人工語 (含む文献)

スポンサーリンク

人工語の歴史年表

自分の目の前の世界とは別の世界のあることを知ったときに人々の頭の中に、世界語思考が生じる。インドのブラフマン、ギリシアのロゴス、イデア、中国の道がそれに該当する。(伊東 1950: 188)

世界語思想としては、インドの唯識、華厳、法華等の大乗がそうである。中国では『春秋』の大道思想、『中庸』の同文同倫の思想が成立した。西洋では、ピタゴラス、プラトンが世界語思想をいだいた。(伊東 1950: 188)

紀元前1世紀:ギリシアの歴史家ディオドルス・シクルスが普遍言語という思想に関心を抱いていた。(ラージ 1995:18)

130頃-200:ローマ時代のギリシア人医師クラウディウス・ガーレンは普遍言語という思想に関心を抱いていた。(ラージ 1995:19)

12世紀:聖ヒルデガルデは、ドイツのマインツ司教区にあったルペツベルク女子修道院長であったが、23個の文字によるアルファベットと900個の単語からなる言語を作成した。ラージ(1995:19)@13世紀の半ば頃、ドイツのビンゲンの近くにあるルペルトベルクに修道尼僧院長ヒルデガルディスが、ラテン語によく似た人工言語を作ったとの記録が残っている。彼女の作った言語は「単純な人間ヒルデガルディスの提示する未知の言葉」と呼ばれた。その構造は19世紀以降の後験語案に似ており、実際に話し書くことができた。約900の語彙があるが、名詞の大多数がzで終わっているのが、特徴である。(二木 1981: 94)@Hildegarde of Bingen (Abbess of Rupertsberg)が Lingua Ignota をつくる。彼女はルネッサンスの女性として、フェミニスト運動とgnostic 運動によって、最近注目されるようになった。彼女はたぶん国際語を作ろうとの意図はなかったと思われる。たぶん秘密の通信法として使おうとしたものと思われる。(Harlow 1998:2)

13世紀:スペインの僧侶レイモンド・ルリーは、基本概念をアルファベットの各文字によって表している論理的記号体系を考案した。その発想は17世紀の普遍言語案作成者達に影響を及ぼした。(ラージ1995:32)@13世紀の神秘哲学者レイムンディ・ルリが人工語言語の先駆けとなった。彼は、アルファベットを持ちて一般的な諸概念を分類して、それを体系的に結合する方法(Ars combinatoria)を考案したといわれる。(二木 1981: 46)@1274年のある日、ライムンドゥス・ルルスというラテン名を持つスペインの神秘哲学者ラモン・ルールがマジョルカ島の山頂で瞑想中、突然「論理の機械化」というアイデアが閃いた。それは、「この機械によって、イスラム教徒たちに真の神の存在を示せとの」神の啓示であった。(二木 1994: 43)@ラモン・リュル(ラテン語ではライムンドュス・ルルス)はマリョルカ島出身のカタルーニャ人であった。1232年生まれ、1316年没らしい。280の著作の大部分がアラビア語とカタルーニャ語で書かれている。BからKまでの9つのアルファベット文字と4つの図形を用いている。これらの組み合わせを用いる。(エーコ 1995: 96f)

13世紀から19世紀:地中海各地でサビール語(Sabir)が通商の言語として使用された。これはリンガ・フランカと呼ばれていた。(二木 1981: 207)

16世紀:さまざまな暗号筆記術、暗号解読術、速記の研究が、共通の書字という計画へとつながってゆく。(ノノウルソン1993: 33)

16世紀:イタリアの僧T.F.ヒエロニーモは、ラテン語の複雑な文法を簡単にして、学びやすくするために、「ラティーノ・マカロニーコ」を発表する。これは後験語案(二木 1981: 94)

1518:マインツ司教区のシュパンヒムの修道院長ヨハネス・トリテミウスは暗号術に関して論文『ポリグラファ(世界共通表記法)』を出版する。17世紀の学者達はこの表記法をしばしば引用した。(ラージ 1995:35)

1569年:ドミニコ会の修道士ガスパール・ダ・クルスが漢字について、略述して、東洋諸国における漢字の普遍性に喚起を呼び起こさせた。(ノウルソン 1993: 41)

17世紀:薔薇十字会の言語学がこの世紀にドイツとアングロ=サクソンの世界に広く浸透した。(エーコ 1995:266)

1615年:マッティオ・リッチ神父が『イエズス会によってシナでおこなわれたキリスト教布教について』の中で、中国の文字は表意文字であり、普遍性があることを述べている。(エーコ 1995:233)

1617年:オランダのイエズス会士ヘルマン・フーゴは『原初の筆記法と古代の普遍文字』の中で、人は感覚を通して、同じ概念を受け取るので、人と人の間から生じる違いは、概念そのものというよりは、むしろ概念に適用される語に由来するものである、と述べた。(ノウルソン1993: 27)

?世界的に交通したイエス会の学僧たちが東洋語、東洋文学に刺激されて、人工世界語を考案しました。イエス会士の考案は非常に多いのですが、神秘な記号か暗号の性質を持ち、その流れはシュライエルのヴォラピュックまで、続きました。(伊東 1950: 189)

1627年:ジャン・ドゥエ(シュール・ド・ローンプクロワッサン)が普遍的書字体系を発見したと主張する。(ノウルソン 1993:72)

1629年:デカルトはフランスの学者メルセンヌ宛の手紙の中で、彼が送ってきた無名の学者の言語案について批判的な見解を述べた。(ラージ1995:51)

1629年11月20日:デカルトはフランスの学者メルセンヌへの手紙の中で、普遍的人工言語創造の可能性を認め、その構造まで示している。しかし数学的な哲学語であった。(二木 1981: 46)@哲学語について触れ、すべての単純な観念(idées simples)を列挙して、この組み合わせによって、全ての他の観念が生まれ、それが一つの世界語(une langue universelle)を構成するものであって、これは「習いやすく、発音しやすく、書きやすく、特に肝心な点は、それがすべての事物を明確に表現するために、ほとんど過ちを犯す可能性のないため、ものごとの判断を助けるだろう。」と考えられる言語であった。その単純な観念は、それぞれ数字で表せられるようなもので、それらを数学的操作で、組み合わせることができ、それで議論を進めてゆけば、全体として、数学的な、きちんとした計算で結論が出てくるような仕組みである。(ビュルネー 1964:25-6)

1630-40年ごろ、フランス人、ジャン・ル・メールは普遍的な文字を発明したと言われていた。しかし彼は秘密主義で、そのない様はよく分からない。考案された記号一式を各人の母国語で読み取ることのできる普遍的な文字であったようだ。(ノウルソン 1993:82)

1636年:フランスの学者メルセンヌは『宇宙の調和』の中で、普遍言語案に関して、考察している。(ラージ1995:51)@『普遍的調和』の中で、慣例によらず、直接意味作用をする原始的な自然言語が発見できるとの考えを抱いていた。彼の見解では、母音は次のような感情や対象を表示できた。 a.o¬=偉大で高貴なもの,e=悲しみと哀悼の表現にふさわしい繊細で、微妙なもの, i=非常に薄くて、小さな物, o=大きな感情の表現, u=暗い、隠れたもの とした。擬声音的基盤にもとずいて、すぐに理解できる完全言語を作るべきであるとした。(ノウルソン 1993:104)

1638年:フランシス・ゴドウィンによる『月に行った男―飛脚ドミンゴ・ゴンザレスの月旅行の話』が出版。この中で、月の共通語は中国語に似ている。(ラージ1995:37)@英国司教ゴドウィン『月世界の人』で哲学言語の構想を明らかにしている。そこでは、住民達の話しているのは同じ一つの言語であり、それは音楽のような言語で、メッセージにはすべてメロディーがつけられています。主人公ゴンザレスは2ヶ月でこの月世界語をマスターします。(ヤグェーロ1990:69)@抄訳が→(ヤグェーロ 1990:262)@一部音符からなる語彙という着想が、概して中国語の「抑揚体系」に接した極東のイエズス会宣教師らの報告に由来すると思われる。1615年出版されたリッチ神父の日記をゴドウィンが読んだ可能性がある。また、16世紀から17世紀にかけての暗号法や信号に関する研究に茶句さうが見られるようである。(ウトソン 1993:173f)

1639-1640年:コメニウスは、『キリスト教的汎知の三巻の書』の中で、自然言語の欠陥について、述べ、言語改革を提唱して、事物ごとに唯一つの名称を使用することを提唱する。(エーコ 1995:312)

1640年:ジョン・ウィルキンズの『新世界の発見、あるいは月に居住可能な世界があることを証明せんとする論説』を出版する。(ヤグゥーエロ 1990:70)

1641年:ジョン・ウィルキンズの『マーキュリーー秘密の急使』を出版する。マーキュリーがアルファベットの発明者と古代エジプト人は信じていた。(ラージ1995:49)@ウイルギンズは『秘密の急使マーキュリー - 遠方の友人にひそかにかつ迅速に思想を伝える方法』の中で、どんな言語よっても理解可能な記号を用いて、遠方の人と意思を疎通する方法について、論じている。ラージ(1995:35)@『マーキュリー』の中で、漢字に触れて、中国と日本の人々は言葉の上では、ヘブライ語とオランダ語ほども違うというのに、この共通の文字の助けを得て、相手方の書物や手紙を、あたかも自国のもののようであるかに、十分に理解できるのである、と述べている。(ノウルソン1993: 42)@彼は全ての概念を40の等級に分けた上で、それぞれに下位等級を設けて、それらにローマ字とギリシア文字とを当てはめた。この案はイギリスの学士院ロイヤル・アカデミーによって、非常に好意的に評価されたが,あまり広まらなかった。(二木 1994: 51)@『ヘルメス』を書く、彼の努力の大半は秘密の表記法に注がれていた。最も完成された体系を提案するのは『試論』によってである。(エーコ 1995:341)

