明治のお雇い外国人:グリフィスを中心にして

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明治のお雇い外国人:グリフィスを中心にして

はじめに

過去の時代を振り返るならば、東洋と西洋の間には、さまざまな出会いがあった。19世紀中頃から東洋は西洋の優位性を痛感するようになり、西洋から専門家を招いて、自国の近代化を押し進めようとした。それらの国として、中国、トルコ、タイなどがあげられるだろう。日本もそれらの国の一つに数えられる。日本でも長い鎖国時代が終わり世界に門戸を開いてから、西洋の学術文化を積極的に取り入れ近代化を図ろうとしたのである。その近代化は、他の東洋の国々の近代化と比較して、かなりの成功をおさめた点が大きな特徴となる。

日本の近代化は、首都東京だけの近代化ではなかった。東京に限らず日本の各地において、近代化が進められたのである。そして、その導入の主役を演じたのは、数多く招聘された「お雇い外国人」(注1)であった。お雇い外国人は、東京を中心とする大都市に住むことが多かった。しかし、地方の人々も西洋の学術の移植に熱心であり、地方の藩や県に雇われて、地方都市に住むことになったお雇い外国人もいた。あるいは、当初は地方で働いたが、東京へ活動の中心を移した外国人もいた。フルベッキは、肥前長崎で英語教育に従事したが、明治2年(1869年)に東京へ移っている。本稿で主に取り上げるグリフィスも、日本の地方都市である福井から東京へと活動の中心を移している。本稿ではグリフィスを中心に、お雇い外国人の意義について論じようとするものである。

なお、グリフィスについては、福井市出身の山下英一氏によるすぐれた研究があり、特に福井時代のグリフィスについては、精緻で実証的な研究がある。本稿は、明治のお雇い外国人の意義について論じたものであるが、山下氏の研究を大いに参考にした。

1 お雇い外国人の時代

1―1 西洋が東洋に抱くイメージ
19世紀から20世紀にかけての東洋と西洋の出会いの特徴を示すキーワードとして、「明白な使命」Manifest Destiny、「白人の責務」White Men’s Burden、「オリエンタリズム」Orientalism、「黄禍」Yellow Peril、「高貴な野蛮人」noble savageなどが挙げられよう。これらのキーワードは、西洋の東洋に対する言説が蓄積されてゆき、やがて膨大な体系へと発展しながら、さまざまな固定観念を生み出していったことを示している。お雇い外国人も、西洋社会で育ったがゆえに、大なり小なりこれらの言説の影響を受けていたであろう。彼らにとって、西洋の優位、キリスト教の優越性は自明のことであり、未開の蛮人を啓蒙することは「白人の責務」であると考えて、来日したのかもしれない。

本稿で取り上げるグリフィスだが、彼の抱いていた日本人像とはどのようなものであったか。彼の日本人に対するイメージは、「高貴な野蛮人」であったか、単なる蛮人であったか、あるいは自分と同じ人間であったか。そのイメージは、彼が日本に滞在する間に変わったのであろうか。グリフィス以外のお雇い外国人の場合はどうであったか。この問題は、きわめて興味深い。

グリフィスは、来日前に、ケンペルやイエズス会士たちの記録を丹念に読み、そこから日本についてある程度の予備知識を得ていた(グリフィス1984: 110)。グリフィスが来日を決意した時には、日本について書かれた書籍は少なかった。日本の鎖国政策ゆえに、日本の内実を知るような文献は乏しかったのである。例外的には、江戸時代にヨーロッパ人たちが日本に関する紀行報告を残している。出島の三学者と呼ばれるケンペル、ツュンベリー、シーボルトが、それぞれの時代にオランダ商館長の江戸参府旅行に随行して残した記録がある。片桐(2000: 302)はこれらを「いずれも、臨場感あふれる記述で読者の心を引きつけている」と評価している。たとえば、ツュンベリー(1994: 13)には、次のような記述がある。

地球上の三大部分に居住する民族のなかで、日本人は第一級の民族に値し、ヨーロッパ人に比肩するものである。しかし、多くの点でヨーロッパ人に遅れをとっていると言わざるを得ない。だが他方では、非常に公正にみてヨーロッパ人のうえをいっているということができよう。

グリフィスはこれらを丹念に読んだと思われるが、日本に関する偏見の比較的少ないこれらの文献を読むことで、グリフィスは日本に関して、否定的なイメージよりも、どちらかと言えば肯定的なイメージを抱いたようである。日本に対する肯定的なイメージは、文献だけではなくて、彼の個人的な経験からも裏付けられた。フィラデルフィアにいる時に、横井小楠の甥である横井左平太・太平の兄弟や日下部太郎に語学を教えたことがあり、日本人の中のエリート層に属する優秀な若者と接したことで、日本人に対してある程度は好意的な評価をいだくようになったようである。

ところで、西洋は東洋に対して伝統的に「高貴な野蛮人」というイメージを抱いていた。それは高度に物質文明化された西洋社会の反省から、対立概念として「高貴な野蛮人」という概念を生み出したのである。実証的に高貴であることを発見したのではなくて、西洋社会の矛盾を打破する視点を、非西洋が提供してくれるのではという期待から生じたのである。この概念は伝統的に西洋の知識人に見られるが、グリフィスもその影響を受けているのは間違いないだろう。しかし、グリフィスは日本に来て日本の現実を知ることになる。グリフィス(1984: 111)に次のような記述がある。

日本の住民や国土のひどい貧乏とみじめな生活に私は気がつき始めた。日本はその国について書かれた本の読者が想像していたような東洋の楽園ではなかった。その時はまだ日本についてほんの少ししか知らなかった。

グリフィスが日本に抱いていた肯定的なイメージは軌道修正を余儀なくされたようである。以後彼は、過度の肯定でもなく過度の否定でもない、日本人の本当の姿を見つけようとするのである。そして、未来への大きな発展の可能性を秘めた存在として日本人を評価してゆくのである。その確信を、本国に帰ってから、さまざまな論文や著書の形で発表してゆくのである。

なお、お雇い外国人が日本について論じた本が西洋で広く読まれて、西洋において日本のイメージを作り上げていった点は注目されるべきであろう。東洋に対する長年の言説の蓄積は巨大であり、それに反する新しい見解の一切を窒息させるほどであった。しかし、現地に滞在して、現地の人々と接した人間の報告の持つ意味は大きい。日本に関する従来のイメージの修正が進んだのである。お雇い外国人の報告がその修正の触媒として働いたのである。

お雇い外国人の意義は、第一義的には西洋を東洋(日本)に紹介したのだが、このように、東洋(日本)を西洋に知らせて従来のイメージに修正を加えた面もある。西洋と東洋という互いに双方向からの文化の流れの中に彼らは位置していたのである。西洋から日本へ流れるイメージ、また逆方向に流れるイメージのメッセンジャーとして、お雇い外国人は機能したのである。

