インドネシア

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インドネシアの状況

Indonesia is an archipelagic republic of some 13,000 islands, of which some 6,000 islands are inhabited.
○インドネシアでもっとも重要な言語はまぎれもなくジャワ語である。これはインドネシア語以上に社会階層を表し、ジャワ語を学ぶとは3つの言語を学ぶと同じことと述べている。Alisjahbana (1976:?)
○オランダ時代は二つの種類のマレー語が発達した。一つは市場で使われる a low Malay であり、他は学校や公式の場で使われる a high Malay である。
○マレーシアでのマレー語の近代化・語彙の拡張はインドネシアと比べて遅れ、ゆっくりとしたスペースであった。イギリス時代のマレーシア・シンガポール・ブルネイのマレー語は、インドネシアのマレー語と比べて標準化が進んでいなかった。マレーシアでは英語とアラビア語が強い影響を、インドネシア以上に、マレー語に対して持っていた。またマレーシアでは口語に影響され、インドネシアでは文語の影響を受けていた。例えばマレーシアでは steshen (station) と発音通りに入ってきたが、インドネシアでは stasion, setasion とスペルに影響を受けている。Alisjahbana (1976:80-81)
○オランダ政府やオランダの学者は、イギリスのそれと比べて、より関心を示し、学習や教授法はより成功をおさめた。マレーシアはインドネシアの後を追いかけるという形をとった。
○カルティニは「私たちは家ではお互いにジャワ語で喋っています。オランダ語はオランダ人と話すときだけです。(永積 1980:72) 外来のアジア人ーつまりマライ人、イスラム教徒、アラブ人、中国人ーなどに対してはマライ語で話します。(永積 1980:96)との文章があり、当時のインテリの言語生活が窺える。
○日本の占領以来、初等教育から高等教育に至るまで、インドネシア語で授業が行われている。
○新語を作る場合サンスクリット語と古ジャワ語を用いる傾向が増加している。この両語はインドネシアの封建制度を感じさせる語である。Alisjahbana (1976:119)
○リンガ・フランカとしてのマレー語は一千年以上の歴史があるが、その adaptability, lawlessness が有利となる場合があり、マレー語は世界で一番習得しやすい言語とされている。Alisjahbana (1976:86)
 オランダの植民地支配を受けていたために、オランダ領東インドがインドネシアいう国家になったのであり、国家としての意識はこの歴史なしには形成されなかった。
 インドネシアはインド等の多言語社会とは異なり、言語計画・言語統一に成功した例として挙げられる。

 もっと知りたいインドネシアによれば(p.223)、インドネシアは大インドネシア主義を継承している。過去インドネシアはシャイレーンドラ王朝、マジャパイド王朝で領土は広大な広がりを見せた。日本軍政時代の独立準備調査会で、独立後のインドネシアの領域について、旧オランダ領東インド、それからニューギニアを除いた地域、マレー、英領ボルネオ、東ティモールを加えた地域との3つの提案があった。
 19世紀の初めに存在していた学校は、オランダ人子弟とキリスト教徒のインドネシア人を対象とする学校だけが、存在した。1870年頃から、原住民官吏の養成のために、貴族、富裕階層の子弟のために、学校がもうけられる。学校の目的の一つはオランダ語の教育にあった。20世紀になると、いわゆる倫理政策により、民衆を対象とする教育がはじまり、3年制の村落学校(スコラ・デサ)である。内容は現地語の読み書きと簡単な計算にあった。1930年における初等教育の就学状況は人口一万人あたり、300人に満たなかった。
 独立後学校制度は複線型の制度を示していた。しかしキ・ハジャル・デワントロによるタマン・シスワ運動がある。オランダ支配のもとでの学校制度とはことなる独自の学校制度を樹立した。1950年の教育法では、幼稚園から小学校の3年まで、各地方語を教授言語とすることが認められた。4年生以上はインドネシア語が唯一の教授言語である。
 宗教省の管轄にある宗教学校も存在する。プサントレン(pesantren)は寄宿舎制度を取り、原型はヒンドウー教の宗教学校にある。修業年月は数カ月から10年以上にわたるものもあり、アラビア語、イスラム教義、コーランの購読・暗唱が中心である。20世紀になるとこれに普通教育科目を取り入れたマドラサ(madrasah)ができる。マドラサは小学校から大学へとつながり、急成長した。1970年の統計によれば、小学校児童1340万にうち、マドラサ小学部の在籍者は570万である。
 問題点は校舎の不足であり、午前と午後の二部授業をおこなっている場合が多い。
 なおインドネシアとの名称は外国人による名称なので、ヌサンタラの名称に愛着を示す人もいる。
○インドネシア語の代名詞の使われ方は、インドネシアの社会の変動を示して、まだ混乱している。封建社会の特徴として多くの代名詞が存在している。年齢、社会の階層により使う代名詞が異なる。これが極端になった例として、ジャワ語があるが、ジャワ語が共通語にならなかったのは、ひとえにこのジャワ語の性質による。Alisjahbana (1976:53)若い人たちの間ではこの煩雑な用法をさけるためにオランダ語や英語の代名詞を使う例があり、最近 anda という語の使用が提唱されている。Alisjahbana (1976:54)つまり言語が現代化・共通語化するということはなにがしかの抽象性を経験しなければならない。Alisjahbana (1976:59) 

