定型詩と自由詩の翻訳について


詩が美しいというのは何故だろうか。まず内容の美しさがある。雄大な自然を描写した詩は美しい。母親の子どもへの愛情をうたった詩は美しい。

これらの詩はある程度、描写がまずくてもそれなりの感動を与えるのである。稚拙な表現でも、「素朴な表現の中に真実性が見られる」とか、「荒削りの表現が生きている」とかなんかと言って褒め称えることが多い。

これが、スラム街の描写だとか、育児放棄の詩ならば、いくら表現が巧みでも人に美しいと思わせたり、感動を与えることはないであろう。

フランスのボードレール?だったかの詩に犬の死骸を描写した詩があった。読んで気持ち悪くなったが、詩人というのは、いろいろな実験をするのだな、と感心したことがあった。

詩の内容に関しては、過去の詩や歴史上の大事件などに言及して価値を高めることがある。和歌における本歌取りなどはその例である。過去に書かれた詩が喚起するイメージをも、取り込むという点で、イメージを重ねたり広げたりすることができる。

このように内容は詩の価値を決定する一つの要因であるが、形式の詩の価値を定める大きな要因である。

詩は読むのか、聞くのか。読む場合は、漢語が多いな、とか、カタカナが多いな、という感想はいだくだろう。聞く場合は、リズム感が大切である。文字が5・7調とか、7・5調とかで並んでいて、5・7調は力強く、7・5調は優雅というような解釈もある。

英語の詩では脚韻がそろう。英語に限らず、西洋の言語のほとんどがそうであり、定型詩が主流であった。それに対する反発から自由詩も生まれてきており、現代では自由詩が主流である。

1886年にアルチュール・ランボーの詩集『イリュミナシオン』に「海景」Marineと「運動」Mouvementという自由詩が掲載され、これがフランスにおける近代自由詩の誕生と見なされている。

アメリカでは、近代自由詩の創始者といえるウォルト・ホイットマンが1855年に詩集『草の葉』を刊行して、フランスに先駆けて自由詩が本格的な成立を始めた。『草の葉』では、従来の英語詩の韻律を大胆に排し、行分けの散文が試みられた。

詩の世界では長らく定型詩が盛んであったが、19世紀の後半から自由詩が試みられきた。定型詩は古典的な秩序だった調和的な世界を醸し出す。自由詩は近代的で奔放な精神を表すと言えよう。

詩を定型詩と自由詩に分けるならば、日本語に翻訳する場合は、どちらが難しいだろうか。どちらも難しいのだろうが、定型詩を訳すときには、定型という制約は日本語にも課するべきだと思う。

西洋の自由詩は日本語でも自由詩に翻訳すべきである。定型詩は日本語でも定型詩で訳すべきである。つまりは5・7調とか、7・5調である。ただし、和語ならば比較的に5・7調や7・5調に納めやすいが、カタカナ語や漢語は納めにくいという特徴がある。

定型詩の魅力は内容と形式の両方にある。内容だけに注目して、自由詩で日本語に訳するのは定式の持つ美しさを切り捨てることになる。

結論を急ぐが、英詩の大半をしめる定型詩を訳す場合は、日本語は何かの形式を取り入れる必要がある。それは自由詩ではなくて、5・7調とか、7・5調の口調であろう。