多言語国家マレーシアの言語政策                                   2010-04-15

1.はじめに
第二次世界大戦後、数多くの植民地が新たに独立した。それらの国は旧宗主国の恣意的な線引きによる国境を受け継いだまま建国したため、国内に多くの異なる民族が存在することになった。そのため早急に取り組むべき課題の一つとして、言語統一の問題があった。さらには統治の実用的な使用に耐えうるように、言語を近代化することも課題の一つであった。1957年イギリスより独立したマレーシアは、新興国が直面するこのような課題を解決するために、言語政策を数々遂行していった。 本稿の目的は、マレーシアの言語政策について、主に言語教育政策に焦点を合わせながら、その特徴と歴史を述べることである。本稿の構成ははじめに(1)言語政策とは何であるか、その概念について述べ、次に(2)マレーシアが多言語国家になった歴史的・地理的背景について述べる。そして(3)マレーシア政府による言語政策を歴史的流れに沿って述べてゆく。最後に(4)マレーシアにおける各言語教育(英語、マレー語、中国語、タミール語)の今後の展望と問題点について述べるものとする。

2.言語政策

2.1 言語政策の概念
一般に先進国の人々は、言語は人為的に変えるべきではなく、自然の推移にまかせるべきであるとの言語観を抱くことが多い。しかし発展途上国では、民族統一や近代化という緊急の必要性から、人間の作為を加えながら自国の言語を変えようとする言語政策が実施されてゆく。さらに言語の多様性を先進国では資産と見なすのに対して、途上国では清算しなければならない負債と考える傾向がある。また途上国における言語政策はきわめて重要な政治的・経済的な決定であるのに対し、先進国では対照的に言語問題を教育・文化の問題として捉える傾向がある。いずれにせよ、発展途上国では、経済発展と民族統一のためには、言語問題を巧妙に処理する必要がある。その必要性から言語政策の研究が生じてきた。言語政策の概念自体も第三世界の独立に伴って生じたのであり、その意味で言語政策研究とは比較的新しい学問である。
言語政策とは、ある国家目的のために言語を変えようとする国家の政策であると定義することができる。言語政策はいわゆる「言語の核」に関する政策(corpus planning)と「言語の地位」に関する政策(status planning)とに分けられる (Wardhaugh 1968:336)。前者は言語の内容(核)を変えることである。例えば、ある言語に関して、語彙の拡充、綴り字の確定、文体の確立、標準語の設定、書記法の導入等により言語自体を変えることである。それに対して後者は言語の地位を変えることである。例えば、ある言語を公用語や教育の言語とすることで、その言語の機能領域を広め、政治的地位を高めることができる。
言語政策は主に実用性と象徴性の観点から実行されてゆく。前者は、科学技術や経済の発展という実用性の観点から、言語政策が遂行されてゆくことである。また後者は、言語の象徴する民族の文化、伝統、誇りという観点から、言語政策が遂行されてゆくことである。実用性と象徴性とは、言語政策を遂行する場合、しばしば相矛盾する観点となる。例えば、独立したばかりの新興国にとり、実用性の立場からは、従来の宗主国の言語(英語、フランス語、スペイン語等)をそのまま行政、司法、教育の言語として採用してゆくことが望ましい。しかし民族の誇りあるいは象徴性との立場からは、民族語(マレー語、アラビア語、ヒンディー語等)で置き換えてゆくことが望ましい。政策決定者はこの両者の調整を巧みにおこなう必要がある。言語政策とは、このように言語の実用性と象徴性という二つの異なる目標を追求しながら、核に関する政策(corpus planning)と地位に関する政策(status planning)を実施することと定義することもできる。

2.2 言語の実用性
世界にはマレーシアをはじめとして多人種多言語の国家が数多く存在する。多言語であることと経済発展との間に何らかの相関関係があると想定されるが、Pool (1972)は1962年時点の資料を用いて、多言語である状態(最大語族がその国の人口を占める割合)と、国の豊かさ(一人当りの国内総生産高GDP)の関係を 133ヶ国にわたって調べた。その結果、その当時の多言語国家はほとんど例外なく発展途上国であるのに対して、先進国は単言語国家である傾向が存在することが示された。これは、数多くの言語が並立することにより、国内の交通、通信、商業活動が阻害され、民族対立が誘発され、経済発展に悪影響があると考えられるからである(1)。実用性の観点からは多言語状態は望ましくないと言えよう。
発展途上国の政策決定者たちは経済発展・近代化のために、多言語状態を克服することを目指した。そのために共通語(標準語)の選択が独立後の第一の課題であった。数ある民族語の中から、どの言語を公用語・共通語として選ぶのか、またそれを旧宗主国の言語と、どのように置き換えて普及させていくかは言語の地位に関する政策(status planning)の問題である。また民族語を共通語・公用語つまり行政、司法、教育の言語にするためには、それに耐えうる要件を満たす必要がある。そのために行政、法律、科学技術に関する語彙を造語すること、法律集、教科書を翻訳発行すること、言語の専門家や教員を養成することは、言語の核に関する政策(corpus planning)の問題である。

2.3 言語の象徴性
サンスクリット語は科学技術や商工業には不向きな言語であるが、インドにある18の公用語の一つに選ばれた。選ばれた理由は、サンスクリット語がインド民族の偉大な文化伝統を象徴するからである。またマレーシアでは旧宗主国イギリスの言語である英語が、独立後も行政・司法・教育の言語として十分に機能していた。公用語を英語から民族語(マレー語)に置き換えることは、行政の能率低下、司法の混乱、教育の水準低下を意味するものであったが、民族の自尊心ゆえに置き換えが実行されていった。
また民族語の中でどれを公用語として選択すべきかとの問題がある。ある特定の民族の言語を共通語として選択することは、その民族の政治的、経済的、文化的優位を認めることになり、他民族にとって耐えられない場合がある。インドでは独立当初はヒンディー語のみを共通語とする試みがなされたが、それは偉大な文化伝統を持つタミール語やテルグ語の話し手にはとうてい承諾できない提案であり、結局は複数の民族語が公用語として決定された。マレーシアでも、同じ理由でマレー語だけでなく、あわせて中国語の公用語化も強く主張されてきた。このように言語の象徴性もまた、言語政策を定める重要な要因である。
しかし実用性あるいは象徴性のみの追求はありえない。実用性のみの追求は象徴性と衝突することであり、その逆も同じである。言語政策とは、この両者の間の妥協点を見い出そうとする政策とも言える。本稿のテーマであるマレーシア政府の言語政策も次章以下で述べるように、両者の妥協の産物であり、ある時は一方へ、またある時は他方へ重点を移しながら今日に至ったのである。

