1619: ワイマール学校規程(Weimarische Schulordinung)は、ドイツ最初の義務教育法(荒川2008:99)。
1634:ゴータ学校方策もドイツ最初の義務教育法(荒川2008:99)。
1717:一般勅令(General Edikt)はプロイセン王フリードリッヒ・ウイルヘルム1世による、これと一般地方学事通則(1763)では、民衆の就学義務を定めている(荒川2008:99)。
1750:ヴォルテールがベルリンに滞在中に、パリの友人に手紙を書く。その内容は「私はここでは、まるでフランスにいるような気がする。ベルリンではもっぱらフランス語だけが話されており、ドイツ語を使うのは兵士や馬に話しかけるときぐらいのものだ。大王の弟はあるプロイセンの貴族に、ドイツの馬になりたくなければフランス語を勉強した方がいいよ、とすすめたそうだ」(田中 1985: 96)
1780: フリードリヒ大王は「ドイツの文学について」というフランス語の論文を書く。そこでは、フランス語のひびきが洗練されてやわらかいのにくらべて、ドイツ語が硬いことを嘆き、ついには動詞の形をかえることさえ提案した。(田中 1985: 96)
1801:ヴイルヘルム・フォン・フンボルトがベルリン大学を設立する。ベルリン大学の中心は、従来のような神学部でも法学部でもなく、「哲学部」であった。その哲学部の中でも、とりわけ重視された学問が「古典文献学」なのである(イ 1998: 111)。
1812:大学入学資格試験規定によってプロイセンのギムナジウムが発足(イ 1998: 112)。
1866-1870: ドイツの教育はこれは大変進んだもので、1866年と1870年の戦争はプロシアの学校教師によっておさめられた勝利だ、とさえ言われた。
1874: 郵政局総裁ハインリッヒ・ファン・シュテファンが郵便用語の言い換えを推進した。郵便関係の業務で使われていた760の外来語をドイツ語に翻訳していった(イ 1998: 114)。
1788: The final examination, Abitur, was introduced in 1788, implemented in all Prussian secondary schools by 1812, and extended to all of Germany in 1871.
18世紀: the Kingdom of Prussia was among the first countries in the world (if not the first at all) to introduce free and generally compulsory primary education, consisting of an eight-year course of primary education, Volksschule. (A Volkschule was an eighteenth century system of state-supported primary schools established in the Habsburg Austrian Empire. Attendance was supposedly compulsory, but a 1781 census reveals that only one fourth of the school-age children attended. At the time, this was one of the only examples of state-supported schooling. Today, Volksschule is the Austrian equivalent to the German word Grundschule and the Swiss German word Primarschule, i.e. primary school. )
1810: after the Napoleonic wars, Prussia introduced state certification requirements for teachers, which significantly raised the standard of teaching.
1876: プロイセンがStaatsspracheという表現を法律用語として定着させた。(田中1985: 108)
1885: ヘルマン・リーゲルが全ドイツ言語協会を興しドイツ語の言語純化運動を始める(イ 1998: 114)。
1889:『プロイセン年報』の中で、全ドイツ言語協会を非難する(イ 1998: 117)。
1900:実科ギムナジウムと高等実科学校の教育を等価とするというヴィルヘルム2世の勅令がでる(イ 1998: 113)。
