科研の会議に参加する。

昨日は科学研究費に関する会議があり、私は名古屋にてS先生と会って、いろいろな話をした。私は研究分担者であり、S先生が研究代表者である。

今年度は、だいたい3つのことを研究しようという話になった。

(1)オノマトペの研究。たとえば、「木の葉が風にそよいで、カサカサ音を立てている」という文章は「カサカサ」を英語にすることができない。どうしても、The leaves rustled in the wind. のようにrustled という動詞で表してしまう。

以下、同様な例として、「竹がパチパチと音と立てて燃えている」The bamboos are  cracking as they burn. 「窓をコツコツと叩く音が聞こえた」 I heard a rap on the window. などがある。

逆に、英語の文The leaves rustled in the wind.をみると、私などは普通「木の葉が風に騒いでいる」のようにオノマトペを入れないで訳してしまう。オノマトペを入れて訳す人は、相当の語学力を持った人だと思う。

このような日本語のオノマトペを英語のどの様に示していくか、なぜ日本語にはオノマトペが多いのか、英語でオノマトペの雰囲気を上手に表現するにはどうしたらいいのか、このあたりを研究してみたい。

(2)外国人向け病院対応マニュアル英語版および対応カードの作成を行いたい。

外国人の増加に伴い、病院で使われる表現をいろいろと集めてみたい。これにはまず本がたくさん発行されているので購入してみたい。

なお、日本人が医者に病状を述べるときには、オノマトペを使うことが多い。「酒に酔って足がフラフラする」The drink makes may legs unsteady. 「頭がずきずきする」My head throbs.  「頭がくらくらする」I feel my head spin. 日本人が英語圏で医者にかかったときに、オノマトペはどの様に英訳するべきか、その事例集を考えてみたい。

(3)春田先生が集められたカードをデジタル化してみたい。以前、「春田勝久先生の思い出」という記事で、 先生のカードの紹介をした。手書きであり、なかなか利用しづらかったのであるが、科研で謝金が使えるので、学生にデータを打ち込みをしてもらう、あるいは、専門の業者にお願いしてデータ化してもらってもいいかなと考えている。

とりあえずデータ化して、それをこのブログでもいいし、他のブログでもいいから掲載して、関心のある人に使ってもらいたいと考えている。


以上、様々なことを議論したのだが、しばらくは試行錯誤をしながら、S先生やその他の研究分担者の方と一緒になって科研の目的に沿うような研究をしていきたいと考えている。

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梅が咲いている。

2016-03-07

退職の日が近づいてきたので、今日は研究室の書類の整理をしていた。たくさんの書類だが、シュレッダーにかけた方がいいものはシュレッダーへ、ゴミ箱にそのまま捨てていいものは捨てる、その仕事をずっと行っていた。

さて、研究室での仕事にやや疲れたので、中庭のあたりをブラブラする。そこには梅が咲いている。この木は、何年か前に病没した学生の母親が本学に寄贈してくれた梅なのである。その学生は3回生の時に、膠原病という病気になり、しばらく療養していたのだが、治療の甲斐なく世を去ったのである。

膠原病という病気の原因はまだ不明な面もあるそうだが、若い女性に多い病気だと聞く。わが子を失った親御さんの嘆きはいかばかりかと推し量ると私も沈痛な思いになる。

親御さんは娘の在学した証(あかし)として中庭に梅を植えたいと申し出られて、本学に梅を贈られた。その梅だがはじめは1メートルぐらいの背丈であったが、毎年成長してゆき、今では、3メートルぐらいまで大きくなった。毎年冬が終わりそうな頃になると見事な梅を咲かしてわれわれの目を楽しませてくれる。

二十歳前後の若さで世を去った学生、その無念な気持ち、さらにご両親のお気持ち、この梅を見るごとに自分自身もいろいろな思いがこみ上げてくる。

この梅が夭逝した学生の代わりに、成長してゆき、この大学の教職員や学生の守護神になってほしい、などと自分は少々センチメンタルなことを考えた。これも退職が近づいている自分がよく昔を思いふけったりしているからであろうか。