3.多言語国家マレーシアの背景

3.1 歴史的・地理的背景(2)
マレーシアは多人種国家であり、その人口は1990年時点で1750万人である。民族構成は主にマレー人、中国人、インド人からなっている。この世界でも有数の複雑な人種構成は植民地としての歴史に起因する。イギリスによって植民地化される以前のマレー半島は、主に海や川沿いの小さな村にマレー人が住む人口希薄な地域であった。マレー人はその当時マラッカ海峡沿いの地域での通商言語であるマレー語を話していた。また内陸各部には少数の原住民が住んでおり、マレー系の言語(ネグリト語、セノイ語、ベランダス語等)がそれぞれ話されていた。ボルネオ島北部(サバ・サラワク)にはイバン語、カダザン語、バジャウ語等の話し手が住んでいた。15、6世紀に少数の中国人がマラッカに移住してきたが、彼らはマレー人と通婚同化して中国語の影響を受けた独特のマレー語(ババ・マレー語)を話すようになった。
しかし18世紀後半のイギリスによる本格的な植民地化の開始により、その社会の言語状況は大幅に変わりはじめた。植民地政府はスズ鉱山とゴム園を開発しようとしたが、マレー人は伝統的に農漁業に従事しており、鉱山やプランテーションの労働には関心を示さなかった。植民地政府は労働力不足を補うために、中国とインドから数多くの移民労働者を受け入れた。これらの移民が現在の複雑な人種と言語構成の原因となる。
当時中国は清朝末期の社会情勢の不安定な時期であり、移民労働者は比較的容易に見つけることができた。彼らは主に中国南部出身者で、中国語南部諸方言(福建語、広東語、客家語、潮州語等)の話し手であった。各方言は相互理解は不可能だったので、地域で最も話し手の多い方言が、その地域の中国人社会の共通語として使われた。例えば、広東語はクアラルンプールやイポで、福建語はシンガポール、ペナン、タイピン、マラッカで、潮州語はジョホールバルで、客家語はサバ州での共通語であった。
インド人は主に南部インドから移住してきた。タミール語の話し手が大多数であったが、他にマラヤラム語、テルグ語、パンジャブ語、シンディ語、ベンガル語の話し手もいた。インド人は地域別・カースト別に多くのグループがあり、インド人全体のまとまりは悪かった。Rogers(1982:50)によれば、ドラヴィタ系(タミール語、マラヤラム語、テルグ語)のインド人はおもにゴム園で働き、北インド系 (ヒンディ語、パンジャブ語、ウルドウ語)のインド人は商業に従事する傾向があった。
移住者のほとんどは一時的な滞在を意図して、ある程度稼いだ後に本国に帰ってゆくのが通例であった。しかし彼らの中から定住を始める者が増え、故郷から家族や親類を呼び寄せて次第に人口も増加していった。現在ではマレー系(約6割)中国系(3割)インド系(1割)との比率になっている。この三民族は人種、言語、宗教、文化があまりにも異なるので、民族間の同化はほとんど進んでいない。その意味で潜在的に常に人種対立へと発展しやすい傾向にあると言えよう。

3.2 多言語併用 (Polyglossia)
マレーシアは中国・インド人の大量移住により、複合社会・多言語社会を形成している。この社会の中では、複数の言語が話され、それぞれが機能的に補完関係にある。このような言語状態はFerguson(1959)により二言語併用(Diglossia)、あるいはPlatt(1977)により多言語併用(Polyglossia)と呼ばれ、アジア・アフリカの旧植民地でよく見られる現象である。マレーシア社会も多言語併用の典型であり、ここでは話し手は話題、話し相手、場所に応じて適切な言語を選択しなければならない。英語はビジネスの場で用いられ、マレー語は官庁や学校教育等の公共の場で使われる。中国語南部諸方言は同族の中国系住民の間で使われるが、北京語が教養のある中国系住民の間で次第に共通語として使われつつある。マレー語はまたマレー人の間で、タミール語はインド人の間で用いられ、ピジン英語やバザー・マレー語(3)は露店や市場での異民族間の交渉に使われる。このような社会で生活するには複数の言語の知識が不可欠である。
筆者は1992年の夏にペナン島近くの中国系の技術者の家に一週間ほど滞在したことがある。その技術者の言語生活をここで例に挙げてみよう。彼の両親は広東省からの移住者であり、家庭では彼は主に広東語を使っていた。しかしペナン島の中国系住民の大半は福建省からの移住者なので、福建語が地域の共通語になっており、彼は少年時代に友人との付き合いの中で福建語を自然に習得した。学校では英語で授業を受けていたが、教科として北京語、マレー語を学んだ。現在職場では同僚には英語を使い、マレー人の部下にはマレー語を使っている。地域の友人とは福建語を用いて交際をしている。家庭では両親には広東語を用い、妻や子供には英語か北京語を用いている。この技術者は生活の必要性から数多くの言語を自然と習得したのである。平均的な中国系住民は、マレー語、英語、北京語、広東語、福建語、客家語を駆使しながら生活を送っている。マレー系、インド系住民も、これほど複雑ではないが、それぞれ複数の言語を話している。
ここで公的な場で教養ある人々によって話される言語を上位言語として、私的な場でくつろいで話されるか、市場等で異民族との交渉に使われる簡単な言語を下位言語とすると、マレーシアで語られる言語をその地位に応じて並べることができる。Platt(1977)によれば、植民地時代には、英語は最も権威ある地位にあり、行政、司法、中等・高等教育、ビジネスの場に使われていた。次には各民族の母語(マレー語、中国語南部諸方言、タミール語)が位置して、初等教育や同じ民族内で使われた。この地位の最下位には露店で使われる簡単な文法構造のバザー・マレー語やピジン英語が位置した。
しかし独立後、言語のこの配列順序は変わりつつある。政府の30年以上にわたる言語政策(マレー語重視政策)は、各言語の地位変更を目指すものであった。政府はマレー語の行政、司法、教育の場での使用を義務化しているために、英語とマレー語の地位が現在逆転しつつある。また中国系住民の間では子弟の教育に、中国本土の標準語である北京語が導入され、中国南部方言と比べて徐々に地位の高い言語となっている。英語教育を受けた中国系住民にとって、現在の言語の地位の順番は、マレー語、英語、北京話、地域共通語である中国方言、母語として使われる中国方言、他の中国方言、そしてバザー・マレー語である。

