父の日記

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随筆:父の日記

今年(2002年)の2月に私は父をなくした。父は76歳の生涯を終えたのである。父の人生だが戦中・戦後の混乱期に青春時代を過ごしたので、あまり楽しい人生ではなかったろう。ところで、父は日記を書くことが好きであった。四十九日のあと、小さな段ボール箱に詰まった20冊ほどの日記帳を発見した。息子の自分としては、正直言って、父の日記はあまり読みたくない。理由はいろいろあるが、一番大きな理由は、父の死が突然だったことに関係する。父はくも膜下出血で死んだが、直前まで元気で、その日の昼に車で買い物に出かけたほどだった。つまり、日記をそのままの形で残したのである。

死を予期した人ならば、自分の身辺整理をしておく。日記や手紙など、問題になりそうなものは処分しておくだろう。まったく死を予期していなかった人の日記は実は大変やっかいなものである。本人にとって知られたくないことが書いてあるかもしれないし、こちらも知りたくないことが書いてあるかもしれない。たとえば、父が自分には愛人がいたなどと告白してあれば、母も私も仰天してしまう。

人が日記を書く理由は様々であろう。考えを整理整頓するために書く人、ストレス解消のために書く人、単に備忘録として書く人、ネット上での公開のために書く人。それこそ人さまざまであろう。私も日記をつけているが、第1の目的は英語力の維持である。英作文の練習として、日記を毎日半ページほど英語でつけている。思い出すのは、坪内逍遙の日記である。この文豪も日記を英語で書いていた。ところで、死後その日記を読むと、内容は奥さんの悪口ばかりだったそうである。私も家内の悪口を書くことがあるが、家内は英語が分かるので、微妙な部分はドイツ語やフランス語を用いたりと工夫をしている。

石川啄木は若くして死んだが、自分の『ローマ字日記』が、人に見られるとは予想していなかったのだろう。娼家通いをした内容が赤裸々に書かれているので驚いたことがある。また西田幾多郎の『日記』には、どんな深遠な思想が述べられているかと期待して読んだら、甘い物はもう食べないと誓い、また食べてしまったと後悔したり、とそんな内容の繰り返しなので、拍子抜けしたことを覚えている。

日記とは、その人の恥部、暗部を示すことがある。そのままの日記を読むとは、その人の体勢が整わないうちに、戦いを仕掛けるようでアンフェアーだと思う。私の好みとしては、永井荷風の『断腸亭日乗』のように、他人に読まれることを意識して書かれた日記の方が、安心して読める。最近よく見かけるネット上の日記なども、気楽に読めて好きである。

さて、父の日記だがどうしよう。まあ私は読まないことにするが、一応残しておいて、読むのは私の息子たちにお願いしよう。さて、私自身の日記だが、英語の練習のために書いた駄文ばかりなので、適当な時期に処分しようと考えている。

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