1917: 戦争の最中には、言語純化主義が生じた。エドウアルト・エンゲルによる愛国的文書『ドイツ語をしゃべれ!:祖国防衛に益せんために』(クルマス 1987: 59)
1918年:エドウアルト・エンゲルが『ドイツ語化辞典』を発表した。おもにドイツ語の非フランス語化をめざすものであり、コンサートのかわりに、Musikabend,ペシミストはWeltschmerzler、インフレーションはPapierwirtschaftとすることを唱えた(クルマス 1987: 59)。
1919: ワイマール憲法と翌年の帝國基礎学校法によって、3系列の学校(ギムナジウム、実科学校、民衆学校)という中等学校に、共通の初等教育学校(基礎学校)が
おかれ、すべての人の就学義務が明記された(荒川p.100)。
1933-: 言語政策をより広くとらえると、先進国でも言語政策は実施される。たとえば、ナチス・ドイツでの例がある。亀の子文字をユダヤ起源として廃止したり、ルーン文字の研究などがこれに該当する。ただしこの場合では言語の象徴性にのみ、関心がゆく。第3世界での実用性と象徴性の調和の追求とは違った言語政策をとる。
1945年:4カ国連合軍に分割占領されたドイツでは、まず地域別に占領国の言語が第1言語とされ、学習に際しては1947年「他国の民族を理解し尊敬するために役立つべきで、偏見をなくす」ことが目標とされた(杉谷2002:23)。
1946?: アメリカ教育使節団はドイツの分岐型教育制度をインドのカースト制度の用に階級差別的であると報告している(荒川p.100)。
1949年5月:アメリカ、イギリス、フランス占領地域が統合されて、ドイツ連邦共和国(Bundesrepublik Deutschland)が成立する。
1949年10月:旧ソビエト連邦の占領地域において、ドイツ民主共和国(Deutsche Demokratishce Republik)が成立する。
1949~:外国語学習は本来、貴族階級や上級学校へ進学できる富裕市民層が享ける教養教育の特徴であった。戦後、学校教育の三分岐制を維持した旧西ドイツでは、外国語教育は、ギナジウム、学校実科学校では5年生より開始されたが、国民の大部分が就学した基幹学校では必修科目として導入されなかった(杉谷2002:23)。
1950年代:ドイツ語では教材を示すときに教科書(Lehrbuch)ではなくて、総合教材(Lehrwerk)という表現が使用される。そこには、練習帳、単語帳、文法書、ビデオ、コンピュータ教材などを一式を示す。その教材の歴史だが、1950年代では、古典的な作品に接して人格を陶冶して、外国語学習により精神を鍛錬する、という目標の下に戦前の流れを引く「文法―訳読」方式と学校文法に基づくシラバスによる教科書である(杉谷2002:29)。
1955年:文部大臣会議のデュッセルドルフ協定で、原則として英語が第一言語とされた。古典語系ギムナジウムではラテン語が第1外国語、英語は第2外国語であり、他の学校種では英語が重視され、この構造は1964年のハンブルグ協定でも確認された(杉谷2002:23)。
1961年:ベルリンの壁の構築
1960年代後半から:日常的な言語表現に即して、基幹学校での英語教育の広がりとともに「話す」能力育成を目標とするオーディオ・リンガルメソッドが導入された(杉谷2002:29)。
1963年:13歳児の就学率は基幹学校70%、実科学校12%、ギムナジウム15%で、それから推測すると国民の大部分は外国語教育とは原則として縁遠い存在であると言える(杉谷2002:23)。
1964年:ハンブルグ協定(この時までは、実科学校は中間学校とか中学校Mittelschuleと呼ばれていた。これ以降は、実科学校と呼ばれることになる(杉谷2002:24))
1960年代後半:一般的な学校教育改革、特にカリキュラム改革議論の中で、学習目標、教材、教授方法、技術的手段を確定し、全学年、学年段階での授業を予め計画する「大カリキュラム」という構想が出され、カリキュラム研究や教科教育学研究の期間が1966年から1976年にかけて設立された(杉谷2002:29)。
1969年:ドイツ教育審議会により3学校種を統合するために総合学校が導入された。革新系の社会民主党が政権を担当する州で広まった(杉谷2002:21)。@ドイツ教育審議会により、一般教育を共通に受ける年限を長くするために導入された(杉谷2010: 55)。
1969年7月:「基幹学校で1外国語学習を必修科目とするための勧告」は各州で実施に移され、国民全員に1外国語(多くは英語、一部の州・地域ではフランス語)教育の機会が提供されるに至った(杉谷2002:23)。
1970年代:社民党の政権下で「第2の民主化」と言われる改革期を迎えたドイツでは、実科学校、ギムナジウムへの進学率の増加、大学進学率の漸増により外国語学習者は増加する(杉谷2002:23)
1970年代:5-6学年の2年間は「オリエンテーション段階」とされ、3学校種の間での移動を容易にする目的で、戦後の教育改革の一環として主に70年代以降に、各州で漸次導入された。(杉谷 2010:55)