4.言語教育政策(4)
マレーシアの複雑な言語状態は、歴史的な事情により生み出されたものである。植民地政府は統一的な教育制度よりは各民族間の分離を永続化させるような言語教育政策をとった。それはエリート層には英語教育を、マレー人の一般大衆には初等レベルのマレー語教育を与え、移民たちには彼らの独自性にまかせるという形の政策であった。独立後のマレーシア政府は、一転して、民族の融和を達成すべく、マレー語を共通語とする統一した言語教育政策を取ってきた。以下具体的にその推移を見てゆく。

4.1 第二次大戦前の言語教育政策
19世紀前半から宣教師たちによって英語学校が開設されはじめた。1816年ペナンで地区牧師ハッチンスが政府の補助を受けてフリー・スクール(5)を開設した。1823年シンガポール、1826年マラッカでもフリー・スクールが創立された。1883年エドワード7世校がタイピンで設立され、1894年クアラルンプールでビクトリア・インスティツーションができ、1905年にはシンガポールでラッフルズ・カレッジができた。19世紀半ば以降英語学校も増加して、卒業資格が本国の大学入学資格試験と関連するようになった。ペナンとシンガポールでは英字新聞も発行されるようになった。植民地政府は、支配地の拡大に伴い多量の下級官吏が必要になったので、その養成のために英語学校の設立に意欲的だった。官職につくには英語の知識が不可欠との認識がゆきわたるにつれて、マレー人の王族・貴族の子弟が次第に、英語学校へ行くようになった。1905年ペラク州のクアラカンサルでマレー人上層階級の子弟のために本国のパブリック・スクールに倣った寄宿制のマレー・カレッジができた。1910年からマレー人行政官吏制度が実施され、卒業生の登用が始まった。移民たちも英語学校にも関心を示し、英語が次第に普及していった。政府は多くの教員をインドから連れてきた。彼らの多くは教育を受けたタミール人やマラヤミル人であった。Platt(1983)は彼らの英語はマレーシアの英語に相当の影響を及ぼしたと述べている。B.W.Andaya and L.Y.Andaya(1982:230)によれば、英語学校の功績は従来まったく没交渉であった異なる民族間に絆を作ったことであり、20世紀になってマレーシアという国家形成の際に曲がりなりにも団結する原動力になったことである。
マレー人の社会では伝統的に宗教学校(pondak school)が存在した。これはモスク付属の学校であり、教師はモスクの導師であった。内容はイスラム法の基礎の学習や、コーランをアラビア語の原文のまま暗唱して祈祷の言葉を覚えることであり、実用的な教育とは無縁であった。当時英語学校ではより実用的な教育がおこなわれていたが、敬虔なイスラム教徒であったマレー人たちは、子弟を宣教師による英語学校へ送ることはためらった。そこで植民地政府はマレー大衆のために、1875年セランゴールで、1878年にペラクでマレー語学校を設立した。これらは初等教育の学校であり、マレー語では中等教育以上を受けることはできなかった。1913年から植民地政府はマレー語で授業をおこなう政府補助の学校を大規模に設立していった。その内容は簡単な読み書きと算術を中心とするものだった。教員は、モスクの導師やメッカへ巡礼した者が採用されていたが、質量とも不十分であった。マレー語学校卒業生に中等教育の機会を与え、また教員養成のために、1922年スルタン・イドリス師範学校(Sultan Idris Training College)が設立された。1935年には女性の教員養成のためにマラッカでマレー女子師範学校(Malay Women Teachers’ College)ができた。植民地政府は実用的知識を与えるためにマレー語学校を設立したが、学生たちの多くは思想運動にも関心を示した。後になりマレー人の民族運動の急進派はマレー語学校出身者が多く、英語学校出身者がおおむね保守派であったのと対照的である。なお1903年 R.J.ウイルキンソンは連邦視学官(Federal Inspector of Schools)になりマレー語教育に貢献した。彼は学校教育の場で、マレー語の書記法を従来のアラビア文字(Jawi文字)からローマ字(Rumi文字)へ変更し、マレー語の標準化を進め、学校図書館を設立し、また出版助成をおこなったりした。
植民地政府は移民の教育には干渉しなかったので、移民たちは自ら子弟のために学校を創設し、独自の新聞を発行した。とりわけ中国語学校が数多く開設された。中国語学校は本国とのつながりを重視して、中国本土から教員を採用し、カリキュラムは本国の学校と同じ内容であった。19世紀の前半までは中国語学校では広東語、福建語などの方言で授業がおこなわれていたが、次第に中国標準語(北京語)でおこなわれるようになり、中国人としての統一したアイデンティティが確立されていった。授業も白話文で書かれた新しい教材が使われるようになった。
中国系住民たちは本国に強い帰属意識を持っていたので、本国の政治情勢に強く影響された。1920年代より中国語学校を通して国民党、共産党の激しい宣伝・組織活動がおこなわれた。中国語学校の卒業生は、公用語が英語のために、望むような就職の機会が少なく、不満を抱いて反植民地運動へと走りやすかった。1927年植民地最初のストライキがおこり、以降植民地政府は警戒心を強め、中国語学校に対して従来の放任主義から干渉主義へと方向転換してゆく。それは財政援助を与えることで中国語学校を管理下におこうとしたのである。
インド系住民に関しては、1870年代に宣教師によってタミール語学校がペナン、マラッカ、シンガポールで開設された。また1900年にペラクとヌグリ・スンビラン州で最初の政府によるタミール語学校ができる。この頃ゴム農園経営の学校が各地で開設されていった。農園の学校は、タミール語学校全体の60%を占めたが、設備も劣悪で子供たちは1、2年ほどしか通わなかった。
植民地政府の財政補助ははじめ英語学校、そしてマレー語学校、1920年代には中国語学校に、1930年代にようやくタミール語学校にも拡大されていった。これは植民地政府の各民族の言語への関心の高さの順位を反映している。1941年の戦争勃発時には、初等教育は英語、マレー語、中国語、タミール語で受けられるが、中等教育は英語と中国語に限られ、高等教育は英語だけでしか受けられなかった。植民地時代のマレーシアでは各民族が独自の教育制度を持ち、民族語で教育をおこなっていた。各民族のエリートのみが英語教育を受けていた。イギリスは民族統一の教育政策には関心を示さず、それぞれの民族の教育制度を持続させて、各民族の分割統治による植民地支配の安定化を意図した。このような言語教育政策は植民地体制を補強して、民族間の対立を深め、分離を促進する機能がある。