1.全体の言語政策、言語状況、問題点
1.1.問題点
 アジアの教育の傾向として、限られた財政のために、高等教育に集中して、初等教育がおろそかになりがちである傾向である。高等教育が上中流層に独占されて社会経済の格差を広げる傾向にある。教育の格差が雇用の拡大と結びつかず、インテリの大量失業と先進国への頭脳流出を招いている。
 高等教育の独占は土地の独占と同じくアジアの不平等の根元であり、その独占に貢献しているのが、外国語の学習という点である。
 多量の大学があり、ゼネラリストを過剰に生産し続けるばかりである。ILOはフィリピンに大学入学者の削減を提案した。大学は資金がかかるために、理工系が少なく、人文系が偏重になっている。

2.言語
 ジャワ語は、マレー・ポリネシア諸語の中で、文献が多く、最古の碑文は9世紀である。マジャパイト王朝時代の言語はカヴィ語(サンスクリットからの借用語・古期ジャワ語、1500年代までの文献に見るれるものを中期ジャワ語、それ以降が近代ジャワ語である。
 オランダ語は現在借用語として残っている語彙を除くと、インドネシアにはほとんど痕跡はない。
 インドネシア語はスマトラ語群に属するリアウ=マライ語であり、古くはムラユ語と呼ばれ、元来はスマトラのジャンビ地方に7世紀に存在したムラユ国の言語であり、シュリヴィジャヤ国に引きつがれ、ムラカ王国に広まる。この2国が貿易国家であったので、商業用語として普及した。ムラユ語ははじめパラワ語で表記されていたが、13世紀にはアラビア文字表記になった。
 マレー語は西洋の言語が共通語として使われていたときも、第2の共通語として使われた。Alisjahbana (1976:32) 

3.歴史
18世紀末:カリマンタン西部に広東出身者が蘭芳公司を建設。マンドルに首都を置き、共和制の小独立国。
○倫理政策の導入、ブパティ子弟用の首長学校(原住民官吏養成学校となる)、ドクトル=ジャワ学校(下級プリヤイが入学、原住民医師養成学校になる)、師範学校を植民地政府は創立。
○初等教育の充実:オランダ語を用いる第一級学校(蘭印人学校)マライ語、地方語を用いる第二級学校が各地に設けられていった。

1902年:ジャワのジュパラのブパティの娘カルティニはプリヤイ層の子女のために女学校を設立する。

1908年:ワヒディン=スディロフソドは医学校内で、最初の民族主義団体「ブディ=ウトモ(最高の英知)」を結成する。

1920年代:工科、医科、法科の単科大学が開設され、インドネシアにも門を開く。

1925年:前後まで、オランダ語の普及が現地の人に歓迎され要求されていた。学校の授業がマレー語でおこなわれているのは、宗主国が現地人によりよい教育を与えまいとしている証拠でと考えたのである(クルマス p.314)。

1926年4ー5月:第一回インドネシア青年大会

1928年10月28日:ジャカルタ(バタフィア)での第二回インドネシア青年会議で「青年の誓い」が採択された。インドネシア国、インドネシア民族、インドネシア語の3つの統一原理を再確認する。

1939年:第一回インドネシア人民大会、議会設立要求、インドネシア語を国語にすることを決議した。

1942年:日本の占領当局はオランダ語の使用を禁止した。

1942年10月:言語審議会が結成された。ハッタ・スカルノは協力する。日本軍政時代は教育用語や官庁の公用語としてインドネシア語を使用した。占領期間中に、近代専門用語の基礎語彙が作成され、7000におよぶ新しい専門用語が作られた。