1641年:コメニウスはこの年発表した著書の中で、「人類が、自然語とは比べ物にならないくらいやさしくて、習いやすい普遍的補助言語を使うときが必ずくるだろう」と述べている。また彼は、のちになり、「東にはロシア語、西には英語を共通語に使おう」という提唱をしている。(二木 1981: 48)

1642:コメニウスは『光の道』の中で、普遍言語を提唱している。(ラージ 1995:25)@1668年とエーコはしているが、世界評議会の監督と指導のもとに、一種の哲学的言語である<汎言語パングロッシア>の話される完全状態が実現されるというユートピア的なビジョンが描かれている。(エーコ 1995:312)

1644年:イギリス人医師ジョン・バルワーは『手話―手による自然言語』の中で、手は「すべての言語を話し、理性の普遍的記号文字として、それぞれの母語の相違を越えて、あらゆる国の人々が理解し認識することができる。」と、指摘した。(ラージ1995:82)

1647年:最初の普遍言語案『共通書法―互いに相手の言語を理解せざる両人がこれによりて相互に意思を疎通せしむる方法』がフランシス・ロドウィックによって公表される。(ラージ1995:41)@『共通表記法 A Common Writing』は普遍記号にもとづいた言語について公刊されたものとしては最初の試みの作者であるとサーモンが述べている(エーコ 1995: 371)。彼は語根を同定した上で、それは名詞を出発点とせずに、行為動詞を出発点とした。詳細はエーコ(1995: 372f)を参照。

1649年:シラノ・ド・ベルジュラック『月世界旅行記』(ヤグェーロ 1990:71, 264)上流階級は高貴の徴として、音楽に似た言葉を話し、一方下層階級は下品な身振りを伴なう言語を話している。ここに当時の未開民族に対する考え方(一方に音楽的な言語、他方には身振り言語という2分法思考や中国の影響(階級別言語)の反映が見られる。@彼等は話すことに倦み疲れたとき、あるいは喉を低俗な用途に供するを潔しとしないときは、お互いの思考を伝え合う際には、声と同じ位の頻度で利用するリュートに頼ることもあるし、別の楽器を手にすることもあるからだ。それゆえに、15人ないし、20人になる人々が一同に会して、月を震わせるほどに、このうえなく調和の取れたコンツエルでもって、神学や厄介な訴訟を討議するのである。(ノウルソン 1993:178)シラノの月世界の下層民たちは、沢山の身振り言語を用いて自己表現する。彼等は、いつも毎日の暮らしの中で、素っ裸になって話しをするわけである。のべつ身振りで思考を表現する習慣となっているの彼等の四肢は実にこまねに動くので、その様子は発語人間ならぬ震撼身体とでも形容すべきものになる。(ノウルソン 1993:180)

1652年:シラノ・ド・ベルジュラック『太陽世界旅行記』(ヤグェーロ 1990:264)主人公は、小さな岩の上に座った裸の小男に出会います。男の言葉は、人類の母の語、アダムの言葉であり、ひとつひとつの物につけた名前がその物の本質をあらわにする。ような言葉を語った。(ヤグェーロ 1990:72)

1652-1654年:キルヒャーは4巻の『エジプトのオイディプス』を出版する。(エーコ 1995: 229)

1652年:フランシス・ロドウィックは『完璧な新言語―普遍的にして共通なる書法の概要の基礎(案)』を公表した。(ラージ1995:42)

1652年:スコットランドの奇人トーマス・アーカート卿の『普遍言語学入門』出版される。(ラージ1995:38)

1654年:ウオードは『学問の擁護』の中で、哲学的言語の作成方法について、見解を述べている。(ラージ1995:51)

1657年:イプスウィッチの学校教師ケーヴ・ベックはアラビア数字を基本的符号とする普遍言語案を公表した。それは『普遍的形象記号―諸国民が相互に相手の思想を理解して、唯一共通の書法より自らの母語を読み取る方法』(ラージ1995:44)@ケイヴ・ペック『普遍的文字』(ノウルソン1993: 26)@『普遍記号―これを使えば、全世界の国民は、一つの共通の書記法から自分自身の母語を読みとって、互いの考えを理解することができるようになる』(エーコ 1995:292)@算用数字からなる稚拙で、初歩的な計画である、彼は1週間で習得できると主張する。ノウルソン1993: 65f)

1660年:キルヒャーは『全世界の言語をひとつの言語に還元する新案』を書いていたと推定される。(エーコ 1995:295)

1661年:ジョージ・ダルガーノは『記号術』と題する言語案を発表した。最初は当時の速記法の改良を目的とする。(ラージ1995:52)ダルガーノの分類はアリストテレスの種や属の区分に依拠していた。(ラージ1995:55)@ジョージ・ダルガーノは自分が考案した普遍的記号文字について、これは聾唖者の人々に知識を伝える容易で唯一の方法になるであろうと述べている。(ラージ1995:82)@彼の案では全ての概念は17の基本等級に分けられ、さらに幾つかの下位等級に分けられる。(二木 1981: 50)@彼の図表は、ウィルキンズのものと違って概略的であり、本文も実例をあげた部分もきわめて謎めいており、時には矛盾している。彼は文法の私学校の教師として過ごした。(エーコ 1995:329)

1661年:ドイツの化学者・医師で経済学者の J.J.ベッヒャーが数字・記号語を発表する。(二木 1981: 48)@ヨハン・ヨアヒム・ベッヒャーが『普遍言語の理解のための文字』(ノウルソン1993: 37)@『全世界の言語を知るための記号』or『諸言語の一致のための鍵』(エーコ 1995:293)

1663:イエズス派の学者アタナシウス・キルヒャーは『新ポリグラファー』を出版する。彼はフェルディナンド皇帝の命を受け、マインツ司教区のシュパンヒムの修道院長ヨハネス・トリテミウスが100年前に開発した暗号術に基づく、普遍言語を作成しようとした。(ラージ1995:35)@『新しき普遍的筆記法』でアラビア数字が取り入れられる。(ノウルソン1993: 38)@『結合術によって発見された新しい普遍的なポリグラフィー』の中で、万人に開かれた国際語について、記述して、メッセージを暗号化するための秘密の言語について記述している。(エーコ 1995:286)

1666年:ライプニッツが20歳の時に、『結合術についての論文』で、自分の考える哲学語の構造を示した。基本的概念を分類して、それを数字で表す方法である。(二木 1981: 47)@これはルルスの影響を受けており、結合術の考えは、彼に生涯つきまとった。(エーコ1995:387)@普遍的文字の構築に関する構想は、若い頃からの置換の研究の結果として出て来た。すべての複合観念は構成要素である単純観念へと還元可能であることを提案した。単純な観念、つまりは真正の要素を余すことなく完全に列挙して、…すべての複合観念を得るためには、そのような要素を一緒にして、組み合わせるだけでこと足るであろう。そうすることで、人間思考のアルファベットが構成されるわけであるし、派生したすべての観念は、基本的な概念の結合体でしかなくなるであろう。…ひとつひとつの単純要素、あるいは「第一観念」には、この観念だけを表示する適切な記号が割り当てられることになっていた。…その普遍記号は、単なる推論の補助ではなくて、推論に取って代わるものである。推論の代わりに計算を,支持対象の代わりに記号を用いることにより、推論で処理される概念を考慮する必要がなくなる。彼は、20世紀の記号論理学の重要な先覚者とみなされている。数学や推論だけではなくて、形而上学や道徳においても、人を誤りなく真実へ導いて行く普遍言語を形成することが可能であるとの提案をした。(ノウルソン 1993:156f)

1668年:ジョン・ウィルキンズの『真の形象記号と哲学的言語に関する試論』がロンドンで出版される。普遍言語案の中で、最も優れたものである。(ラージ1995:47)@彼は全ての概念を40の等級に分け、されにそれを亜級と種に分けた。それらにラテン文字とギリシア文字を当てはめた。(二木 1981: 50)@彼の類的概念の一覧表はエーコ(1995:343)にある。詳細な分類があるので、事物の記号と名称を習得するうちに、同じにその本性についても教えられることになる。(エーコ1995:363)

1668年5月:ロイアル・ソサイアティはジョン・ウィルキンズの計画案をどのように応用できるかについて研究するための委員会を設立した。(エーコ 1995:329)

1675年:キルヒャーは『ノアの箱舟』を書く。(エーコ1995:234)

1677年―79年:ドニ・ヴェラス・ダレを『セヴァランビア族奇談』書いたが
彼は、意味と音の調和にかかわったのであるが、その言語は意味論的な原則ではなくて、擬声音的な原則をもとにしており、その原則にのっとって、ある特定の意味がある音の連鎖に割り当てられることになる。音の連鎖はどうやら、表示対象あるいは観念の本質を伝えている。(ノウルソン 1993:194)