1-2 お雇い外国人の選択

お雇い外国人はどのようにして採用・選択されたか見てゆこう。それを見ることで、明治の日本人がお雇い外国人をどのような存在と考え、どのように取り扱ったか明らかになってゆくだろう。

まず注目したいのは、諸学校では盛んに外国教師を雇用したが、彼らは必ずしも教師としての学識を備えた人ばかりではなかった点である。これらの学校は、質の高い外国教師の雇い入れに苦慮したのである。明治の初頭は、外国教師の採用の経験も乏しく、横浜あたりにいる外国人をただ英語が話せるというだけで、高給を払って採用することも多かった。川澄 (1978: 11)によれば、これらの教師の前歴は、商店員、水夫、ビール醸造業者、サーカスの道化役者、屠殺場の従業員であり、在留外国人の間で、開成学校が「無宿者の収容所」と呼ばれていた。グリフィス(1984: 59-60)も、これらの事態に対して、次のような辛辣な言葉を述べている。

日本人は...英語が話せれば誰でも英語が教えられると思っていた。教育を受けた専門の外国人教師は、そういう日本人には喜ばれなかった。そこで東京や横浜からわけのわからぬ者をつれてきた。最初に来た『教師』は飲み屋上がり、兵隊上がり、水兵上がり、書記上がりなどであった。パイプをくわえて教えたり、ばちあたりな言葉を言って授業を切り上げたり、教室で落ち着きがなかったりするのを見ると、日本人はそういう変わったふるまいがその者の国の特性にすぎないと判断した。

 この状況は東京開成学校と東京医学校が合併して東京大学となるころから変わり始める。「英語が話せれば英語を教えられる」という思いこみの間違いに日本人が気づくのにさほど時間はかからなかった。外国教師の選択の方法は、当初は失敗もあったが、次第に方法的に確実なものになっていった。ただ、政府と民間では外国人の採用の際に人物を見抜く能力に差があったようである。一般に、政府が雇用する場合は、外国人スペシャリストの質はかなり高いものであるが、民間に雇われた外国人の場合は、技術者としてはおろか、まったく無教養な詐欺師同然の人物が含まれることがあった(ユネスコ東アジア文化研究センター1975: 19)。

 当初はお雇い外国人は、主として在留外国人から人選したが、外国教師に対する質的要望が高まってきて、専門的な学識を持った外国教師を確保しようとすると、在留外国人だけでは間に合わなくなってくる。明治11年(1878年)にハーバード大学よりフェノロサを招聘した頃から、本国から優秀な人材を招こうとの方針に移行していった(川澄編1978:12)。

本国から外国教師を雇い入れる場合には、外交ルートと個人ルートの二つの経路があった。外交ルートは日本駐在の外交官や在外勤務の日本人外交官が介在する場合であり、個人ルートはすでに雇い入れた外国教師や海外の親日家に斡旋を依頼する場合である(三好 1986:286)。前者の例としては、弁理公使鍋島尚信が憲法と刑法の講義をするのに適当な人物の人選にあたり、フランス人の有識者の意見を聞きながらボアソナアドに白羽の矢を立てたことが挙げられる(大久保 1977:33)。後者の例としてはグリフィスが該当するだろう。

いずれにせよ、外国に依頼して教師を雇った最初のケースは、山下(1979: 62)によれば、ラトガース大学出身のグリフィスの場合である。この場合は、一地方の福井藩が藩校のために教師を求め、フルベッキが仲介の労をとったのである。

外国教師の採用・選択が次第に効率化されてゆくと同時に、教師としての適性も厳しいチェックの目を受けるようになる。教師として不適当と判断された時や、その分野の学術が十分に日本人教師で教授できるようになったと見なされた時は、彼らはあっさりと解雇された。グリフィスの福井時代の同僚のルセーは契約が更新されず、福井を去った。グリフィスは書簡の中で、「私はいまだにルセー氏の教師としての能力と誠実さについてずいぶん聞き捨てならぬ証言を耳にします。」(山下 1990: 33)と述べている。ルセーは日本人の女性と同居していたようであり、あまり教師として適切でなかったことが推察できる。またグリフィス自身も、大学南校での3年契約が終了時に、わずか半年しか期間が更新されず、その点で大いに失望した。後に京都からも教授として招聘されたが、この失望があまりに大きくて、結局は、断って帰国する大きな要因となった。

なお、採用の際には、教師の国籍は当然重視された。明治政府は各分野での学術の最も進歩した国を慎重に見定めて、その国から教師を採用することに心がけた。当時の欧米諸国の得意な分野は、岩倉具綱による「海外留学生規則案」によれば、農学はアメリカ、医学はドイツとオランダ、商学はベルギーとアメリカ、法学はフランス、工学はイギリスと格付けがされており、これらの国から教師が選ばれる傾向があった(三好 1986:77)。全体としてはドイツ、イギリス、アメリカ、フランスからの教師が多くなっている。また中山(1978:44)によれば、一国とだけ特別の関係を結ぶと、植民地支配へとつながる恐れがあるので、さまざまな国から外国人教師を雇い入れて勢力の均衡を図ろう、との明治政府の考えもあったという。

この方針は西洋の列強のバランスを取ると言う点で、当時としては、それなりに巧妙で適切な方針であった。しかし混乱を招いた点もある。陸軍がドイツ式であり、海軍がイギリス式をとった日本軍制が第2次世界大戦の終結に至るまで陸海軍間の非協調をもたらす一つの要因になった点がよく指摘される(ユネスコ東アジア文化研究センター1975: 9)。また民法典の制定に際しては、「法典論争」と称されるフランス法派とドイツ法派の対立もその一例に挙げられるだろう。

1-3 外国教師の人数と活躍した期間
このようにして選ばれた外国教師ではあるが、明治政府は、彼らに恒常的に依存するつもりは毛頭なく、日本人による教師が育つまでの間の暫定的措置と考えた。お雇い外国人の数は官傭外国人に限ってであるが、明治6年(1873年)から8年(1875年)にかけて年間500名を越えてピークをなしたが、明治12年(1879年)以降から減少が目立つようになってゆく(三好 1986:53)。

明治15年(1882年)の文部省「官費海外留学生規則」には、優秀な大学卒業生を留学させて、帰国後お雇い外国人に代わって大学で教える、という方針がはっきり記されている。三好伸浩によれば、日本教育の近代化を計るという外国教師雇用政策の所期の目的は、すでに明治20年(1887年)ごろには達成されたとしており(三好 1986:258)、その頃までには外国教師の必要性はほとんど無くなったようである。明治35年(1902年)第1回日本医学大会の開会式におけるスピーチで、ベルツは開国以来の日本の発展を讃え、「今や日本の医学界はもはや外人教師を必要としない有り様になった次第であります」と述べている(トク・ベルツ 1979:上258)。この頃になると外国教師までもそのことを認めている。幕末から明治の中頃までの30年ほどが外国教師が活躍した期間であると言えよう。

