言葉遊び、脚韻、英語教育

音声の教育

英語を子供達に教える場合は、音から教えるべきであるとはよく言われている。英語特有の音に慣れてもらうためには、子音から入るといい。母音は舌の微妙な高さで音が異なってくる。ところが、子音は唇を閉じるか開けるか、舌を口の中のどこに付けるか等と比較的に説明がしやすい。

ただ、単に音を出すだけでは、子どもたちは飽きてしまう。やはりゲームの要素を取り入れるべきだと思う。その意味で、言葉遊びが大切だ。小学生の3,4年生の子どもを対象に考えてみたい。この年代の子どもたちはすでに、しりとり、背中に指で書かれた文字を当てる、など日本語の言葉遊びをして楽しんでいる。英語でも、工夫すれば言葉遊びが可能だ。ただ、文字ではなくて、音声を中心に言葉遊びを行うのが良い。

脚韻に注目させる

音声を中心とした言葉遊びには、(1)早口言葉、(2)英語のだじゃれ、などが考えられるが、小学生に与える音声の遊びとしては難しすぎないようにすべきだ。脚韻をあてさせる問題が面白い。たとえば、up, tick, tip, hip, zip などを聴かせて、「どれが仲間はずれだろうかあてよう」という遊び(クイズ)を出すといい。単語の意味は分からなくても、一つだけは仲間はずれだな、という感覚さえつかめればいい。

大学生ならば音声学上の知識を与えても学生は興味を示す。たとえば、/p/は破裂音なので、唇をしっかりと閉じて爆発させるのに対して、/k/は硬口蓋と舌で閉鎖をつくるので音が異なる、とか、通常の会話の時には、語末の時は閉鎖がしっかりとしてなくて、はっきりと破裂音とは聞こえない、というよう知識である。

小学生ならば、もちろん、そんな知識は不要である。語末が似ているが、一つだけ異なるなという風に感じられればいい。それから、子どもによっては、/I/の音に注意が行き、up を「仲間はずれ」と考えるかもしれないが、それはそれでいい。

母音でも、例えば、/eI/の二重母音なども、pay, say, toy, hey, way などを順番に聴かせて、。toy だけが「オイ」と異なる終わり方をしていると気づかせるのは、音声に対する敏感さを養う上で有益である。

早口言葉

早口言葉 tongue twister も子どもたちは喜ぶ。定番のものとして以下のような早口言葉がある。

She sells seashells by the seashore.

Peter Piper picked a peck of pickled peppers.

あるいは、映画 My Fair Lady でヒギンズ教授がイライザに与えた韻を踏んだ早口言葉などを与えると面白い。The rain in Spain stays mainly in the plain.である。ただ、小学生には、難しいかもしれない。先日、大学生にこの早口言葉を試してみたら、評判は良かった。小学生はどうだろうか。きょとんとされるかもしれない。

日本語の音韻にまだ慣れていない小学生の耳にこそ、このような tongue twister を練習させることは喜ばれるかもしれない。今度機会があれば、小学生に試みてみよう。 

 

定型詩と自由詩の翻訳について


詩が美しいというのは何故だろうか。まず内容の美しさがある。雄大な自然を描写した詩は美しい。母親の子どもへの愛情をうたった詩は美しい。

これらの詩はある程度、描写がまずくてもそれなりの感動を与えるのである。稚拙な表現でも、「素朴な表現の中に真実性が見られる」とか、「荒削りの表現が生きている」とかなんかと言って褒め称えることが多い。

これが、スラム街の描写だとか、育児放棄の詩ならば、いくら表現が巧みでも人に美しいと思わせたり、感動を与えることはないであろう。

フランスのボードレール?だったかの詩に犬の死骸を描写した詩があった。読んで気持ち悪くなったが、詩人というのは、いろいろな実験をするのだな、と感心したことがあった。

詩の内容に関しては、過去の詩や歴史上の大事件などに言及して価値を高めることがある。和歌における本歌取りなどはその例である。過去に書かれた詩が喚起するイメージをも、取り込むという点で、イメージを重ねたり広げたりすることができる。