1973: 移民募集停止(オイルショックを契機として新規の外国人労働者募集が中止される)。
1970年代半ば:コミュニケーション能力育成のためのアプローチが主流になり、その一部は1990年代以降は、異文化理解アプローチへと展開する(杉谷2002:29)。
1980年:ヘッセン州文部省が発表した「中等教育段階Ⅰの現代語のための指導要領大綱で」で、その中で教育学的観点と並び、オースティンなどの言語学的語用論からウイルキンスなどの言語学習への応用理論へと、社会的行為としての言語コミュニケーション論が展開されている(杉谷2002:30)。
1998年9月:社民党と緑の党連立によるシュレーダー政権が成立する。それにより、その後、ドイツでは移民法が大幅に改正され、外国人のドイツ国籍取得がより容易になった。(ドイツ人になるには、日常生活に困らない程度のドイツ語を習得し、継続してドイツに8年滞在すればいいだけだ)。
1989年:「ベルリンの壁」崩壊
1990年10月3日:ドイツの統合が行われる。外国語教育においても旧西ドイツの外国語教育政策が引き継がれた。(11州からなる西ドイツに、5州に再編成された東ドイツが統合して、16州からなる「ドイツ連邦共和国」が成立した。
1993年:雇用情勢の急速な悪化を背景に労働許可証発給の運用が厳格化されると共に、難民受け入れに制限が加えられる。
1990年代末:「(ドイツへの)移住ではなく統合を」(Integration statt Zuwanderung)という考え方が生まれ、政治的、社会的には統合(Integration)の重要性が高まっていった。その背景としては、第2世代、第3世代の移民の若者が義務教育を終了せず、また就職出来ないこと等により、ドイツ社会と遊離した「並行社会」(Parallelgesellschaft)が生まれ、それが将来、社会不安、武力衝突に繋がる可能性があるという不安や恐怖感をドイツ人の中に惹起したことが挙げられる。
1997: ボローニヤ宣言の影響を受けて、大学での履修課程や履修方式自体の改革で、学士・修士制度への移行が進む。全ての分野で初めて単位制が導入され、3年生の学士課程、2年生の修士課程、さらに博士課程(通常3~4年)が設置された。一般に専門課程の履修は修士号取得までを含むと見なされることが多く、学士号のみので就職の機会は限定されている。(杉谷 2015:275)
2000年1月:ドイツは従来の血統主義に基づく移民法に変えて出生地法を採択した。 法律改定の具体的な内容は、ドイツに永住意志のある外国の両親を持つ子供でドイツで生まれた者は、出生と同時に両親の国籍(例えばトルコ国籍)と同時にドイツ国籍も自動的に付与される、というものである。
2000 年7 月:2 万人の情報通信技術(IT)専門労働者に特別労働許可証を発行して受け入れるグリーンカード制度を導入し、2001 年8 月までの1 年間にインド、中・東欧諸国などから8,600 人のIT 技術者を受け入れた(ITI 季報Winter 2001 / No.46)。
2000年:OECDが2000年に行った国際的な学習到達度調査(PISA)の全体結果が芳しくなかったドイツでは、その後「ピザ・ショック」という言葉が生まれ、学校教育の質の改善が社会的・政治的な課題とされた(杉谷2010: 57)。
2001年:秋よりドイツの多くの州で、小学校からの外国語導入が試行段階に入っている。BW州ではすでに1984年より「隣国の言葉を学ぼう」というプロジェクトが発足しており、フランスとの国境地域の小学校では3,4年生からフランス語学習が開始され、相互訪問などのプロジェクトが実施されてきた。2001年現在、3校に1校が、英語またはフランス語を提供している。新政策で、2004年秋より1外国語が1年生対象に正規科目として導入される。その際、学校単位で英語がフランス語が選択される(杉谷2002:27)。
2001年:ヨーロッパ言語年
2002年3月: 新移民法が連邦参議院で可決、03年1月より施行される予定だった。しかし同院における議決方法が憲法裁判所で「違憲」とされ、その後与野党の度重なる調整を経て、今年7月にようやく可決、05年1月より施行される運びとなった。
2003年末現在:全人口に占める比率が8.9%にのぼる外国人(約733万5000人)が居住している(EU国籍所有者を含む)。欧州では外国人数が最も高い。
2003年:ピザ・ショックを背景として策定された連邦次元での「教育スタンダード」は、外国語に関してCEFRを取り入れて、習得されるべき標準的な能力を記述した。→KMK 2003(杉谷2010: 57)
2003年12月4日:教育スタンダードが文部大臣会議で決議されて、10学年中級修了時の到達目標が、ドイツ語、数学、第1外国語(英語・フランス語)の中核3科目に関して発表された(杉谷2010: 57)。