なお、外国教師の滞在した期間であるが、一般化することは難しい。ハーンのように永住した者、ボワソナアドのように23年間にわたり滞在した者、札幌農学校に勤務したクラーク博士のように1年未満の者など、さまざまである。グリフィスの4年弱という滞在は平均的な滞在期間であると思われる。なお彼は後年83歳になってから、日本政府の招待で日本を再度訪問することになる。

1-4 お雇い外国人の来日の動機
外国教師が日本に働きにきた理由は様々であろう。その来日した理由を探ることで彼らが日本に抱いていたイメージ(肯定的なものであり、否定的なものであれ)が明らかになると思われる。
ベルツは日記の冒頭で「知識欲に燃える国民の間に、西洋の文化を広め、深めることに、自分の持ち分において協力することは天職であるからだ」(トク・ベルツ 1979:上34)と述べている。そこには強い使命感が見られる。もちろん日記に本音が書かれるとは限らず、他人に見られることを意識した日記ならば、建前しか書いてないかもしれない。あるいは自分は本心と信じても、心理学でいう合理化が働いているのかもしれない。その点で日記の記述をそのまま信じることに関しては慎重にならなければならない。日記の記述を裏付けるものは、その人の行動全体になるだろう。ただ、ベルツに関しては、その後の日本での行動が、日記のこの記述を裏付けているということになるだろう。

一般にお雇い外国人にとって、金銭的な動機は大きかったであろう。彼らは、高い給与に惹かれて日本にやってきたのが実態であろう。フェノロサは、給料の半分は貯金できるというモースの勧めで来日を決意しており、画家フォンタネージは、90%以上は給料が魅力的なので来日したと述べている(三好 1986:48-9)。ボアソナアドに関しては、当時フランスの大学の法学部で月額666フランで教えていたが、日本行きで、それが3745フランにはね上がるのである(大久保 1974: 38)。

三好(1986:48-57)によれば、明治11年のフェノロサの給料は月300円、大学南校フルベッキは月俸600円であった。また明治6年8月時点で、文部省雇いの外国教師の平均年齢は32.7歳であり、月給の平均は271円であった。伊藤博文ら参議の給料が500円であり、当時の日本の小学校教師の月給が10円前後であったことからみて、彼らは破格の待遇を受けていたことになる(注2)。彼らは日本の小学校教師の30倍弱の給与を得ていたのである。

彼らは高い給与に加えて、往復の旅費を支給され、天皇謁見、特別褒賞、叙勲の機会が与えられた。グリフィスは勲四等旭日章を与えられたし、ボアソナアドは、勲一等瑞宝章を贈られた。高い報酬と篤いもてなし、これらが彼らが日本に来る理由となったろうし、また長年滞在した理由でもあろうし、本国に帰ってからも日本に関して好意的な記事や論文を書いた理由であろう。彼らはたとえ日本人に関して否定的なイメージを持って来日したとしても、次第に肯定的なイメージを持つようになっただろう。もちろん金銭的な動機がすべてと言いきることはできない。事情はもう少し複雑である。この点に関して、次に、1人のお雇い外国人(グリフィス)に焦点をあわせ、来日の動機を探ってみよう。

2 グリフィスの来日
2-1 来日前のグリフィス
グリフィス(William Elliot Griffis)は、1843年にフィラデルフィア市に生まれた。略歴は、山下(1979)の記述によれば、1857年14歳の時に、家族が属していた第1独立長老教会のバイブルクラスに入った。16歳でセントラル高等学校に入ったが、家庭の事情で中退して、宝石会社に徒弟奉公に入った。1863年にペンシルバニア州市民軍第44連隊に所属して、南北戦争ではゲティスバーク戦に参加した。1865年22歳の時に、ラトガース大学理科コースに入学して、1869年に卒業した。

ところで、このラトガース大学と日本は関係が深い。日本との深い関係は1860年ごろから始まった。バラ(James H. Ballagh)が1861年にオランダ改革派教会の宣教師として来日、日本最初のプロテスタント教会を横浜に建て福音伝道をしたことがきっかけである(山下 1979: 20)。
 
2-2 グリフィスの来日
グリフィスの来日の切っ掛けは、福井藩が外国教師を捜し求めたことから始まる。フルベッキは、ニューヨークのフェリス師に福井藩依頼の理化学教師およびオランダ人医師の斡旋を頼む手紙を1870年7月21日付けで出す(山下 1979: 63)。グリフィスはフルベッキの依頼を受けて、日本でお雇い教師として働くことを決意する。グリフィスの来日は、オランダ改革派教会(the Dutch Reformed Church)の海外宣教活動の一環としての人事でもあった。

1870年11月13日グリフィスは故郷フィラデルフィアを離れた。12月1日にサンフランシスコを出発して、12月29日に横浜に上陸している。横浜から東京へ行きしばらく滞在した後、福井に向かう。グリフィスは、福井では、1871年(明治4年)3月4日に着任してから、翌1872年1月22日間まで、約10ヶ月の間、化学・物理・地理学・ドイツ語・フランス語・英語など様々な科目を教えたのである。このわずかの期間であるが、福井という地方都市が受けたインパクトは大きくて、福井図書館や福井市立郷土歴史博物館にはグリフィス関係の蔵書がたくさんある。なお、グリフィスの福井時代の行動に関しては、冒頭でも述べたが、山下英一氏のような郷土史研究家が精緻に調べてすぐれた研究を発表している。

グリフィスは、1872年1月22日に、福井を去り、2月22日に東京へ到着する。彼は、東大の前身である大学南校で教える。彼は、最終的に1874年7月18日に日本を去る(注3)。東京滞在時代も福井滞在時代も、彼の活躍はめざましく、帰国後も親日家ならびに日本研究家として活躍した。

3 グリフィスの来日の動機

グリフィスが日本に来た理由は、さまざまなことがあるだろう。聖職者としての彼には日本人をキリスト教精神に基づいて教化しようという意図があったろう。しかし、お雇い外国人をあまりに聖人化しすぎるべきではない。彼らの来日の動機を深読みしすぎるべきではない。彼らは、単に好奇心や気まぐれで来たのかもしれない。彼らもやはり人間であり、さまざまな打算、計算の上の行動かもしれない。グリフィスに関しても、その点を念頭におきながら検討してみたい。その動機として考えられるものとして次の4点をあげてみたい。(1)金銭的な動機、(2)宗教的な動機、(3)学問的な動機(好奇心)、(4)何からかの逃避・本国での失望である。以下この順に検討してゆく。