1678年:ライプニッツは先験語と平行して、後験語も考えていた。『一般言語』、『合理的文法』『言語分析』の中で、ラテン語を簡易化して、規則化して、実際に使える国際語の試みをしている。(二木 1981: 48)@彼は、知識の全体を単純観念に分解して、これらの原始的な観念に数字を割り振った後に、数字を子音に書き換え、10進法の位を母音に書きかえることを提案した。(エーコ1995:383)@代数学のように、使用される記号に操作の規則をただ適用しさえすれば、既知のものから未知のものへと導いていくことのできるような論理的言語活動を創造することであった。(エーコ1995:400)

1679年:キルヒャーが『バベルの塔』を出版する。これは『ノアの方舟』と対を成している。これら二巻の書物は人類の完全な前史を作成しようとしたものである。(ゴドウィン 1986:96)

1680年:ジョージ・ダルガーノは聾唖者教育に関する著作を刊行した。「この記号文字は、聾唖者の人々に、知識を伝える容易で唯一の方法となるであろう。聾唖者がこの記号文字によって、意思の伝達ができるようになるまでには、普通の人が外国語を学習する時間の6分の1で足りると、確信する。」と述べている。(ラージ1995:82)

1682年:ハインリヒ・ヒラーは『ステガノグラフィー術の最新の奥義』の中で、暗号化されたメッセージの解読法だけではなくて、その他の言語のメッセージも、各言語における文字と二重母音の統計上の頻度を突き止めることによって解読する方法を教えようとしている。(エーコ 1995:286)

1686年:フランシス・ロドウィックは王立協会の『哲学論集』に表音式アルファベットを発表する。(ラージ1995:41)

1697年:ライプニッツは手紙に次のように書いている。「ウィルキンズの著作が出る前に、まだ19歳の青年の頃、私は『観念結合術について』という小冊子のなかで、普遍言語の問題についてすでに考えました」と述べている。(ラージ1995:62)

17世紀:フランシス・ベーコンは17世紀のいろいろな普遍言語案と現代との架け橋となっている。かれは表音文字よりも「真の形象記号」により、音声を使わないで事物を表すことができると述べている。ベーコンは中国語からこの着想を得た。ラージ(1995:20)@ベーコンは「中国や東方の諸王国では、真の形象文字を使って書く習慣がある。この形象文字は、文字や語を全体として表しているのではなくて、事物や観念を表している。それによって、互いに相手の言語が分からない国々や地方の人でも、相手の書いたものならば、読むことができる。」と述べている。これは、16世紀後半から、帰国してきた旅行者や宣教師の話しで中国に関する興味がそそられたからである。ラージ(1995:30)@ベーコンは自ら先験的な文字体系を発表した。それは漢字に似た文字体系だったといわれる。(二木 1981: 46)@彼の『学問の進歩について』の中で、音声言語だけが、人の観念を表現する手段というわけではない。聾唖者の例や、また文字や語でなくて物や概念を表現する真正の文字を用いる中国人に関する報告から分かるように、手書きの記号や表現豊かな身振りであっても、そのまま観念を表現できる、と述べている。(ノウルソン1993: 26)@ベーコンは現存の言語への批判を行ない、理想としたのは、語と物の関係が恒常的で明確な対応を示し、自然のものと、人間精神による物の理解や想起や表象との結びつきの邪魔にならない言語であったようだ。(ノウルソン1993: 59)

17世紀:この時代は言語問題に対して関心が高まった時代で、その関心はいわゆる「好事家や学者」たちの小グループの枠を越えて、はるかに広い社会階層にまで及んだ。「商人から僧侶に至るまで教育ある人々は、これまでも、これから先もおそらくないほど夢中になって、言語について語り、書いた。」と Vivian Salmon (1979:153) The Study of Language in 17th Century England. Amsterdam: Benjamins の中で述べているそうである。ラージ(1995:20)

17世紀:戦争と内乱のために、暗号術への関心が高まり、暗号と普遍言語との間に関連がある。ラージ(1995:35)

17世紀末:ラテン語は16世紀には、ヨーロッパの学者の共通語としてその覇権の絶頂であった。しかし17世紀末になると、その役割は大いに減少した。普遍語運動は国際交流の有効手段であるラテン語の衰退を早くも先取して起こったものであるが、ラテン語の没落を促進する力ともなった。(ラージ1995:22)

17世紀末頃:フランス語はラテン語に代わって、ヨーロッパの外交言語になり、たいていの国の宮廷で話されていた。(ラージ1995:69)

18世紀の最初の20~30年間:人工の普遍言語構築への関心はかなり衰退していたようである。これはフランス語がヨーロッパの実質的な国際語として台頭してきたからである。17世紀の終わりまでには、フランス語はヨーロッパの外交言語として、ラテン語に取って代わった。(ノウルソン 1993:201f)

1700:ベルリン王立学士院が創立、ここではフランス語を公用語として採択した。(ラージ1995:69)

1704年:ジョージ・サルマナーツアール『台湾博物誌』がでる。(ノウルソン 1993:182)

1710年:シモン・ティソ・ド・パトは『ジャック・マセの冒険旅行』の中で、奇妙な新言語をもっぱら扱い、厳密性、規則性、簡潔性という数学のりそうへ改めて注意を向けるようになった。(ノウルソン 1993:198)

18世紀初等:前世紀の普遍言語熱は衰えた。その理由として、フランス語が知識人の言語として台頭してきたので、人工言語への関心が薄れた。(ラージ1995:68)

1732年:ドイツのある雑誌にカルポフォロフィルスという匿名の人の手による後験語案が載る。この案は記録に残っている限りでは、最初の包括的な後験語案である。(二木 1981: 95)@内容はエスペラント以降の国際共通語案とかなり、共通している。「死んだラテン語を行きかえらせること」を狙ったという。ヴォラピュクやエスペラントもこの構想から、かなりの影響を受けたとしている。(二木 1994: 69)@エーコ(1995:455)では、1734年としている。国際的補助言語のうち、最長老であるとしている。

1756年:フランスのエンサイクロペディストの一人、フェーゲ・ド・ヴィユヌーヴは『科学芸術職業百科事典』の中で、普遍語の創造の可能性について、述べている。これは新言語(langue nouvelle) と呼ばれる。後験語案である。(二木 1981: 97)

1760年頃:普遍言語作成の可能性について世間の関心が復活したのはこの頃である。(ラージ1995:70)

1762年:アダム・スミスが「諸言語の起源についての論文」(後に『道徳感情論』に付録として付け加えられる)を発表した。その中で、川というものをテムズでしか知らない「無知な」人間にとっては、別の川を見た時もテムズというはずだから、全ての名詞の起源は固有名詞だったと主張している。(田中克彦 1996: 5)

1764年:ジャン・アンリ・ランベールは『ノイエス・オルガノン(新学問体系』の中で、数学的分析と記号表記を論理学に適用しようとした。(ラージ1995:71)

1765年:アポステオリな原理に基づく普遍言語案が『百科全書』の第9巻に掲載された。ドゥ・ヴィルヌーヴが「新言語」との見出しで4ページほど説明している。(ラージ1995:79)@ジョアシャン・フェゲが言語の項目の末尾に「新しい言語」の計画案を四ページにわたって開陳している。これはアポステオリな言語の最初の素描であるとする。自然言語をモデルとしてフランス語の語根から語彙を造っている。規則化された単純化された文法が特徴である。(エーコ1995:416)

1772年:ハンガリー人ゲオルギュシュ・カルマンはベルリンで自分の普遍言語案を刊行した。73年にローマで、74年にウィーンで刊行する。これはライプニッツの思想の影響を受けている。(ラージ1995:71)@彼の言語は、普遍記号によって表されるが、特にマラヤーラム語の文字を変形したものである。後に、ドイツ語で『世界普遍語文法規則』という本を出版した。(二木 1981: 52)@G.カルマル(二木 1994: 51)@『あらゆる生活様式に適合した哲学的もしくは普遍的な言語の文法規則と実例』、ゲオルク・カルマーは記号の数を400個ほどに減らし、記号が文脈に応じて異なる意味を持つことを受け入れているが、あいまいさが出てくるとの批判もあった。(エーコ 1995:427)@ゲオルギウス・カルマルによる普遍言語計画には3つの版がある。一つは1772年にベルリンで出版されたラテン語版、二つ目は1773年にローマで出版されたイタリア語版、3つ目は1774年ウイーンで出版されたドイツ語版である。これは、普遍的文字を実現しようとしたライプニッツの夢と明らかに関連がある。(ノウルソン 1993:205)

1774年:フランチェスコ・ソアーブ神父は『普遍言語の制定をめぐる省察』を発表する。(エーコ 1995:427)

1776年:ディドンネ・ティエボーの『文法と諸言語に関する一般的考察』
が発表される。(ラージ1995:72)

1776年:ドゥ・レペ僧院長が聾唖者教育に関する最初の著作を書く。『身振り記号を用いる聾唖者教育―一定の方法による自然な記号を仲介とする普遍言語案』(ラージ1995:83)

1779年:ドイツの物理がくしゃC.ベルガーは、ライプニッツの「書くことのできるのみで、話すことのできない言語は魂のない言語」という言葉を引いて、ベッヒャーらの普遍言語案を批判した。しかし彼の案は複雑なものであった。(二木 1981: 53)

1782年:ベルリンのロイヤル・アカデミーは、この年の懸賞論文の主題として、「フランス語がヨーロッパの普遍言語になったのは、何ゆえであるか」という課題を出したのである。1784年に、リヴァロル伯爵の有名な論文と、ジャン・クリストフ・シュワプの論文の両方が受賞した。(ノウルソン 1993:204)