 1940年には文盲率93.6%を数え、50年代から60年代は識字運動が緊急の要件であった。
 マレー語はオランダ綴りといわれるローマ字化が行われたが、今は英語綴り化している。1959年インドネシアーマレーシア共同の改革委員会が結成され、両者を仲介するための提案がいくつかおこなわれた。1967年改革された正書法をインドネシアに導入しようとしたが、住民はこれを「マレーシアへの身売り」として敵視した。Rubin et al,.Language Planning Processes.p.124 政治的情勢の緊張がゆるんでのちに、スハルト大統領により、公式に導入された。マレーシアとの協議により、1972年に新綴りが採用され、マレーシアの表記法と同一になった。
 インドネシアの標準語は、インドネシアが早期に独立し、意識的に言語政策を実施したために、マレーシアよりもはるかに、進んでものになった。現在、マレーシアとインドネシアは統一言語顧問委員会を結成している。

2.Peranakan と Totok
インドネシアでは600万人の中国人が住み人口の3%を占める。彼らはインドネシア生まれでインドネシア語を話すPeranakanと、外国生まれで中国語を話すTotokに分けられる。Peranakanは初期の時代におもにジャワ島に移住し、現地の女性と通婚し、名目上イスラム教徒となっており同化の程度は高い。Totokは19世紀後期から20世紀初頭に移民し、同族の女性と結婚し、中国色を強く残している。
 政治的には、ジャカルタ派、北京派、台湾派、無関心層に分けられる。一般に政治への関与は消極的である。強い経済力を持ち、インドネシア経済の70%を牛耳っているとされる。

3.インドネシアの政府の政策
 植民地政府は各民族間の統合よりも、分割支配のために民族間の相違を維持しようとした。そのためにFurnivalのいう「複合社会」が生じた。そこではオランダ人が支配し、中間層の中国人が商業活動に従事し、インドネシア人が農業をおこなう。
 独立後、インドネシアは国家の統合と経済の独立の二つの目標をかかげる。またインドネシア民族主義の標的はオランダ人から中国人に向けられる。中国人の経済力を低下させ、インドネシア人が取って代わる政策が実施されてゆく。
 スハルト時代はPeranakanの存在を認めて、インドネシアに元々住む部族と同様の権利を与えようとする試みがあったが、スハルト没落後は中止される。

4.市民権法
 1946年と1950年に、インドネシア生まれの中国人には、誰でもインドネシア市民権が与えられることになったが、市民権保持の有利さがまだ認識されてなく、大多数は拒絶する。150万人の有資格者のうち、申請した数はわずか39万人であった。1958年の市民権法の施行以降は、条件が厳しくなり、取得が難しくなる。1966年以降は二重国籍法の停止により、若い世代も国籍取得が困難になる。1980年時点で、350万人の中国のうち、91万人が大陸中国の国籍であり、12万人が無国籍で、2000人が台湾国籍であった。
 1980年インドネシア国籍取得を容易にする法律(Inpres No.2; Keppres No.13)が施行されて以降、再び国籍取得者が増え、1986年時点では,35万人だけが外国籍の保持者である。

5.経済政策
 中国人の経済力を弱めるために政府は、50年代にBenteng Systemの導入と中国人の小売業への従事を禁止する処置をとる。しかし経済に深刻な悪影響を与え、また中国人が”Ali Baba”enterprise(インドネシア人を名目上の経営者にすること)を利用したことで効果は薄かった。
 政府はインドネシア人への長期の低利貸付をおこなったり、中国人の投資家全員に対して、事業をインドネシア人との合弁企業にするように要請したりした。多くの事業分野の免許が中国人には不認可となり、公共事業はインドネシア系企業が優先的に選ばれることになった。
 しかしスハルトのthe New Orderでは経済発展を優先しているために、どうしても中国人の経済力に頼らざるを得ず、中国人の経済力はますます発展している。

6.政治政策
 独立後の有力な中国系の政治団体として、Baperki (Peranakan系),Qiao Zong (Totok系)があった。Baperkiの主張は、インドネシア系・非インドネシア系にかかわらず各民族は同等の権利を持っており、Peranakanはジャワ人やスンダ人と同じようにインドネシアの民族の一つであるとしていた。これらの団体は左翼勢力やスカルノ政権との結びつきが強かったために、1965年のクーデタ失敗以降は解散させられる。
 その後は政府系のLPKBやBakomが政治団体として活動してゆく。そこでは統合(integration)よりもインドネシアとの同化(assimilation)が公の目標となった。