このように内容は詩の価値を決定する一つの要因であるが、形式の詩の価値を定める大きな要因である。

詩は読むのか、聞くのか。読む場合は、漢語が多いな、とか、カタカナが多いな、という感想はいだくだろう。聞く場合は、リズム感が大切である。文字が5・7調とか、7・5調とかで並んでいて、5・7調は力強く、7・5調は優雅というような解釈もある。

英語の詩では脚韻がそろう。英語に限らず、西洋の言語のほとんどがそうであり、定型詩が主流であった。それに対する反発から自由詩も生まれてきており、現代では自由詩が主流である。

1886年にアルチュール・ランボーの詩集『イリュミナシオン』に「海景」Marineと「運動」Mouvementという自由詩が掲載され、これがフランスにおける近代自由詩の誕生と見なされている。

アメリカでは、近代自由詩の創始者といえるウォルト・ホイットマンが1855年に詩集『草の葉』を刊行して、フランスに先駆けて自由詩が本格的な成立を始めた。『草の葉』では、従来の英語詩の韻律を大胆に排し、行分けの散文が試みられた。

詩の世界では長らく定型詩が盛んであったが、19世紀の後半から自由詩が試みられきた。定型詩は古典的な秩序だった調和的な世界を醸し出す。自由詩は近代的で奔放な精神を表すと言えよう。

詩を定型詩と自由詩に分けるならば、日本語に翻訳する場合は、どちらが難しいだろうか。どちらも難しいのだろうが、定型詩を訳すときには、定型という制約は日本語にも課するべきだと思う。

西洋の自由詩は日本語でも自由詩に翻訳すべきである。定型詩は日本語でも定型詩で訳すべきである。つまりは5・7調とか、7・5調である。ただし、和語ならば比較的に5・7調や7・5調に納めやすいが、カタカナ語や漢語は納めにくいという特徴がある。

定型詩の魅力は内容と形式の両方にある。内容だけに注目して、自由詩で日本語に訳するのは定式の持つ美しさを切り捨てることになる。

結論を急ぐが、英詩の大半をしめる定型詩を訳す場合は、日本語は何かの形式を取り入れる必要がある。それは自由詩ではなくて、5・7調とか、7・5調の口調であろう。

『不思議の国のアリス』の発表を聴いた。


今日は卒業論文に関する発表会があった。その中でルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に関する発表があったので、その報告と感想を述べておきたい。

1865年に Alice’s Adventures in Wonderland が刊行された。そして、その翌年にドイツ語版とフランス語版が出版されたそうである。この作品は作中に織り込まれた言葉遊びが特徴的である。英語の音韻や語法、文字通りの意味とイディオムの意味の交錯、メタファー、メタニミー、シネクドキ(提喩)などで溢れていたので、翻訳不可能のように思われたのだ。だが、不可能のように思えるが故に、翻訳に挑戦する人が絶えなかった。日本語の翻訳も試みる人がたくさんいて、アマゾンを見るとたくさんの人が翻訳を試みていたことが分かる。

日本語でも人気の作品であるが、これは言葉遊びが受けたというよりも、作品の内容、奇抜さが受けたと考えるだろう。言葉遊びの部分に関しては翻訳不可能である。この部分の味わいは英語にきわめて堪能な人が、英語で読むことで鑑賞することができるであろう。

発表者に私は「この物語は日本語に翻訳可能でしょうか?」と質問を投げかけたのだが、答えは「言葉遊びの部分は翻訳不可能だが、内容や映像部分がそれだけで素晴らしいので、その部分を翻訳すればいい」であった。まあ、そうゆうことになるのだな。私も同意見だ。

この本の起こりは、ルイス・キャロルが子どもたちと船遊びをしていたときに、面白い話をねだられて、即興でお話を語ったそうだ。それが後の『不思議の国のアリス』に発展してゆくのだ。このことからも、この物語は音声から、音で楽しむ物語だと思われる。いや、お伽噺や子ども向けの話しはすべて「語られる」ことでその魅力が発揮できる。