3―1 金銭的な動機
越前藩がお雇い理化学教師をフルベッキに依頼したところ、オランダ改革派伝道主事フェリスを通して、ラトガース大学へその依頼がもたらされ、グリフィスに白羽の矢が立った。グリフィスは、1870年9月6日に、ライリー教授(グラマー・スクール校長)から日本へ行って自然科学を教えながら日本の教育活動の組織化に尽力してみるようにとの手紙を受け取った。3年期限で給料2400ドル、家と馬が与えられるという条件である。彼は、迷いの後に、9月26日付の手紙で日本行きの決心を知らせている。

グリフィスの場合、金銭的な目的が来日の大きな動機になったことは間違いないだろう。当時、彼はKnox Memorial Chapel, a Methodistで働いていたが、月給は$100であった。それまでに、父親の事業の失敗などによる貧乏暮らしはかなりこたえていたようである。Rosenstone (1988: 47)によれば、彼のラトガース大学時代の授業料も、教会の人の寄付から支払われたのである。その彼に、年収2400ドルで、住居と馬、往復の交通費が与えられる条件はかなり好都合に思えたのである。金額に関しては、彼はさらに50%の上積み交渉をしており、この交渉は成功して3600ドルに増額された(Rosenstone 1988:16)。このことからも、グリフィスは金銭的には相当しっかりしているとの印象を受ける。

グリフィスは福井では、月300ドルという給料をもらっている。グリフィスは書簡の中で、「月300ドルは福井の人々にとって恐ろしく多額な金で、地方で最高の役人よりもはるかに高いけれども、、、」(山下 1989: 21)と述べているように、はっきりとそのことを自覚していた。この金額が現代の日本の金額に換算するといくらになるか正確には分からない。しかし、同じ書簡の中で、友人の中野と大岩について述べている部分が参考になる。「中野と大岩は今、『役人』すなわち俸給取りの教師で年75ドルで、あまり多くはないが、比較して言うと、日本の教師の俸給としては悪くありません」(山下 1989: 31)の記述に注目したい。グリフィスの年収は3600ドルであるので、彼らの48倍の収入となり、相当の金額であることが分かる。彼には、さらに住居、馬そして召使いが与えられたのであり、きわめて優遇されていたのである。

ただ、グリフィスの実家はかなりの借金をかかえており、故郷の借金の返済にはかなり頭を悩ましていたようである。書簡で、「私の最初に早くから休みなく努力すべきことは借金の支払いです。そして私の語彙からそのいまわしい言葉を抹消することです」(山下 1989: 24)と述べている。アメリカの実家から、金の無心があるたびに、「家の財政が困難なことは百も承知です」(山下 1990: 34)と述べている。Rosenstone (1988: 193)によれば、グリフィスの最初の年の収入の半分は借金の返済と家族を助けるために使われ、また福井からの書簡の半分は金銭に関することが書かれてある。

3―2 宗教的な動機
グリフィスは教師と同時に牧師としても働いており、当然の事ながら、キリスト教信仰が彼の生涯に深い影響を及ぼした。

彼の日記を見ると、実直な性格がうかがえる。英語は簡潔でいわゆるa big wordを使わない。その素朴な描写は、多くの人の共感を得るであろう。ただ、彼の日記は、内面的な感情、疑念、意見などがほとんどなくて、その日の出来事を即物的に描くことが多く、日記を主に備忘録として用いていた。日記から深い信念や細かな感情の動きを読みとろうとしてもなかなか難しい。この日記の中に宗教的な使命感の吐露は稀である。

この時代は、治安が悪く、さらにグリフィスの来日時は、キリスト教の布教が禁止されていた。外国人の殺傷事件がときおり報じられもした。それにもかかわらず来日したことから、彼には何か崇高な使命感があったことは間違いないであろう。その意味で、安土桃山時代から多くの宣教師が来日して、中には殉教した宣教師もいたが、その延長上にグリフィスの来日はあったと考えられる。彼は正規の授業以外に、希望者を対象に自宅で聖書の講読会を行った。

しかし、彼は直接キリスト教を布教するのではなくて、キリスト教精神に基づく西洋的な価値観を日本に植え付ける点に重点をおいたようである。彼は、肉体を用いた労働への共感を抱いている。たとえば、福井日記(3月15日)では次のような記述が見られる。

男たちが背中に石を抱えて岡を下っている。これらの貧しい人々はただ苦しむために生きているのである。役人たちは、彼らを苦しめている。手で労働することを見下している限りは、日本は偉大な国にならないであろう。

彼は、労働する喜び、ピューリタン的な精神を学生たちに教えようとしたのである。勤勉に働く彼の姿を見ることで、学生たちは西洋社会の基礎となっている価値観を理解したのに違いない。

3―3 学問的な動機(好奇心)
始めて訪れる異文化の世界は誰にとっても知識欲・好奇心を駆り立てられる場所である。ましては、知識欲の旺盛な青年たちは、本国にいる時から、未知の国への興味を抱いたであろう。モースは「私が最初日本を訪れた目的は、単に日本の近海に産する腕足類の各種を研究するだけだった」(モース 1971:19)と日記に書いている。このように主に研究心・好奇心ゆえに日本に来た例もある。グリフィスも、学問的な動機を大いに抱いていたと考えられる。

彼の滞在中の行動を見てゆくと、その点はうなずける。一つの例として、グリフィスの1871年8月の白山への登山があげられる。頂上で湯を沸騰させて、その沸点を調べることで、山の高さを2815メートルと測定している。また、The Mikado’s Empireでは、彼は日本人の生活の慣習、迷信、民話などを広く集めて紹介している。彼は各地を訪問するごとに、丹念に日誌に日本の珍しい事象を記録している。

グリフィスの日本に出発する前に、書簡の中で、次のように述べている。

たくさんの機会、文化や旅行、良好な気候に加えて...私は自分の神学研究を深めるだけではなくて、本を書くための材料を集めることができる。故郷の家族に援助することができよう、少なくとも、家賃を払ったり、床にカーペットをひいたり、相当の金額を家に送金できよう (Rosenstone 1988: 53)。

ここでは、彼は何故に自分は日本に行くのかと自問自答している、つまり、自分の考えの整理をしているのである。「本を書くための材料を集めることができる」という点に注目してみたい。材料を集めることは、学問的な動機でもあるが、それを出版したいと意図することは、学者として成功したいという希望を持っていたことも示している。

3-4 何からかの逃避・本国での失望
一般的に言って、本国で満ち足りた生活を送っているならば、何も好き好んで他国へ行く必要はないと考えられる。他国へ行くことの大きな理由として、本国での生活に大きな失望・挫折の経験、あるいは何かからの逃避もあるだろう。グリフィスの場合も何かそれらの理由があるのかもしれない。

