トーマサイツ(フィリピン)

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アメリカ統治時代のフィリピンの教育とトーマサイツの役割

 

はじめに

フィリピンは20世紀の初頭から半世紀ほどアメリカの植民地であった。この期間の間に、フィリピンはアメリカから多大な影響を受けたが、それをどのように評価すべきか、さまざまな見解が存在している。フィリピン人の中には、アメリカという国に愛着を抱き、その統治時代に残したものを肯定的に評価しようとする人がいる。アメリカは、フィリピンを、短期間の内に、当時のアジアで最も進んだ民主主義の国に変えていった、とする見解である。アメリカは、1907年には早くもフィリピン人の議員から構成される立法府フィリピン議会を開設して、21歳以上の男子には選挙権を与えた。1946年7月4日にフィリピンは正式に独立したが、ロハス大統領の就任演説は、「寛大な植民地政策を取ってくれた」アメリカに対する感謝の念の表明だった。

しかしアメリカ統治時代を否定的に評価するフィリピン人も数多く存在する。米軍基地の撤廃を主張した人々がその代表となろう。彼らはナショナリストであり、アメリカとの紐帯を断ち切ることによって、フィリピンの真の独立が可能であると主張する。

ところで、半世紀ほどのアメリカの統治の特徴として、植民地政府による教育の重視があげられる。他の植民地支配国に例を見ないほど、アメリカは教育に力を注いだ。当時の植民地の宗主国は、教育は植民地の住民に任せ、支配当局は教育には介入しない傾向があった。しかしアメリカは自国から教師を大量に派遣して、住民の教育に直接関与して、普通教育を広めた。教育がアメリカの影響のもとに、組織的に運営されたことは、その後のフィリピンの世代に、多大のアメリカの影響を与える結果となった。

このアメリカの教育制度はどのように評価すべきであろうか。スペイン統治時代は、一般大衆は教育を受ける機会に恵まれなかった。まがりなりにも教育が普及したのはアメリカの功績による。当時のアジアの国の就学率を見るならば、ビルマでは3.3%(1900年)、インドネシアでは1%(1907年)に対して、フィリピンでは7%(1907年)である(May 1984:123)。アメリカの統治わずか数年にして、フィリピンは他植民地と比較して高い数値を示していた。

しかしアメリカによる教育を否定的に捉える人もいる。その代表として、フィリピンの思想家コンスタンティーノの名前を上げることができる。彼によれば、普通教育は、アメリカ軍の平定作戦の一環として実行されたのであり、軍事作戦の補助として教育が存在したのである。当時英語教師1人は米軍の1個中隊に匹敵する働きをしたとさえ言われた。コンスタンティーノはアメリカによるこれらの教育を「えせ教育miseducation」として痛烈に批判している(Constantino 1982)。

これらの様々な評価のある教育を実際に担ったのは、アメリカから送り込まれた1,000人ほどの若い教師たちであった。彼らは主として輸送艦トーマス号により派遣されたので、一般にトーマサイツと呼ばれている。本稿の目的はフィリピンにおけるアメリカの教育を、これらトーマサイツ達の役割に触れながら、考察しようとするものである。

本稿の構成は、(1)はじめに、スペイン時代の教育について触れ、(2)次に、トーマサイツ達の到着する前に短期間ではあるが、教師の働きをした兵士達について述べる。(3)それから、アメリカによる当時の教育政策の中心となった人物であるアトキンソンとバローズについて述べる。(4)そしてトーマサイツ達について述べ、(5)最後に、英語とアメリカ文化の普及の意味について考察してみたい。

1.スペイン支配時代の教育

フィリピンはスペインの統治を3世紀にわたって受けた。植民地支配により、アメリカは学校を残し、スペインは教会を残したと、よく言われるが、スペインの統治は宗教に相当の重点を置いていた。教育については、カトリックの教団が神学の研究を主体にした教育研究機関を17世紀初頭から設立しており、1601年にサン・ホセ大学、1611年にはサント・トマス大学が創立された。このサント・トマス大学はアジアで最も古い総合大学となった。植民地政府は教育を支配層であるスペイン人やメスティゾ(混血児)にのみ限定し、彼らを植民地機構で働く有能な官僚や司祭として養成するために、主に高等教育を整備していった。

初等教育が整備されてくるのは、かなり後のことである。1863月に本国スペイン政府は教育令を布告し、7才から12才までの児童の教育が義務づけられるようになった。各町村に少なくとも、一校ずつ男子と女子の小学校が設立されることになり、同時にフィリピン人の入学も認められることになった。しかしこの国民教育制度は財政難のために、なかなか進展しなかった。1896年の時点でフィリピン全土に2,167の小学校が存在したが(Lardizabal 1991:39)、そのカリキュラムはスペイン語での読み書きと、カトリックの教義の暗唱を中心としたものであり、フィリピン人の児童にとっては退屈な内容であり、退学率も高くあまり教育的な成果はあがらなかった。

 

2.アメリカの到来

キューバにおけるメーン号の爆破事件をきっかけに、1898年4月20日、米西戦争が勃発した。デユーイ提督のアメリカ極東艦隊が、5月1日にスペイン艦隊をマニラ湾にて打ち破り、アメリカのフィリピン支配が始まった。アメリカから遠く離れ今までは何ら利害関係のなかったフィリピンをアメリカが所有しようとすることはきわめて異様であったが、1898年12月21日、アメリカのマッキンリィー大統領は友愛的同化宣言 (Benevolent Assimilation Proclamation)を発して、フィリピン保有の説明をおこなった。その中で、アメリカのフィリピン統治は利己的目的ではなくて、フィリピン住民の発展・開化・教育をめざし、自治の訓練を与えるためである、と述べている。

