浜松版地域日本語教師養成講座でお話をする。

昨日は、浜松市地域日本語教師養成講座でお話をする機会を与えてもらった。浜松へは何回か行ったことがある。ここは、日系ブラジル人の方が多く住む町であり、多文化共生に向けて市全体が真剣に取り組んでいる町である。

当日は、やや早めに会場に入り、講座のとりまとめの担当をされたUさんとお話をする機会があった。Uさんによれば、浜松市にはたくさんの企業があり、そこで働く外国人のために日本語教室がいろいろと開かれているそうだ。ただ、6か月間ぐらいを想定したカリキュラムだと、外国人の方は続けられないことが多いようだ。だいたい、2,3か月ぐらいの想定で、週に2回ほどの授業である。3か月ほど教えると、24回ぐらいの授業で、ある程度の成果は上げられるようにカリキュラムが組んであるようだ。

また、スズキの工場があるので、合弁会社の関係で、インドからの働き手が結構いるそうである。その奥様が日本語教室に参加されたりするそうだ。自分には浜松は南米からの日系の方々が主に働いているという印象だったので、インドの方も多数いるというのは新しい情報であった。

さて、日本語教師養成講座であるが、自分は言語政策や言語保障について語ったのである。実はこの分野、たくさんの学説があって、しかも急速に発展している学問分野なので、ちょっとでも油断すると、自分の語ることは時代遅れの話になる。講演の依頼をうけてからは、自分が心がけたことはできるだけ最新のデータに基づいた話にすることであった。いろいろな統計を再度見たりして、古い話にならないように努力した。

さて、講演が終わった後で、カトリック教会に関係しているNさんからエスニシティに関する質問を受けた。地域で活躍されている方々はそれぞれ特有の問題に取り組まれているのだなと言う印象を受けた。

なお、浜松市の町は北口の方しか見なかったが、町並みが整理されて美しい町であるとの印象をうけた。住みやすい町であり、多文化共生へ向けて着実に進んでいる市との印象である。帰りは交流協会の方に駅まで車で送っていただいた。その方にもお礼を申し上げたい。

浜松駅、新幹線ホーム
浜松駅、新幹線ホーム
浜松駅前の通り、静かで落ち着いている。
浜松駅前の通り、静かで落ち着いている。

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遥洋子の本を読んだ。

2016-02-22

昨日、古本屋に行ったら遥洋子著『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』という本を見つけた。購入する。100円だ。これは安い。昨晩から読み始めて先ほど読み終わった。

遥洋子さんは勤務校に来て講演をしたことがある。その時の講演はとても面白かったので、このブログでも昨年の7月25日7月26日にそれぞれ感想を記してある。そのことも購入した理由だ。二日ほどで読む。一番興味が引かれたのは、上野教授のゼミの様子である。そこは、議論の戦いの場であり、ちょっとでも緩いことを言うと、たちまち教授から罵倒されてしまう。ゼミの場が言葉の真剣勝負の場になっていることを知って面白いと思った。

近頃、『パイドロス』を読んでいるが、パイドロスとソクラテスの討論のあり方に納得するものがある。ソクラテスは相手に語らせて、時々質問しながら、相手に自ら悟らせるという方法をとる。非常にゆっくりとした方法だが、その当時のゆっくりと時間が流れる時代に似つかわしい方法のようにも思える。ソクラテスの方法は産婆術ともいわれ、真理という赤子を生み出す産婆のような働きをするものである。

遥洋子さんの説明による上野ゼミの議論は真剣で持って戦う気迫が伝わってくる。しかし、この本を読んで限りでは議論に勝った負けたということで終わりがちであり、真に納得したということにつながるのかちょっと疑問である。

自分は近頃、朝はFox Radioを聴いている。Alan Colmes がホストを努めるトークショウをよく聴く。視聴者とAlan Colmes との間の議論を聴くと驚くことが多い。Alan Colmes は遠慮無く、相手の曖昧な議論を攻撃する。特に、人種問題などの議論では、相手の議論の根拠や知識の前提を問いただす。日本では、視聴者とトークホストはもう少し穏やかに議論し合うのだが、Alan Colmes の番組ではケンカのようになることもある。これがアメリカ式なのかと驚く。小学生から議論の戦いの訓練をしている西洋人相手に、日本人が議論をふっかけてもかなうわけがない。