1784年:アントワーヌ・ド・リヴァロル伯爵が、『フランス語の普遍性についての叙説』のなかで、普遍言語などといったものは造る必要はない。完全言語はすでに存在している。フランス語がそれであると述べている。(エーコ1995:424)

1787年4月18日:ラヴォワジェは「化学的命名法の改革と完成の必要性についての覚書」の中で、科学の用語を厳密に命名することをとなえる。(ノウルソン 1993:249)

1790年代:普遍言語に関する興味高まる。特に、革命後共和制となったフランスで著しかった。(ラージ1995:72)@共和国の理念を全世界に拡張しようとの願望が、1790年代の数多くのフランスの普遍言語計画の背後にあった。(ノウルソン 1993:234)

1793年-94年:コンドルセはある手稿のなかで、事実上数学的論理の租型をなしているひとつの普遍言語を待望している。(エーコ1995:401)

1795年:ジャン・ドゥロルメルの『普遍言語案―国民議会に提出』が発表される。(ラージ1995:72)@国民公会に提出。(エーコ1995:418)@『国民的慣例に寄せる普遍言語計画の提案』の中で、自分の分類的言語を紹介しながら、著者はその目的を、例外がなく、文字が数字のように連続的に組織される、単純な言語を作成することであるとした。「訳者浜口氏は議会を慣例と誤訳している」(ノウルソン 1993:194)@彼は、政府がこの言語の研究を教育に導入すれば、6ヶ月もたたないうちに早くも意思疎通の役に立ち、平等の原則の普及にふさわしくなり、共和国の理念を広めるのに役立つだろうとした。(ノウルソン 1993:233f)

1797年:ジョゼフ・ドゥ・メミューが『パジグラフィー』を刊行する。(ラージ1995:73)@パリに住んでいたプロシア軍歩兵隊の退役少佐J.マイミエはPasigraphieと名づけた先験語案を発表した。自分の作った人工語に名前をつけたのは、彼が最初である。後の作者達もこの例にみならう。彼は自分の記号に音価を与え、実際に発音できるようにした。この宣伝はかなり活発に行なわれ、パリに事務所が設けられ、マイミエの指導のもとに、12人の講師からなる講習会が組織された。(二木 1981: 53-4)@『パシグラフィー』は、書かれたものによる伝達によることを目的とするが、1799年にパシラリー、つまり発音可能にする諸規則も作成するので、アポステリオリな言語の体裁をなしている。執政政府の庇護のもとで出版した。(エーコ1995:418)@その研究はナポレオンに捧げられ、98年に芸術高等学校で、メミィユの若い弟子によって実践された。(ノウルソン 1993:194)

1790年ごろ:数学者のドゥ・コンドルセ侯爵が普遍言語案を構想する。しかし彼の『普遍言語に関する試論』は未完に終わる。(ラージ1995:76)

1793年10月~94年4月:コンドルセは理想的な「哲学的」言語の最初の見本草稿をつくる。(ノウルソン1993: 221)

18世紀末:全ての言語の派生源である共通の人間言語がかって存在して、この共通の言語が以前は超自然的な真実に洞察をもたらしてくれたのだという信念が残っていた。(ノノウルソン1993: 26)

1800:ザルキンド・ド・ウルヴィッツ『ポリグラフィー、あるいは、あらゆる言語のもとで、アルファベット文字すらもたない言語のもとでも、辞書の助けを借りて通信する術』(エーコ1995:417)

19世紀:アプリオリな人工言語がすたれ、アポステオリな普遍言語のほうへ関心が移る。(ラージ1995:78)

19世紀:ルヌーヴィエ(Renouvier)がほとんど、エスペラントと同じような案に達している。彼の言語案は文法は哲学的(合理的)、語彙は経験的(すなわち後験的)である。(ビュルネー 1964: 101)

1801年:パリの国民図書館の翻訳官Z.ウルウィッツが独自の普遍文法案を提唱している。ラテン語の語源に、アルファベット順に番号をつけて、それに各国語の単語を添えることを提案している。(二木 1981: 55)

1805年:ドイツ人J.Z.ネーテルは絵文字を使う言語を提唱している。(二木 1981: 54)

1806年:アンヌ=ピエール=ジャック・ド・ヴィスムは、『パシロジー、あるいは普遍言語と考えられる音楽について』のなかで、天使の言葉の写しであるにちがいないという言語を提示する。音声は心の感応から生まれたのであるから、それは感情が直接的に語る言葉であるという。音楽は言葉よりも動物に理解されやすい。馬がトランペットの音で、興奮したり、犬が笛の音で興奮するのはその証拠であるとする。(エーコ 1995:429f)

1817年:フランス人の学校教師J.シュードルが音楽言語「ソルレソル」を発表する。(二木 1981: 58)フランスの最高科学機関であるフランス研究所は、ソルレソル研究のための委員会を設置して、ソルレソルに有利な結論を出した。フランス陸海軍はその採用を推奨して、信号法として、1部の兵士に学習させる試みさえした。作家ユーゴーはソルレソルの存在を知って、激励した。(二木 1981: 60)@世界音楽語(langue musicale universelle)は音階の7つの音名がその組み合わせによって、何千もの単語を提供するものである。1音節の単語7語、2音節49語、3音節語336語、4音節2268語、5音節9072語である。ドミソは神を示し、ソミドは悪魔を示す。(ビュルネー 1964: 28)@彼は、7つの楽音はあらゆる民族に理解可能なアルファベットをなしていると考えている。最初の7つのアラビア数字表すことができ、7つの分光色で表せる、盲人や聾唖者も使うことができる。ハイ→シ、いいえ→ド、私→レド、あなたの→レミとうである。フランス学士院や、ケルビーニのような音楽家、ユゴー、ラマルティーヌ、フンボルトからの賛辞をもらう。ナポレオン三世の謁見にあずかり,1855年のパリ万国博覧会で一万フランの報奨金を受け、1862年のロンドン博覧会で、金メダルを受賞した。(エーコ 1995:433)@Jean Francois Sudre のそれは、7つの音だけを持っている。ピアノの白い鍵盤に該当する。それは、歌ったり、演奏したり、口笛を吹いたり、話すこともできる。(Harlow 1998:3)

1827年:J.シュードルが音楽言語「ソルレソル」の成果をまとめて、パリの音楽アカデミーに提出する。(ラージ1995:93)

1831年:ジョヴァン・ジョゼッペ・マトラーヤ神父が『イタリア語のジェニグラフィー(精神記述法)』を発表する。(エーコ 1995:431)

1832-55年:ルテリエ『普遍言語についての全講義』(エーコ 1995:433)

1836年:A.グロッセリンがパリで、数字語を発表する。(二木 1981: 56)@グロスランが『普遍言語の体系』(エーコ 1995:433)

1839年:ドイツのJ.シップファーが国際間の通信語として、フランス語を基盤とした言語案を発表している。後験語である。(二木 1981: 97)

1840年:パリに住むイタリア語教授A.レンツィは自分の考案した記号語とその意味を英仏イタリア語で示した900ページあまりの本を出版した。(二木 1981: 54)

1844年:ヴィダル『普遍的にして分析的な言語』(エーコ 1995:433)

1850年:フランスの視学官ルテリエが『普遍言語総論』を完成させる。刊行は1852年から1855年である。(ラージ1995:90)

1852年:ソトス・オチャンド(スペインの神父で、有力な学者で、政治家)が、主として、学者間の通信言語にすることを狙った人工言語を発表した。(二木 1981: 57)

1852年:スペインのペドロ・ロベス・マルチネスが後験語案を発表した。(二木 1981: 98)

1855年:パリに国際言語学協会が設立され、各種の人工言語を公平に検討して、その成果を報告することになった。(ラージ1995:89)国際言語学協会は2つのアプリオリな言語案を、特別な考慮に値すると選ぶ。オチャンド神父の『普遍言語試案』とフランスの視学官ルテリエの『普遍言語総論』である。(ラージ1995:89)@ソトス・オスチャンドの『普遍言語の計画案』では、意味される事物の配列とそれらを表現する言葉のアルファベット順の配列との間に完全な対応関係を確定しようとしている。(エーコ 1995:434)

1855年:J.シュードルの音楽言語「ソルレソル」がパリの万国博覧会では異例の一万フランの賞金を贈呈された。(ラージ1995:93)

1859年12月:ザメンホフがポーランドで生まれる。

1859年:フランス人リュシアン・ド・リューデルが発表した案(Pantos-Dimou-Glossa)はラテン語、ロマンス語、ギリシア語に基づいた後験語である。(二木 1981: 98)

1862年:シュードルの音楽言語「ソルレソル」がロンドンの万国博覧会で名誉賞を授与した。(ラージ1995:93)

1862年?:ドイツ、アルテンブルクのK.ロスラーが後験語案を創った。例文から推測すると、ラテン語の近代化を狙ったもののようである(二木 1981: 99)

1868年:ピロと言う人が[Universalglot]なる後験語案を発表した。(二木 1981: 99)

1875年:ダイナーの「リングアルミナ」(エーコ 1995:433)

1875年:フランスのE.クルトンヌはルーアンで、「国際新ラテン語案」という後験語案を発表した。(二木 1981: 100)

1876年:ドイツ人J.ダム博士が発表した普遍記号語では、基本記号は100個だけである。(二木 1981: 55)

1877年:レマンの「語源学的国際語」(エーコ 1995:433)

1878年:シュライヤーがヨーロッパの主要語の音を写せる「普遍アルファベット」を考案して発表した。後にヴォラピュクに発展する(二木 1981: 63) 