4.2 大戦後から独立期まで
戦後1946年イギリスはマラヤ連合の構想を提唱した。従来はマレー人には政治的特権が数多く与えられていたが、同構想では、各民族が平等の権利を持ち、非マレー系住民にも市民権が与えられる予定だった。このイギリスの計画はマレー人が今まで享受してきた特権を脅かすものとして、マレー人の間に抗議の大衆運動が起こり、さらにマレー人を代表する組織としてUMNOがダト・オン・ビン・ジャーファルによって1946年5月創立された。その激しい反対に直面して英国はマラヤ連合構想を1946年7月撤回した。そして1948年2月代わってマラヤ連邦が成立したが、そこではマレー人の政治的優位が確認されて、非マレー人の市民権取得は厳しく制限されることになった。これは植民地政府とマレー人の間の協定であり、中国人やインド人は意志決定から排除された。
その反発から、1948年2月主に中国系住民からなるマラヤ共産党の武力峰起が生じた。マラヤ共産党は主に中国系住民からなり、イスラム教を信奉するマレー系住民からの参加者はほとんどいなかった。そのために中国語は共産主義、反イスラムと結びつくものと見なされた。またこの頃中国で共産主義政権が誕生して、各地への革命輸出を強く唱えていた。政府は北京からの政治的脅威を強く感じており、北京のイデオロギーが中国語と中国語学校を通して、国内の中国系住民に浸透して、やがて政府批判を呼び遂には革命を招くと考えた。植民地政府は1948年に非常事態宣言を発して、反乱の徹底的な弾圧をおこなったが、新政府もその方針を踏襲した。中国語教育はマレーシアの分裂を招くものと見なされ敵視された。
これに対して中国系住民の側も対応が分かれた。中国系住民は、早くから移住してきて裕福で英語教育を受けていた保守的なエリート層と、近年になって移住してきて貧しく中国語しか話せない急進的な人々とに分けることができる。前者を「英語派」、後者を「華人派」と呼ぶことができる(金子,1992: 33)。「英語派」は保守的なグループであり、マラヤへの帰属意識を持ち、民族間の協調を達成すべきと考え、政府のマレー語優先政策を消極的にせよ支持していた。これに対して、「華人派」は中国本土への帰属意識を強く持ち、中国語の公用語化や中国語学校の維持を目指す急進派であり、政府の言語政策には真っ向から反対した。
当時、教育の言語に関してさまざまな提案がなされた。マラヤ連合構想では、初等教育は民族語で授業がおこなわれ、中等教育以上は英語でおこなうことが提唱された。1950年にはバーンズ報告(Barnes Report)が出される。その内容は英語あるいはマレー語による国民学校(national school)制度である。各民族独自の学校が民族間の対立を深める結果になったとの反省から、あらゆる民族の子弟は同じ国民学校に通うべきであり、そこで英語とマレー語を習得するものとした。その中で優れた生徒は英語による中等学校に進学するものとした。しかし1951年の中国系のFennとWu両博士の報告では、中国語とタミール語による教育の継続を答申した。1952年にはバーンズ報告に基づいて教育法が制定された。そこでは英語教育をマレー語学校に導入することと、英語とマレー語の教育を中国語学校とタミール語学校に導入することが決められた。しかし独立を間近にひかえ、教育改革の実施は新政府に委ねられることになった。