1899年3月4日に、コーネル大学総長シャーマン博士を委員長とする第一次フィリピン委員会が米国から到着した。彼らの任務は、統治の準備のために、フィリピンの実情の調査であり、教育の可能性の調査も含まれていた。1900年6月以降はタフトを委員長とする第2次フィリピン委員会が任務を引き継いでゆく。

当初フィリピンはアメリカ占領軍に対して独立を求めて抵抗を試みたが、圧倒的なアメリカの軍事力に破れ、1902年7月4日アメリカ大統領ルーズベルトはフィリピンの平定完了を宣言する。以後、フィリピン全体がアメリカの植民地体制の下で、再編成されてゆく。アメリカは民心の懐柔政策の一環として、初等教育の普及をはかり、ここにフィリピン教育のアメリカ化が始まった。

アメリカはスペイン時代の教育制度を受け継がずに、初等教育にむしろ力を注いだ。スペイン時代の教育は、宗教的な要素が強く、教会の支配を受けていたが、この結びつきは、アメリカ統治時代に次第に薄められてゆく。

3.兵士の教師

3-1.兵士の教師(Soldier-Teachers)

専門の教師達がアメリカから到着する前、短期間ではあるが、兵士達が、教師の働きをした。マニラは1898年8月13日にアメリカ軍に占拠されたが、それから3週間ほどのうちに、軍は7つの学校を再開した。これらの学校それぞれに、1人の兵士が教師として配属された(Alzona 1932:186)。以降、しばらくの間、兵士達が教師の役割を果たしてゆくことになる。英語を教えることが彼らの主たる任務であった。マニラ地区では、これらの兵士達はすぐに専門の教師達によって代わられたが、地方では、2年間以上にわたって、学校が軍によって運営された所もある(Alberca 1994:56)。

1900年3月30日にトッド(Albert Todd)大尉は(注1)、フィリピン全体の教育を監督する教育総監(Superintendents of Schools) に任命され、公教育局(Department of Public Instruction)を創立し、教育制度の確立の準備を始めた(Alberca 1994:56)。彼は長期的視野に立って、フィリピンの教育政策を考え始めた。それは中央政府の監督下にある統一的な教育制度、教育と宗教の分離、教育の義務教育化、英語の使用、師範学校の創立などであった。トッド大尉は、同年11月5日、フィリピン委員会への報告の中で、学校教育は英語で行うこと、スペイン語や地方語の使用は一時的なものにすること、児童の出席を強制すること、師範学校を創立すること、本土から教師を派遣すること、などを勧告している (Bernabe 1987:25)。

 

3-2.兵士の教師の数

彼らが活躍した1898-1901年の間に、何人の兵士が教師として従事したか定かではない。その数に関して、Alberca (1994:57)は、3つの資料を紹介している。(1)教育局長の1915年年次報告(The 1915 annual report of the Director of Education)では790人としている。(2)ブラウンは、地方の様々な町に、200人以上の兵士が教師として派遣されたと報告している(注2)。ただ肝心のマニラについては記述がないので、フィリピン全体の数は不明である。(3)タフトは、少なくとも一人の教師をそれぞれの町に派遣したと述べているので(注3)、当時約1,000の町があったので、およそ1,000人の兵士が教師として従事していたことになる。

Lardivazal(1991:42)によれば、1900年9月1日の時点で、軍政府は約1,000の学校を全土に開設した。マニラだけで41の学校があり、そこに5,000人以上の児童が通っていた。授業は午前の7:30-10:30 と午後2:00-5:30の2回開かれた。また実験的に成人のための英語学校が週3回午後7:30-9:00に開かれたが、そこには入学志願者が殺到したと言う。

 

3-3.兵士の教師の評価

彼らはどのように評価されるべきであろうか。教育的な観点から見ると、必ずしも満足すべき効果を上げたとは思われない。彼らは教師としての専門的な訓練を受けたこともなく、教授法に関してアドバイスを受けようにも、尋ねるところはどこにもなかった。子供たちも生まれて始めて授業を受ける場合が多く、クラスごとに編成されることもなく、あらゆる年齢の子供たちが同じ教室で同じ授業を受けるありさまだった。粗末な小屋の中に、大勢の児童を詰め込み、教授法も確定されてなく、教科書は、あったとしても、スペイン時代の粗末な印刷の宗教色の濃いものであり、子供たちには到底魅力あるものではなかった(May 1984:79)。兵士達の教授法は、事物や絵を見せたり、直接動作を示して、それに該当する英語を教えてゆく方法(object-action method)であった。この方法はトーマサイツ達にも引き継がれてゆく。

Alberca (1994:57)は、問題点として、彼らは兵士であるので、出動のたびに、教師としての仕事は中断されたこと、所属部隊の移動により、人員の交代が頻繁だったことを指摘している。しかし、彼は評価としては(p.57)、「授業を行う準備をする時間もなく、当時の不安定な環境のもとにも拘わらず、たくさんのアメリカ人の兵士達が驚くほど良くその任務を果たした」と述べている。このアメリカ人兵士=教師たちの仕事は次のトーマサイツ達に受け継がれ、相当の成果を上げてゆく。結局のところ、彼らの存在意義は、次に来る本職の教師たちへの橋渡しとなったことである。

トッド大尉はフィリピンの将来の教育について構想をまとめたが、彼はすぐに交代となったために、その考えを実行する機会はなかった。しかし、後任者達が彼の考えの多くを実現したので、その意味で、トッド大尉はフィリピン教育の草案者の1人ということになろう。しかし、これらの兵士による教育は、軍事行動の一環として実施されたものであることも看過すべきではない。トッド大尉自身も「兵士による教育の目的はフィリピン人の教育と言うよりも、むしろ住民の懐柔と治安確保が目的である」と軍の報告書の中で認めている(May1984:79)。

