マレーシア(戦前)

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マレーシアの言語政策の年表(戦前)

827and 832: Gandasuli inscriptions was found in Central Java. They were old Malay inscriptions found in non-Malay territories. これはSrivijaya帝国に関係する。(Asmah Haji Omar 1982:8) (Collins 1980: 3)

942: West Javanese inscriptions were found. (Collins 1980: 3)

10世紀頃:アラブ人のイスラムの伝道師によって、Jawi 文字がもたらされた。(Asmah Haji Omar 1993:184)

14世紀頃:Malacca に王国が起こった。
c.1400: A Kingdom arose at Malacca

14世紀頃:Jawi文字で書かれたマレー語の文字は Trengganu の墓石に残っているのが、最古である。(Asmah Haji Omar 1993:184)@古代はパッラワ文字を使っていたが、14世紀頃からアラビア文字を借用して作ったジャウイ文字が広く用いられるようになった(小野沢1997:171)。

1445年: 王座はイスラム教に改宗した前国王の異母兄弟によって、受け継がれる。
1445: The throne was seized by a converted Muslim half-brother of the previous ruler.

1467年:マレーで、遺跡といわれうる最古のものは、マラッカの近くの小さな村リンギ(Linggi)にある石造りの3本の柱であり、この近くで戦死したサルタン一族の墓標が、アラビア文字で刻まれている。(アジア・エートス研究会編 1968:120-1)

15世紀頃:アラビア文字を借用して、マレー語の音を表現する方法を見いだした。(アジア・エートス研究会編 1968:121) ○インドや中国と古くから交渉を持ち、タミル語や中国語に触れていながら、タミル文字や漢字を利用してマレー語を表記することがおこなされなかった理由として、マレー語がリンガ・フランカであり、マレー人は一般に日常の用に足りさえすれば、それで満足して、記録しなければならないほどの、内面的な要求や問題意識もなくて、また商取引や契約上必要な記録は中国語やタミル語で行われ、マレー人の支配者たちもそれで十分に満足していたからであろう。しかしイスラム教徒となり、イスラムの教義や戒律が実生活のすべてに影響力や拘束力を及ぼすようになって、マレー語の表記の必要性が感じられるようになった。(アジア・エートス研究会編 1968:122)

1509: A Portuguese ship arrived in Malacca for the first time.

1511:アルブケルケの率いるポルトガル艦隊ががマラッカを占領する。

1511: The first documented word list of Malay is that of Malay-Chinese. It was written in Chinese. (Abdullah Hassan. 1978: 50)

1521: Part of Magellan’s crew reached the Mokuccas. Among them was a Lombard traveler, Antonio Pigafetta. Based on their short stay in Tidore and their wanderings southward, he drew up a word list of Malay. This is the oldest study of Malay and it was based on the Malay spoken over 1500 miles away from the Malay homeland of east Sumatra. (Collins 1980: 7) @ It was prepared in Malay-Italian using the Roman alphabet. (Abdullah Hassan. 1978: 50)

1603: The third word list of Malay was compiled by Frederick de Houtman in Dutch. Later Albert Ruyl translated the book into German. The book was also translated into English by Augustine Spalding in 1624. (Abdullah Hassan. 1978: 50)

1623: Caspar Wiltens and Sebastian Danckeartes published a Dutch-Malay, Malay-Dutch word list at the Hague. (Abdullah Hassan. 1978: 50)

1631: A missionary by the name of David Haex compiled a dictionary called Dictionarium Malaico-Latino et Latinum-Malaicum. With this, Malay lexicography advanced a step forward such that the book can now rightly termed a dictionary. (Abdullah Hassan. 1978: 51)

1641年:オランダがポルトガルを破ってマラッカを占領した。

1685: イギリス東インド会社、スマトラのベンクーレンに商館を開設(1824まで)。

1701: Other writers followed the footsteps of David Haex and improved on his work. One of such work was by Thomas Bowery who wrote Malay-English and English-Malay Dictionary. (Abdullah Hassan. 1978: 51)

1735: The Bible was translated into Malay by Rev. Leidekker, a man who had studied Malay in Java. A Malay scholar of the time, Abdullah bin Abdullah al Qadir Munshi said the translation was an unintelligible work done by a European too heavily dependent on classical Malay. (Collins 1980: 9)

