1969年:国語委員会(the Board National Education)は(決議案第45条 BNE Resokution No.45, series 1969)1学年から4学年までピリピノ語を教授言語とするように決議するが、教師と資材不足で実現にいたらず。さらには、1974年の2言語教育政策に置き換えられる。(Gonzalez 1980: 102)

1969: President Marcos Issued the Educational Development Decree (PD No. 6-A) which established the mechanism for implementing a Ten-Year Educational Development Plan. I had an appropriation of P500 million. To implement the projects envisaged in the plan, an Educational Development Projects Implementing Task Force (EDPITAF) was created. (Constantino 1982:25)

1969ー1972年:学生運動が盛んになるが、タガログ語が大いに用いられる。この時期は戦後もっとも言語ナショナリズムが高揚した時期である。また教育内容のフィリピン化が要求された。教材の中から英米文献を除去して、社会科学の中から、アジア的・フィリピン的見地を取り入れてることが望まれた。フィリピン人学者によって書かれた国産の教科書が使用されはじめた。

1970年代:政府はアラビア語を公式のコミュニケーション用語としては使うことを禁じた。(小野原信善 1997:73)

1970: The Board finally came out with a new language policy favoring the adoption of Pilipino in grade 1 beginning in 1972-1973 and gradually involving the higher grades in the following years. Vernacular languages would be used as a auxiliary instructional means in grades 1 and 2. English would be offered as a subject in all grades at the elementary level.

1970: BNE はResolution No.70-5を決議する。ピリピノ語を1972ー73年の学校年の第一学年から毎年上って教授用語として用いる。土着語は第一、二学年で補助教授語として用い、英語は教科として全学年教えるとの内容である。The Study Committee (headed by juan L. Manuel)は実行時期の若干の延期を決める。

授業で用いる言語 授業科目
中等学校 ピリピノ語、英語
6学年 ピリピノ語のみ 英語・?
5学年 ピリピノ語のみ 英語・?
4学年 ピリピノ語・地方語(補助) ピリピノ語
3学年 ピリピノ語・地方語(補助) ピリピノ語
2学年 地方語・ピリピノ語(補助) ピリピノ語
1学年 地方語・ピリピノ語(補助) ピリピノ語

1970(Jan.2):Liceria B. Soriano, the Director of Public Schools はピリピノ語の教授用語化に関し、延期決定にも拘わらず BNEの勧告通り、遂行することを許可する指令を出す。これは1970(June 30)の回状で取り消された。Bernabe p.141
1970年:Pambansang Samahan sa Linggiwistikang Filipino (PSLF) was organized in 1970 through the initiative of Filipino Linguistics professor at the Philippine Normal College (now Philippine Normal University), P(F)ilipino Supervisors in the National Capital Region and representatives from the Institute of National Language, the primary objective of PSLF, aside from initiating and encouraging researches relevant to applied linguistics in Filipino, is to upgrade the professionalism of teachers/instructors/professors in the field of language education. (Internet: Belvez)
1970年:国勢調査によれば、3、583万人の人口のうち、56,2%がピリピノ語を話すことができる。英語は44.7%が話すことができる。(National Language as Medium of Instruction p.95 の数字とは若干異なる。)

1970: The Presidential Commission to Survey Philippine Education (PCSPE) made the following statement on the language of instruction: “The choice is not either Pilipino or English, to the exclusion of the other in our educational system.” (Sibayan 1999: 344)

1970年3月16日:The Board of the INL が大統領令代304号で再構成された。そのメンバーは次の通りである。9名
Dr. Juan L. Manuel – Pangasinan
Dr. Ernesto Constantino – Ilocano
Dr. Alejandrino Q. Prerez – Kapampangan
Dr. Clodoaldo H. Leocadio – Bicol
Dr. Lino Q. Arquiza – Cebuano
Dr. Nelia G. Casambre – Hiligaynon
Dr. Lorenzo Ga. Cesar – Samar-Leyte
Dr. Mauyag M. Tamano – Marano and Minority Cultural Languages

1970: There were 154 Chinese schools with 68,000 students. the curriculum of these Chinese schools followed the curriculum set by the Chinese Ministry of Education in Taiwan, stressing the teaching of Chinese language, culture, civics, history, geography and literature. As Chinese schools, they paid little attention to the teaching of Filipino language and culture.(Tan 1988:189)

1971 (Sept): The dabate on the Quirino resolution providing English as the sole language of promulgation of the Constitution. (Yabes, 1977:341)