思いの儘に
思いの儘に
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採血をする。

2016-02-11

火曜日に病院に行って定期検診で採血をした。自分は2か月に一回病院に行って、検査を受ける。血糖値、コレストロール、中性脂肪、血圧、尿のタンパクなどを調べてもらう。採血室に行けば、中年の看護師さんが二人いて、どちらかが採血してくれる。この人たちは採血が非常に上手である。つまり、ほとんど痛さを感じないのである。その日は採血をした看護師には胸に名札があり、看護科長〇〇と記してあった。科長でベテランなのであろうが、針を刺すときは、ちょっとチクリとしてだけである。そして、数分で採血が終わった。ほとんど痛みを感じない。

職場で6月頃になると定期検診がある。そこで採血を担当する人は若い人が多い。数年前だが、1度、針がうまく入らなかったことがある。血管が細くて見えなかったようで、2回ほど刺し直しをした。とても痛くて、しかも採血後に内出血で赤くはれ上がった。担当の若い人は謝っていたが、こちらは泣きそうになった。採血も訓練なのだと思う。何年も繰り返していくうちに、次第に上手に、患者に苦痛を与えずに、採血できるようになる。

金曜日になると血液検査の結果が出るので、再び病院を訪れる予定だ。このお医者さんは糖尿病が専門だそうだ。自分の検査結果を見ながら、いろいろとアドバイスをしてくれる。甘いものは食べすぎないようにとか、酒は一週間にかならず休肝日を入れるようにとか、塩分は控えめに、などである。

しかし、加齢とともに、徐々にあらゆる数値が悪くなっていく。自分は時々一念発起して食生活に気をつけることがあるが、その時は一時的に数字は回復する。しかし、やはり、美味しいものをたくさん食べ、飲んだりする。しかし、基本的には今まで健康であった。ありがたいことだ。それはこの医者がいろいろとアドバイスをくれたおかげだと思う。100%言うことを聞いたわけではないが、少しは医者の苦言にも自分は耳を傾けたりしてたのがよかったと思う。

あと、10年はこんな状態で、なんとか健康体を維持できればと思う。それが自分の最大の願いだ。

laboratory blood tests
laboratory blood tests

白人のような肌を持ちたい?

2015-11-06

昨日の授業で、自分がオーストラリアに行ってきた話をした。そしてオーストラリアにいる白人には皮膚ガンの発生率が高い。それはもともとはヨーロッパの紫外線の弱い日光に適応した体のままで、亜熱帯のオーストラリアに移住してきたので、皮膚が適合できていない。紫外線を防ぐメラニン色素の量が少ないのだ、という話をした。そのことはこのブログでも数日前に語っている

そして、授業では、「自分は肌が黄色でラッキーだと思っている。それは世界のいろいろなところを飛び回る際に皮膚ガンの可能性が白人と比べて少ないからである」と述べた。

それに対して、ある学生が「皮膚ガンの可能性が高まってもいいから、白い肌の人種として生まれたかった」と言った。「白人って、めちゃめちゃ憧れる。格好いいから」というような表現だった。

自分がオーストラリアに行って、肌を露出している白人たちを見ると「えーつ?」と思った。つまり皮膚ガンに対してあまりに無防備と感じたからだ。例えて言えば、亀さんが甲羅をつけないで歩いている、かたつむりが殻をつけないで動いている、そんな姿を見たような感じだ。

あと、肌が白い人が格好いいと思うのは、これは経済的な理由である。金持ちが格好良く見えるのである。年収が300万円、600万円、1200万円の3人の男を並べると、ほとんどの女性は年収が1200万円の男が一番イケメンだと言うであろう。金を持っているとハンサムに見えるのだ。

アメリカ英語が一番美しく聞こえて、白人種が格好良く見えて、その文化が魅力あるように見えるのは、白人種が今まで一番経済的に成功をおさめてきたからだと思う。そのことは絶対に知っておくべき事実だ。

客観的に言って、どの言語が美しいとか醜いとかの基準はないだろう。同様に人種にも格好良いとか格好悪いの基準はないだろう。文化も同じだ。ただ、その土地の風土気候に適した体つきや文化はある。そこの土地に長く住んできた人種が一番の適合者だ。