もしあるとすれば、彼の失恋体験が上げられるだろう。グリフィスには、エレンという恋人がいたが失恋に終わる。この失恋の体験が日本行きの一つの大きな要因であるとの説がある。グリフィスは次のような手紙を日本の出発前に、姉のマーガレット宛に送っている。

長い手紙は書けませんが、どうか重大な知らせだと思って下さい。最初にエレンと私が結婚するということは今はまったくあり得ません。そのくわしいわけは聞かないで下さい...(グリフィス1984:323-324)

グリフィスに日本へ行く話があってから1週間後に、エレンはヨーロッパ旅行より帰ってきてグリフィスと会い、グリフィスの求婚を断ったようである。グリフィスは、当初日本行きをためらっていたが、突然日本行きを決断したことから、Rosenstone (1988: 51-52)は、その間の彼女とのやりとり、女性の心変わりがグリフィスへ日本行きを決意させた大きな要因であろうと推測している。しかし、手掛かりとなる日記にはそのあたりが全く書かれていない。すべては憶測でしかありえない。ただ、恋人エレンとの破綻があり、そのために新天地を求めたということは十分にありうる。

3-5 動機は何であったか
以上、4点ほどの動機を検討したが、単一の動機と考えるよりも、それらが総合したものが真の動機と考えるべきだろう。知識欲が旺盛で宗教心に富む30歳前の青年が決断するのであるから、好奇心、使命感もあれば、金銭的な打算も当然あったと思われる。さらには本人にしか分からぬ動機もあったかもしれない。とにかく、それは当人が日本でどのような行動を取ったか、あるいは本国に帰ってからどのような行動をしたかという点から推し量るべきものであろう。次に福井でのグリフィスの日々を見てゆこう。

4.グリフィスの福井での毎日

4-1 当時の福井
グリフィスが福井に来た時は、福井はめざましい変化のただ中にあった。福井は越前藩として、幕末には有力な松平藩として、重要な地位を占めていた。松平春岳(しゅんがく)が、当時藩主(藩知事)であった。彼は、きわめて開明的な政策を取り、グリフィス(1995: 84)によれば、1848年に西洋式の大砲が福井で鋳造され、1850年には、種痘所が開設され、翌1851年にはオランダの砲術、教練、歩兵戦術が導入された。

松平春岳は教育の近代化にも力を入れて、1855年5月2日に、青年に近代科学を教えるために、明道館(1869年明新館と改称)を開設した。グリフィスはこの明道館で、諸外国語や近代科学を教えるために招聘されたのである。グリフィス(1995: 143)によれば、越前はアメリカから教師を招聘した最初の藩である、つまり、この招聘が「ヤトイ」制度の始まりであったと言う(注4)。
グリフィスが福井で教えた年は廃藩置県が行われた年でもある。1871年7月18日に東京から驚くべきニュースが到着したことが記されている(グリフィス 1984: 232)。これにより、藩が廃止されて、県が設立されたのである。10月1日に、藩主が福井を去って、東京へ出発する光景をグリフィスは見たのである。グリフィスは、福井の激動期の生き証人となった。

福井に限らず、金沢でも外国教師による近代化の試みがあった。グリフィスと同じ頃、1871年にオランダ人スロイスが招聘され、金沢理化学校の教師となった。彼は医学教育の体制を整えたことで有名であり、彼の講義録は彼が去った後も石川県の諸学校で使われた(三好 1986: 161-162)。その他さまざまな外国教師が北陸における洋学の導入に貢献したのである(注5)。

4―2 人々との付き合い
グリフィスは福井では多くの人々の注目を浴びる存在であった。はじめて見る西洋人に人々の好奇心は刺激された。子供たちは「唐人」(とうじん)とはやし立てた。しかし、一般的に人々はきわめて親切であり、グリフィス(1984: 126)には、「福井在住の一年あまりの間、絶えずあふれるばかりの親切を受けた。」と述べてある。毎日の生活は、「毎日、学生や役人からいろいろな贈り物をもらう。食卓に贈り物が飾られていない日は一日たりとてない」(グリフィス 1984:223)という記述もある。

学生たちは彼を慕い、授業中だけではなくて、自宅にまで押し掛けてきて、自宅に住み込みで働く者もいた。グリフィスが、学生を自宅に住まわせたのは、一つは宗教的な動機があってキリスト教の布教を計ろうとした点もあるだろうし、自分の学問上の研究のために日本人の優秀な青年の力を必要とした点もあるだろう。いずれにせよ、グリフィスと学生たちとは深い師弟関係でつながっていったのである。一緒に住み、全面的に財政援助するというまでの学生との深い関わりは、本国に帰ってからも続く。彼は、学生の1人の今立吐酔をフィラデルフィアの自宅に住まわせペンシルバニア大学に通わせたのである。

このような事例は一般的であったかどうか分からない。他のお雇い外国人であるモースの日記の中に、加賀から来た青年の手紙が紹介されている。青年は週に3,4時間の個人教授と食事と宿舎を提供してくれれば、自分は半ば召使い、半ば学生の身分になることを申し出ている(モース 1971:1. 195-198)。モースが彼の提案を受け入れたかどうかは不明であるが、似たような提案を他の外国教師も数多く受けたと考えられる。

グリフィスは、日本人と幅広い付き合いがあった。しかし西洋人の同僚であるルセーとの関係は深いものではなかった。見知らぬ異国の地にいる同胞という意味で、互いに頼りにしていたようで、散歩などは一緒に連れ立ったことが日記に記されている。なお、Rosenstone (1988: 95)は、グリフィスが同僚のルセーに対して俗っぽい人間であると軽蔑しているが、表面上は、一応の付き合いをしていた、と述べてある。

グリフィスの福井での生活は、高い給料にもかかわらず、質素であったようである。彼は酒は一滴もたしなまず、禁欲的な生活で女性を近づけなかった(Rosenstone 1988: 112)。このような性格のグリフィスと世俗的なルセーが深い友情関係を持つことは難しかったろう。

4-3 郵便
ここで、グリフィスの交友関係を支えるものとして郵便について触れておく必要がある。当時は、すでに郵便制度も発達しており、彼も全面的にこれに頼った。知人との連絡、故国との手紙のやりとり、書籍や実験道具の注文など頻繁に郵便制度を利用した。横浜とサンフランシスコの間には、月に2回のほどの定期便があり、日本とアメリカの間には日数はかかったが、着実に届く郵便制度があった。

グリフィスは手紙を定期的に受け取っている。これは、福井のような地方都市でも明治初期には十分に郵便制度が機能していたことを示す。数字の3と8のつく日に郵便が到着するようになってきている。彼は、手紙を待ち望み、手紙がこない日はかなりの失望の念を日記に記している。
 