1786: フランシス・ライトがペナン島の領有を宣言した。

1795: イギリス東インド会社、マラッカを占領した。

1801: J. Howison, an Englishman, compiled another dictionary which was very much similar to that of Bowery’s. (Abdullah Hassan. 1978: 51)

1810年:ラッフルズがマラッカを訪問したときに、一つの学校を訪れて、教師がアラビア語でコーランを教えているのに驚きを示した。父兄がマラヤ語の教授よりも、アラビア語によるコーラン教授と優先することを求め、教師は自分自身もよく分からぬ章句を教授することを求められると知ってさらに驚いた。(梅根 1974: 154)

○マレー語の学校を設立することを最初に思いついたのは Standard Raffles であると言われる。Alisjahbana (1976:43)

1812年:労働法の成立により、7歳から14歳までの児童が10人以上いるエステートは学校(タミル学校)を設けなければならなくなった。費用は雇用主が負担して、教育局の視学の監督を受けた。(梅根 1974: 162)

1812: William Marsden’s monumental work which was published was probably the first comprehensive work in Malay lexicography. Marsden wrote another book, The Grammar of the Malayan Language in which he utilised both the Roman as well as the Arabic alphabet. Marsden transliterated the Arabic spelling system into the Roman alpahbet and thereby started the Romanized spellling system of Malay. (Abdullah Hassan. 1978: 52)

1815年8月5日:ロンドン・ミッショナリー会(London Missionary Society)がマラッカに Chinese Free School をつくる。これはマラッカの最初の近代的な学校であった。(梅根 1974: 164)

1816年:ペナンで地区牧師ハッチンスが政府の補助を受けてフリー・スクールを開設した。(by Anglican)(この学校は人種、宗教を問わず、自由に志望者を入学させたので、Free Schoolと名づけられた) ○10月21日にイギリス国教会牧師 (Robert Spark Hutchings 1783- 1827)により作られる。男子校であった。しかし翌年1817年に女子校も開設する。(梅根 1974: 164)

1816年:開校されたペナン・フリー・スクールに付置されたタミル語学校がインド系住民にとっての最初の学校とされる。

1818年:マラッカで Anglo-Chinese 学校が London Missionary Society によりできる。(川崎 1986: 82)

1819: Raffles landed in Singapore.

1819年:世紀末に来たアメリカのメソジスト教会によりアングロ・チャイニーズ・スクールがあった。

1821年:最初のマレー語学校がペナンで開設された。Alisjahbana (1976:43) ○これは、ペナン・フリースクールにマラヤ学校とタミル学校が併設されたが、前者は1823年まで、後者は1826年までしか続かなかった。衰退の理由はマラヤ学校でコーランを教えたために、西洋人の気持ちを害したことと、都会の進歩的空気が母語教育よりも英語教育を選ぶ気持ちにさせたことが挙げられる。(梅根 1974: 167)

1823年:シンガポール(『もっと知りたい』p.199では1834年との説もある)でフリー・スクールが成立する。

1823年4月1日:ラッフルズ卿は、マラヤに教育と研究のための高等教育機関を設立しようとの構想を立てる。(梅根 1974: 168)

1824年:海峡植民地で最初の人口調査が行われる。シンガポールの人口の3/1弱の中国人口は3317人であった。(松本、川本 1991: 224)

1825年:クリスチャン・ブラザーズ(カトリック修道会)によりセント・ザビエル・フリー・スクール(カトリック)ができる。

1826年:マラッカでもフリー・スクールが創立された。

1833年:インド人の近代的な移民が始まった。ペナンやウェルズリーに砂糖やコーヒーのエステートが始められ、タミルやテルグー労働者が3年契約で導入された。(梅根 1974: 160)

1834年:人口調査ではシンガポールの人口の半数以上は中国人で10767人である。(松本、川本 1991: 225)

1843年:ロンドン・ミッショナリー会はこの年マラッカで、1844年にペナンで、1847年にシンガポールでマラヤ語学校を閉鎖している。(梅根 1974: 155)

1849: The first school for Indonesian aristocrats was established by the government. The government was indecisive about the language of instructions. Indigenous languages, Malay or Dutch were variously championed. (Collins 1980: 4)