自分を振り返れば、英語を勉強しているのは、何もアメリカに憧れているわけではない。世界のいろいろな人々と話ができれば便利だろうなと考えたからである。しかし、結果としては、アメリカ文化に親しんでしまった。それは、教材はアメリカ英語で書かれたものが多いし、映画やビデオもハリウッドが多い。自分が頻繁に聞くラジオ番組Fox Radio News はアメリカの保守層の考えを伝えるものだ。

その意味では、英語を勉強すると、知らず知らずにアメリカ人の考えに染まってくる。ただ、自分は意識してそうならないように、他の国の英語や、言語も学ぶことでバランスをとるようにしている。言語や文化の問題を客観的に見ることができればと願っている。

http://benoit-et-moi.fr/2014-I/images/tour-de-babel.jpg
http://benoit-et-moi.fr/2014-I/images/tour-de-babel.jpg

 

 

歯医者へ行く

2015-10-20

今日は歯医者へ行ってきた。その話を書こうと思ってパソコンに「はいしゃ」と打ち込んだら、最初に「敗者」と変換されて出てきた。ちょっとビックリした。

さて、歯科医院だが、9月のシルバーウイーク(9月20日-23日)の時に模様替えをしたようだ。かなりモダーンな作りになった。治療室の中の壁紙が明るい色になり、また照明の色も変えたのか、目に優しい色になったように感じた。目の前に大きなスクリーンがあって私の歯のレントゲン写真が投影されている。でも右左が逆になっているが、これでいいのか?

スタッフの人たちは今まで白衣だったのだがユニフォームも変わった。ある人はピンク、ある人は黒、ある人は紫と思い思いの色のユニフォームを着ていた。受付の人に「改装して随分とよくなりましたね。新鮮な感じでいいですね」と話しかけた。受付の人の話によると一週間ほど医院をお休みして改造工事をしたそうだ。

なお、ユニフォームのことを聞いたら、先生は緑色か黒のユニフォームを着ているし、他のスタッフはピンク、黒、紫の色を着ているという。色の選択は各自自由とのことであった。腕を出しているので、「冬になったら寒くないですか」と聞いたら、「寒くなったら腕を覆う服を着る」そうである、ただし、「ユニフォームの中に着て、外側には着ない」そうである。

さて、今日はフッ素を塗る日である。この日は20分ほどでフッ素を塗ることが終了した。最近はどの歯科医院でもフッ素を塗ることが常識化しているようだ。

たしかに、フッ素を塗るようになってから虫歯になりづらくなった。私の母は50歳ぐらいで全部の歯が虫歯でなくなり入れ歯を入れた。自分は若い頃から、50歳ぐらいになったら母親のように入れ歯になるのかと覚悟していたら、60代半ばのこの年でもほとんど自分の歯である。これはフッ素を定期的に塗っていること、歯磨きを少なくとも一日に二回行っているからに違いない。

母親は入れ歯にした直後は食べ物の味が分からなくなったとか、言葉がはっきりと音が出なくなった、とぼやいていたが、それもすぐに慣れたようで、入れ歯でなんでも「美味しい、美味しい」と言って食べていた。母が胃瘻で栄養補給となり、入れ歯は不要となった。母の不要となった入れ歯を見ていると、もう口で食べれなくなった母のことを気の毒に感じたものだった。

さて、歯科医院に定期的に通うことになっている。3か月に1回の割合で医院に通っている。当日の一週間ほど前になると医院から予約の確認の電話が入ってくる。昔の歯医者はそんなことはしなかった。「来たければ来い」という殿様商売だった。しかし、いまでは歯医者の数も増えて、コンビニなみの数であり、予約確認の電話が入るほどである。でも、そのおかげで、フッ素を塗ってもらい、自分の歯はまだほとんど無事であるので、感謝する次第である。

photo credit: StMathews 260 via photopin (license)
photo credit: StMathews 260 via photopin (license)

子規を相変わらず読む

2015-07-24

子規の『墨汁一滴』を読んでいる。5月12日の記述で気になったところを抜き出す。

繃帯ほうたい取替にかかる。昨日は来客のため取替せざりしかば膿うみしたたかに流れ出て衣を汚せり。背より腰にかけての痛今日は強く、軽く拭ぬぐはるるすら堪へがたくして絶えず「アイタ」を叫ぶ。はては泣く事例の如し。
浣腸(かんちょう)すれども通ぜず。これも昨日の分を怠りしため秘結(ひけつ)せしと見えたり。進退谷きわまりなさけなくなる。再び浣腸す。通じあり。痛けれどうれし。この二仕事にて一時間以上を費す。終る時三時。