4―4 衛生の状態
三好信好は、外国教師は「志半ばにして異郷の地で急死した者が多い」として、モレル(肺結核で病没)等の例を挙げている(三好 1986:69)。慣れない異国の地では体をこわす者がいたとしても不思議ではない。金沢藩に雇われたイギリス人のリトルウッドは金沢へ向かう途中で、天然痘で倒れている。山下(1979: 201)には、石川県加賀市大聖寺の久法寺に彼の墓が現存するとの報告があり、その墓の墓誌の写真も掲載してある。

さて、グリフィスは日本の衛生状態をどのように感じたのであろうか。故国アメリカと比べて、著しく劣ると感じたのであろうか。それともさほど変わらないと感じたのだろうか。グリフィス(1984: 111)では、「住民は1人残らず汚く、貧しく、みすぼらしくみえた」と書いてある、しかし同時に、次のようにも述べている。

(日本の)家の中はきれいにしてある。床は地面から1フィート高く上げてある。木造部はたびたび洗うかのようにきれいだ。けれども日本人は石鹸を表す言葉を知らないし、今日になってもそれを使ったことがない。にもかかわらず、どのアジア人よりも身なりも住居も清潔である(グリフィス1984: 41-42)。

この記述から判断すると、西洋の水準からすると劣るが、他のアジア諸国と比較するならば清潔である、と感じていたと思われる。
  
モースの日記には、日本の都市が清潔で衛生状態が良好である、と至る所で記述されている。火葬場の記述では「掃き清めた地面、きちんとした垣根、どこででも見受ける数本の美しい樹」(モース 1971:3.149)とある。日本のスラム街も自国と比較して清潔との印象を持ち(モース 1971:3.180)、海岸の町が「簡素な住宅が並んでいるが、清潔で品がよい」(モース 1971:1.180)との描写がある。

外国教師それぞれにより判断は異なるのだろうが、とにかく、温帯にあり気候も母国と似ていて、比較的衛生的な日本は、結構住みやすかったと思われる。

4-5 治安の状態
グリフィスの福井日記では、1871年の3月12日(日曜)にルセーと散歩するとある。1人で散歩するには物騒だったのである。Rosenstone (1988: 98)も、グリフィスは決して1人では出かけなかったと述べている。外国教師の給与が高かった理由として、彼らが遭遇するであろう危険への手当が含まれていた。グリフィス(1995: 166)は、攘夷浪人がたくさんいるので、生命保険会社は、よほどの割増金を払うのでなければ、日本在任のアメリカ人の生命の保険を引き受けなかったと述べている。さらに彼は、日本には当時、故国アメリカで安定した生活をしている青年をひきつけるものはほとんどなかった、とも述べている。

当時の福井の治安はどうであったろうか。この点に関して、一般的な犯罪、外国人に対する反感から生じる犯罪、キリスト教に対する反感から生じる犯罪、と3つに分類して述べてみたい。
第1の点だが、当時は、貧しさゆえに、一般的な犯罪は現代と比べて多かったと思われる。しかし、西洋人は昼間歩いても常に注目を浴びる存在であり、自宅には常に護衛が警戒しているので、こそ泥や万引きのような一般的な犯罪に巻き込まれることはなかった。事実、そのような報告はない。危険にさらされるとしたら、イデオロギー的な理由を持つ狂信的な殺害者に狙われた時であろう。

第2の外国人に対する反感から生じる犯罪だが、当時の尊皇攘夷の風潮を考えなければならない。西洋人に対するむき出しの敵意が残っていた。彼はその事実については十分に知っており、福井への途上では、コートのポケットに拳銃(Smith and Wesson revolver)を忍ばせていた(Rosenstone 1988:12)。グリフィス(1984: 62)では、「アメリカを離れる前に、きっと浪人に会うだろうから回転式連発ピストルを必ず持って行くように、と学生たちが言った。そこでスミス・アンド・ウェッソン製の一番いいのを一つ買った。居留地の外国人でピストルを持たずに家から遠くに出かけた者はほとんどいない。急用のほかは、夜は家にいる人が多かったのは賢明だった。1859年以来、約50名の外国人が日本で殺されている。」と述べている。彼は攘夷浪人への警戒を怠らなかった。

第3のキリスト教に対する反感から生じる犯罪だが、当時のキリスト教に対する警戒と恐れの風潮を考えなければならない。北陸は伝統的に真宗の熱心な地域であった。その地域でキリスト教精神に基づいて授業をする彼の存在は、一部の住民から敵視されたのではと予想される。山下(1979: 142-3)によれば、1873年3月8日、耶蘇教反対の真宗農民3000人からなる護法一揆が大野に起こった。それが福井周辺にもひろがって暴徒化して、ワイコフ、マゼットの家も攻撃されそうなので場内に2日間避難しなければならなかった。最終的には、農民約250名が捕らえられ、首謀者6名(2人が僧侶、4名が農民)の首がはねられた、そうである。これはグリフィスが福井を去ってからの出来事であるが、彼が福井にいた時からその気配はあったろうと思われる。

明治政府は当初はキリスト教の布教を禁止していたが、1873年(明治6年)2月24日切支丹禁制の高札を除去する。これ以降はキリスト教が黙認されるようになり、次第にキリスト教に対する反感は収まってゆく。

いずれにせよ、当時の物騒な日本に西洋人を呼び寄せるには、法外な給料を支払う必要があったことは理解できる。その西洋人たちは万が一に備えて十分に警戒を怠らなかったのである。
 
4-6 東京への移動の動機
グリフィスは、福井には10ヶ月ほどしか滞在せずに東京へ移転する。政治・経済・文化の中心である東京で教えたいという願いや、自分の優れた学生たちが東京へぞくぞくと流出したことが主たる理由であろう。グリフィス(1984:243)は、「学校の優秀な教師の多くが首都で役人の地位を与えられた。私の最良の友人や協力者が福井を去った」「組の学生数が減ってきた。福井は藩主の首都ではなくなった。ただの内陸のひとつの町でしかない」と述べている。廃藩置県で、福井の地方化が進んだのに反して、東京は一躍中心地となり、野心的な若者の東京への集中に歯止めがかからなくなったのである。

彼はフルベッキとの手紙のやりとりを通して、1月10日に、文部省より正式に、東京の学校で、自然哲学と化学の第1教授(the first professor)となるようにとの要請をうけ、東京へと向かうのである。なお、グリフィスは9月頃に18歳の女性を短期間であるがメイドとして雇うが、すぐに解雇している。Rosenstone(1988: 114)はこの女性との間に何かがあり、そのことが契機となって東京へゆくのではと推測している。しかし、これに関しては資料がほとんどないので確定的なことは分からない。