7.文化と教育政策
○宗教で、イスラム教は聖典を外国語に翻訳することを認めない立場をとっている。(梅根 1974:34)
○コーラン学校はアラビア語のコーランの購読と暗唱のみであった。プサントレンは、コーラン学校以上の完全なイスラム教の教育を受けようとする者たちの学校であった。生徒はsantriといった。(梅根 1974:36)
 教育と言語と中国名に関して強力な同化政策が取られた。50年代、2000校程の中国語学校があったが、1957年政府はインドネシア国籍の中国人が、中国語学校で学ぶことを禁止した。このため1100校程の中国語学校がインドネシア語を使う学校に変わった。
 1958年台湾政府がスマトラとスラワシでの暴動に関与したとして、台湾系の中国語学校が閉鎖される。1965年のクーデタ未遂事件をきっかけに、北京系の学校も閉鎖を命じられ、インドネシアにおける中国語学校の歴史が終了した。

1968年以降中国人の手による学校(Special Project National School)が開設されたが、授業の言語はインドネシア語であり、中国語は放課後一つの教科として教えられるに過ぎなかった。

これらの学校も1975年以降は通常の学校(Indonesian national schools)へ変更させられた。

1965年以降は中国人の子弟は国籍にもかかわらず、すべてインドネシアの学校へ行くことが義務づけられた。あくまでも中国語を習得しようとする者は家庭教師を雇うか海外の学校へ進学した。

高等教育でも1965年以降変化があった。Universitas Res Publica(Ureca)はインドネシア化され、名称もUniversitas Trisaktiに変更された。そこで学ぶ学生に関しては、中国系学生からインドネシア系学生が主流を占めるようになった。

看板の漢字使用は禁止され、中国人街では店内でのみ漢字の使用が許された。1965年以降、あらゆる中国語新聞は禁止され、後に政府系一紙のみが許された。漢字で書かれた書籍の輸入も禁止され、漢字が一部印刷してある英語の書籍でさえも禁止された。税関では「麻薬、武器、漢字を用いた印刷物の持込み厳禁」との標示が見られた。

1966年以降、姓名をインドネシア風に変えることが、強制ではないが、奨励された。

8.宗教と民族性の復活
 インドネシア政府は多宗教主義を採用した。そのため宗教に関しては、ある程度の中国民族としてのアイデンティティを保持できた。1965年直後、政府は6つの宗教を公認した。イスラム教、カトリック、プロテスタント、バリー・ヒンディー教、仏教、儒教である。中国人の多くは儒教を信奉するも、その重要な概念や用語の多くがインドネシア化されてきた。
 この数年中国の民族文化の復活の兆しが見られる。スハルト政府はインドネシア語による中国の文化・歴史・民話の出版を許しはじめた。中国の民族文化の復活が特に2つの分野で顕著である。それは古典の出版と体操である。Sam Kok (Romance of the Three Kingdoms), Shui Hu Zhuan (Water Margin)やカンフー小説、民話がよく売れている。体操(Taijiquan, Waidangong)が盛んである。政府はこの体操の流行を黙認するも、用語をインドネシア語化するように指示した。

9.結論
 インドネシア政府の同化政策により、中国系住民のインドネシア化が進んでいる。
しかし中国人としてのアイデンティティは根強く残り、その経済力がますます強まっていることから、完全な同化は現実には難しい。。

しらべること
○マレーシアとインドネシアの改革委員会はなぜ失敗に終わったのか?クルマスp.320で両国の政治的動向の差があまりに大きかったため、失敗に終わったと述べているが、どのようなことを意味するのか。
○ Alisjahbana (1976:28)によれば、日本占領中のインドネシアにおける新語作成の方針は(1)現存するインドネシア語から選ぶ。
     (2)地方語から選ぶ
     (3)アジアの言語から選ぶ
     (4)国際語から選ぶ
ただし、ジャバの人々はサンスクリットから選べ、イスラム教徒はアラビア語から選べ、若い人は国際語から選ぶ傾向があったという。 