西洋人の場合は、論破されても悪感情をいだくことは少なく、相手と相手の議論とを切り離すことができると聞く。この点は日本人とか異なると聞くが、それでもある程度は論破されれば西洋人でも相手を恨むことはあるであろう。

昨年末、私は『クリティカル・シンキングのすすめ』という英文テキストを同僚の研究者たちと共同で発刊した。そのことをこのブログの12月4日の記事に記した。 このテキストの特徴の一つは、問題提起として2人の対話から各レッスンが始まるのである。1人が疑問を出して、それに対して他方が答える形の対話文であり、一応は何か結論に達するような構成にしてある。対話の部分はソクラテスの対話篇の、問いかけがあり最終的には結論に達するという形を意識した。ただ、半ページほどの対話文であり、スペースの制約があり、その点は切り詰めた対話文となった。次回、チャンスがあれば、2人の対話が自ずから結論に至るような英文のテキストを作成してみたいと思う。

西洋で生まれた対話法だが、元祖ソクラテスのように全面対決でない、のんびりした対話の繰り返しで、最終的に相手を納得させる方法が日本人には向いているような気がする。

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Fox News Talk

このところ、朝は iPhone で Fox News Talk を聴きながら通勤している。けっこう楽しめる。私が聴く時間帯はThe Alan Colmes Show である。そしてアメリカ人の典型であるこの司会者の議論の仕方が参考になる。会話 (talk) ではなくてむしろ議論 (discussion, arguement)をしている。互いに容赦なく相手の議論の根拠の薄弱な点を叩き合う。議論の際の武器は事実と数字である。

Alan Colmes は非常な博識であり、特に現在のアメリカで問題になっている、illegan immigrant, gun control, same sex marriage, presidential election, religious problems などは事実関係や関連する数字をしっかりと把握している。そして頭の回転が速くて、すぐに相手の議論の弱点を見つける。例えば、ある視聴者がアメリカには3,500万人の不法移民がいるというと、その数字はどこから入手したのか、としつこく尋ねていく。その数字の信憑性を問うという方法だ。どうも3,500万人という数字は保守系の人々が大げさにするために勝手に広めた数字らしい。アメリカ人と議論するならば、数字はきちんと押さえていかなければならないと感じる。

この議論の仕方を聴くと日本人の議論は「馴れ合い」と言われても仕方がないかもしれない。大体は相槌を打つことで終わってしまう。うるさく根拠を尋ねると「うるさい奴だ」と煙たがられる。アメリカ人は議論に慣れている。そのように教育されてきた。議論とはそのようなものであると教育されてきた。

そして、自分の信念は曲げないことが美徳だ、あるいは神に対する義務(アメリカ人はキリスト教を信じる人が多い)であると考える人が多い。今日の話は Kim Davis という市役所勤務の女性で、ゲイのカップルに結婚許可書を発行することを拒んだという理由で刑務所に送られた人のことであった。この女性は自分の宗教的な信念からこのカップルには結婚許可書の発行を拒否したのである。ケンタッキー州では同性カップルの結婚は認められている。それゆえに、法律に違反したという理由で投獄された。

今日の話は Mat Staver という彼女の弁護士とAlan Colmes との議論であった。religious freedom と法律との対立である。異なる文化圏で話題になっている問題はしばしば日本人にはわかりづらい。しかし、今日の議論は両者とも落ち着いて事実関係をクリアーにしようという態度が見られて聴いていて参考になった。

しかし、このトークショウでは議論が対立することも多い。アメリカ人の議論を antagonizing とすると日本人は過度に馴れ合いすぎるとの印象を受ける。本当はこの両者の中間がいいのだろう。むかし、学生時代、プラトンの対話篇を何冊か読んだことがある。ソクラテスが相手と対話をしてそこから真理を見つけ出そうとする方法だ。その頃は対話篇の持つ意義が分からなかった。ソクラテスが落ち着いて相手の話に同調すると見せかけて相手に話をさせ自己矛盾に陥しいれて相手が自分自身で真理を発見するように導いていく方法である。ソクラティスメソッドである。この歳になれば、少しは対話篇の意義が分かる。

photo credit: plato, aristoteles, socrates via photopin (license)
photo credit: plato, aristoteles, socrates via photopin (license)