1971:マルコス大統領は大統領令第318号でThe Educational Development Projects Implementing Task Force (EDPITAF)を設立して、Commission の提言を実行することになった。○ Santiago (1979:33-4) によれば、大統領令の No.6-A によって、EDPITAF は教育文化省の一部として、設立された。目的は初等・中等学校の生徒2人あたりに一冊の本を与え、基本的な教科書をピリピノ語と英語で提供することであった。教科書作りの上で、一番の問題点は語彙の不足、借用、スペルであった。アルファベットは英語の26文字に加え、スペイン語の ñを加えることになった。なお1974年の2言語法により、技術系の語彙の翻訳の作業は中断することになった。

1971年4月27日:マニラホテルで、preconvention meeting が開かれる。ピリピノ語中心主義に対して抗議がされる。MOLAM は “fusionist” モデルを提出する。それはGeruncio Lacuesta によって Theory of Linguistic Convergence と呼ばれた。他のフィリピン諸語や世界語としての英語の要素も取り入れようとのことである。

1971年:Lacuesta は the Modernizing the Language Approach Movement (MOLAM) をはじめて、Lope K. Santos, Jose Villa Panganiban (国語研究所のdirector達)をpurist として批判する。純粋なタガログ語をAbakada Tagalog, Balarila Tagalog と呼んだ。これはGonzalez(1980: 107)で紹介しているように言語戦争(Polotan というジャーナリストが名づける)ともいえるものだった。Lacuesta は非タガログ人から支持を受けた。Lacuesta はManila lingua franca を土台にすべきことを主張する。国内移民により地方語の要素が入り、また英語、スペイン語等の要素も取り入れ、世界語とのつながりを持たそうとした。

1971年10月20日:The BINL はピリピノ語のアルファベットを2( )から31へ拡大するという近代化を決議した。(Perez 1981:96)

1971年12月23日:Lopez はuniversal approach を唱えた。フィリピン諸語に共通の文法・語根を中心に真の国語を作ろうとの試みである。(これはLeopoldo Y. Yabes 1976 “The assembly on the national language problem”. The National Review, 30 October にこの経緯が説明されているとのこと、入手)  

1971年:Cervantes が小学校に導入された英語からのピリピノ語の好みについて調査を行った。対象者は学生、教師、他の専門職であり、語彙は次の4種類である。Maugnayin, スペイン語の影響語、英語の発音しかしアバカダ流に書き直した語、そのままの英語の発音語である。調査では、教師と専門職はスペイン語の影響語を好むが、学生はそのままの英語発音語を好む。全体にスペイン語の影響語が好まれている、それは長い歴史のうちにスペイン語が同化されたことと、音韻体系がスペイン語とタガログ語では似ていることがある。(Santiago 1979: 43)

1971年:文部省は卒業証書はピリピノ語で印刷するように指示を下す。

1971年: The Constitutional Conventional Act. 1935年憲法を修正するために憲法会議を開催することを規定する。6月1日 the inaugural session が開かれた。この審議の様子はL.Yabes,”Let’s Study the New Constitution: The Language Provision,” in the Philippine Social Sciences and Humanitiies Review, XXXVIII, March-June, 1973. に詳しく述べられているとのこと。Bernabe p.147
委員会は多くの言語に立脚した multi-based national language (language universals approach) を採用する。

1971:ミンドロ島で(ドイツの研究者Meyer, Schadenberg, Foyたちの発見したものとは異なるもの)また別の書記法が発見された。これらは現在絶滅の危機にさらされており、ミンドロ島の南のその部族の地域では、小学校で indigenous Mangyan script が教えられているが、必須科目ではなくて、DECSからmandated されていないので、その教育の成功はどうなるか分からない。(Kasaysayan vol.2 p.225)

1972 (March): The Concention Committee on National Language had made its report, as early as March 1972, recommending Filipino as the common national language based on existing native languages and dialects. Yabes (1977: 341)

1972年:The Language Study Center of the Philippine Normal College が科学用語で英語かピリピノ語かスペイン語が好まれているかの調査をおこなう。教員や上級学生に対して、数種類の用語を提示する。スペルの変更なしの英語、スペルを変更した英語、スペル変更なしのスペイン語、スペルを変更したスペイン語、現代のタガログ語、古代のタガログ語、非タガログ語、全くの造語、タガログ語の語根+非タガログ語の接辞またはその逆を提示して、どれが好まれるか調べた。その結果は英語よりスペイン語が好まれる;現代タガログ語が好まれるが、古代タガログ語や地方語は好まれない、と判明した。留保条件としては、これらは主に、基礎的な語彙の調査であり(つまりすでに現代タガログ語が存在する)、高度な学術用語に関する調査ならば、その結果は変わっているかもしれない。(Santiago 1979:31-33)