4.3 独立直後の言語政策
1957年イギリス領マラヤは独立した。各民族のエリート層の代表であるUMNO (United Malayan National Organization:統一マレー国民組織),MCA(Malayan Chinese Association:マラヤ中国人協会),MIC(Malayan Indian Congress:マラヤ・インド人会議)が連盟(Alliance)を形成して独立後の課題に取り組んだ。それは民族間の対立、とりわけ人口の大半を占めるマレー系住民と経済の実権を握る中国系住民の間の対立をどのように緩和するかの点であった。各民族のエリート層は民族間の統一を図るため、ムルデカ(独立)憲法で、いわゆる「取引 Bargaining」と呼ばれる妥協をおこなった。そこでは非マレー人は市民権取得と経済的分野での自由な活動を認められるかわりに、マレー人の政治的特権とマレー語の国語化・公用語化が承認された。以後、中国・インド系住民の反発を受けながらも、マレー語優先主義が貫かれてゆくことになった。
マレーシアは伝統的にマレー人の国家であったが、19世紀以来の移民の流入はマレー人に自らの文化伝統が脅かされてゆく危機感をつのらせた。政治的分野ではマレー人が主導権を握ることが認められたので、国家の言語政策はマレー系住民のナショナリズムに沿ったものになった。その政策は植民地体制と結びついた英語と非マレー人の言語(特に中国語)の影響力を排除して、代わりにマレー語の地位の向上を目指すものであった。そのため言語政策は主にマレー語と英語の対立関係、ならびにマレー語と中国語との対立関係という二つの軸を中心にして展開された。
1957年憲法152条によりマレー語が唯一の国語 (national language)であると定められた。しかしこの年から10年間は暫定的に英語も公用語として(for official purposes)使用され、1967年以降はじめてマレー語が単一の公用語となると定められた。暫定時期の間は連邦議会や州議会で英語の使用が認められ、法律文書は英語で書かれ、法廷では英語を使用するものとされた。
政府はマレー語の整備発展を図るために国語文学センター(Dewan Bahasa dan Pustaka)を1956年設立した。当初20名ほどのスタッフで始まり、1989年時点では1002名ほどが勤務するまでになった。その機能はマレー語を発達させ豊かにするために、科学技術・政治・経済等に関する専門用語の造語、辞書の編纂、初等教育の教科書の発行をおこなうことであった。ここは言語政策の中でも、主に言語の核の部分の改革(corpus planning)を担当する組織であった。
言語教育の改革策として、1956年にラザク報告(Razak Report)が発表され、翌年教育法として具体化された。教育はマレーシアの国家統一に貢献すべきであるとし、各民族の教育制度は公教育に組み入れられ、共通のシラバスや時間割を持つことになった。中国語学校やタミール語学校でもマレー語が教えられることになり、英語とマレー語はどの初等・中等教育でも必須教科となった。しかし、中国語方言(福建語、広東語等)を母語とする児童にとって、就学により中国語(北京語)で授業を受けるわけであるから、三つの新しい言語を学習することになり、相当の負担増になった。またケランタン州やケダ州のマレー方言を話す子供も、学校で新たに標準マレー語と英語を学ぶわけで同様に負担増になった。
また従来は英語と中国語の中等学校しかなかったが、マレー語を授業に使う中等学校が次々と創立されていった。さらに1962年、マレー人に高等教育の機会を与えるためにマレー語を用いるマラヤ大学が設立された。また全国統一試験の使用言語がマレー語か英語となり、中国語での受験は不可能になった。
この当時英語学校の教員と比べてマレー語学校の教員の給与水準が低かったので、マレー語教員の待遇改善と、就職の機会増大のためにマレー語学校の増設の要求が、マレー語学校組合連合(Federation of Malay School Teachers’ Associations)からなされた。また中国語学校の各組合も1959年3月にクアラルンプールにて集会を開き教育に関して15項目の要求を決議した。それは授業の言語と同じ言語で試験が受けられること、中国語学校への財政援助等であった。
ラザク報告に対する中国系住民の反発が強くて、ペナン、イポ、クアラルンプールでは暴動が起こった。このために政府は政策の見直しを約束して、タリブ委員会に検討を依頼し、1960年にタリブ報告(Talib Report)が提出された。それは翌1961年に新教育法として具体化された。しかしその内容はラザク報告の内容を再確認しただけではなくて、さらにマレー化と中央集権化の傾向を強めるものだった。必修科目としてのマレー語と英語は再確認された。また小学校教育は無償となり、中学三年(FormⅢ)までは生徒は自動的に進級することになった。中国語(タミール語)中等学校は、英語かマレー語を授業の言語とする国民型中等学校(National- type Secondary School)へ転換することを条件に、政府の財政援助が続けられるものになった。それに従わない場合は私立の独立中国語中学校(ICS: Independent Chinese School)として扱われ、公的補助は廃止されることになった。さらには1967年以降はマレー語のみが中等学校の授業で使われるものとした。
1962年から中国語(タミール語)学校への財政援助が停止されたために、多くの学校は公的援助を受けるために英語学校への転換を余儀なくされた。「英語派」を中心とするMCA幹部はこの政策を承認するが、中国語学校の教員たちは憲法で保障された言語の使用の権利を侵害するものと強く反発した。しかし「英語派」の指導のもとに多くの中国語学校が国民型中等学校へと移行した。当時存在した70校のうち16校がICSとして残ったが、ICSへの進学者は年々減り続けていくことになる。また中国語小学校は中国語媒体のまま政府の財政負担で運営されることになったが、文部大臣が適切と判断したときは、中国語やタミール語を使う「国民型学校」を、マレー語を用いる「国民学校」へと転換を命じることができると教育法の第21条の(2)で規定されたために、非マレー系住民にとって大きな不安材料となった。
1963年9月北ボルネオのサバ、サラワク州とシンガポール(後に離脱)も連邦に加わり、マレーシア連邦が成立した。マレーシア連邦成立に伴い、マレー語も正式にはマレーシア語と呼ばれることになった。新しく加入したサバ、サラワク州ではマレー語は国語と認められるも、10年間の期間(1973年まで)は英語の公用語としての使用も認められ、その後は州議会の定めに従うことになった。1967年から、サバ州でマレー語のみを教授言語とする中等学校が設立され、サバ・カレッジ(Sabah College)では1968年から英語に代わってマレー語のみの授業が始まった。州営ラジオ局では1968年にはマレー語の放送が英語よりも長くなった。しかしサラワク州では1973年という公用語化の期限にもかかわらず、州政府はマレー語化へは消極的であった。サラワク州の初等・中等学校では、授業は英語と各民族語でおこなわれていて、マレー語は必須教科でさえなかった。しかし1966年に中央政府による州のニンカン首席大臣の解任をきっかけとして、マレー語化政策が遂行されていった。