1879年:シュライヤー(Johann Martin Schleyer)はこの年の3月10日の夜、眠れないままに庭を散歩していた彼の頭に突然天啓が下り、新しい人口国際語の全体系が思い浮かんだ。(二木 1981: 64)@自分の言語案の文法概要をカトリックの文芸誌『シオンのハープ』に載せていたのだが、一般からの問い合わせが殺到したために、その小雑誌では間に合わなくなり、ヴォラピュクの専門雑誌『ヴォラピュク報道』(Volapük abled)を発刊した。(二木 1994: 70)@「フォラプーク」は、国際的に受け入れられた最初の補助体系であった。彼は(生1831-1912)、英語をモデルにしており、語彙はドイツ語を多く取り入れている。文字は28個あり、それぞれがただ1個の音を持ち、アクセントは常に最後の音節に置かれる。中国人がrの音が発音できないので、rの音を取り除いた。(エーコ 1995: 453)@自分の教区の半分文盲の農夫との会話から思いついたという。農夫はアメリカにいる息子へ送った手紙が、文字が読めないとの理由で返されてきた。彼は当初は万国共通の文字を作ることを思い立ったが、のちにそれは、ある夜神が完全な国際語を作るようにと夢の中で、語ったということまで発展する。(Harlow 1998:4)

1880年:ロシアの科学者M.N.グルボコフスキイが人工言語を発表した。(二木 1981: 58)

1881年:ヴォラピュクの専門雑誌『ヴォラピュク報道』を刊行する。(二木 1981: 68)

1883年:ドイツ人のA.フォルクとR.フックスがベルリンで新国際語を発表している。後験語案である。(二木 1981: 101)

1884年:ドイツのフリードリッヒハーフェンで第一回のヴォラピュキスト大会が開かれた。(二木 1981: 69)

1884年:フィンランドのバラノフスキーは人工言語案を発表する。(二木 1981: 77)

1884年:イタリア人C.メリッジ教授が「ブライア・ツィモンダル」という人工語を発表した。彼は音とイメージにある種のつながりがあることに気づきそれを整理して人工言語を作った。(二木 1981: 78)

1885年:ニースで、E.クルトンヌは「国際新ラテン語案」の一般学習書を出す。国際共通語について、「母国語につぎ第2の言語」と言う意味で、補助語(auxiliary language)と言う言葉が使われたのは、これが最初の例である。(二木 1981: 100)

1885年:ドイツ人P.シュタイナーが後験語案[Pasilingua]を発表した。(二木 1981: 101)

1885年:哲学者ルヌーヴィエの諸計画案、(エーコ 1995:433)

1886年:S.ヴェアエッゲンと、C.メネがヴォラピュクの改造案を提出する。(二木 1981: 73)

1886年:フランス人マルダンが「シエベ・アバン」なる人工語を発表した。(二木 1981: 77)

1887年:第ニ回のヴォラピュキスト大会がミュンヘンで開かれた。(二木 1981: 69)@使用言語はドイツ語であった。(二木 1994: 71) @1887年:ヴォラピュクのアカデミー(学士院)が設立された。(二木 1981: 69) @改革派のフランス人教授 Auguste Kerckhoffs は第2回の大会の時にヴォラピュク・アカデミーの長に選ばれた。(Harlow 1998:6)

1887年:ザメンホフが彼の言語案を出版する。ロシア語版で『国際語―序言と全教程』であった。(ラージ1995:106)

1887年:ドイツ人アイヘホルンはラテン語から取った語根と簡単な文法を持った先験語を発表した。(二木 1981: 76)

1887年:マルダンの「自然の言語」(エーコ 1995:433)

1887年:アメリカ学術協会は、国際語問題の特別委員会を設け、10月、21日、ヴォラピュクの科学的価値の検討を開始した。その結果、ヴォラピュクは国際補助語としては、不完全であるとして、拒否した。そして、国際補助語としての必要な条件をつぎの様にしてまとめた。
(1)国際語はアーリア語(英独仏西伊露)の要素を基礎としてつくられなければならない。
(2)正字法は表音的であること。
(3)母音は5音に限られなければならない。
(4)文字は最も広く普及しているローマ字であること。
(5)語彙は(1)の6カ国の全てに共通な「少なくとも1000語」を取り入れること。
(6)文法は簡単であり、最も簡単な自然語(英語)に似ていることが望ましい。(二木 1981: 100)

1888年:著名なヴォラピュキストであったG.バウエル博士はクロアチアのザグレブで「スペリン」と名づけた自分の案を発表した。(二木 1981: 74)@これはヴォラピュク以上に記号性が強く複雑だった。(二木 1994: 74)

1888年:オランダム.J.ブラークマンは、アメリカ学術協会のテーゼを入手して、オランダ語でMundolinco を公表した。(二木 1981: 108)

1888年:ドイツ人オイゲン・ラウダはラテン語に基づいた言語案「コスモス」を発表した。(二木 1981: 108)

1888年:ノルウエー系アメリカ人E.モレーがTutonishを発表した。これはチュートン族の共通言語を狙ったものであり、この言語により、チュートン族が世界の覇権を握ることを夢見ていた。(二木 1981: 109)

1888年:イギリス人ジョージ・ヘンダーソンがロンドンで,「Lingua」を発表した。(二木 1981: 110)

1889年:ヴォラピュクは、世界各地に283の会、25の雑誌があり、1000名以上の免許を受けた教師がヴォラピュクを教えていた。(二木 1994: 71)

1889年:イギリス人ジョージ・ヘンダーソンがP.ホイニックスという匿名を使って、ロンドンで、Anglo-francaを発表した。(二木 1981: 111)

1889年:フランス・ヴォラピュク会の副会長であったニコルスがヴォラピュクに幻滅して自分の案「スポキル」を発表した。(二木 1981: 74)

1889年:第三回のヴォラピュキスト大会がパリで開かれた。このころからシュライヤーと他のメンバーとの軋轢が目立つようになり、これが最後の世界大会となった。(二木 1981: 69)@これは、人口国際語の歴史の中で、大きな意義を持っている。その理由は第1回と第2回はドイツ語が使われたが、第3回では、終始ヴォラピュクが使われた。人々が人工言語で自然言語と同じようにコミュニケートすることが出来る事を証明したことにより、国際共通語運動が一挙に活気つくようになった。(二木 1994: 71) @改革派のフランス人教授 Auguste KerckhoffsがPresident に選ばれて、Scheyer にとって打撃となる。

1889年:ザメンホフはエスペランチストの名簿(1000人)を公表する。彼らは互いに連絡を取ることができるようになる。(ラージ1995:108)

1889年:ヴォラピュクの最初の免許教師K.レンツェは、運動の内紛の激化に嫌気がさして、数人の仲間と人工言語案の雑誌を発刊した。後に「中央語」をつくる。

?:イタリア、トリノの動物博物館長ダニエレ・ローザ博士はNovlatinを公表した。 (二木 1981: 111)

1889年:ヴォラピュキストのJ.ロットが自分の後験語案を公表した。(二木 1981: 109)

1889年:丘浅次郎がズイレンゴ(Zilengo)と名づけた人工言語案を自ら考案した。(二木 1981: 115)

1889-1894年:前ヴォラピュキストのJ.シュテンプルは「ミラーナ」とその改良案である「コムニア」を発表している。(二木 1981: 109)

1893年:ドイツ人フィーヴェーガーがヴォラピュクの改造案を発表した。(二木 1981: 75) (二木 1994: 75)

1893年:ドイツ人F.ミルが発表したAnti-Volapukがある。(二木 1981: 113)@国際補助言語の陰画である。この言語は、それの中核をなす普遍文法に、話者の話している言語から取られた辞項を補完するようになっているからである。(エーコ 1995:456)

1894年:ザメンホフは Wilhelm Heinrich を初めとする改革派をなだめるために、改革案を提出するが、投票で否決される。(Harlow 1998: 8)

1895年:ドイツのE.ビーアマン教授が新ラテン語案を作成する。(後験語案)(二木 1981: 113)

1896年:キエフでノヴォドウム博士が「プロメテーオ」という人工語を発表した。(二木 1981: 78)

1896-1899年:スウェーデンの前ヴォラピュキストであるA.ニルソンは人工言語案のスケッチをいくつか発表している。1896年に西ヨーロッパ中央語、同年中央語、99年に最初の案の改造案、97年にラソネブルを発表した。(二木 1981: 114)

1898年:ヴォラピュク運動の草分けW.ローゼンベルガーが運動の分裂のあと、イディオム・ネウトラルという新しい人工言語案を作る。(二木 1981: 119) @アカデミーの会長がW.ローゼンベルガーからアメリカのA.ホームズに代わる。(二木 1981: 122)@ラテン語への傾斜の度合いが、言語案を特徴つける。ヴォラピュクのドイツ語的外見や、高度に規則的な構造を批判して、シュライヤーと袂を分かった主要メンバー達は、ラテン語への志向が見られた。イディオム・ネウトラルとは、英語とラテン語(ロマンス語)との中間的な性格が見られた。しかしこれらは、消滅して、残ったメンバーはペアノによるインテルリングァに移動した。(二木 1994: 110)

1898年:B.ボエンは改造フランス語案を出し、民族語を改造して国際共通語にしようとした。(二木 1981: 204)

1899年:パリの商人レオン・ボラックは先験語案を作り、それを「ボラック」という名前を与えた。(二木 1981: 77)