テレビで「日本昔話」という番組を聴いていたが、ゆったりした語り手の口調に自然と引き込まれる。これが文字で書籍を通しての鑑賞ならば、あまり面白さを感じなかったと思う。

Alice’s Adventures in Wonderland は音声で語られ味わられるるのが一番本来的なあり方であろう。ただ、この物語は文字で読んでもかもし出す映像的なイメージも素晴らしい。それゆえに、映画やアニメもたくさん作られてきている。

最近は、ジョニー・デップ主演の映画で見たが、あまりに派手すぎで、これはアリスの物語とは無関係の新しい創作であると考えた方がいいだろう。

Alice’s Adventures in Wonderland を英語学習に使うべきとの意見がある。可能だと思うが、高校生以上に使うべきだろう。ただ、純粋に音だけを楽しむのならば、小学生でも可能かもしれない。

学生の発表を聞いて、説明と感想を書いてみた。書いているうちに、どれが学生の説明か自分のコメントか区別がつかなくなった。その点、ご海容を。

 

幼児に音を意識させること。


子どもに英語の音を聞かせて「繰り返してごらん」と言っても、あまりのらないだろう。そのようなときは、音遊びをすることがよい。音遊びとの一つとして、韻を踏むことの面白さを教えることがいい。

音を聞いて見つけてみよう!仲間はずれはどれかな?

dog/fog/cook
bin/tin/win/can
park/turn/dark/mark
boy/soy/toy/day/joy
mop/drop/cup/crop/stop

この様な問いかけを通して子どもは英語の音の類似性に関心を持つようになると思う。当然、知らない単語がかなりあるが、この音とこの音は何か似ているな、という間隔がつかめればいいのだろう。日本語では、しりとり遊びがある。また「しゃれ」を使っての言葉遊びがある。英語でも、そのようなゲームや遊びを重ねることで、英語の音に関する鋭い感覚が養われる。そしてそれは英詩の理解や、子供用の童謡の理解にもつながる。

英語でも、音声に関する興味を脚韻から入ってゆくことも面白い。絵本なども韻文がいくつかある。それらは脚韻が踏んであるのが普通だ。アリスの不思議な冒険では、次のような言葉が出てくる。

‘How doth the little crocodile
Improve his shining tail,
And pour the waters of the Nile
On every golden scale!

‘How cheerfully he seems to grin,
How neatly spread his claws,
And welcome little fishes in
With gently smiling jaws!’

とくに内容のある文ではないが、言葉遊びの上からは楽しい。この小説が書かれた頃は(1865年)は、物語とは読むものではなくて、語るもの、そこにはナンセンスな言葉ではあるが、要は言葉は楽しく、耳で心地よい文が好まれたようだ。この文は1行目と3行目、2行目と4行目に韻が踏んである。

子どもたちがよく歌うきらきら星の歌も韻がたくさん踏んである。

Twinkle, twinkle, little star,
How I wonder what you are!
Up above the world so high,
Like a diamond in the sky!

When the blazing sun is gone,
When he nothing shines upon,
Then you show your little light,
Twinkle, twinkle, all the night.

Then the traveller in the dark,
Thanks you for your tiny spark,
He could not see which way to go,
If you did not twinkle so.

In the dark blue sky you keep,
And often through my curtains peep,
For you never shut your eye,
Till the sun is in the sky.

As your bright and tiny spark,
Lights the traveller in the dark,
Though I know not what you are,
Twinkle, twinkle,little star.

以下は、Twinkle, twinkle, little star の歌詞である。各連とも1行目と2行目、3行目と4行目は脚韻が踏んである。これらの詩を聴く経験を通して、詩の美しさには内容だけでなくて、形式も完成するという意識が生まれてくる。

ところで、私自身が聴いてみたのでは、自分には各行の脚韻を意識できるほどの英語の語感はない。これは小さいときから、nursery rhyme に数多く親しんでいる英米人の子どもならば、無意識的でも、意識的にも脚韻のもたらすリズム感を聞き取って心地よく感じるのである。日本人の子どもでも、冒頭に示したようなゲームを重なることで、ある程度は rhyme に慣れるようになり、将来、歌や詩を鑑賞するときに役立つだろうと思われる。