4.4 人種暴動とそれ以降
1967年という10年間の暫定期間の終了時期が近づくにつれて、言語問題をめぐる議論は白熱していった。中国語の公用語化を求める運動が再燃し、さらに独立大学(Meredeka University)問題が起こった。上級学校進学のための全国統一試験においてマレー語の合格点が必須になったため、中国語中等学校の生徒の高等教育への機会が閉ざされることになった。そのために中国系住民の間に中国語を媒体とする私立の「独立大学」を設立しようとの計画が1968年から持ち上がった。それに対して政府は1978年正式に拒絶するも(6)、代替案として、中国系学生の職業訓練を主目的としながらも、授業の言語は英語として、他民族にも開かれた高等教育機関であるタンク・アブダル・ラーマン・カレッジ(Tunku Abdul Rahman College)を設立した。さらにはマレー系学生に有利になっている国立大学の入学者定員の割当の一部手直しをおこなった。
一方マレー系住民の急進派は、1964年国語行動戦線 (National Language Action Front)を結成して、マレー語化政策の一層の徹底を叫び、政府に対して圧力をかけた。1967年3月に国語法案(National Language Act)が議会を通過してマレー語が唯一の国語兼公用語と規定される。しかしその実行に関しては、公文書や法案などの他言語への翻訳を認めるなど不徹底な要素を含んでいたため、マレー人にとって不満な内容であった。マレー人と中国人の対立は1969年の総選挙に際して、かってないほど高まった。1969年5月13日遂に人種暴動が起こり、多数の死傷者が出た。政府は即日非常事態を宣言して、憲法と議会を停止して事態の収拾を図った。
この事件を契機として、政府は民族間関係を管理する必要を感じ、従来の妥協的要素は一掃され、一気にマレー化が進んでゆく。1971年に憲法が一部修正されて、議会が再開された。修正憲法第10条の(4)において、言語問題、市民権、マレー人の特権のような民族間の微妙な問題はそもそも公の場で議論することすら禁止された。そして人種問題の根本にある経済格差の是正のために、新経済政策(New Economic Policy)が実行されてゆくことになる。
公文書、公的出版物はマレー語でのみ書くことが義務づけられ、公的な掲示はマレー語のみとなった。1972年下院議長は次の国会よりは質問と動議はマレー語のみでおこなうようにと布告した。ただし、法廷では英語からマレー語への転換は遅々として進まなかった。また政府補助の英語学校はすべてマレー語学校へ転換されることになった。それは中国系・インド系の生徒はマレー語学校へ進学しようとしなかったので、マレー語の普及のために英語学校の廃止が必要と政府が判断したからである。1970年に小学校1年から順次マレー語への転換が始まり、1976年には国民型初等英語学校(National-Type English Primary School)は、すべてマレー語の国民学校(National School)に転換された。1982年には中等学校でもこの転換は完了した。1983年には大学での授業もマレー語化されていった。しかしこの急激な変換によりマレー語の熟練した教員と教科書の不足に悩まされた。また当時は中等教育の義務教育化により規模の拡大が同時におこなわれていたので、その不足は一層深刻であった。英語の中等教育終了者に対しても、1970年以降は、統一マレーシア試験(MCE)ではマレー語においても合格点を取ることを要求されるようになり、さらにはあらゆる試験はマレー語でのみ実施されることになった。
高等教育においてマレー系学生の特別割当性が実施され、科学・工学・医学の学科ではマレー系学生は優先的に入学が許可された。1970年にはマレー語だけを授業の言語とするマレーシア国民大学(Universiti Kebangsaan)が創立された。
これらの政策により、かえって中国系住民の民族意識は高まり、独立中国語中学校(ICS)への進学者が増加した。中国系住民にとって、国民型中等学校(NTSS)かICSへ進学するかの選択は、重点を実用性に置くか民族の誇り(象徴性)に置くかにかかっている。1975年より中国語学校教育組合連合(UCSCA)は独自に中国語(これはマレー語と英語訳でも受験可能)での統一試験をはじめた。これは海外の大学(シンガポール国立大学、台湾、合衆国、イギリスの大学等)の入学資格とも関連して、ICS卒業者にも受験資格を授与することができるようになった。従来ICSは NTSS を入学するには成績の及ばない生徒のための学校との性格も強かったが、次第にICSを第一志望とする生徒も増えてきた。1983年の時点では、半島マレーシアの37校で、35,945名の学生が在籍して、これは中国系学生の全体の 12%を占めるまでに至った。