グリフィスに去られた福井であるが、カリフォルニア出身のマゼット氏が英語を、ラトガース大学出身のワイコフ氏が理化学を教えることとなった。
 
4-7 グリフィスの言語教育
グリフィスは理化学を教えるために雇われたのであるが、当然語学教育にも関与することとなった。福井でのグリフィスは、英語で授業を行い通訳が日本語に直すという授業であった。彼はフランス語やドイツ語も教えている。彼は、ギリシア語やラテン語の知識もあり(注6)、相当のインテリであったことは間違いない。

彼は、自分の専門科目を教授することもあれば、語学の授業をすることもあった。グリフィスは書簡の中で、「みんな熱心で根気強い生徒です。フランス語の15人の組は伸びています。7人の年長のドイツ語の学生と15人のドイツ語の生徒は三崎という私の最もよい生徒の指導を受けて述べています。週2回、英語を習っている40人の化学の組の生徒、週2回、フランス語とドイツ語を習っている化学の生徒に教えています。」(山下1989: 20)と述べている。このように自国語以外に、他の西洋の言語を教える場合もあった。なお、グリフィスの英語教授法への関与は深く、東京滞在中の1972年から73年にかけて、英語教科書ニュージャパン・シリーズ5冊を出版している。

当時の語学教育はどのような方法論に基づいて行われたか関心が持たれる点である。後藤田(1998: 209)によれば、「明治期の英語教育の歴史を前半と後半に分けてみると、前半は、1887年頃までで、高等教育は宣教師とはじめとしたキリスト教徒あるいはキリスト教的教育を受けた英米人が英語教育の担い手となっていた。この時代に英語を学んだ日本人は外国人教師から直接教えを受けるほかなく、いわゆるDirect Methodによって学んだのである。」と述べている。おそらく、グリフィスの教授法も、基本的には、Direct Methodであったと思われる。

当時の外国教師の授業であるが、一般に、日本の御雇い外国教師は自らの母語で授業をおこなった。モースは英語で、ベルツはドイツ語で授業をおこなった。授業を聞き取るために、外国語の能力は日本人学生にとって不可欠であった。それゆえに、日本人学生は自然と高い外国語能力を持つようになる。

ベルツの明治9年(1876年)6月26日の『日記』の中で、「着いてから5日で、すぐ生理学の講義を始めましたが、学生たちの素質はすこぶる良いようです。講義はドイツ語でやりますが、学生自身はよくドイツ語がわかるので、通訳は実際のところ単に助手の役目をするだけです(トク・ベルツ 1979:上.43)」と記している。この頃は学生の外国語能力が高いことが窺える。

この状態は次第に変化してゆく。明治10年代から留学生がぞくぞく帰国して、彼らもまた大学の教壇に立つようになった。これらの留学帰りの日本人教師も外国語で授業していたという。ただあまり流暢ではなくて、学生をかえって混乱させたりしていたが、政府は明治14年頃から、日本人は大学では一貫して日本語によって教授するように指示している(中山 1978:59)。そして日本人教師が増え、教室で日本語が幅を利かすようになると、学生の外国語能力は確実に低下してくる。ベルツは明治34年の日記の中では、「学生はますますドイツ語がよく分からなくなるばかりだから、授業も以前ほどはもう楽しくない。できることなら、すぐ辞職したい(トク・ベルツ 1979:上.232)」と不満を洩らしている。逆説的に言えば、外国語の能力の低下は、その国の学術の自立を計るメルクマールになる。

5 外国教師の影響

5-1 影響を及ぼした階級
外国教師は日本にどのように影響を与えたか、その影響は主にどの階級に影響を与えたか考えてみよう。グリフィスの福井での交際であるが、接した人たちの多くは、役人、武士、学生、僧侶などのいわゆるインテリ層である。彼等は、一般に穏やかである。グリフィスは書簡の中で、「日本どうしの礼儀正しさに驚かないでください。日本はとりわけ伝統的な礼儀を重んじる国民であることを忘れないでください。」(山下 1989: 22)と書いてある。礼儀にうるさい上層階級との付きあいが多かったからそのような印象を持ったのかもしれない。

一般に、外国教師の多くは、主に大都市の高等教育の場で教えた。学生たちは富裕な階層の子弟であり、彼らは卒業後は社会のエリートとなっていった。彼らエリート層の人格形成期に深い影響を与えたのである。外国教師は為政者の政策実施にも、助言という形で影響を与えた。また有名人として上流社会の社交の場にも参加した。ベルツは医学を教えながら、有能な医者として、皇族や貴族の診察をおこなっている。このように外国教師は、日本社会の上層部への影響が大であり、一般大衆に対しては間接的な影響に留まった。

この点で、現在のALT (Assistant Language Teacher)と対照的である。現在何千人というALTが日本の中等学校を中心に語学教師として働いているが、彼等の影響は中等学校の生徒に対する語学指導にとどまっている。かれらは各地で国際交流の行事などにも参加しているが、国政の重要な課題に政府に助言を与えるようなことはありえない。

グリフィスに話を戻すならば、東京滞在中は、社会の最上層部との接触があった。グリフィス(1995: 225)には、皇居に招かれて、玉座の間の隣にある応接室でひらかれた宴会に参加した逸話などがある。グリフィスは、皇室の内部についてさえ、ある程度知りうる立場にあった。『ミカド』の第30章と第31章では、明治天皇の毎日について具体的な記述がある。これは、日本人では、かえって書けなかった事柄であろう。グリフィスは、外国人として警戒されることもなく、皇室の中にある程度入ってゆき、観察ができたのである。

5-2 外国教師の功績とは
ここで外国教師の功績をどのように評価すべきか考えてみよう。当時の日本では、外圧の下で、国の独立を保つために、他に選択の余地のない緊迫した状態の下で西洋の学術の導入が行われた。近代化を一日でも早く進め、富国強国政策を促進しようとの明白な目標の下で、高等教育機関へ数多くの優秀な外国教師を雇い入れた。彼らの貢献が大であったのは事実である。しかし彼らの功績を過大評価するべきではないだろう。

外国教師は日本の近代化に貢献した一つの要素であるが、近代化が進んだ理由としては、富国強兵という明白な目標があったことや、当時の日本はすでに識字率も比較的高く、国民各層の教育基盤がある程度確立していたことなどもある。外国教師の存在は、日本の近代化に貢献した一つの要素に過ぎないと考えるべきであろう。

外国教師は、単に「お雇い」であり、グリフィス(1995: 202)が述べているように、「日本人は、ヤトイの誰1人にも、権力や地位を与えなかった。彼らは彼らの客人兼雇い人を単に召使いとして利用し、あらゆる権力をかたく自分自身の手の中に握って離さなかった」とある。国政への助言は必要とされたが、明治政府という権力機構の中に入ってゆくことはなかった。この点で当時の植民地において西洋人が弁務官などの名称で実権を握っていて、植民地の近代化は彼らの手腕によっていたこととは全面的に事情が異なる。