兵士が教師の役割を果たしたことは、教育と民主主義の普及と言う側面と軍事治安行動としての側面の二つがあったが、これは次のトーマサイツ達にも当てはまる。

 

4.F. W. アトキンソン

トッド大尉の後をアトキンソン(Fred W. Atkinson)が引き継いだ。彼は教育の専門家として、フィリピン委員会より教育総監(General Superintendent of Public Instruction)に任命され、1900年7月の終わり頃にフィリピンに到着した。教育条件の整備のための調査を始め、翌1901年にアトキンソンはトッド大尉から仕事を引き継いだ。彼はさまざまな教育政策を企画実行した最初の人物であった(注4)。当時は、まだ兵士が教師や監督官として数多く、配属されていたが、徐々に専門の教師たちと交代してゆく。

アトキンソンの現地調査による報告と提案に基づいて1901年1月21日に、フィリピン委員会は教育条例74号(Educational Act No.74)を制定した。内容は無償の義務教育としての初等教育制度(第1ー4年)の設立、男女共学、教育行政の中央集権化、教育から宗教の除外などである。また教育局(Bureau of Instruction)が教育省(Department of Instruction)の1局として創立された。副総督(Vice-Governor General)が教育省長官を兼任し教育上の全責任を負うことになった。40の行政区に全土が分けられ、それぞれ州監督官が置かれ、その下の各学校区において監督官が置かれ学事を管理することになった(注5)。トーマサイツに関して言えば、同法は約1,000人のアメリカ人の教師のフィリピン派遣を承認し、そのアメリカ人教師の月給は$75~$125とし、交通費等を含めて、それらはフィリピンの国庫から支出されることになった。教授言語と兵士の教師に関しては、同法の14項に述べられている。そこでは「英語は、実現可能な限り速やかに、あらゆる公教育の基礎とする、また兵士たちは訓練された教師によって交代される時まで、教師としての任務につく」とある。

アトキンソンは二年あまり在職したが、その間に4回ほど新たな学習指導要領を作成した。最後の指導要領は「Suggestive Course of Study」と称し、初等教育4年間の教授項目を示したものである。ただこれは、実際はマサチューセッツ州の小学校のカリキュラムと実質的には変わりはなく、フィリピンの実情にふさわしいとは言い難かった。またアトキンソンは本国へ教科書を発注したが、これは合衆国では人気があったBaldwin Readersであるが、フィリピンの実情とはかなりかけ離れたものであった(May1984:88)。その内容は、フィリピンの子供達が、一度も見たことがないもの、吹雪や氷、リンゴや梨、熊や狼や、異国の偉人であるリンカーンやジェファーソンの話であり、とうてい子供達の興味を引くことはできなかった。

アトキンソンの努力にも拘わらず、教育の効果はなかなか挙がらず、1902年暮れにはフィリピン総督のタフトは彼を解雇した。

 

5.D. P. バローズ

アトキンソンあとを受けて、ブライアン(Elmer Bryan)が引き継いだが、病気に倒れ、バローズ(David P. Barrows)が職を継ぐ。彼の在任は1903年から1909年までの6年間であった。彼の教育政策の特徴としては、伝統的な教育を重視して、読み・書き・計算という基本的な教育に中心を置いた点である。

May(1984: 99-100)によれば、彼は1903年度から、3つの大きな教育制度の改革を行った。その一つは、初等コースを4年から3年へと短縮することであった。バローズはより多くのフィリピンの子供に教育をと考えたのであり、従来の教育制度では30万人の児童しか教えられないが、この改革によりその数を40万人まで拡大することを目標とした。1904年に初等教育が正式に組織化(その当時まで学年分けをしていなかった)され、初等コースは3学年、中間コースは3学年となった。第2の点は、彼はアメリカ人教師とフィリピン人教師の役割を変えたことである。1904年から、初等教育はフィリピン人教師が担当するようになり、アメリカ人教師はもっぱら学区の監督と、中間学校、中等学校、職業学校の担当となった。第3の点は、授業内容を大幅に簡素化したことであった。従来の内容は過重負担であったが、適切な量に減らした。

さらに、教科書は、フィリピンの実状に合った教科書へと変わった。登場人物たちの名前はMaria, Juan, Manuel, Rositaとなり、取り扱う内容はマンゴー、ココナツや水牛、田んぼとなり、挿し絵はマリアとフアンが裸足で学校へ行く姿や、タコを作ったり犬と遊んでいる場面となった。

バローズの教育政策は一定の効果を上げたが、彼は自分の反対者のフォッブスがフィリピン総督就任の予定であったのことと、カリフォルニア大学の教授の職を提供されたこともあって、1909年12月にその職を去った(May1984:111)。

次に、ホワイト(Frank.R.White)が教育局長の職を受け継いだ。彼の時代に、公立学校での英語の徹底的な使用が始まり、教室内でのフィリピン語の使用は禁止されるようになった。

 

6.教授言語の選択

現在のフィリピンの社会は、英語とフィリピンの言語との二言語併用状態である。これは、教授言語を英語とすることがアメリカ植民地支配の初期に定まったことによる。教授言語が英語に定まってゆく経緯を見てゆきたい。

1900年に、マッキンリー大統領は第2次フィリピン委員会へ教書を送る。この教書の最後の箇所で、無料の公教育をフィリピンに樹立することと英語を教授言語とすることが指示されている。

 

This instruction should be given in every part of the Island in the language of the people. In view of the great number of languages spoken by the different tribes, it is especially important to the prosperity of the Islands that a common medium of communication may be established, and it is obviously desirable that this medium should be the English language. (Zaide 1990:278)

 

1901年に教育総監になったアトキンソンは教育条件の整備のための調査を始めた。彼はフィリピンの言語による教育に傾いていたが、トッド大尉と第1次フィリピン委員会のメンバーは英語の使用を推奨し、戦争長官ルーツの指示はその中間(低学年はフィリピンの言語で、次第に英語を使用するとの案)であった(May1984:83)。