5 現状の教育制度
1961年以来現在まで6-3-2-2-3制の教育制度が続いている。内容は初等教育(6年)、下級中等教育(3年)、上級中等教育(2年)、大学準備課程(2年)高等教育(3年)(7)である。初等教育は6才より始まり、第1学年(StandardⅠ)から第6学年(StandardⅥ)まである。初等教育は授業に用いる言語によって、国民小学校(National Primary School)と、国民型小学校(National Type Primary School)に分けられる。国民小学校では授業は国語(マレー語)を用い、第1学年の後半から教科として英語が教えられる。国民型小学校では授業は中国語(あるいはタミール語)(8)を用い、教科としてマレー語が教えられ、第3学年からそれに英語が加わる。英語を用いて授業する英語学校はすでに廃止されている。
1983年から新初等学校カリキュラム(KBSR)が導入された。新カリキュラムによれば、国民小学校では1~3学年は週15コマ(1コマ30分)のマレー語と8コマの英語が必修とされ、4~6学年は週11コマのマレー語と週7コマの英語の授業をおこなう。国民型小学校では1、2学年では英語の授業はなくて、3年から2コマ、4~6年は3コマの英語の授業があり、国民小学校と比べて英語の習得に不利になっている。小学校終了時にPSAT試験(Primary School Assessment Test)がおこなわれる。試験科目はマレー語、英語、中国語(あるいはタミール語)と数学である。この試験は児童の学習の到達度を評価するためであり、成績の如何にかかわらず下級中等学校に進学することができる。
中等教育は下級中等教育(中学校:FormⅠ~Ⅲ)と上級中等教育(高等学校: FormⅣ~Ⅴ)に分けられる。中等教育では授業はすべてマレー語でおこなわれるので、国民型小学校からの生徒は授業が理解できない恐れがある。そのため国民小学校からの生徒はすぐにFormⅠへ進学できるのに対して、国民型学校からの生徒は一年間Remove Classでマレー語の集中訓練を受けた後、FormⅠへ進学する。英語の授業は各学年とも5コマ(1コマ35分)である。1989年に新中等教育カリキュラム(KBSM)が導入された。その特徴としてはコア教科の一つに歴史が加えられ、マレーシアの国家形成の意味が教えられるようになった。なおマレー系生徒はイスラム研究の一環としてアラビア語の学習ができる。
下級中等教育の終わりに生徒はLCE試験(Lower Certificate of Education Examination)を受ける。マレー語と英語を必修として6~8科目を受験する。この試験の成績に基づいて、上級中等教育(FormⅣ~Ⅴ)への進学が決まり、普通科、技術科、職業科へと振り分けられる。英語の授業は5コマであるが、さらに3コマ選択することができる。上級中等教育の終わりには普通科と技術科の生徒はMCE試験(Malaysian Certificate of Education)を受ける。マレー語と英語を必修として6~9科目受験しなければならない。FormⅤの終了後に生徒は、教員養成学校(2あるいは5年制)、ポリテクニック(2、3あるいは5年制)や FormⅥ(大学準備課程)への進学と分かれる。FormⅥでは英語は必修科目ではないが、高等教育では再び英語が必須科目である。FormⅥの終わりにHSC資格試験(Higher School Certificate)を受ける。マレー語は必修であり、マレー語に不合格点を取ると、この資格は与えられない。英語も必修であるが、それが合格点に達しなくても資格を取ることは可能である。
高等教育については、マレーシアでは大学の数は限られており、マラヤ大学、科学大学、国民大学、農業大学、工科大学、国際イスラム大学、北方大学の7校だけである。マレー人優先割当性もあり、非マレー系学生は海外の大学で学ぶ傾向がある。1990年時点で52,000人の学生が海外の大学に在籍している。

6.経済的格差の是正
多言語社会ではエリートと一般大衆の間には言語のレパートリに大きな差がある。一般に第三世界のエリートは支配層の言語(通常は英語、フランス語のような旧宗主国の言語)を独占することで自らの権力を維持しようとする傾向がある。旧宗主国の言語を独占維持し、その言語による植民地時代からの教育制度、行政制度を続けることは、現在の地位を確保してゆくことにつながる。このように言語独占によって自らの権力と地位を確保してゆくことはエリート・クロージャ(Elite Closure)と呼ばれている(Scotton 1990)。
マレーシアでも、英語教育は植民地体制のもとでエリート階層を生み出した。英語学校は高い英語能力を持つ卒業生を送りだし、彼らは官職や専門職に就いた。1950年後半までには英語は各民族のエリート階層にとっては共通語になっていた。中国系・インド系住民は主として、都会に住み商工業に従事していたが、マレー系住民は地方で農魚業に従事していた。都市部に住む多くの中国人やインド人は英語教育を通して、経済的・社会的成功をおさめた。移民たちは英語力でもって、政府の役職、ビジネスの情報、科学技術情報を入手することができた。また医者、法律家、技術者等の専門職も移民たちによって占められた(9)。しかし人口の大半を占めるマレー人は教育を受ける機会が少なく、その結果社会的成功もおぼつかなかった。植民地政府は当初は英語学校の開設に意欲的であったが、卒業生にふさわしい仕事を十分に提供できないために、英語学校を一定数以上増やすことには次第に消極的になった。限られた数の英語学校も教育熱心な中国系、インド系住民の子弟によって占められるようになった。このために民族間の経済力の違いは歴然としてきた。
独立後も民族間の経済力の格差は開く一方で、第六次マレーシア・プランの報告によれば、マレー系住民のの平均所得を100とすると、中国系ならびにインド系の所得は170およびに120である(Sixth Malyasian Plan 1991:11)。この格差是正のために、あるいはエリート・クロージャの克服のために、公用語を英語からマレー語へと置き換える言語政策が取られてきたと言えよう。

