芳林堂が倒産する。

2016-02-27

芳林堂が倒産したというニュースを聞く。芳林堂か。自分にはとてもは懐かしい響きである。大学生の頃、池袋の芳林堂書店にはよく行っていた。学校の帰りによく立ち寄ったものだ。あの頃の自分は本を読むことしか楽しみがなかった。携帯電話もビデオもネットもない時代である。

テレビはあったが、せいぜい5つぐらいのチャンネルで今のように数え切れないチャンネルから選ぶということはできなかった。そんな少ないチャンネルでも人々は一生懸命見ていた。電車の中では、読書をしている人が多かった。たいていは新聞か週刊誌か文庫本を読んでいたのだ。

今は電車の中は、スマホでメールをしたり、ゲームをしたり、ブログを読んでいる人が多い。スマホを見ながら歩いている人も結構いる。

「芳林堂」という言葉の響きは自分を40年ほど昔に連れ戻す。5階か6階に洋書売り場があった。時々無理をして何冊か購入したものだった。辞書を片手に読み始めて、たいてい数ページで挫折したものだった。洋書をたくさん読んでいた友人に洋書の読み方を聞いたら、「わからない単語は無視して読んでいく」と教えてもらった。

そんなものかとある小説を選び、「単語は気にせずに読み飛ばしていったら」確かに、最後まで読みきることができた。そしてその小説の全体のイメージは何となく掴めた。それをきっかけに英語の本を読むコツがわかり、学生時代に何冊か読み上げた。英語の本を楽しみながら読んでいくことができるようになった。

池袋の街は駅の周辺しか知らない。と言うか、芳林堂と東武デパートのレコード店しか知らなかった。その頃は本とレコードを買うことだけが楽しみであった。

でも、御茶ノ水の界隈はよくうろつき回っていた。一日中歩き回り、それでも全然疲れなかった。御茶ノ水の界隈は、学会や研究会がよく開かれるので、出張のたびに、その辺りは動き回る。それなので、この数十年の街並みの変化はよく知っているつもりだ。

だんだんと古本屋がなくなり、他の店に商売替えをしていく。学生向けの地味な街が徐々に華やかなファッションの街並みに変化していくと言ったらいいのか。本屋や古本屋がなくなるのは寂しいが、この自分も最近はアマゾンか kindle で本を購入することが多い。これも時代の趨勢だろう。

「芳林堂が倒産」というニュースを聞いて、いろいろな思い出がよみがえってきた。ちょっとした思いをいつくか書いてみた。 

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ケータイ小説の文体

2014-11-24

ケータイ小説というジャンルがある。若い人たちが携帯(スマートフォンなども含めて、ここではケータイと表記する)を常に持ち歩き、大げさに言えば24時間その画面を見ているようになってきた。その画面で小説を読む、ことがはやりつつある。それらの小説の特徴としては文が短い。1,2行ほど書いて行を空ける。かなり大きな空白をとることがあるが、その空白は意図されたものであり必要不可欠な空間となっている。

若い人の間では、予約を入れたりメモを取る時は、ケータイに打ち込むことが増えつつある。その延長のように見えるケータイ小説もある。

小説を書くこともケータイでできる。アイデアが浮かんだ時はすぐに加筆できる。その場合は、パソコンで書く時よりは、誤字脱字も増えるようだ。ケータイという狭い画面を意識して文の見栄えを工夫しなければならない。背景を黒にして白い文字が浮かび上がるようにする作家もいる。独特のルールを決めている作家もいる。たとえば、主人公が話す言葉は『 』を使い、その他の人の話す言葉は「 」を使う、というようなルールである。絵文字を使う作家もいる。

ケータイ小説の社会的な特徴は、だれでも小説を書くことができるようになったことである。原稿用紙に文字を記して出版社に送り、出版社の編集会議で承認されて、初校・校正・二校・校正・念校、印刷、配本という気の遠くなるようなプロセスをすべて省略して、ただネットにアップするだけで良い。

文壇という小説の作法を定めた権威をまったく迂回して小説ができてしまう。いくらでも新しい試みが行われる。

さて、この傾向はいつまで続くのか。この文体の傾向は永続的に続くのか。それはケータイという電子媒体がいつまで存在するかとも関係する。昔はポケットベルが普及して、高校生達は数字の組み合わせでメッセージを送ったものだった。しかし、その数字の組み合わせによる語彙や文法はいまや廃れてしまった。ケータイも今は、皆が使い、まるで永続的に使われるように思われるが、やはり寿命は限られているであろう。

それに比べると紙を媒介とするコミュニケーション方法には何千年という歴史があり、これからも長く利用されるであろう。ともあれ、ケータイ文化が生み出した文体がどのように紙の書籍の文体に影響を及ぼすか、注目したいところである。

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電撃文庫大賞

2014-11-13

あるゼミ生と話していたら、電撃文庫というものの存在を教えてもらった。そのゼミ生は電撃文庫を運営する出版社の主催する新人賞である電撃小説大賞を狙っているそうである。ネットで調べると、大賞は賞金300万円と受賞作品でデビューすることができる。次の金賞と銀賞は賞金が100万円、50万円でやはり受賞作品がデビューとなる。ライトノベル系の新人賞では最多の応募数を誇っており、第20回(2012年募集開始)の応募総数は6554作品に達した、とのことである。 

このことから、若い人たちで文学を目指そうとする人は、一つの選択肢として電撃文庫大賞を狙うようである。ゼミ生は果たして自分の夢を実現させることができるかどうか、それはゼミ生自身の努力にかかっている。中学生時代から書き始めて、現在までは第7話まで書き溜めているそうである。冒頭は、「教室で主人公が寝ていて、ふと目が覚めると見知らぬ人が横に座っている、、、、」というような内容である。全体のアイデアは企業秘密とのことで、あまり教えてもらえなかったが、このゼミ生の小説が将来に本屋さんにたくさん並ぶことを期待する。

公募新人賞の一覧というサイトhttp://www.sakkatsu.com/pubcontest/がある。日本には膨大な数の新人賞があるようだ。書き手になろうという人がこんなにいるということは、同時に読み手もたくさんいるということである。人間はどうも物語を読みたいという欲望があるようだ。知らない世界を知りたいという好奇心は物語を読むことである程度は満たされる。物語欲と言ったらいいのか。食欲、性欲、物欲、名誉欲と同様に「物語欲」は人間に確実に存在する。

私も定年退職後は小説を書いてみたくなった。それで、ゼミ生とは将来直木賞の二人同時受賞を目指そうと誓い合ったが、実現するといいなあ。