1899年:匿名作者クラリンソンが新ラテン語案を発表した。作者はヘンダーソンではないかといわれている。(二木 1981: 114)

1900年:アメリカのA.ホームズがイディオム・ネウトラルの細部の仕上げが出来上がり、新聞・雑誌などで、大宣伝を行なった。(二木 1981: 122)

1900年:ニコラ博士の「スポキル」(エーコ 1995:433)

1901年:クテュラとレオーが「国際補助語を採択するための委員会」を設立した。(エーコ 1995: 451)

1901年:ヒルベの「数言語」(エーコ 1995:433)

1901年:イギリス人ジョージ・ヘンダーソンは、もとのLinguaを改造したLatinesce を発表した。 

1901年:フランスのF.イスリが「イスリ語」というラテン語改造案を発表した。(二木 1981: 134)

1902年:オーストリアのK.フレーリッヒが『世界語文法―改造ラテン語』を発表した。(二木 1981: 134)

1902年:オーストリアのE.フランドセンがラテン語改造案を発表した。(二木 1981: 134)

1902-1903年:英語、ドイツ語、オランダ語でイディオム・ネウトラルの辞典が出る。(二木 1981: 122)

1902年:K.ディートリッヒがヴォラピュクの改造案を発表した。(二木 1981: 75)@ディートリッヒの「民族間通用語」(エーコ 1995:433)

1902年:ドイツ人K.ハーグが表意文字を使った案を発表している。(二木 1981: 79)

1902年:ロシアの文学者・翻訳家であるV・チェヒシンは漢字を国際文字として用いる提案をした。(二木 1981: 79)

1903年:フランス人C.アンドレが過去のラテン語改造案を収集・整理して、パリで発表した。これはペアノ教授のLatino sine flexione に影響を与えた。(二木 1981: 135)

1903年:ペアノ教授がLatino sine flexione を発表した。これは後に、インテルリングァになる。(二木 1981: 128)@数学者ジュゼッペ・ペアノがトリノで単純化されたラテン語を考案して発表した。最初は古典的ラテン語に近いものであったが、漸次変形してゆき簡便化され近代化された言語案を完成させた。(ビュルネー 1964:97)@彼の意図したのは、新しい言語を創作することではなくて、少なくとも科学の国際交流のために、使用できるような、ただ書かれるだけでよい、単純化されたラテン語を推奨しようとしただけである。語形変化のないラテン語であり、語彙はよく知られた自然言語のものであり、文法はほとんどない。(エーコ 1995:458)

1903年:A. ヘスリッヒがヴォラピュクの改造案「タール」を発表した。(二木 1981: 75)

1903年:ドイツ人H.モレナール博士が考案した「ウニヴェルサル」を雑誌『人類の宗教』3月号と5月号に「パン・ロマン」という名で発表された。(二木 1981: 136)

1903年:クーチュラとレオーの二人が、『普遍言語の歴史』を書く。(ヤグエーロ 1990:103)

1904年:フランス人シレが、コロンボ博士との匿名で、改造ラテン語案を発表した。(二木 1981: 135)

1904年:タールントベルクの「ペリオ」(エーコ 1995:433)

1905年:フランス人V.エリは先験的な文法と後験的な語彙を持つ言語案を発表した。(二木 1981: 138)

1906年:ドイツ人M.ヴァルトが中国語や2,3の単音節語を混ぜ合わせた言語「パンケル」を発表している。(二木 1981: 80)

1907年:ガイェフスキーの子ボレスロフはソルレソルの体系的文法書を刊行した。(二木 1981: 60)

1906年:W.ローゼンベルガーが、イディオム・ネウトラルの大幅な改造を行なう。語彙の12%を変える。(二木 1981: 124)@エストニアのエドガー・ド・ヴァールはこの改造に反対で、独自の改造案を出す。またルクセンブルクの牧師J.B.ピントも同じ頃、ヴァールの案に似たidiom-neutral reformed を発表した。(二木 1981: 124) @W.ローゼンベルガーはこれらの改造案をまとめたものをアカデミーの決議を待たずに、Projekto de Idiom-Neutral reformed として発表した。国際語選定代表者会にローゼンベルガーの元の案と各案を取りまとめたものが提出されたが、2つとも拒否された。(二木 1981: 124)

1907年国際語選定代表者会が開かれる。この種のものとしては始めてである。(二木 1981: 123)@パリで18回の会合を開き、色々な人工国際語について、審議を行なった。イードを採択する。(二木 1981: 146)@ラテン語にあこがれる人にとり、エスペラントの持つドイツ的、スラブ的要素にとって奇異に映った。それにゆえにイードが生まれた。(Harlow 1998: 9)@しかしイードは次から次と現れる改革案に悩まされた。

1907年:ドイツのE.ビーアマン教授が新ラテン語案を大幅に造りなおして、国際語選定代表者の委員会に提出するが、却下される。(二木 1981: 114)

1907年:ベルギー・ブリュッセルのアカデミー員ボントはイディオム・ネウトラルを変えて、変種を造り「ヨーロッパ語」と名づける。雑誌Idei international を出す。(二木 1981: 123)

1907年:ウニヴェルサルのイタリア語、スペイン語、フランス語、英語の書く版の文法書が出た。(二木 1981: 136)

1907年:フランスの交通学の教授ブロンデルが人工言語案を発表した。(二木 1981: 139)

1907年:ロシアのE.ダルテが言語案「ロゴ」を提出する。(二木 1981: 139)

?:フランスのグラッセリは「アポレーマ」を発表した。(二木 1981: 139)

1908年:イードが現れる。

1908年:フランス人V.エリは1905年の自分の案を改造したものを「国際通訳語」として発表した。(二木 1981: 138)

1908年:イギリスのA.ミラーはイディオム・ネウトラルの改造版(ギリシア語の要素を取り入れたもの)「コリンティック」を発表した。(二木 1981: 125)

1908年:ブラジル人S.C.ジョインヴィルが「改造・縮小ヴォラピュク」を発表した。これがヴォラピュクの改造運動の最後の反響である。(二木 1981: 75)

1908年:アメリカの牧師E.フォースターが「ロー」名づけた先験語を発表した。(二木 1981: 80)

1908年:イディオム・ネウトラルのアカデミー会長がホームズからイタリアのトリノ大学の数学者ジュゼッペ・ペアノに変わった。(二木 1981: 125)

1908年:スロヴェニアの牧師シュクラベッツが「エウラリア」という案をカトリックの新聞に発表している。(二木 1981: 154)

?:アメリカ人S.C.フートンがMaster Language を発表した。(二木 1981: 138)

1909年:アカデミーの言語としてイディオム・ネウトラルを放棄して、ジュゼッペ・ペアノの考案になる「インテルリングワ」を採用する。(二木 1981: 126)@インテルリングワの特徴としては、(1)語彙のうち、英語・ドイツ語・フランス語・スペイン語・イタリア語・ポルトガル語・ロシア語の語彙に語源的に共通な語、英語とラテン語の語彙に語源的に共通な全ての語、および植物学・動物学・化学等で用いられる国際語彙の全てを認める。(2)正字法―ラテン語にあるすべての国際的語彙は、その綴りを保つ。ただし、phのかわりに、f, th のかわりにt, oe と ae の代わりに,e と買いてもよい。(3)発音―ラテン語系の単語の発音は、古典ラテン語のそれに基づく。(4)文法―不必要な文法要素は、すべて除いてよい。名詞の複数は、-sにより示す。後になり、動詞の不定法は、語尾 –re,現在分詞は –nte,過去分詞は –toで示すとの項目が付け加わった。[ラテン語では、動詞・名詞・形容詞が高度の屈折をして、それを覚えるのが厄介な代わりに語順は、きわめて自由である。これに対して、屈折をなくしたインテルリングァでは、語順で文意を示すことが必要となった。] (二木 1994: 111f)

1909年:ペアノ教授はトリノ市で、インテルリングワによる雑誌『討論』を出し、マイスマンスは1911年にブリュッセルで『国際語』、1911年イタリア人バッソはヴェンティミリアで『万国誌』を出した。またイードの雑誌であったロンドンの『国際語』は1915年にイードを捨てて、インテルリングワの雑誌になった。(二木 1981: 131)@イタリアのトリノ、後にブリッセルで、インテルリングァの雑誌が出た。これらの雑誌に載った記事の大半は、言語学や数学をテーマとする文章で、文芸的な文章はほとんどなかった。(二木 1994: 114)

1909年:ベルギーのマイスマンス教授がラテン語の要素を取り入れて、「修正イディオム・ネウトラル」を発表した。(二木 1981: 125)

1909年:ヴァールが「アウリ」を発表した。(二木 1981: 125)

1909年:イタリアのR.トリオラはイードの改造案を提出する。(二木 1981: 150)

1909年:ドイツ語によるウニヴェルサルの宣伝パンフレット、文法書、辞書、読本がでた。(二木 1981: 136)

1909年:有名なエスペランチストであったフランス人A.ミショーは「ロマーナル」という新ラテン語案を匿名で発表している。彼はこの案を練りつづけ、1916年と1922年に「イギリス・ラテン補助語」という名で、文法案を刊行している。(二木 1981: 154)

1909年―1930年:ドイツのイディストであるJ.ヴァイスヴァルトは幾つかの人工言語案を発表している。最初Unial,つぎにこれを簡潔にしたEuropal という案を発表した。(二木 1981: 155)

1910年:後験的人工言語が最も数多くでた年である。(二木 1981: 155)