1850年頃:マラッカに英語・タミル学校(Anglo-Tamil School)があり、約10年存続した。(梅根 1974: 161) ○マラッカに英国国教会タミル学校があったが、短命ですぐ廃校となった。(川崎 1986: 107)

1852: Another dictionary and grammar was compiled by John Crawford entitled The Grammar and Dictionary of the Malay Language. (Abdullah Hassan. 1978: 51)

1856年:二つのマレー語学校(政府により)がシンガポールで開設された。Alisjahbana (1976:43)

1856年:Van der Tuuk (有名なオランダ人の学者)はマレー語のリンガ・フランカは、真の言語ではなくて、真のマレー人によって使われていないと報告している。(Asmah Haji Omar 1982:11)

1858ー1863年:マラッカで9つのマレー語学校が開設する。Alisjahbana (1976:43)

1864年:インド政府の法令は移民を非合法化して、労働条件の改善を求めると共に、その福祉の管理を海峡植民地政府の手に委ねる。(梅根 1974: 160)

1865年:State Scholarship 始まる。(川崎 1986: 130)

1867年: the Straits Settlements は the British Colonial Office へ管轄が移行される。Alisjahbana (1976:43)はこの年から植民地政府はマレー語教育に関心を示し始めたとあるが、管轄の移管が関係するのか? ○海峡植民地がインド省から植民地省管轄へ移ってからへマラヤ人の母語教育に本格的な関心を抱くようになった。(梅根 1974: 155)
1867: the Straits Settlements was transferred to the British Colonial Office as a Crown Colony ( ?from the British East India Company).

1867年:あらゆる移民の制限は撤廃され、再び移民の波が高まった。(梅根 1974: 160)

1870年代:宣教師によってタミル語学校がペナン、マラッカ、シンガポールで開設された。

1870年:教員不足を解消するために、Wolley委員会が生徒ー教師制度の導入を推奨した。この制度は中等学校1年目を終了した生徒を対象に3年間、校長の指導のもとに、勉学と教学を同時におこなうものである。(川崎 1986: 98)

1870年代:タミル人が多く雇用されていたペナン島対岸の Province Wellesely やジョーホール州に宣教師によってタミル学校が作られた。これが、本格的なタミル語学校の開校であった。(川崎 1986: 107)

1872年:A.M.スキナーが海峡直轄地の視学官に任命されると、マレー語学校の急激な拡張があった。マレー語学校は普通は4年制で第1、2年にJawiによるマレー語、算数を教え、第3、4年にRumiによりマレー語、マレー語文法、物語の解読、算数、地理、歴史を教えた。『現代アジアの教育 p198』

1875年:植民地政府はマレー大衆のために、1875年セランゴールで、マレー語学校をつくる。

1875: Favre compiled two volumes entitled Dictionaire Malais-Francais. He concentrated on the change of the meaning and pronunciation of the words. (Abdullah Hassan. 1978: 52)

1876年:教員養成のためのマレー・カレッジがシンガポールに設立される。しかし1896年閉鎖される。Alisjahbana (1976:45)

1878年:植民地政府はペラクでマレー語学校を設立した。これらは初等教育の学校であり、マレー語では中等教育以上を受けることはできなかった。

1878年:トウロ・ブランガ(Telok Belanga)のマレー学院にマレー語の教員養成部門が付設された。訓練を受ける者はマレー語学校において、初等教育5年級までをパスしていなければならなかった。訓練は2年間行われた。しかしここでの教員養成はおもわしくなく、1895年にこのマレー学院は閉鎖された。(川崎 1986: 103)

1883年:後のキング・エドワード7世校がタイピンで設立され、

1883年:にローマン・カトリックの宣教師たちにより、サンダカンにセントメアリ学校が開かれたのが、始まりである。サバ・サラワクでは一般に半島部と比べて英語。中国語の影響が強く、マレー語の要素は少なかった。

1885年:当時海峡植民地総督であったセシル・クレメンティ・スミス卿(Sir Cecil Clementi Smith)によりイギリス留学を目的としたクインズ奨学金が設けられ、毎年2名の学生に与えられることになった。1931年にはマレー連合州においても一名分をマレー人に確保することにして、2名を同様な奨学金留学生とした。奨学生は中国人が圧倒的に多い。(川崎1986: 96)