読んでいると苦しくなる。そして自分の母の末期を思い出す。母も最後は自分で排便ができなくなった。それで、毎朝浣腸をしてもらっていた。寝返りも自分ではできずに、看護師さんが来ては、2時間ごとに体の向きを変えていた。床ずれを防ぐためである。

子規は当時としては最高級の治療を受けていたようだ。新聞社と子規から毎月給金をもらい、母と妹もそのお金で生活していたようだ。そのために、子規に対しては遠慮しながら看病していたようだ。包帯を毎日変えて、好きな食べ物を買ってもらい、口述筆記なのか、毎日庭を見ながら所感を述べ、と絶望的な病状の中にあって、なんとか執筆活動が続けられたのも彼の資力があったからである。

墨汁一滴

2015-07-19

昨日はお昼頃は台風も晴れて天気が良くなる。家内が洛南のイオンに行きたいというので、買い物に付き合う。家内が買い物をしている間、ソファに腰掛けて、正岡子規の『墨汁一滴』を読む。岩波文庫では字は細かい。このところ、老眼が進んできたのでメガネの焦点が合わなくなり、メガネをはずして読む。

この随筆集は子規のなくなる前年に書かれたものである。なくなった年に書かれた『病床一尺』『仰臥漫録』は悲惨で読むと苦しくなってくるが、比較すると、『墨汁一滴』はまだ元気な時に書かれたようで、外界のことへの関心も高い。当時の明治の情景がよく分かり面白い。5月30日のところに次のように記されている。

これも四十位になる東京の女に余が筍たけのこの話をしたらその女は驚いて、筍が竹になるのですかと不思議さうにいふて居た。この女は筍も竹も知つて居たのだけれど二つの者が同じものであるといふ事を知らなかつたのである。(p.133)

これは東京の女は筍と竹が同じものであることを知らない。田舎の人なら、当然のことが都会では分からなくなっているという。明治の頃ですでにこのような状況だったのかと意外に思える。ここで、1月31日の記述は胸を打つ。次第に動けなくなってゆく自分を省みて寂しさの吐露であろうか。

人の希望は初め漠然として大きく後く小さく確実になるならひなり。我病牀における希望は初めより極めて小さく、遠く歩行き得ずともよし、庭の内だに歩行き得ばといひしは四、五年前の事なり。その後一、二年を経て、歩行き得ずとも立つ事を得ばしからん、と思ひしだに余りに小さきかなと人にも言ひて笑ひしが一昨年の夏よりは、立つ事は望まず坐るばかりは病の神も許されたきものぞ、などかこつほどになりぬ。しかも希望の縮小はなほここに止まらず。坐る事はともあれせめては一時間なりとも苦痛なく安らかにし得ば如何に嬉しからんとはきのふ今日の我希望なり。小さき望かな。最早我望もこの上は小さくなり得ぬほどの極度にまで達したり。この次の時期は希望のとなる時期なり。希望の零となる時期、釈迦はこれを涅槃といひ耶蘇はこれを救ひとやいふらん。(p.13-14)

こんな状態の中でも自分が見聞きしたことを書き留めようとした子規の精神力のたくましさに驚く。病床に閉じ込められたからこそ、外界への好奇心がかえって高まっているとも言えよう。また彼の交友関係の広がり深さにも驚かさせる。常に彼を見舞いに来て、彼を退屈させまいと、面白いしい書画や土産を持ってくる。

正岡子規の病状の悪化を考えると、母がなくなる数年の体の衰えを思い起こし、切ない気持ちになる。母もだんだんと体が動けなくなっていった。立てなくなり、寝返りが打てなくなり、飲み食いができなくなり、排便ができなくなり、できない、できない、が増えていった。子規は体の衰えにもかかわらず、精神の鋭利なること驚くほどである。とうてい我らが真似できるものではない。

この『墨汁一滴』は青空文庫からダウンロードできる。また、アマゾン経由で買うこともできる。下に広告を貼り付けておく。