○教育制度の導入によって、オランダは雇用問題に適当な考慮を払わずに、新しいエリートの創出に実質上着手してしまった。結果として、オランダは口やかましく不満に満ちた人々の一群をつくりだすことになり、これはインドネシアの目覚めつつある民族主義の知的醸成に大きく寄与したのである。…….これらの人々は、政府や企業で管理職につく機会ができた。しかし実際には、雇用機会は主として、中間、下部レベルに存在したに過ぎない。そして、実質的により高いポストがオランダ人によって占められているということ自体が、不満の原因になった。この不満は、下級職でさえも、西洋的教育を受けた者全員を吸収するのに十分なだけのポストが用意されていないという事実によって、いっそう激化した。このように、倫理政策の一部としての教育政策は、統合された東インド社会の出現に貢献するのとはほど遠い帰結、すなわち、情緒的に動揺している失業者の一群を生み出したのだ。(Legge 1984: 168-9)
○本国から国庫支出をおこなうという方針では、オランダは他の植民地本国よりも、数年は進んでいた。もちろん、これは単なる利他主義ではなかった。たとえば、教育施設の拡充政策は特に自己利益本位の側面をもっていた。すなわち、政府の責任領域と私企業の活動の増大とともに、政府と企業管理の下級職員レベルで事務および技術的能力をもった者が必要とされるようになったが、これは現地人の中から最も安価でかつ便利に供給されうるものだったからだ。(Legge 1984: 159)
○東インド会社は領土保全を意識的に避けようと努めた。(Legge 1984: 132) 東インド会社が、インドネシアの政治にできる限り干渉しまいと、長期にわたって努力したことは事実だ。(Legge 1984:120)
○19世紀末に、メッカ巡礼から帰国する者の間で広まっていた氾イスラム運動をおそれたオランダ人は、東インド政府にイスラム政策の再検討を命じた。(Legge 1984: 216)
○中国人の移住について、17世紀半ばの清朝の成立をきっかけとして、福建省から移民がくる。19世紀より、太平天国の乱をきっかけとして、広東省から移民が増える。現在、潮州人は東スマトラ、バンカ、西カリマンタンなどに、客家はジャカルタと西部ジャワに多く、広東人はインドネシア全域にほぼ均等にちらばっている。(松本、川本 1991: 329)
○現在インドネシアの華人は総人口の3%程度で、やく440万人と推定されている。(松本、川本 1991:330)
○1869年に開通したスエズ運河のために、本国とインドネシアの連絡が一層容易になった。オランダ人の女性も進んで来航するようになった。オランダ式の家庭生活が持ち込まれるようになり、産まれてきた子供にヨーロッパ式の教育を受けさせるのは家庭教師ではもはや足りず、学校制度が必要とされた。(もっと知りたいインドネシアp.16)
○メッカ巡礼者が増加して、20世紀になると多い年は数万人が巡礼する。メッカで他の巡礼者に出会う機会もあり、異教徒の植民地政府に対して聖戦の決意を固めて帰国する者が多かった。(もっと知りたいインドネシアp.16)

@ there had been established an Afro-Indonesian culture pattern on the east coast of the African continent. … The present-day population of Madagascar is a mixture of African, Arab, and Indonesian stock, but the language spoken there are clearly of the Malayo-Polynesian family, resembling the Ma’anyan Dayak languages spoken in the Central Kalimantan province of Indonesia. (Noss 1982:5)

1963年5月~6月:マフィリンド構想に関して、スカルノはラーマンと東京で会談した。ついでマニラで三国外相会談が開かれている(永積昭 1979: 382)

1963年6月7ー11日:マニラで閣僚級のマレー民族の会議が開かれ、16個の合意とみた。通常マニラ協定Manila Accordと呼ばれる。8月6日首脳がマニラ宣言を発し、三国はMaphilindo と呼ばれる。Agoncillo p.540  マカパガル大統領はマレー民族に共通の祖国を創立しようとする。これは不調に終わる。@インドネシアが音頭をとって、Mushawara Maphilindo(a contraciton of Malaya, the Philippines, Inodonesia) ,を設立する。スカルノ大統領、ラーマン首相である。しかしこの協定は数週間後に、マレーシア連邦が北ボルネオとサラワクを含めようとしたことに対して他の2国が反対して、とん挫する。スカルノ大統領はkonfrontasiと呼ばれるゲリラ活動をサラワクに公に開始する。この活動は1967年まで続く。(Kasaysayan No.9: 103-4)

1963年7月31日:スカルノ、ラーマン、マカパガルの3首脳がマニラで協定に調印した。問題のボルネオ住民の意向については、「独立かつ公正な権威、すなわち国連事務総長またはその代表によって、ボルネオ地域の住民の支持が確認されるならば」インドネシアとフィリピンはマレーシア結成を歓迎する、としるしてあった。しかし、マラヤ政府が国連の住民の世論調査の結果を待たずに、連邦を発足させると声明したために、スカルノは態度を硬化させて、この構想はドン座する。(永積昭 1979: 382)

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インドネシアの言語政策の文献

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綾部恒雄、永積昭 1982. 『もっと知りたいインドネシア』東京:弘文堂
白石隆 1992. 『インドネシア:国家と政治』東京:リブロポート
梅根悟(監修)1974. 『世界教育史大系6:東南アジア教育史』東京:講談社
永積昭 1980.『インドネシア民族意識の形成』東京:東京大学出版会
西村重雄 1990. 「国民教育ーパンチャシラ道徳教育への展開をめぐって」『講座東南アジア学6:東南アジアの思想』 東京:弘文堂
ファーニヴァル (南太平洋研究会訳 1941)『蘭印経済史』 東京:実業之日本社
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