1891年:ケンブリッジ地方試験 (Cambridge Local Certificate) をマラヤに導入。(川崎 1986:130) これは、マレーシア地域の教育水準をイギリス本国と比較するのに格好であった。(川崎 1986: 98)

1894年:クアラルンプールでビクトリア・インスティツーションができ、『現代アジアの教育 p.197』によれば、1893年に開設とのこと。

1895年:フランク・スウェッテナムをペラク、スランゴール、ヌグリ・スンビランおよびパハンの4カ国に派遣して、それぞれのスルタンを説得させて、この4カ国をまとめて、一つの連合政府を結成することで合意を得た。(松本、川本 1991: 212)

1896年7月1日:マレー連合州政府(Federated Malay States)が成立した。初代統監にはスウェッテナムが就任した。(松本、川本 1991: 213)

1897年:連合州のスルタンとイギリス官僚との会議「統治者会議」(Durbar)がペラク州のクアラ・カンサルで開かれた。(松本、川本 1991: 213)

1900年:ペラクとヌグリ・スンビラン州で政府による最初のタミル語学校ができる。

(  )年:Malaka で R.J. Wilkinson の指導のもとで、the Training College ができて、マレー語の標準化が始まった。インドネシアでの Bukittinggi での the Teacher Training Collegeの創設よりも20年ほど遅れている。Alisjahbana (1976:106)

1901年:Wilkinsonは最初のマレー語辞書を編纂する。@ R.J.Wilkinson’s A Malay-English Dictionary. He made good use of the Marsden and Favre’s dictionaries. Between 1901 to 1903 he collated the data. He was the first man to systematically transliterate Arabic spelling into the Roman alphabet. His first work listed the lexical entries in the Arabic alphabet which was later (in 1932) transliterated into the Roman alphabet. (Abdullah Hassan. 1978: 53)

1903年:R.J.ウイルキンソンは連邦視学官(Federal Inspector of Schools)になりマレー語教育に貢献した。彼は学校教育の場で、マレー語の書記法を従来のアラビア文字(Jawi文字)からローマ字(Rumi文字)へ変更し、マレー語の標準化を進め、学校図書館を設立し、また出版助成をおこなったりした。

1904年:Wilkinson により、ローマ字でのマレー語の表記法が定められた。(Asmah Haji Omar 1993:184)標準マレー語が制定され、それ以降、標準マレー語によるアルファベット表記のマレー語教科書が印刷されるようになった→もっと知りたいP108)。さらに彼は多くのマレー語の古典をローマ字体で出版した。@ On October 1904 a committee appointed by the Government of the Federated Malay States and headed by R.J. Wilkinson formulated what was later known as Ejaan Wilkinson. Later in Malay schools a slightly different system came into existence – the system known as Ejaan Za’ba. (Kridalaksana 1978: 306 in Perez, Santiago and Liem eds.)@Hassan(2004)によれば、The first Romanized Malay spelling systems was introduced in 1905.となっている。

1905年:クアラプンプールのヴィクトリア学院で教師のために、はじめて通常クラスが開設された。(川崎 1986: 98)

1905年:シンガポールでイギリスの医学教育をモデルにした医学専門学校ができた(もっと知りたいp.199では1902年との説もある)。これは1921年に拡張改組されてキング:エドワード7世医学カレッジと呼ばれた。

1905年:ペラの英君スルタン・イドリスはマレー人だけのためのMalay Collegeを創設する。この学校は英語で教育して、アブドウル・ラザク等の指導者がでる。しかし生徒数は戦前は150人を越えることはなかった。

1905年:ペラク州のクアラカンサルでマレー人上層階級の子弟のために本国のパブリック・スクールに倣った寄宿制のマレー・カレッジができた。

1905年: The establishment of the Malay College at K.L.(or Kuala Kangsar) for junior administrators. It was a preparatory school for the sons of the Malay aristocracy who planned to enter the administrative civil service.