ところで、各地の軍の指揮官からの報告では、住民の大半は英語を学びたがっているとあった。これらの軍の報告を受け、次第に、アトキンソンは、住民の各言語は統合されて行く様子は見えず、住民の言語の中には書記法を持たない言語があり、フィリピンの言語による教育は難しいとの認識に達している。さらには、フィリピン語を教授語とすると、教育の場で、膨大な数の翻訳者が必要であり、実際的でないとした。スペイン語で授業を行うことに関しては、人口のほんのわずかのエリート層だけがスペイン語を理解しているので、これまた適切でないとした。彼のこれらの見解はフィリピン委員会も支持することとなり、その結果、教育条例74条のように、英語を授業の言語とすることが決められていった (May 1984:83)。

このように、教育は英語でおこなうことが最終的に定まったが、この決定により、フィリピン児童にとって、学校とはまず英語を学ぶ場所であるとの意味を持つようになった。

当時のフィリピン人の英語に対する態度は、アメリカ側からの資料に基づいてではあるが、英語習得に非常に熱心であったようである。第1次フィリピン委員会は、フィリピンの教育状況の調査をおこない、公聴会を数多く開いたが、その結果、住民は英語教育を切望していると報告している(Bernabe 1987:27)。また、初等教育創立の任を受けたトッド大尉も、住民は英語を学ぶことに熱心であると報告している(Bernabe 1987:25)。フィリピンの知識人パルドゥ・デ・タベーラ(Pardo de Tavera)は1901年5月14日付けのマッカーサー将軍への手紙の中で「我々フィリピン人は全力でアメリカ化を行っており、英語を全土に普及させ、アメリカ精神が我らに植えつくようにしている」とさえ述べている(Constantino1975:243)。

ただ、英語使用の決定はフィリピンのエリート層(イラストラドス)の間では不人気であった。彼らはすでにスペイン語を習得しており、その能力ゆえに今まで社会のエリートの座を維持していたからである。

フィリピンの言語による教育への関心もなかった訳ではなくて、教育局長バローズの時代に、公立学校においては、英語と民族語の間で、授業の言語として、どちらが効率的かアグサーン、マノボス、ブトゥアンの学校で実験が試みられたりした (Bernabe 1987: 37)。

ところで、アメリカ本国では、海を越えての領土拡張に反対する勢力も根強く、英語をフィリピンに押しつけるのは帝国主義的であるとの反対の声が上がる。彼らは民族語での教育を唱え始めて、その影響が次第に広まった。1924年にアメリカのサレイビー(Saleeby)博士はその著書The Languages of Education in the Philippines Islandsの中では、「大衆に基盤を置かない言語は民主主義にふさわしくない...フィリピン人の母国は母語を通してのみ再生が可能である」と民族語での教育を力説していた(Gonzalez 1980:35)。さらには1931年に副総督であり同時に教育長官であるジョージ・ビュート(George Butte)が初等教育での民族語の使用を主張する演説をおこなった。その内容は「授業に用いる言語は9つある主要な民族語の中から、各々の小学校で最も適切な民族語を、授業に用いるべきである」との提案をおこなった(Gonzalez 1980:36)。

これらに対して、フィリピン側からは、かえって英語教育の擁護の意見が出されているように感じる。1936年にマニュエル・カリオン(Manuel L. Carreon)は前述のビュートの民族語使用の演説に触れながら「わが国では言語や方言が無数にあるので、教育の場では、やはり一つの共通語を選ぶ必要がある」と英語教育の必要性を力説している(Frei 1959:61)。

 

7.トーマサイツ

7-1.その人数

1901年6月に、48名の教師が輸送艦シエルダン号(Sheridan)にのってフィリピンに到着する。また、同じころ、ほぼ同じ人数の教師がビュフォード号(Buford)にのって到着した (May 1984:85)。さらに、同年8月23日に509人(その内訳は男368名、女141名)のアメリカ人教師が陸軍の輸送艦トーマス号でマニラに到着する(注6)。彼らは、二十歳代前半の若い男性と、それより若干年上の女性から構成されていた。トーマサイツ達の約3割は女性で占めている。このトーマサイツ達の学歴は高く、カリフォルニア大学、ミシガン大学、ハーバード大学、イエール大学といったエリート校出身者が数多く見られた(Lardizabal 1991:144-8)。彼らは輸送艦トーマス号の名にちなんで、トーマサイツと呼ばれたが、やがて、その頃フィリピンに到着したアメリカ人教師全員がトーマサイツの名で総称されるようになった。Alberca (1994:54)はトーマス号から名前が付けられた理由として、トーマス号以外の輸送船として、ビュフォード号(Buford), ドーリック号(Doric), ミード号(Meade), シャーマン号(Sherman), シエルダン号(Sheridan) の5隻がアメリカ人教師の輸送にあたったが、トーマス号がその当時太平洋にあった輸送艦の中で、最も大きく、一番の高性能だったので、その名前が付いたと推察している。

アメリカ人教師の数であるが、1901年に889名、翌年に928名というピークに達した。それから徐々に減り 1916年には 467名になっている(Lardizabal 1991:65)。その後の数については資料が手元にないが、おそらく漸減していったと思われる。

フィリピン人教師をできるだけ早急に育成する政策もとられ、フィリピン平定の年(1901年)には、早くもマニラに師範学校が開設された。その卒業生は順次アメリカ人教師に置き換わってゆく。それにつれ、アメリカ人教師は地方の監督官や教育監督官といった管理的な職務へと配置転換されていった。