1910年:オーストリアのW.メーザーは、アウストリアクスとの匿名で、「半ラテン」を発表した。彼はこの案を1921年に改造した。(二木 1981: 156)

1910年:オーストリアのA.ハートル司教が人工言語案を発表した。(二木 1981: 156)

1910年:ドイツ人エルンストが案を発表した。(二木 1981: 156)

1910年:ポーランドのJ.スロニムスキィが案を発表した。(二木 1981: 156)

1910年:イギリス人S.ボンドがMondlingを発表した。彼は、1912年にOmnez、1913年にDomni、1921年にOptoez, 1926年にMesoを発表した。(二木 1981: 157)

1912年:イタリアで「国際ラテン語同盟」という団体が結成されている。50人ほどの会員を集めた。この言語はインテルラティーノと呼んだ。(二木 1981: 157-8)

1912年:ローゼンベルガーはイディオム・ネウトラルの改造版「レフォルム・ネウトラル」を独力で作り上げた。(二木 1981: 126)

1912年:数々の年に50以上のイディストの会ができ、会員も600人になった。(二木 1981: 149)

1913年:ロシアのN.A.ネスメヤノフ博士がVivaという言語案を発表した。(二木 1981: 158)

1913年:ロシアの文学者・翻訳家であるV・チェヒシンはエスペラントの文法をそっくり利用した「ネーポ」という案を発表している。(二木 1981: 79)

1914年:イードの推進者 Couturat が自動車事故で死亡。イードの運動自体は1920年代までつづく。(Harlow 1998:12)

1914年:J.バラルはイードを若干変更する。(二木 1981: 150)

1914年:バラルは「フェデラル」と「ユニオン・システム」の2案を発表した。前者の文法大要を1923年に公刊している。(二木 1981: 160)

1915年:ペアノはインテルリングワの辞典を出す。(二木 1981: 132)@しかしインテルリングァ運動は、この刊行で、一区切りがついたかのように中断してしまった。戦争中ということもあり、機関紙『討論』は休刊となり、インテルリングワイストの会合も開かれなくなった。(二木 1994: 114)

1915年:バウマン博士の「ヴエルトドイッチェ」はドイツ語を国際語共通語として考えたものである。(二木 1981: 203)

1916年:オストヴァルド博士が「ヴエルトドイッチェ」を発表、ドイツ語を国際語共通語として考えたものである。(二木 1981: 203)

1916年:J.リンツバッハの考案した言語案がペトログラードで発表された。これは後に、「数学的文字語」という名でパリに登場した。(二木 1981: 80)

1918年:オーストリア人K.ポンピアティは「論理的新ラテン語」を発表する。(二木 1981: 158)

1919年:イタリアのV.マルテロッタ教授が発表した「ラティヌルス」がある。(二木 1981: 159)

1919年:E.フォースターの「ロー」の辞書ができ、ブエノスアイレスにローイストの会ができた。(二木 1981: 80)

1920-21年:ペアノは、再び、情熱を取り戻したかのように、インテルリングァの残存会員に連絡をとり、簡単なニュース紙を発行するなど、活動を再開した。(二木 1994:114)

1920年:国際的なアナーキストであるB.ゴルディンがモスクワで「アオ」という言語を発表した。(二木 1981: 81)

1920年初め:D.スタンレンブルグは改造スペイン語と発表して、国際共通語としようとした。(二木 1981: 203)

1921年:ペトログラードの技師K.クライエフスキーはQJと言う名の言語案を発表した。(二木 1981: 81)

1921年:ドイツの建築家ティーマーが自分の名前を取った「ティメリーオ」という人工語案を発表した。(二木 1981: 82)@1920年にベルリンの建築家 Thiemer が数字語で言語を作る。その言語の名は Timerio であり、それでは I love you. は1-80-17となる。(ビュルネー 1964: 28)

1921年:バーデン・ポウエルが作った信号法(900の信号語から成り立っている)がボーイスカウトたちの間で使われている。(二木 1981: 83)

1922年:エストニアのエドガー・デ・ヴァールがオクツィデンタルを発表した。(二木 1981: 125:169)彼はKosmoglottとの雑誌を出し始める。これは、1924年からオクツィデンタルの宣伝雑誌になる。(二木 1981: 169)@イードからの鞍替えが多かった。オクツィデンタルがイードよりもはるかにラテン語風の外見、言いかえれば自然言語的な外見を持ったいたからである。オクツィデンタルの特徴として、インテルリングァでは、使用上の原則しか示されていなかったので、ラテン語についての高度の知識を持つものでなければ使いこなすことが出来なかった。これに対して、オクツィデンタルでは、文法の細部まで示されており、ラテン語の知識がなくても迷う心配はない。発音は、ロマンス語に近くなるようにしてあり、インテルリングァが古典ラテン語の発音に基づいた点と異なる。ただ、第2次大戦中に運動はほとんど途絶えた。(二木 1994: 117)@戦後は言語名をインテルリングェ(Interligue)として、スイスを本拠地として、細々と宣伝活動を続けた。支持者達のかなりが1951年の新インテルリングァがより自然言語的との理由で、そちらに移行した。(二木 1994: 118)@Von Wahl がエストニア人だったので、スラブ的なものに嫌悪感を示したのでは、それゆえにエスペラントの持つスラブ的要素を排除しようとして、Occidentalを作り上げた。(Donald 1997: 15)

1922年:アメリカ人M.L.ビーティが「コースミアニ」を発表した。(二木 1981: 159)

1922年:イタリア人センプリーニが案を発表した。(二木 1981: 159)

1923年:世界イード協会の名簿には約4000人の名が並んでいた。(二木 1981: 149)その多くはエスペラントから移ってきたものたちだったが、頻発するイードの改造騒ぎに閉口して、大部分は、エスペラントに戻っていった。(二木 1994: 101)

1923年:ドイツのイディストであるE.ヴェファリングがウネザルを発表した。(二木 1981: 160)

1923年:ローマの占星術師で神秘主義者のA.ラヴァニーニは「ウニリングエ」1925年に「モナリオ」という2案を発表した。(二木 1981: 160)

1924年:F.G.コットレル博士の提唱により、ニューヨークの二人の金持ちの財政的援助を得て、IALA(The International Auxiliary Language Association)が誕生した。(二木 1981: 180)@補助語の問題を科学的に解決しようとして、24年に設立され、51年に一応の結論に達した。この協会では、規則性か自然性か、議論したが最終的には自然性を重んじることとなった。事実インテルリングァは自然語であるとの印象を与えた。もっぱら有力な文明語に共通な一万語を基礎にしている。インテルリングァには最大限に現実の言語生活に近づけていることが感じられる。(ビユルネー 1964: 117f)

1927年:ペアノはインテルリングァのアカデミーの機関紙の発行を取りやめた。会員数はこれまでの最高の400人に達した。(二木 1981: 132)@会員の中には、オクツイデンタルやノヴィルに移るものが続出した。しかし、ペアノの言語思想はその後のIALA(国際補助語協会)の新インテルリングァに引き継がれた(二木 1994: 114)。

1927年:ドイツのイディストであるJ.ヴァイスヴァルトはアジア人にも学びやすいヨーロッパ・アジア語の創造を志し、協力者を募ったりした。(二木 1981: 155)

1927年:チェコスロヴァキアの牧師H.ミルネルは「コスマン」を発表する。これは語彙の30%を中国語、アラビア語、ヒンズー語から取っている。残りの70%はヴァールの新ラテン語案オクツイデンタルから取っている。(二木 1981: 161)

1928年:チェコスロヴァキアのクンストヴニ博士が新ラテン語の草案を発表している。(二木 1981: 162)

1928年:ソ連のエスペランチストであるL.I.ヴァレンスキーが「ウニヴェルサル」を発表した。(二木 1981: 82)

1928年:イエスペルセンによる「ノヴィアル」、「ノヴァム」が発表された。(二木 1981: 162)@エスペラントをドイツ語・英語的要素を大幅に取り入れることで、改造しようとした。(イードはエスペラントをロマンス語的要素を取り入れることで改造しようとしたことと対比される。)この言語案は世界的な言語学者イエスペルセンの考案したことということで、かなりの注目を集めた。しかしその英語・ドイツ語風の要素がラテン語的な国際語を求める風潮に合わず、やがて支持者は減っていった。(二木 1994: 120)@as an attempted compromise between the schematic languages (Esperanto and Ido) on the one hand and the “naturalistic” languages (Occidental) on the other. … The Ido journal Mondo (editor: Per Ahlberg) was renamed Novialiste from 1934, and served as the official Novial journal and organ of linguistic discussion. … A Lingue-Jurie Novialisti was formed in 1937, and made some reforms. I am sure that Novial did have enough support during 1928-1939 that we can say it had a movement. But, unlike Ido, Novial was it seems killed off by WW2. Jespersen’s death in 1943 may also have contributed to its demise. (Donald 1997:17)

?:フランス人G.トフレによる「ノヴァム」が発表された。(二木 1981: 164)

?:ウルフ(Benjamin Lee Whorf)は Standard Average Europen を構想する。この「ヨーロッパ語」または「西洋語」は発明できるのではなくて、「発見」されるものである。組み立てられるのではなくて、むしろ抽出されるものである。(ビュルネー 1964: 115)

1929年:ドイツ人J.ジュステンがモンディクを発表した。(二木 1981: 165)

1930年:フランスのG.O.ダルヴが「ロマングレ」を発表した。(二木 1981: 166)