1906年:雑誌『アル=イマム(指導者)』が発行される。1908年発刊になるまでマラヤを含むイスラム世界の堕落と後進性を批判する。

○海峡植民地提督であった、Sir Cecil Clementi Smith によりQueen’s奨学金制度ができて、毎年数名がイギリス本国で学ぶことになった。  

1910年:マレー人行政官吏制度が実施され、卒業生の登用が始まった。移民たちも英語学校にも関心を示し、英語が次第に普及していった。政府は多くの教員をインドから連れてきた。彼らの多くは教育を受けたタミル人(ジャウィ=プラナカンと呼ばれるイスラム教徒?)やマラヤミル人であった。Platt(1983)は彼らの英語はマレーシアの英語に相当の影響を及ぼしたと述べている。

c.1913: The British built goverment primary schools with instruction in the Malay language for the Malays, but they were designed to teach rudimentary reading and writing skills. Since the English-medium schools that Christian missionaries did established were principally in the urban areas, where mainly Chinese and Indian lived. The only compulsory education was four or six years of vernacular education at elementary level for Malays.

1913年:植民地政府はマレー語で授業をおこなう政府補助の学校を大規模に設立していった。その内容は簡単な読み書きと算術を中心とするものだった。教員は、モスクの導師やメッカへ巡礼した者が採用されていたが、質量とも不十分であった。

1913-39年: マレー人が非マレー人に土地を売ることを禁止する Malay Reservation Enactment が成立する。
1913-39: Malay Reservation Enactment ( in order to prevent large sections of land from being sold to the non-Malays and to protect the economic status of rural Malays against ‘the more rigorous economic groups and at preserving certain areas of land for bumiputras).

1914年:古く明代万歴年間以来、東南アジアの開発に必要な労働力として、勤勉な中国人が華南地方から拉致、誘拐されたことがある。いわゆる「猪仔」として奴隷という劣悪な状況で駆使されていたが、英領マラヤではこの人身売買が盛んであった。イギリス当局は何回かの中国の抗議に拘わらず、人身売買を禁止せずにいたが、この年ようやく禁止となった。(松本、川本 1991: 162)

1914年: The last Malay state finally accepted an official British advisor.
1914: The last Malay state finally accepted an official British advisor.

1914年:R.O. Winstedt は入試のために Malay grammar を書く。Alisjahbana (1976:97)

1916年:R.O.Winstedt が Assistant Director of Education in charge of Malay Vernacular Education in the Straits Settlements and the Federated Malya States に任命された。彼は教育を実用的なものにすることを意図した。Alisjahbana (1976:44);@ウインステッドが副長官に任命されると、マレー語教育に変化が起こった。マレー語教育を産業発展と結び付けて考え、カリキュラムにおいて技能工芸を強調した。普通のマレー語学校は施設も内容もよくなかったので、マレー人はスコラ・アタップ(草屋根学校)と呼んで、時代遅れの学校を揶揄した。『現代アジアの教育 p198』

1917年:すべての華語学校において、華語が教育用語として導入され、各方言グループ間の言語的障害が次第に解消されることになった。(松本、川本 1991: 253)

1920年:イギリスが在留華僑の教育に初めて干渉して、登録制度をひく。(梅根 1974: 174)

1920s: government grants-in-aid became available to Chinese schools.

1930s: government grants-in-aid became available to Indian schools. The sequence was, English-, Malay-, Chinese-, Indian-media.

1921年:キング・エドワード7世カレッジ(マハティール首相の母校)

1922年:マレー語学校卒業生に中等教育の機会を与え、また教員養成のために、スルタン・イドリス師範学校(Sultan Idris Training College:SITC)が Perak (Tanjung Malim)に設立された。当初はマレー語で書かれた適切な教科書がなくて、蘭印政府のインドネシア語による出版機関のバライ=プスタカ(Balai Pustaka)で刊行された教科書を使用する。 Alisjahbana (1976:45)によれば、この学校は従来の師範学校と比べて格段の進歩を示している。○R.O.Winstedt が述べているように、マレー語の教授法の合理化とマレー語の標準化を目指したものであると、述べているように、マレー語の標準化が進展しはじめる。Alisjahbana (1976:106) ○その規模と学生の出身地の広範さにおいて、従来の教員養成学校とは大きく異なる。開校以来多くの卒業生をマレー語学校に送り出す。(川崎 1986: 103)