1972年:アテニオ大学と師範学校は言語学で consortium を組んで博士課程を提供することを始めた。この団体連合(consrotium)は197?年時点で6名の卒業生がいる。Perez 1981:107

1972年3月初旬:公聴会のあと、臨時委員会が作られ、Article on Language の原案を準備して、3月15日に運営委員会へ送付した。
Section 1.
a: This Constitution shall be officially promulgated in English, and translated into all native languages and dialects spoken by over 50.000 people, and into Spanish and Arabic.
b: As soon as a common Filipino national language is adequately developed as herein provided, this Constitution shall also be promulgated in such language.
Section 2.
A common national language to be known as Filipino shall be evolved,
developed, and adopted based on existing native languages and dialects without precluding the assimilation of words from foreign languages.
Section 3.
a: An Academy of National Language is hereby created with power and duty to implement the objectives of the preceding section and of all laws relative to the development of the national language. (これはINLに変わろうとの意図である。)

1972年9月21日:戒厳令
1972: The imposition of martial law by President Marcos stopped the publication of many newspapers. The government controlled paper, the Daily Press, rapidly increased its circulation. Non-English publications such as Balita ng Maynila and Liwayway, which were owned by Marcos employees, also benefited in the martial law period.

1972: The Constitutional Convention sat in session to draft a new fundamental law. The Convention adopted the provision stating that a National Assembly ‘shall take steps toward the development and formal adoption of a common national language to be known as Filipino’ and mandated that ‘English and Pilipino shall be the offical languages’.

1972年:大統領布告6-Aで10年間の国民教育発展計画の策定を示唆する。

1972年10月23日:166人の特別委員会のメンバーが任命された。

1972年10月30日:17人のメンバーからなる特別臨時委員会が運営委員会に憲法の第一原案を提出する。憲法は英語で書かれるものとし、英語を公用語とする。

1972年11月6日:運営委員会はそれを改訂して166人からなる特別委員会に第2原案として提出する。英語とフィリピノ語で憲法が書かれ、公用語は英語とフィリピノ語としている。しかし現時点ではフィリピノ語はまだ完成されていない。

1972年11月15日:それが更に改訂されて第3原案となる。英語とピリピノ語で憲法が公布され、英語とピリピノ語が公用語になっている。

1972年11月24日:第4原案が提出され、これが憲法の原案となる。英語とピリピノ語が公用語となり、将来フィリピノ語が作られるとなった。Bernabe p.152
(1) This Constitution shall be officially proclaimed in Enlgish and in Pilipino, and translated into each dialect spoken by over 50,000 people, and into Spanish and Arabic. In case of conflict, the English text shall prevail.
(2) The National Assembly shall take steps toward the development and
formal adoption of a common language to be known as Filipino.
(3) Until otherwise provided by law, English and Pilipino shall be the
official languages.
しかしフィリピノ語が作られる時間的期限を提示しなかったことで、これは無期延期になり、民族間の不和という問題を無期限に棚上げしたといえよう。Gonzalez(1980:153) ○Santiago(1979:23)によれば、ピリピノ語をフィリピノ語に変化することは、20文字のアバカダに示された純粋の国語方式からの方針転換を意味する。

1973年1月17日:第4原案をもとにした新憲法が批准される。

1973 (Jan. 23): INL の9人もメンバーが教育の言語について会合して、ピリピノ語を教育の言語として採用するように the Board of National Education に養成する決議を採択する。

1973年2月27日:The Board of National Education がResolution No.73-2を決議した。

1973年:憲法で、国会が権限をもって、国語の開発、制定に着手すべきことが唱われている。その国語はフィリピノ語と命名され、フィリピンの全ての言語に基礎をおくことが定められた。同憲法では英語とピリピノ語をこれまでと同じく継続して公用語に指定する。さらには大統領布告第155号により、スペイン語が追加されて第3の公用語に指定されている。これは現在なお効力を有する法律にスペイン語で書かれたものが残っているためである。憲法は英語で書かれ、フィリピン諸語とスペイン語とアラビア語で翻訳されるものとなった。

○Enrique Corpuz がフィリピノ語とピリピノ語との違いについて、28回の総会で述べる。また Director Ponciano B.P.Pineda of the INL が the Secretary of Justice (Vicente Abad Santos) に73年5月17日に手紙を書いて、新憲法下ではピリピノ語は国語であるか質問をしたところ、タガログ語に基づいてピリピノ語は国語として否定されているように見えるが、法的には国語として有効であり、教育の場で教えるのは問題がないとしている、Bernabe p.153 国語の解釈について多くの混乱を新憲法は生じさせた。〇Santos は Department Opinion No. 73, s. 1973 によって、Pineda からの次の質問 (1) whether or not Pilipino is still the national language under the new Constitution, and (2) whether or not Pilipino can constitute to be a subject, a major field of study, and a medium of instruction in the grades and in some subjects in the secondary school levels に対して、次のように答えている。whichh would seem to be implied rejection of the Tagalog-based Pilipino, as our existing national language. However, there is no question that Pilipino continues to be an official language, until otherwise directed by the law, as in fact the Constitution is required to be an officailly promulgated in Pilipino. (Pascasio 1977: 10-11)