ソクラテスメソッドならば、両者ともその方法に慣れていなければならない。大学ならば、教員も学生も両者とも慣れていない。教室での自分と学生との間で今まで何か建設的な議論があったろうか、一方的な私からの話であって、学生は時折、合いの手を入れる、そんなことばかりであった。これは自分の責任でもあるが、そのような教育をしてこなかった日本の教育の責任でもある。そのような教育が不可能であった日本の文化、日本人の気質の責任でもある。ということか。

しかし、なぜ馴れ合いの議論ではいけないのか。それで日本という国はやってきたではないか。それなりに豊かな国を築いてきたではないか。などと考えると何が何だか分からなくなる。

分かりやすい文は良くない。

2015-07-18

いろいろな人のブログを見てみると、いわゆるプロのブロガーと呼ばれる人の文体には一応に特徴があることに気づく。それは一言で言えば、「分かりやすさ」である。まず結論を述べている。そして、結論をサポートするような文章が続く。それらは本論である。最後には「まとめ」として結論+アルファが示される。

また段落の前に小見出しをつける。小見出しは線で囲んだり、文字を大きくして強調する。忙しい人は冒頭の結論を読み、小見出しを拾っていくことで時間の節約をしながら文を読んでいける。読者は途中でこれはじっくりと読む価値のある文だと判断すれば、最初に戻りゆっくりと読み始める。

プロのブロガーの人たちの文は情報提供型である。どのメーカーの一眼レフカメラを購入したらいいのか迷っている人には、ずばりA社のこの機種がいいと述べてくれる。そして、その理由を述べてくれる。読者はそれで納得してカメラを購入する。これが分かりやすい文である。

ところが、最近、自分は「分かりやすい文は実は良くない」と思うようになった。それはどうしてか。理由は、冒頭に結論が述べてあるからである。プロのブロガーも、本当は、結論を見つけるまでには、さまざまな試行錯誤を繰り返したと思う。読者たちは、その試行錯誤を知りたいのだ。ブロガーたちは、B社の一眼レフカメラを購入してみたら、こんな長所に気づいたとか、友達から借りてC社のカメラを使ってみたら、こんな失敗をした。それらを経験したうえで結論を書いてあるはずである。その経験を知りたい。

自分は人の結論よりも、その人が結論に至ったプロセスを知りたいと思う。推理小説ならば、冒頭で犯人は誰かと教えてもらうよりも、推理の過程、そのプロセスを知ることが面白いのだ。いろいろ迷ったが、結果として結論が出なかったという文でもいいかと思う。試行錯誤をしたけれども結論には達しなかった。どのメーカーの一眼レフカメラがいいのか、断定できない、という話でもいいと思う。悩みながら選択しようとしたプロセスを語ってくれるならば、読者には十分に役立つ。

さて、自分の文の書き方はどちらか。やはり後者だな。自分は書きながら考えるタイプだ。行ったり来たりする。自分の生き方もそうだ。失敗することをある程度は織り込み済みであるから、挫折の経験もトラウマではなくて、勉強と思うようにしている。

婚約指輪を返すべきかどうか

2014-10-27

Fox Radio を昨晩聞いてた。すると、「女性が婚約を破棄した場合は婚約指輪 (engagement ring) を男性に返すべきかどうか」で議論が行われていた。女性は、ring は gift であるから所有権は自分に移った、という点を強調していた。男性は、ring は婚約の契約engagement contract 示すものであり、婚約が行われなくなったら、契約は無効になるのだから返却すべきと述べている。しかも、その指輪は1万ドル(約100万円)であり、自分は5年のローンで購入したのであり、まだローンが済んでいない、とも言っていた。しかし、女性は gift は gift であり、男性側の事情とは関係なく、自分の所有物になっている、と述べている。

ここで、視聴者の意見を聞くコーナーになり、次から次と自分の意見を述べていた。だいたいが男性に同情的であり、女性から婚約破棄にしたので婚約指輪は男性に返すべきとの意見が多かった。そして、ある人からの「その指輪を持っていてどうするのか」との質問に対して、 女性は “To sell it.” (売ってお金に換えるの)と正直に答えて、それに対して質問者が笑ってしまう場面があった。とにかく興味深く議論を聞くことができた。

このラジオ番組では、よく議論、討論が行われる。人々は実によく discussion をする。日本ならば、トーク番組は互いに話に「相づち」を打ちながら進行するのが普通だが、このラジオ番組では、対立点を互いに指摘しながら議論が進むことが多い。やはり、幼少の頃から、自分の意見を理路整然と述べることを訓練されてきた文化の人たちだなと感じることが多い。