1923年:労働規約でタミル語学校について、初めて明確な政策が打ち出された。この規約の中で、10人以上の就学年齢(6から12歳)の子供を抱えるエステートには学校を設立する義務があることとなった。エステート経営者は名目的に学校を設立するだけで、事務員やカンガニー(労働者のリクルート者)や読み書きのできる労働者などが、臨時の教師となった。(川崎 1986: 108)

1923年:翻訳部が K.L.の the Education Department に付属して作られた。Alisjahbana (1976:45)

1924年:翻訳部がスルタン・イドリス師範学校の一部となり、「マレー語学校教科書シリーズ」や「マレー家庭文庫」が出版され、さらに政府機関の出版物の翻訳も手がけられた。(川崎 1986: 103)
マレー語の普及に貢献した。最初の翻訳者はZainal Abidin bin Ahmad (Za’ba)であった。Alisjahbana (1976:45)○ Za’ba の2冊 Ilmu Mengarang Melayu, Pelita Bahasa Melayu は影響力の強い本であった。Alisjahbana (1976:97)

1924ー41年:マレー学校の教員によって作られたマレー語の雑誌 Guru Melayu がマレー語の発展に大きく貢献する。Alisjahbana (1976:49)

1927年:英語学校の生徒の人種比率は、海峡植民地において、中国人38.6%、インド人系16.5%、ユーラシアン31.9%であるのに、対してマレー人は4.5%であった。『現代アジアの教育 p198』

1929年:シンガポールにラッフルズ・カレッジができる(この両学校が戦後のマラヤ大学の母体となった)。

1929年:シンガポール建設100年を記念してラッフルズ・カレッジ(学院)が設立。同学院は「自立した評議会」によって管理されていた。同学院の卒業生の大半は英語学校の教師になったが、卒業生のマラヤ人の少数はマラヤ高等文官(Malayan Civil Service: MCS)の下級部門であるマラヤ行政官(Malay Administrative Service: MAS)に採用された。

1932年:Wilkinsonはマレー語英語辞書を編纂した。

1933年:Rumi表記法は Za’ba によって若干の修正を受ける。この表記法は1972年まで使用される、この時インドネシアとマレーシアとで共通の表記法が合意される。(Asmah Haji Omar 1993:185)。

( )年:Ch.A.Van Ophuysen (Inspector of education in the Dutch East Indies ) がペナンとProvince Wellesly のマレー語学校へ招待され、その教育について厳しい評価を下した。Alisjahbana (1976:96)

1934年:ペナンの雑誌『サウダラ』の投稿欄から寄稿者グループができる。指導はサイド=アルウィはマレー語による文化の発展をめざした。「ペン=フレンド同盟」との名称でマレー語の使用によるマレー人の統一を目指した。現p.298

1935: Malay Women Teachers’ College (MWTC) was established in Melaka.
女子教員養成のための学校もマラッカに開校した。これとサルタン・イドリス・カレッジは1958年まで唯一のマレー語中等教育機関であった。(川崎 1986: 103)

1938年:中国語学校は海峡植民地と連合州をあわせて約千校に達する。生徒数は9万人にのぼった。

1939年:ジョホール・バルに「言語会議」を設け、図書の出版、文学賞の授与、英語の翻訳に必要な新しい単語の創作を行う。現p.299

1935年:女性の教員養成のためにマラッカでマレー女子師範学校(Malay Women Teachers’ College)ができた。

1945年7月:日本政府はマレー半島とインドネシアの併合を考え、「インドネシア半島部人民連合」を認める。スカルノ・ハッタ・イブラヒム=ヤーコブはインドネシアとマラヤの合体案を日本軍政部に提案する。

○汎イスラム運動、カイロやベイルートからの留学生を中心として、やがてインドネシアとの合併をめざす。現p.300

日本軍政期:マレー人を教育して、民族意識の高揚をもたらすために、「昭南興亜訓練所」や「マラヤ興亜訓練所」を開設した。昭南興亜訓練所の3期生にアブドウル・ラサク第2代首相がいる。また「南方特別留学生」制度がある。

1942ー45年:日本軍により、マラヤとインドネシアは共通の表記法を使用したが、終戦後は各々の表記法に戻った。(Asmah Haji Omar 1993:185)

1942: at the time of the Japanese occupation: primary secular education was available in four language media, secondary in two, higher education in one (English).

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