1930年前後:イディストの国際連盟の会員数は数百名である。(二木 1981: 150)

1930年:オグデン(Ogden)とリチャーズ(Richards)がBasic English を発表した。(二木 1981: 199)@単純化された英語、または「英語を基礎にした哲学的言語」である。その語彙は850に切り詰められている。動詞の数を18におさえてある。(come, get, give, go, keep, let, make, put, seem, take, be, do, have, say, see, send, may, will) その目的とすることは、最小の語彙で「出来るだけ広範な表現領域をカバーすることである。」(ビュルネー 1964:87)

1933年:ソーンダイクとH.S.イートンによるコロンビア大学における人工言語の教育実験がIALAの手によって『言語教育』として出版された。(二木 1981: 180)

1933年:IALAはスイスの言語学者A.デブルンナーを議長として、新しい人工言語の創造を行なうことを決めた。(二木 1981: 181)@その語彙は、国際的な語彙と簡単で規則的な構造をもつものであること、という基本原則が確認された。新インテルイングァは1951年に発表されたが、基本原則とはことなる混乱に満ちたものであった。(二木 1994: 122)

1937年:オーストリアの社会学者オットー・ノイラートが国際絵文字言語「アイソタイプ Isotype」を提案した。これは統計グラフや建物などの標識として広く使われた。(二木 1994: 63)

1939年:IALAのセンターがリバプールからニューヨークに移る。(二木 1981: 181)

?:H.G.Welles ウエルズは紀元2000年ごろには英仏の言語的共同支配になると予言している。(ビュルネー 1964:82)

1943年:東北大学の土居光知教授がベイシック日本語を発表している。(二木 1981: 200) @土居光知(1886-1979 英文学者・国語学者)が800の漢字と1100の言葉を基礎として「基礎日本語」を考え出した。(渡辺 1983:72)

?:チェコ系アメリカ人のA.E.ズイデクはスラブ系の450の基本語を土台として、人工語「スロヴァン語」を作り上げた。(二木 1981: 202)@その他のスラブ共通語については、→(二木 1981: 200)

1945年?:チャーチルがBasic English を支持する発言をして、イギリス政府がその版権を2万3000ポンドで買収してから、にわかに注目を集めるようになった。(二木 1981: 200)

?:フランスのストラスブール大学のG.グッゲンハイム教授がベイシック・フランス語を発表した。(二木 1981: 200)

1951年:新インテルリングワ(二木 1981: 166)@ゴードがIALA内で、強い影響力を持ちインテルリングワを一人で作り上げてゆく。これは有名なウォルフの仮説によって作られた言語である。(二木 1981: 182) @インテルリングワの原則が説明されている、面白い→(二木 1981: 183)

1951:二言語世界(Monde bilingue)が設立されて、英仏の2大言語により、バベルの塔の問題を解決しようとした。その計画は、英語国民は全ての小学校からフランス語を習い、フランス国民は同様に英語を習う。第三国は英仏のどちらかを選ぶ。こうすれば、多くの国で相互理解が容易になるであろう。(ビュルネー 1964:82)

1952年:ジャン・カペル(Jean Capelle)によって、ラテン語を復活させようとの試みが取られた。ヴィタ・ラティータ(Vita latina)である。56年9月にアヴィニヨンで第1回目、59年9月に第2回目のリヨンで国際会議をおこなった。(ビュルネー 1964:94f)

1950年代後半:appeared: James Cooke Brown’s Loglan. Loglan is a language that in many ways harks back to the older a priori languages, not to the “naturalistic” projects that have characterized language construction in this century. … Originally, it was created as a shake-and-bake tongue from the five most spoken languages in the world (Chinese, English, Hindi, Russian, Spanish); … A minor Loglan movement, encouraged by a widely read article about the language, developed in the sixties and, to some degree, persists even today. (Harlow 1998: 21-22)

1960年:オランダの数学者、ハンス・A・フルーデンタールが言語「リンコス」をつくる。これはたの銀河系に住民がいたら、それと交信できるようにとの目的で作られたものである。(エーコ 1995:435)

1961年:ベルギー系イタリア人A.アルファンダリが「ネオ」を発表した。(二木 1981: 166)@ベルギー人 Arturo AlfandariがNeoを発表する。これは組み立て語(constructed language)であり、エスペラントの類型に属する。(ビュルネー 1964: 121)@Neo, invented by a Mr. Arturo Alfandari of Belgium. … Neo was born full-blown, complete with beautiful little dictionaries, grammars and readers bound in red plastic. Mr. Alfandari and the Hardins founded an organization, Friends of Neo, and it looked for a while as though Neo might be a major competitor to the declining Interlingua, if not to Esperanto. But Mr. Alfandari died, and Neo died with him.(Harlow 1998: 24)

1971年:デザイナー大田幸夫(幸夫)氏が「ロコス」(LoCoS — Lovers Communication System) は読み、書き、話すことが可能な、国際コミュニケーション用の言語を目指した野心的な言語案である。ロコスはアイソタイプに比べて大幅に図案化が進められているために、漢字と同じように書くことができる。(二木 1994: 63)

1972:One interesting constructed language of this period was Interglossa. Interglossa was created by Prof. Lancelot Hogben of Great Britain, who is best remembered in the United States for such works of scientific popularization as Mathematics for the Millions and Science for the Citizen.
Hogben attempted to fuse two completely distinct linguistic traditions by creating a tongue whose vocabulary consisted entirely of roots from Greek — presumably a part of the common linguistic heritage of the west — but whose grammar was syntactically borrowed almost en bloc from Chinese.(17) Very few people followed up on this invention, and the language fell into desuetude for a quarter of a century. Then, in 1972, it was given a second chance when Ronald Clark in England discovered the language, decided that with some slight modifications it could be turned into the perfect international language, and — after obtaining permission from Hogben, and with the help of a second English enthusiast, Wendy Padbury — began to modify the language, renaming it Glosa. (Harlow 1998:18)

?:多くの視覚的アルファベットが提案されている。ブリスの「セマントグラフィー」、エッカルトの「サフォ」、ヤンソン「ピクト」、大田幸夫「ロコス」があげられる。ミラン・ランディッチの「ノーベル」では、2万の視覚的項目があらかじめ規定されて、それらをさまざまに組み合わせることができるようになっている。(エーコ 1995:255)

1985: Occidental survived the World War, and endured in straitened circumstances into the 1950’s; but eventually it disappeared, its remaining adherents attracted away by yet another variant of reforms. In 1985 Occidental’s last periodical, Cosmoglotta, ceased publication, and its editor, Mr. Adrian Pilgrim, is quoted as having described Occidental as a “dead language.” (Harlow 1998:16)

1989: 新インテルリングァについて a rump Interlingua movement still exists today — a Union Mundial pro Interlingua operates out of the Netherlands, and an international Interlingua conference held in that country in 1989 attracted about fifty people — but publicity for the language seems to have dried up, (Harlow 1998: 21)

1996年:チェコのプラハで開かれた第81回世界エスペラント大会でプラハ宣言が出される。

1997: As of early 1997 a few individuals on the internet are engaged in attempting to revive Novial; the title of this section is linked to the Web page of one of them. As is usually the case in such attempts, the would-be revivers are also attempting to modify the language to clean up what they consider to be the errors made by the original creator. (Harlow 1998:18)

文献
Harlow, Donald J. 1998. “How to Build a Language,” in Internet: http://www.dl.ulis.ac.jp.
文献

ウルリッヒ・リンス(来栖継訳) 1975. 『危険な言語』 岩波書店
ピエール・ビュルネー(和田祐一訳)1964. 『国際語概説』 東京:白水社
リチャード・ウイルソン(渡部昇一、土屋典生訳)1981. 『言語という名の奇跡』 東京:大修館書店
ジョスリン・ゴドウィン(川島昭夫訳) 1986 『キルヒャーの世界図鑑』 東京:工作舎
伊東三郎 1950 『ザメンホフ』東京:岩波書店
大島義夫、宮本正男 1987 『反体制エスペラント運動史』 三省堂
風間喜代三 1978 『言語学の誕生』 岩波書店
風間喜代三 1993 『印欧語の故郷を探る』 岩波書店
田中克彦 1996 『名前と人間』 岩波新書
田中克彦、山脇直司、糟谷啓介(篇) 1997. 『言語・国家、そして権力』 東京:新世社
田中宏幸 1992 「語彙の国際化と国際共通語彙」『金沢大学教養部論集・人文科学篇30-1』 pp.79-100
浜田ゆみ 1997. 「エスペラント運動はなぜ中国で成功したか」 in 田中克彦、山脇直司、糟谷啓介(篇)pp.336-354
渡部昇一 1973.『言語と民族の起源について』 東京:大修館
渡辺武達 1983. 『ジャパリッシュのすすめ』 東京:朝日新聞社
Large, Andrew (水野義明訳) 1995. 『国際共通語の探求』 東京:大村書店
二木紘三 1981.『国際語の歴史と思想』  東京:毎日新聞社
二木紘三 1994.『国際共通語の夢』  東京:筑摩書房
ジェイムズ・ウルソン 1993. 『英仏普遍言語計画』 東京:工作舎
エーコ、ウンベルト 1995. 『完全言語の探求』 東京:平凡社
マリナ・ヤグェーロ 1990. 『言語の夢想者』 東京:工作舎
Harlow, Donald J. 1997. How to Build a Language. Internet http://www.webcom.com/~donh/conlang2.html

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。