1973年:Panganiban がDiksyunaryo-Tesauro Pilopino-Inges を刊行する。これは他のマレー語族の語との一覧表になっている。

1973 (16 March): The National Board of Education (NBE) announced support for the policy of “developing a bilingual nation able to communicate in Pilipino as well as in English.” (NBE Resolution 73-2, March, 1973 annnounced by the Secretary of Education and Culture in Department Order No.9, s. 1973, 16 March, 1973) (Sibayan 1999: 345) @同時に、その時のorder には、3年生からのピリピノ語の使用に関しては、次の3条件が満たされたときに、実施されるものとした。その条件とは、(1)教師がピリピノ語を教える能力があるとき、(2)十分な教材があるとき、(3)生徒の側にピリピノ語を習う準備ができていることであった。それに対して、Director Ponciano Pineda of the INL がthe Secretary of Education に手紙を書いて、英語の教授にも同じ条件が適用されるように要求した。それに対して、Secretary of Education and Culture Juan L. Manuel (who is also Chairman of the NBE)がPinedaにピリピノ語と英語の使用に関するガイドラインを示すように述べた。彼は、早速案をまとめてきた。Secretary Manuel はこれをDr. Liceria Brillantes Soriano (then Director of Public Schools)に見せてコメントを求めたが、Sorianoの意見はPinedaの案は現実的でないと評価した。そこで、ManuelはSorianoに研究委員会をつくって実行可能な案を提出するように求めた。この委員会(Survey Committee on Bilingual Education =SCOBE)で提出した案が後に、2言語法の基礎になった。この二つの案の違いは、Pinedaはピリピノ語で、非タガログ地域でも、科学と数学以外のすべての科目、を、初等・中等学校で教えようとするものであった。Soriano案は、最初の2年間は、vernacularを使い、ピリピノ語と英語を科目として教えることであった。ピリピノ語の使用は3年生から中等学校まで、社会、道徳、職業教育、保健で教える。(Sibayan 1999: 348)

1973年:アラビア語がミンダナオ島で授業用語として採用が決定。

1973: A revised national language, Filipino, which would be constructed from a number of Philippine languages rather than just Tagalog, was proposed in the 1973 Constitution. @ Article 15, Section 3, which implicitly rejected Pilipino a the national language and directed the development of Filipino. Pilipino was relegated to an indefinite period of official status along with English, and Spanish finally lost its official status. (Miller p.147)

1973: The Board of National Education adopted a bilingual education program, wherein Pilipino and English would be taught side by side. The ideat was to ensure that Filipino citizenry would acquire competence in both languages.

1973 (7 August): The Board directed the Department of Education to formulate the needed guidelines governing the implementation of the bilingual policy program, which covered all levels of education from primary to tertiary. Director Liceria B. Soriano of the Bureau of Public Schools chaired the committee tasked with the preparation of the implementing guidelines.
The Committee created a subcommittee chaired by Andrew B. Gonzalez of De La Salle University. This subcommittee (The Survey Committee on Bilingual Education: SCOBE) came up with an extremely valuable input in the process of planning the implementation of the bilingual policy program.

1973: カラタゴンの壷の文字についてのコメントを発表した。Juan Francisco, a respected Philippine paleographer, did some analysis of the letters in his 1973 book, Philippine Palaeography. He could not decipher the writing, however. His analysis mainly consisted of classifying the letters as curvilinear, lineo-angular, or a combination of the two. (Santos, Hector. “The Calatagan Pot” in A Philippine Leaf at http://www.bibingka.com/dahon/mystery/pot.htm. US, October 28, 1996.)

1973: After the 1973 Constitution, the martial law government of Ferdinand E. Marcos declared Spanish to be a third official language, for legal purposes. … By 1987, however, Spanish no longer received official status but was declared by the Constitution to be voluntary ,together with Arabic. (Gonzalez 1994: 321)

1974: ピリピノ語の拡大使用の法律は大急ぎで成立したが、次の年に、よりシステマティックな方針が公布された。After a hurriedly drafted policy aimed towards the expanded use of Pilipino was enacted in 1973, a more systematic policy was promulgated 1n 1974 by the Department of Education. (Gonzalez 1994: 323)

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。