7-2.その採用

このトーマサイツ達はどのように採用されたのであろうか。選択権はフィリピン人にはなくて、植民地政府にあった。教育総監アトキンソンがアメリカ人教師の任命者となった。他薦自薦の志望者がかなりいたが、May (1984:85)によれば、アトキンソン自身が半数ほどを決めて、他の半分を各地の学長に依頼したとしている。Lardizabal (1991:6)によれば、アトキンソンは本土の師範学校や大学の学長に人選を依頼した、例えば、カリフォルニア州ではチーコウ州立師範学校、サン・ディゴウ州立師範学校、スタンフォード大学、カリフォルニア大学の学長達に連絡をとった。アイオワ州では州教育総監、州立師範学校やアイオワ大学の学長というコネを頼って推薦を依頼した。

応募者の数であるが、8,000人ほどの志願者がいて、そのうちの80人は除隊した兵士たちからであり、残りはアメリカ本国からであったという(May 1984:85)。志願者たちはいろいろな条件を満たす必要であった。Alberca (1994:55)によれば、(1)師範学校か大学の卒業者であること、(2)2年以上の教職の経験があること、(3)2通の人物保証書があること、(4)試験である程度の成績をおさめること、(5)健康診断書で健康が保証されていること、であった。

 

7-3.待遇と環境

彼らは、どのような理由で応募したのであろうか、May (1984:85)は給与の高さがその主たる理由であったとしている。1900年のアメリカでは、地方勤務の男子教師の月給は$54、女子教師が$40であり、都会では、男が$138であり、女子は$62であった(May 1984:85)。フィリピンで働くアメリカ人教師の給与は、フィリピン委員会の定めた法令74条により、月$75~$125と定められていたので、地方勤務者にとっては、本国勤務よりは高い報酬が約束された。

しかし、都会勤務者に限って言えば、例えば、当時の米国マサチューセッツ州での20代前半の小学校教師の月給は、男性教師が平均$137、女性教師が$51であった(Lardizabal 1991:5)。このことから見て、フィリピンで教えるということは、都会のアメリカ人教師にとって、格別金銭的に魅力ある職業ではなかった(注7)。旅費もフィリピンへの往路しか支給されず、3年以上勤務してはじめて帰路の旅費も支給される条件であった。このことから金銭的な理由が主たる理由とは考えづらい。

Lardizabal (1991:15)がトーマサイツ達に、フィリピンへ教えに来た動機を尋ねるアンケート調査をおこなった。回答者は53人で、動機を多い順に上げれば(1)フィリピンの教育に何か貢献したかったから、(2)駐留している軍人の夫・婚約者と一緒に住むため、(3)旅行がしたかったから、(4)何か仕事をする必要があったから、(5)チャンスを見つけたかったから、(6)冒険心から、との順番であった。金銭的な目的との回答は、アンケートに本心から答えたかどうかは別として、とりあえず見あたらない。

このように、色々な動機を持ってフィリピンへやってきた彼らは、当然のことながら、本国とは異なる環境のもとで、戸惑いと苦しみを味わうことになる。当時のフィリピンは「衛生状態はまことに嘆かわしい状態であった。水はマニラ市内でさえ飲むのに危険であった。市民の飲み水を取るマリキナ川は水浴をする人々や洗濯をする人々のために汚染されていた。ごみを収集する制度はまだ確立されてなかった」(Lardizabal 1991:21)とある。また、「一般の大衆の貧困さは目を覆うばかりであり、何処でもそれは見られた」(Lardizabal 1991:24)という経済状態であった。

フィリピンは、当時アメリカ占領軍への抵抗が終結したばかりであり、特に、地方では治安はまだ万全とは言えなかった。そんな地域にも、トーマサイツ達は送られていった。彼らのある者は、伝染病で倒れたり、山賊に襲われて命を失ったりした。

 

7-4.その活躍

公教育局は学習指導要領を作り、授業の指針としてトーマサイツ達に示したが、当初の混乱期にあっては、あまり参考にはならなかった。すべてはゼロからの出発であり、文字通り試行錯誤の時代であった。それは、ふさわしいと思われることは何でも試みてみる自由があった時代でもある。あるトーマサイツの記憶によれば、授業についてのアドバイスを教育監督官に求めたところ、彼の返事は次のようであったと言う(Alberca 1994:61)。

 

Go out into your province, make your own course of study and adapt it to the conditions which surround you.

 

当初は、アメリカから教科書を運び、それをスペイン語に翻訳する予定であったが、住民のほとんどがスペイン語を理解しないので、それらの英語で書かれた教科書をそのまま使用することになった(Alzona 1932: 198)。教科書・筆記用具等は児童に無償で配られた。教科の内容は、一番の重点科目である英語と、読み、書き、算数、英文法、地理、歴史、生理学、理科、音楽、図画、体育、産業教育であった(Alzona 1932: 198)。英語は急速に普及してゆき、1904年の教育総監の年次報告では、初等教育はごく少数の例外を除いては、全て英語で行われているとしている (Alberca 1994:62)。

1904年に初等教育が正式に組織化され、初等コース3学年、中間コース3学年が設けられた。しかし、1907年のカリキュラム改正とともに、初等コースは4学年に延長され、4ー3ー4制となる。当時のほとんどの児童が初等コースの後、学校を去ってゆくので、より多くの教育の機会を与えようと1年間初等コースを延長したのである。このシステムは1940年に財政難のために、4ー2ー4制となるまで続いた。

フィリピン人教師の指導もトーマサイツ達の仕事の一つであった。トーマサイツ達は、毎日少なくとも1時間はフィリピン人の教師(現職教師と教師志望者の両方)に英語と教授法の指導をおこなった(Alberca 1994:58)。フィリピン師範学校では、初期のころの教員は、すべてアメリカ人であった。

 