7.今後の展望
(1)英語
マレー語推進政策により、国民の間にマレー語が浸透し英語に代わって共通語になりつつある。しかしそれは同時にマレーシア人全体の英語能力の低下をもたらした。1991年雑誌ファー・イースタン・エコノミック・レビューは「近頃英語の水準が落ちており極めて憂慮すべきことになりつつある」と警鐘を鳴らしている(Vatikiotis 1991:29)。英語能力の低下はマレー系住民の間で顕著であり、皮肉なことにマレー系住民と非マレー系住民との経済格差を生み出す原因にもなりつつある。近年になり英語の観光、貿易、科学技術での重要性が認識されるにつれて、政府は少なくとも現状の英語能力の維持を目指し始めたようである。第6次マレーシア計画では「これ以上の英語能力の低下を阻止するために、英語教育にこれまで以上の重点を置かねばならない」と述べている(Sixth Malaysian Plan,1991:170)。マレーシア政府は英語に関する言語政策を若干手直しつつあるが、あくまでも英語がマレー語の地位を脅かさない範囲内で、英語教育の振興が認められている。
(2)マレー語
マレー語化政策のある程度の成功と70年代以降のマレーシアの経済的発展は、マレー語に対する自信を深めることになった。新聞ニュー・ストレート・タイムズ(August 12,1992)は、「マレー語国際会議」の講演でラフィダー通産大臣がマレー語をASEAN諸国での共通語とすべきことを提案したことを紹介している。同大臣は、東南アジアは、人口・資源・発展の速度から見て、世界で有数の経済発展地域であり、マレー語はマレーシア、ブルネイ、シンガポール、インドネシアでの国語として、ほぼ2億人の話者がいるので、この地域での共通語に、あるいは世界の中での有力言語になりうると述べている。
しかしマレー語の将来に対して、より厳しい見方をする人もいる。科学大学の マシュディ・ビン・ハジ・カデル博士は、マレー語の共通語化運動に対して、「人々の中にはマレー語に対して、現実から遊離したセンチメンタルでエモーショナルな感情を抱いている人がいる」と批判していた(10)。またインドネシアとの間で両言語の語彙や綴り字の統一を図るために、定期的に会合(Malaysian- Indonesian Language Council)が開催されているが、作業はなかなか進展していないようである。国語文学センター(Dewan Bahasa dan Pustaka)の言語計画部門の責任者の ハジ・ハムダン・ビン・ヤーヤ氏によれば「インドネシアとの間では、両言語は一致しなくてもいいとの点で一致した」(11)と皮肉を込めて語っていた。マレーシアの学校においても今だに異なる綴り字のマレー語を教えたり、教員の中には標準マレー語の話せない者も多く、国内での環境整備を優先せざるを得ない。
中国系住民の中でも、マレー語で教育を受けた世代が育ちつつあり、書き言葉としてはマレー語が一番得意であるという世代も誕生しつつある。しかし一般には、中国系住民はマレー語に対する関心をほとんど示さない。若い世代も試験を受ける必要性からやむをえずマレー語を勉強している実状である。マレー語は今だにマレー人の言語との意識があり、中国系住民の家庭でも使われるには、道はまだまだ遠いと言えよう。
(3)中国語
中国系住民のマレーシアへの同化圧力が高まる中で、中国語への愛着は依然強いものがある。独立中国語学校(ICS)への進学者の数も近年は増加している。方言から中国語(北京語)への傾向が強まり、若い世代では、広東語や福建語は話せるが、読み書きは北京語のみである人が増えている。
マレーシア政府の中国語に対する規制は緩和されつつある。樋泉(1993)によれば、その理由は、マレーシア政府は共産中国のイデオロギー輸出は過去の話になったと判断しており、台湾からの豊富な資金を導入するために投資環境を整備したいとの意図があるからである。また今後中国南部、香港、台湾、東南アジアを一体とする経済圏の成立が見込まれ、この地域の共通語として中国語が必要であるとの認識が広まりつつあるからでもある。その意味で将来的には中国語の復権も予想されうる。
(4)タミール語
タミール語は南インド、スリランカでも用いられ、全体で3000万人以上の話し手がいる大言語である。しかしマレーシアにおけるタミール語の地位は低く、また教員と教材の不足に悩まされている。タミール語の習得に経済的意味を見い出せない人が増え、家庭内でもマレー語や英語への転換が起こりつつある。マレーシアにおけるタミール語の将来は決して明るいとは言えないだろう。

8.おわりに
現在マレーシアは経済発展を謳歌しており、民族間の関係は比較的良好であるようにも見える。しかし各民族の奥底にある不信感は依然強いものがある。筆者の友人である中国系技術者は、マレー人は本来怠け者であり、政府から手厚い保護を受けている割には生活は貧しいと蔑視していた。筆者のマレー系の友人である語学教師は、中国人がマレー人の国へやってきてマレー人の権益を脅かし、マレー人を軽視してマレー語の習得に関心を一切示さないと、しばしば義憤を示していた。このような民族相互の反感はいつでも大きく爆発する可能性がある。
マレーシアは言語政策の面から見て、実用性よりも民族の誇り(象徴性)に重きをおいてきた政策と言えよう。しかしそれはマレー人の誇りにのみ関心を払い、非マレー人の誇りに関心を払う余裕がなかったと言えよう。多様な民族をマレー人の言語文化へ統合しようとする政策であり、他民族は当然強く憤慨する。その憤慨に対してマレー人は反発して、言語政策をますます非妥協的なものにしてゆく。その意味では民族統一という大きな目標には、戦後の言語政策は必ずしも成果をあげたとは言えないだろう。
民族統一をより深い次元でおこなうためには、各民族の理解を得られるような多言語・多文化教育へと転換してゆく必要があろう。マレーシアの今後の言語政策がどのように発展してゆくかは大変関心が持たれることである。

(1)しかし Coulmas (1992:47)のように経済発達と言語の統一性の間に実質的な因果関係があると想定することに懐疑的な見方もある。
(2)本節の記述は主として、Asmah Haji Omar(1982, 1987)による。
(3)バザー・マレー語は、接辞や活用がなくなり簡略化したマレー語の文法構造を持つが、同時に語彙として中国語諸方言やタミール語をも取り入れた言語である。
(4)本章の記述は、主に K.Watson(1973), Mauzy(1985), Tan Liok Fe(1988), Tan Chee-Beng(1988), 田村(1988), Khoo Kay Kim(1991), Ozog(1993)による。
(5)この学校は人種、宗教を問わず、自由に志望者を入学させたので、Free Schoolと名づけられた。
(6)大学設立の希望は中国系住民によって、法廷に持ち込まれた。しかし1981年高等裁判所,1982年連邦裁判所で却下された後、この問題は鎮静化する (Tan Liok Fe, 1988:64)。
(7)ただし理科系は4年、医科歯科系は5~6年の在学が必要である。
(8)ごく僅かではあるが、テルグ語、パンジャビ語、タイ語で授業がおこなわれる学校もある。
(9)もっとも移民たちも移住した時期により、経済力が異なる傾向があった。初期に移住した者はマレーシアへの同化も進み、英語教育を受け比較的裕福な暮しを送っていた。しかし後期に移民してきた者は中国語、インド語しか話せず、社会的にも恵まれていない。
(10)(11)1992年夏それぞれ筆者がインタービユーする。

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