Very Benly

イオンにショッピングに出かけた。すると、台所を掃除するクリーナーを売っていた。見ると、とてもハンディで、使いごちが良さそうな商品だった。その商品が入っている箱の側面には Very Benly と謳ってあった。

Very Benly

この広告を考え出した人はなかなかの知恵者だと思った。日本語で発音したら、頭韻と脚韻の両方が踏んである。「ベリーベンリー」である。英語と考えると、語のはじめは、/v/ と/b/ であるし、語の後ろも/ri:/と/li:/となるので、韻を踏んであることにはならない。しかし、日本語であると考えたらまったく問題はない。

現在は英語と日本語の混在が目立ち、それぞれの音の類似が楽しまれている。I や eye ならば、「愛」「会い」と2重に意味をかけたりする。You はよく「遊」とかけて使われる。

北海道の湧別町の遊園地に「Family 愛 Land You」という名前がある。建物内の土産物屋の名前は「遊Youぷらざ」である。岩手県には「遊You亭」というホテルがある。

英語と日本語の音韻体系がまったく異質という意識が薄れて、両者は同じ音韻体系に属するという意識が生まれつつある。この辺りは面白いことだと思う。

脚韻について考え始めている。


今度、3月19日にある研究会で発表をすることになった。自分は今までは言語政策とか英語教育に関する発表をしてきたのだが、前任校を定年退職したことを機会に別のことを発表したくなった。それは、英語の詩を日本語に翻訳する場合は、脚韻はどうするのかという点に最近関心があるからだ。

日本語で書かれた韻文は脚韻はあまり意識されない。ただ、テレビのコマーシャルや芸人の流行口上に韻が踏まれることがある。「セブン、イレブン、いいきぶん」とか「ラーメン、つけめん、僕イケメン」とか「さんまのまんま」などは覚えやすい。リズム感がでるのは、やはり脚韻を用いているからである。

しかし、一般には日本語は脚韻を用いるのは難しいとされている。日本語は開音節で最後が母音でおわるのだが、母音は5つしかないので、同じ母音がきても韻を踏んでいるという感じがしない。滅多に現れない音同士が現れると、音の共通性を強く意識できる。子音+母音あるいは母音+子音が同じならば、数は少なくなるから、韻が踏んであるという感じは出る。上の例で言えば、「ブ+ン」という構造が互いに共鳴しあったのである。しかし、日本語では脚韻を踏むのは難しいという点は変わらない。

岩波書店の『逆引き広辞苑』を今見ている。適当に何かを作ってみる。「岩倉、大柄、あぐら、山上憶良、桜、もぐら」などを選び出し、「大柄な山上憶良が岩倉で、あぐらをかいて、もぐらと桜を見ていたら」というようなナンセンスな文を作ることができる。「から」「くら」などが続くので韻を踏んであるなという気がするが、相互の音の関連性は強くは感じられない。

さて、韻文であるが、外国語の韻文を翻訳を翻訳するときだが、韻を踏むべきかどうか迷う。日本語に訳すときは脚韻は無視している。白雪姫のドイツ語の原文で、悪い女王が世界で一番美しいのは誰かと鏡に訪ねる場面がある。そこは、以下のように韻が踏んである。

“Spieglein, Spieglein an der Wand,
Wer ist die Schönste im ganzen Land?”

“Frau Königin, Ihr seid die Schönste hier,
Aber Schneewittchen ist tausendmal schöner als Ihr.”

これは日本語に翻訳すると、どうなるか。菊池寛翻訳(http://www.aozora.gr.jp/cards/001091/files/42308_17916.html)では以下のようになっている。

「鏡や、鏡、壁にかかっている鏡よ。
 国じゅうで、だれがいちばんうつくしいか、いっておくれ。」

「女王さま、ここでは、あなたがいちばんうつくしい。
 けれども、白雪姫は、千ばいもうつくしい。」

初めの2行では、「鏡よ」「おくれ」とあって、韻は踏んでいない。次の2行では、「うつくしい」という語が二回使われているので、音はそろう。しかしこれは韻を踏んでいると言っていいのかどうか、微妙である。

ここでは、西洋語同士の場合は、どうであろうか。英語ならば、 以下のように韻が踏んでありリズム感が出てくる。

‘Mirror, Mirror on the wall,
Who is fairest of us all?’        