なお、学生たちへの影響について考えるならば、学生たちは20歳前後であり、すでに日本人としての自覚を確立した年齢であり、外国教師と接しても、教えられた内容の取捨選択が可能であった。その意味で主体的に外国教師の影響を取り入れたと言えよう。日本人としてのアイデンティティを揺るがされるほどの影響はなかったと思われる。やがて西洋の学術の移植が済み、日本人教師が引き継ぐことができるようになると、お雇い外国教師は、功績を讃えられ、慰労金をもらい、本国へ帰っていった。そして、明治の改革は、クルマスの言葉を借りれば、「この改革の首尾一貫性と、それによって達せられた成功の大きさとは、歴史上類を見ない」(クルマス 1987:327)とまで絶賛されるほどの効果をおさめたのである。
 
5-3 お雇い外国人の日本の紹介者としての意義
お雇い外国人が日本に関するイメージ形成に貢献した点はしばしば見過ごされる点である。The Mikado’s Empire: A History of Japanは、グリフィスが東京滞在時代に集めた資料や文献をもとに書き上げたのである。これは海外で発表された最初の日本関連書のひとつとして大きな反響をよび、刊行後 30 年で 12 版を数える。日本に対する紹介と同時に、日本を好意的に紹介してあるので、日本に対するイメージを高めたのである。

グリフィスは、お雇い外国人研究史の中で、パイオニア的存在である。グリフィスは本国に戻ってからお雇い外国人の概要をまとめることを思い立ち、郵便葉書で、各お雇い外国人に、生年月日、教育、日本に雇用された事情、などを問い合わせている。彼は、日本の進歩が言及されされる場合に、お雇い外国人の貢献が不当に無視されていると感じて、お雇い外国人としての彼が自ら研究を始めたのである。お雇い外国人についての組織的な研究は、グリフィスによって開始されたのである。彼の母校のラトガース大学の図書館にある「グリフィス文庫 The William Elliot Griffis Collection」にあるYATOI(お雇い外国人)関係資料は貴重である。

ユネスコ東アジア文化センター(1970: 56-60)によれば、1887年前後に、グリフィスの『1886年の日本』やチェンバレンの『日本事物誌』などが発行されたが、その出版に刺激されて、その分野の研究が続いたという。グリフィスはさらに、『1894年の日本』『ハリス伝』『フルベッキ伝』『ブラウン伝』『進化せる日本国民』などを刊行している。

なお、グリフィスをはじめとして外国人によるお雇い外国人の研究は1870年代ぐらいから始まったが、日本人による研究は、ユネスコ東アジアセンター(1970: 59)によれば、1896年の呉秀三『シーボルト』を嚆矢とするという。

あとがき(お雇い外国人の意義)

あとがきとして、お雇い外国人の意義を再度検討してみよう。三点ほど強調することになるが、まず第1の点として、その影響は限定的なものであったと言うことである。つまり、新政府は、富国強兵の基礎を固めることが最大の目標であり、実用科学の分野に力を入れた。しかし人文科学の分野での雇い入れは、いわゆる和魂洋才の旗印の下で、消極的であった。その意味で、アジア・アフリカの旧植民地において宗主国である西洋諸国が及ぼした影響と比べるならば、日本人への影響、特に精神構造への影響は限定されたものであると言えるだろう。

第2の点として、日本人自身の受け入れ能力の高さの点である。幕末において、寺子屋が都会でも農村でも普及しており、一般大衆の教育程度は世界的に見ても高かった。ちなみに識字率は19世紀中葉において、男48%、女15%ぐらいと考えられており(クルマス 1987:329)、当時の西洋諸国と比較してもさほど遜色はない(注7)。また蘭学研究は、明和8年(1771年)の『解体新書』の翻訳の開始以来、当時すでに百年ほどの伝統があり、西洋に関するある程度の知識の蓄えはあった。西洋の学術を受け入れる下地はかなり育っていたと言えよう。その意味で、外国教師が日本の近代化を直接進めたと言うよりも、近代化の進める際に触媒的な作用をはたしたと言うことになるだろう。

第3の点であるが、お雇い外国人は日本人にとって、日本人を発見する切っ掛けとなったのである。お雇い外国人は、その西洋的な教養の象徴であるがゆえに、その対立概念として日本人を強く意識させて、後世に日本人論を生み出させる契機となった。Maher and Yshiro (1995: 9)によれば、日本社会の調和という概念はinventionであると述べている。単一民族社会、日本社会の調和という現在まで続いている数々のinventionであるが、そのきっかけとなったのは、明治期に西洋の象徴たるお雇い外国人と出会ったことが、そもそもの発端になると思える。

さて、当時の外国教師たちは、未知の国、異文化の中で何を考えたのであろうか。少なくとも、グリフィスは、西洋と日本という二つの文化を優劣や高低という基準で捉えようとはしていないという感想を持つ。要は文化の差であると考えたと思われる。日本でも高い精神文化があると解釈したようである。彼は書簡で日本人を「この静かで礼儀正しく教養ある野蛮人」(山下 1989: 34)と称している。「教養ある野蛮人」とは矛盾する言い方であるが、西洋人としての彼には、日本人はそうとしか形容できない存在だったかもしれない。ただ、否定的なイメージでもなくて、肯定的なイメージでもない、真実の日本人の姿を捉えようとしたグリフィスの姿は評価されるべきだろう。

(1)「お雇い外国人」とは幕末・明治の日本で、政府・民間を問わず、各機関や個人に雇われた来日西洋人を総称して使われた用語である (ユネスコ東アジア文化研究センター 1975: 9)。「外国教師」「お雇い教師」などの用語もある。
(2)川澄 (1978:13)によれば、太政大臣三条実美が800円、右大臣岩倉具視が600円、参議で内務卿の大久保利通が500円、東京大学綜理加藤弘之は400円であった。
(3)グリフィスの日本を出発した日であるが、グリフィス (1979:304)では、7月18日となっており、グリフィス(1984:5)では7月25日まで日本に滞在となっている。
(4)お雇い外国人は、徳川幕府の末期から始まったものであり、必ずしもグリフィスがその嚆矢となるとは限らない。
(5)北陸の外国教師については、後藤田(1998)やSloss and Kelleher (2002)などの研究も興味深い。
(6)グリフィスは1866年、ラトガース大学のグラマー・スクールでギリシア語とラテン語を教えている(山下 1979:298)。
(7)豊田(1978: 43) によれば、当時の先進国の識字率は、プロシア(80%),イギリス(67-70%),フランス(55-60%),スペイン(25%),イタリア(20-25%)であった。

文献

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山下英一 1990 「グリフィス書簡(その3)」『北陸英学史研究』 第4輯 日本英学史学会北陸支部 pp.27-50
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