2004年:全州から外国語教育(多くは英語教育)が全小学校で実施されそうである(確認必要あり!)(杉谷2002:27)
2005年1月:新移民法が施行された。内容の一つに移民のドイツ社会への「統合」(Integration)が挙げられる。その背景には、ドイツでは、ドイツ社会から遊離した移民による「並行社会」が形成されつつあり、これが将来のドイツ社会に脅威を与える強い蓋然性があることから、移民をドイツ社会に統合することが不可欠であるとの認識がある。移民法発効後、統合コースの枠組みの中で600時間のドイツ語コースと30時間のオリエンテーション・コース(ドイツの法令、文化、歴史に関する知識習得)が連邦予算で実施されている。
2005年:ドイツ居住外国人が676万人(ドイツの全人口に占める外国人の割合は8.2%)であったのに対し、後期帰還移住者(注4)等の「移民の背景を有する人々」(Personen mit Migrationshintergrund)(注5)は約800万人で、その数は外国人の数を上回る。ドイツで「移民問題」が意味するところは、「外国人問題」と「移民の背景を有し、ドイツ国籍を有する人々の問題」の双方である。(注:)後期帰還移住者(Spätaussiedler)とは、第2次世界大戦の結果、ドイツ民族であることにより激しく迫害され、戦後も数十年に渡り、相当不利な扱いを受けた、ドイツ民族に属する者で、連邦追放者法(Bundesvertriebenengesetz)が定める強制移住地域(旧ソ連、旧東欧ブロック)を1992年12月31日以降受け入れ手続きにより離れ、それから6か月以内にドイツに定住した者をいう。1992年12月31日以前に帰還した人々は帰還移住者(Aussiedler)である。なお、旧東独から旧西独に移住したドイツ人はÜbersiedlerという。
2007年7月:BW州文部省は導入に当たり「外国語教育会議」を開催した。外国語教育の専門家からは、第1外国語としてフランス語を薦める声が強く、その理由として英語はいずれ学習されるので、多言語化を促進するためにはフランス語から開始するのは有意義である、という見解がある(杉谷2002:27)。
2007年: 新基準が2004-5年度の開始時に適用されるべきことが文部大臣会議で合意され、全国的に共通テストで達成度が測られるべきであるとの考えを受けて、NRW(ノルトライン・ヴェストファーレン州)でも、戦後初めて2007年に州の統一高等学校卒業資格試験(Zentralabitur)を実施した。それまでは、NRWは地域分散的にアビトウアを実施していた。
2007年:この時点で、ほとんどの州で小学校1年、または3学年から第1外国語が教えられている。その多くは英語であるが、国境地帯ではフランス語など近隣国の言語も選択対象とされている(杉谷2010: 55)。
2009年:NW(ノルトライン・ヴェストファーレン州)での教員養成法の改革の特徴として、次の五種(小学、前期中等、後期中等、職業専門短期、特別支援)の教員希望者の、教員の養成期間が同一の5年になった。すなわち3年の学士課程、2年の修士課程、18か月の試補勤務と国家試験が求められるようになった(杉谷2015: 277)。@修士修了時に習得すべき能力はCan-Do項目により規定されている(杉谷2015: 282)。@適性診断に始まる教育実習全体を通して、教員としての成長や課題を記録4、継続的に職業人としての専門能力を自律的に開発するツールとして「教職ポートフォリオ」の活用がKMKから提示されたが、NWはその作成を2009年養成法で必修とした(杉谷2015: 278)。
2013年3月7日:KMKは大学での養成課程に関する勧告で、「教員という職業に要求される諸能力を、教職を目指す学生たちは過小評価することがある。その結果、教職課程の履修が進んだ段階になって初めて『はたして自分は教職に向いているだろうか?』と自問する人もでてくる」と述べている。早い段階での教員の世界を経験して、経験者との懇談を通じ的性を熟慮・判断する必要性を強調している。
2015年(予定):大学課程での教育実習の教科に伴い、試補期間は短縮されて、12か月となる予定である。(杉谷2015: 278)
文献
F.クルマス (山下公子訳) 1987. 『言語と国家』 東京:岩波書店
田中克彦 1985 『ことばと国家』 岩波書店
荒川麻理 2008 「ドイツ」『国際化と義務教育』 全国海外教育事情研究会
杉谷眞佐子2002「ドイツ連邦共和国」『先進諸国の外国語教育』JACET関西支部「海外の外国語教育」研究会
杉谷眞佐子 2010 「ドイツ」、大谷泰照(代表編集)『EUの言語教育政策』 くろしお出版
杉谷眞佐子 2015 「ドイツ」、大谷泰照(代表編集)『国際的にみた外国語教員の養成』 東信堂
マックス・プランク教育研究所研究者グループ 2006 『ドイツの教育のすべて』東信堂
用語
Abitur 高等学校卒業資格