‘Queen, thou art fairest here, I hold,
But Snowdrop is fairer a thousandfold.’

(出典:https://www.gutenberg.org/files/37381/37381-h/37381-h.htm)

これはフランス語では、上の二つは韻が踏んであるが、下の二つは韻は踏んでない。おそらく翻訳者は努力したのであろうが、韻を踏む適切な語を見つけることができなかったようだ。

Miroir, miroir joli,
Qui est la plus belle au pays?

Madame la reine, vous êtes la plus belle ici
Mais Blanche-Neige est encore mille fois plus belle.

(続く)

 

『マイ・フエア・レディー』を観る。

ケーブルテレビで『マイ・フエア・レディー』を観た。面白かった。まだ、階級意識が強く存在するイギリスのロンドンの町での話だ。花を売って生計をたてていたイライザ(オードリー・ヘップバーン)をヘンリー・ヒギンズ教授は発音の教育をしてレディーに仕立てるという話だ。これは有名な話なので、内容には特に言及する必要はないだろう。ここでは映画を観て、自分が考えてことをいくつか箇条書きにして述べてみたい。

(1)学生に見せる教材として面白いと考えた。英語の発音によって階級がはっきりと分かれていること、ロンドンの下町のコクニー発音でも細かく分かれていて、ヒギンズ教授は人の発音を聞いて、どこの地域生まれを即座に言い当てることができる知識を持っていること、などを学生に知ってもらうと有意義だと思う。

(2)proper  English を話すことが階級社会を登ることに必要である。これは全世界的にも成立することになってしまった。日本人なまりの日本式英語を話していると、グローバル社会の中では負け犬になってしまう。日本人でもアメリカ英語が話せるならば、若い頃にアメリカに留学して(それだけの資力のある家庭に育ったことの証明になる)、学術を修めたことを意味している。留学できるだけの知力があるならば、頭脳も優れていることを意味する。という風に一般には信じられている(この英語を観るとそんなメッセージを受け取ってしまうかもしれない)。

(3)英語の世界のヒエラルキーを考えるならば、マイフェアレディーが舞台となった19世紀末のイギリスでは、同時に世界的にも、いわゆるイギリス英語(Received Pronunciation)が世界の頂点に君臨していたが、これが今ではアメリカ英語へと移動してしまった。この頃は、カリフォルニアあたりの英語か、ニューヨークの英語が一番権威ある英語となってしまった。そんな話を学生にすれば、英語の世界の威厳あるモデルが、実は変わるものであることを、学生に教えるいい材料になるだろう。

(4)イライザは/h/の音を出すのに苦労していた。コクニーは/h/の音を使わない。それゆえに、ヘンリー・ヒギンズ教授を「インリー・イギンズ」と発音していた。世界的にも/h/を出さない例はよく見られる。フランス語などはその典型だ。

(5)イライザは、/eɪ/と代わりに/aɪ/を発音してしまう。矯正するために、 The rain in Spain stays mainly in the plain. という文をイライザは繰り返して発音して、/eɪ/の音声に慣れてゆく。The rain in Spain stays mainly in the plain. という文は自分のクラスでも学生に発音させたが、その時に、映画『マイ・フエア・レディー』やイライザが発音矯正のためにこの文を何度も繰り返したという話しをすれば学生は興味を引いただろうと思った。

(6)原作者のバーナードショーは、階級差をなくすために、全員がRPを学んで話すようにすべきとの考えであったようだ。だが、コクニーを自己を表現する大切な資産であるという発想はなかったようだ。この英語は明らかに、「社会方言=悪」というメッセージを学生に伝えてしまう。さらには、「World Englishes =悪」というメッセージにまでつながってしまう。この映画は面白くて学生に音声に関する興味を高めさせる点では有益だが、伝えるメッセージをそのまま受け取らないように学生には警告を発しておく必要があるようだ。