7-5.その影響

トーマサイツ達は、フィリピン全土にくまなく配置された。1902年時点で勤務地の判明している824名の内、マニラ市内に送られた者は1割以下の75名であり、残りは地方へ送られた(Lardizabal 1991:52)。中にはボントック地方のような首狩り族の住む山奥へ派遣された者もいる。トーマサイツは6~10歳の児童に教えたために、その影響は全人格的で生涯にわたり持続した。また彼らは一般大衆の中に入り込み、地方の町や村での唯一のアメリカ人であることが多かった。彼らはアメリカ式の男女平等、人種の平等、市民権、勤労、時間厳守、衛生等の概念を教え広め、町や村の政治に数々の助言を与えた。

児童達の授業態度に関しては、最初の年は規律の確保に精力のほとんどが費やされた(May 1984:94)。当初子供達は自由に教室に出入りして、遅刻・早退は何ら違反行為とは思っていなかった。アメリカ人教師が時間厳守の習慣を教え込むことにより、子供達の態度も変わっていった。そのことのなごりが現在のフィリピン英語に残っている。現在のフィリピン英語では、Tomorrow you should come here on American time.(明日は君はアメリカ式の時間で来なければなりません)という表現があるが、この場合の「アメリカ式の時間」とは、きちんと時間通りに来ることである。American time との表現はそのことの名残である。

アメリカは産業教育の導入にも積極的であり、アトキンソンやホワイトの時代はその傾向が強まった。1908年には、教育局は産業教育を初等コース、中間コースの必須科目とした (Alzona 1932: 245)。伝統的にフィリピン人は、農業や工業のように自らの体を使う職業を軽蔑し、教育とはそのような卑しい職業から抜け出るための手段とみなされていた。農業や工業のような産業教育はなかなか広まらなかった。

そんなフィリピン人に、アメリカ人教師の労働への態度はカルチャー・ショックを与えた。アメリカ人は伝統的に自らの手足を動かすことが好きである。アメリカ人の知事が家族を連れてレイテ島に赴任してきた時、自分の子供を両手で抱えてきたので、大変な驚きを引き起こしたという。フィリピンならば、それは召使いの仕事であるからである(Lardizabal 1991:46)。

トーマサイツの一人が述べている逸話では(Lardizabal 1991:46)、園芸学の授業には、上流階級の子供達は必ず召使いを連れてきて、土いじりになると、召使い達が子供の代わりに鋤や鍬を持ったので、アメリカ人教師達は呆れたという。また当時のフィリピン人教師は、自分の教科書や鞄を、教室から教室への移動の際は、どんなに軽くても助手に運ばせていたという。

このような価値感や態度は徐々に改められ、やがてはアメリカ人教師が黒板を拭いたり、ベンチや机を移動したり、本を運ぶときには、子供達が進んで手伝うようになってきた(Lardizabal 1991:69)。肉体労働への蔑視がスペイン時代と比べて多少なりとも弱まったのは、アメリカ人教師が良い手本を示したことによる。

7-6.直面した問題点

トーマサイツ達は異国で、孤独、ホームシック、環境適応の問題に加えて、様々な問題と直面することとなった。まず彼らは、フィリピンの事情に暗かった。ほとんど予備知識のないままフィリピンへ来たと言うのが実態である。フィリピンのエリートの言語であるスペイン語を理解するものは少数であり、当然のことながら、フィリピンの各言語は彼らにとって、初めてのものだった。言語の問題は彼らがまず直面した問題であった。

また、当初は、フィリピン側の独立運動も根強く、往々にして、軍事行動の再開のために、学校が一時的に閉鎖されることもあった。また市町村が、戦争のために疲弊して、給与の支払が不能となり、満足な校舎や教室の提供ができなかった。

当時のフィリピン社会で、住民の大半がカトリック信者であり、各教区の司祭が強い影響力を持っていた。司祭達は、トーマサイツ達はプロテスタントなので、自分の教区の子供が改宗されるのではと疑い、暗に妨害することもあった。

さらに、児童の親達の理解が十分に得られない場合があった。特に、エリート層は子供たちを、アメリカ人教師の教える公立学校ではなくて、伝統的な私立学校へ送りたがった。その理由としては、スペイン語が当初はまだ有益と考えられていたこと、カトリック教育が好まれていたこと、自分の子供が一般大衆の子供達と接することを好まなかったことが上げられる(May 1984:82)。

フィリピン人の教師との関係も彼らにとって問題点の一つであった。May (1984:94)によれば、トーマサイツ達は、当初のオリエンテーションの時には、授業の大半はフィリピン人教師がおこない、トーマサイツ達の仕事は英語の授業とフィリピン人教師への指導だけであると聞いていた。しかし多くのフィリピン人教師、特に年配の教師は、新しいアメリカ式教授法に適合できずに、昔ながらの暗記中心の方法に固執して、最初の年は、トーマサイツ達が授業の大半を行わなければならなかった。

スペイン時代の授業の中心は、教科書の暗記であった。子供たちも、教室で大声で読みながら、その個所をすべて暗記することが、勉強のすべてとの習慣があった(Alberca 1994:64)。トーマサイツ達はこのような子供たちの意識改革にも着手しなければならなかった。

アメリカ人教師たちにとって、監督官庁である公教育局との関係も問題であった。アトキンソンからの指示が、服装、髪型、マナーに関することまで含めて、あまりに細かいので、トーマサイツ達は大変不満を持っていた(May 1984:87)。

7-7.トーマサイツの評判

これらのトーマサイツ達はどのような人たちであったのか。たいていのアカデミックな研究では、トーマサイツ達は勤勉で、利他的であったとしている(注8)

アメリカ人教師達がフィリピン人の心を掴んだのは事実のようである。歴史家Sturtevant (1976:44)は「トーマサイツ達はたちまちのうちに、フィリピン人たちの尊敬と愛情を勝ち取った」と述べており、フィリピンの言語学者Bernabe (1987:33)は「彼らは学校や大衆の中で献身的に働いたので、たちまちのうちに生徒やその親から、愛情と尊敬を得るようになった」と手放しで賞賛している。また後年トーマサイツ達も当時を思い出して、異口同音「人間関係も素晴らしく、我々はどこへ行っても歓迎された」と述懐している(Lardizabal 1991:59)。

一般に、トーマサイツ達の資質へは、高い評価が下されている。しかし中には、問題とされる教師もいたことは事実である。例えば、トーマサイツの一人であるブレイン・フリー・ムーア(Blaine Free Moore)は1906年まで教師の地位にいたが、教育の場を金もうけの機会としか考えず様々な問題を引き起こした。彼の故郷への両親の手紙には、フィリピン人達への軽蔑、嫌悪感を徹底的に示している(May 1984:95)。また、高慢でフィリピン人を見下した教師の例として、マニラ・ハイスクールのアメリカ人教師メイブル・ブルミット(Mabel Brummit)も悪名高い。1930年に彼女がフィリピン人は「バナナ食いの猿のようなものだ」と侮辱的発言をしたことから、フィリピン人学生たちは一斉に同盟休校に入り、彼女の解雇を要求した事件があった(Sturtevant 1976:218)。

8.英語とアメリカ文化普及の影響

フィリピンにおける英語教育の意義として、フィリピンの国民にとっての共通語をもたらしたことがあげられる。フィリピンでは主要な言語だけで8つあり、言語の数は50から100に達する。この国に各民族が理解できる共通の言語として英語が導入された点は高く評価される。

トーマサイツ達が、フィリピンの児童達に英語を教え始め、学校の隅々まで英語の音声が聞かれるようになった。やがてトーマサイツ達が去り、フィリピン人教師に代わっても、教室では相変わらず英語が授業の言語として使われていった(注9)。教室の英語は学校の外へと広まってゆき、やがてはフィリピンの日常生活に欠かせない言語となった。1904年のフィリピン委員会の報告では、アメリカの統治わずか5年にして、すでに英語がスペイン語よりも盛んに使われていると述べられている(Bernabe 1987:41)。また1906年にはフォービス商業兼警察長官は「フィリピン人は英語の習得に熱狂的であり、地方を旅行しても、スペイン語よりも英語のほうがよく聞かれる」と述べている(Salamance 1984:72)。1918年の国勢調査によれば、10歳以上の人口の314万人中、男性の30%、女性の17%が英語を話す能力があると報告されている(Gonzalez 1980:27)。さらに1939年の国勢調査によれば、1,600万人の総人口のうち、426万人(26.6%)が英語を話せると報告されている(Gonzalez 1980:27)。アメリカ統治後40年ほどで、このように4人に1人が英語を話せるようになった。

しかし、トーマサイツ達の努力により、英語とアメリカ文化の取り入れに成功したゆえに、かえって重大な問題を引き起こすという逆説的な現象が生じた。アメリカ式の大衆教育と英語の普及という目標は見事達成されたがゆえに、長期的にはフィリピンの文化・教育の混乱を引き起こしたのである。そのことについて3点ほど次に述べてみたい。

第1の点として、フィリピンでは自国の言語による文化・教育が現在も不可能になっている実態がある。1946年にフィリピンは正式に独立したが、それ以降も文化的にアメリカと臍の緒はつながっている。その社会は、言語的二元状態が存在しており、野菜市場では民族語、高級百貨店では英語が使われ、漫画は民族語、学術書は英語で書かれるという状態である。これは他のマレー人の国と比較するならば、際だった対照を示している。インドネシアでは独立後、オランダ語は行政・教育の場から比較的短期間で一掃された。マレーシアでは、1970年から徐々に教育の場から英語を自国語に置き換えつつあり、現在マレーシア語で出版された学術書を多く見ることができる。

確かに、スペイン統治下では無知の状態に置かれていた一般大衆が、アメリカ文化という色眼鏡ではあるが、知識を得て世界のことに目を向けることが可能になったことは大きな成果である。しかしながら、主観的にはその国がいくら善意の持ち主であったとしても、他国から教育が押しつけられるという形では、十分な成果を上げないであろう。恩恵として与えられる教育は、結局は支配の強化にしかつながらないであろう。コンスタンティーノは、その著書The Miseducation of the Pilipinoの冒頭で、「経済的な支配からの解放、政治的独立、文化の再生には教育が重要な武器である」と述べている。アメリカから、1946年以降も真の独立を勝ち取れなかったのは、教育が未だに英語とアメリカ文化の影響下にあるからとの見解である。トーマサイツ達が献身的な努力をしたとしても、アメリカの植民地主義との枠内での貢献に過ぎなければ、Estioko (1994:185)の述べるように、トーマサイツ達はフィリピンに送り込まれたトロイの木馬であることになる。

第2の点として、英語教育により、英語が流暢なエリートと大衆との分離を拡大・固定化した面がある。どの社会階層も同じ言語を使っている社会では、階層間の交流や移動が容易であるが、フィリピンでは英語を十分に学ぶだけの資力を持った階層の子弟のみが専門職、実業家、高級官僚につくことができるのである。フィリピンにおける貧富の格差の問題はこの点と関係がある。

第3の点としては、英語運用能力が身についたとしても、しょせんは、第二言語としての言語運用能力であるので、そこには自ずから限界があることである。1925年にモンロー委員会が、フィリピン児童の英語能力を調査したが、その報告では、フィリピンの第4学年の児童はアメリカの児童よりも英語の読みの点で2年ほど遅れているとした。また上級中等学校卒業時の能力はアメリカ児童の第5学年に相当し、その時点で6年の差が生じると報告している(Bernabe 1987:47-9)。また教育効果に関しては、母語と構造体系の全く異なる言語をあまりに早く学ぶことで、知的能力の発展が阻害される面がある。母語による言語体系が確立以前に、全面的に外国語教育を受けることは、自らの言語で思考する権利を奪われることにもなる。

おわりに

アメリカの兵士を運んできた輸送船は、次はアメリカの教師を次々と運んできた。やってきたトーマサイツ達はアジアの「未開」の地に文明の恩恵をもたらそうと真剣であった。使命感に燃えたアメリカの若者たちは、大半は誠実で献身的に仕事をやりとげた。アメリカの青年達が、教育によって、その結果、ある程度、フィリピン人の心を掴んだことも事実である。しかし、その教育が結果として、植民地支配を強固にして、アメリカへ過度に依存する経済、大地主制の温存、アメリカへの頭脳流出など、今日のフィリピンの抱えている様々な問題を生み出す一因になったのも事実である。

もっと大きな問題としては、フィリピン人の民族的性格に根本的影響を与えたという点である。英語教育を通して、感受性の強い時期の子供に、アメリカ文化(大衆主義、物質主義、民主主義、男女平等の思想)を植えつけたことで、フィリピン人としてのアイデンティティが弱められる結果となり、このためにフィリピン人は A Little Brown American (褐色の小柄なアメリカ人)と揶揄されるようにもなった。フィリピン人は人種的にはマレーシア、インドネシアと同じくマレー人の国家であるが、マレー人よりもアメリカ人に親近感を抱くようになった。しかし文化伝統が根本的に異なるアメリカを模倣しようとしても限界がある。やはり自己の伝統にたったアイデンティティを確立していかねばならない。

フィリピンの民主主義は、みずからの力で勝ち取ったものではなくて、上から与えられたとの性格がある。大多数のフィリピン人にとって、ある日突然支配者がスペインからアメリカへ代わり、さしたる必然性もなく、突然恩恵として無償の初等教育が与えられることになった、というのが一般のフィリピン人の受けとめ方であろう。そのために教育に対して、あくまでも受動的な態度となった。もしも教育がフィリピンの伝統的な文化に根ざして発達してきたならば、十分に国益に沿った教育となったであろう。しかしスペイン、アメリカの植民地支配のために、本来のあるべき教育の姿が歪められたのである。今後はこれらの歪みをどのように是正して未来へ志向するかとの点がフィリピン人の課題であろう。

(1)トッド大尉以外に教育に従事した軍関係者として次の人が上げられる。カリフォルニア第1連隊の従軍牧師でマニラの学校の最初の監督官であったマッキンノン神父(Fr.W.D. McKinnon) (Alberca 1994:56)、1899年6月に、マニラの学校の学校監督官に任命されたアンダーソン中尉(George D. Anderson)がいる(Alzona 1932: 186)。

(2)Arthur J. Brown 1903. The New Era in the Philippines. New York: Fleming H. Revell Company.

(3)William H. Taft 1904. The Philippines and the Far East.  New York: Easton and Mains.

(4)May (1984:80)は、彼のことを、The first man to make decisions was Fred W. Atkinson. と述べている。

(5)官僚制度が主としてフィリピン人によって運営されるようになっても、大戦までは教育省の教育監督官(superintendents)と英語指導主事(supervisors of English)はアメリカ人であった。ここにアメリカの教育重視の姿勢がうかがえる。

(6)彼らの人数について研究者によって異なる。Alberca (1994:54)によれば、Muerman’s Philippine Schools under the Americans では503人、Stuntz’s The Philippines and the Far East.では 542人、Roob’s Filipino’s では560人としているという。なおトーマス号の航海日誌はMuerman と同じ数字である。

(7)1905年当時のフィリピン人の小学校教師の給与は月$10前後であったので(Lardizabal 1991:39;117)、フィリピン人教師の給与と比較すれば、トーマサイツ達は10倍前後の給与を得ていたことになる。

(8)May (1984:95,224)は、その例として、次の研究を上げている。Maria Racelis’ Tales of American Teachers in the Philippines ; Muerman’s Philippine Schools ; Lardizabal’s Pioneer American Teachers and Philippine Education

(9)教師と児童がフィリピン人どうしなのに、英語を使うという奇妙な状態は、1957年に、民族語の使用が認められるまで続いた。

 

  文献

Alberca, W.L.  1994. “English language teaching in the Philippines during the early American Period: Lessons from the Thomasites,”  Philippine Journal of Linguistics. vol.25, pp.53-74.

Bernabe, E.J.F. 1987. Language Policy Formulation, Programming, Implementation and Evaluation in Philippine Education (1565-1974). Manila: Linguistic Society of the Philippines.

Constantino, R. 1975. The Philippines: A Past Revisited.  Quezon City: R. Constantino.

Constantino, R. 1982. The Miseducation of the Pilipino.   Quezon City: Foundation for Nationalist Studies.

Estioko, Leonardo R. 1994.  History of Education.  LOGOS Publications.

Gonzalez, A. 1980. Language and Nationalism: The Philippine Experience Thus Far.  Quezon Sity: Ateneo de Manila University Press.

Frei, Ernest J. 1959. The Historical Development of the Philippine National Language.  Manila: Institute of National Language.

Lardizabal, Amparo S. 1991. Pioneer American Teachers and Philippine Education.   Quezon City: Phoenix.

May, Glenn Anthony. 1984. Social Engineering in the Philippines. Quezon City: New Day Publishers.

Salamanca, B.S. 1984. The Filipino Reaction to American Rule 1901-1913. New Day Publishers: Quezon City.

Sturtevant, D.R. 1976. Popular Uprisings in the Philippines 1840-1940. New York: Cornell University Press.

Zaide, G.F. 1990.  Documentary Source of Philippine History. Vol. 10.  Manila: National Book Store.

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