フランス

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フランスの言語政策(本国と植民地)

11~12世紀:ラングドックの中心地アルビにアルビ派の宗教運動が起こる。

1209-1229: アルビ征服戦争がおこり、オック語への回復しがたい打撃を与える。

1335:トゥルバドゥールのコンクールであったConsistori del Saber(楽しき学芸のつどい)がオックの文学活動を維持するために設けられた。(田中 1985: 83)

1513: Consistori del SaberはCollege de Rhetoriqueと改称され、オイル語以外の使用を認めなくなった。(田中 1985: 83)

1539: フランソワ一世がヴィレール・コトレの勅令を発布する。その110,111条では、フランス国内の公的生活では、王の言語のみが国家の言語であるとして、「すべての裁判や公務において」「今後は当事者双方に対して」「フランスの母語だけで、発音され、記録され、伝えられるべき」ことを決定したのである。(田中 1985: 90)@これはラテン語の排除と国内少数言語の消滅を意図したのである。(田中 1991: 234)

1549: J.デュベレーは、「フランス語の防衛と讃美」を書く。

1626:この頃から文学者たちが王室秘書のヴァランタン・コンラール邸で会合を持つようになった。これがアカデミー・フランセーズの起源である。(Wikipedia より)

1635: アカデミー・フランセーズが設立され、フランス語洗練のために公的な機関として発足した。@フランスのアカデミーの一部門。ルイ一三世の宰相リシュリューが1635年創設。フランス語の純粋性の保持を目標とし、「アカデミー-フランセーズ国語辞典」(1694年初版)の編集・改訂を主な仕事としてきた。@当初の役割はフランス語を規則的で誰にでも理解可能な言語に純化し、統一することであり、その目的を達成するために辞書と文法書の編纂を重要な任務としていた。このアカデミー・フランセーズによる辞書(アカデミー辞書)は1694年に初版が出版された後、8回(1718年、1740年、1762年、1798年、1835年、1878年、1932年-1935年、1992年)の改版を重ね、現在に至っている。(Wikipediaより)

1782: ベルリンのアカデミーの懸賞論文を募集した。2つの論文が入選したが、そのうちの一つは、フランス人リヴァロールの論文であった。その中で、「明晰でないものはフランス語ではない」と述べている(田中 1985: 99)。

1789: フランス革命

1792: 国民公会(la Convention nationale)において、ロトマは、共和国の利害は、今日、そのすべての成員に知られていなければならない。だがそのような、しかるべき状態は、国語(la langue nationale)を全員にすっかりなじませることによってもたらすことができる。国家語の必要な根拠として、全土にわたる、滞りのないコミュニケーションという、実際の必要が前面に押し出されている。(田中 1991: 233)

1793年9月30日:国民国会の文部委員会において、グレゴワール師は、フランスにおける言語の現状報告をしている。とうじの2300万の人口のうち、600万人はフランス語をまったく理解せずに、他の600万人はよどみなく話すことができない(田中 1985: 103)。@有用な知識は甘き露のように、この国民(la nation)を構成する個人のすべてにひろまるであろう。かくて国語(la langue nationale)を話すことのない、フランスの600万人の地域的ジャルゴンやいなかことばは次第に消え去るであろう。(田中 1991: 233-4)

1793年10月17日:グレゴワールの報告を受けて、共和国のすべての子供はフランス語を話し、読み、書かねばならないと決定された(田中 1985: 103)。

1797-98:第5版のアカデミー辞典は、下層民の語彙336を巻末につけたので、純化主義者をいきどおらせた。(田中 1985: 104)。

ブルトン(p.89)によれば、伝統的にフランス語による教育が初等教育時から始められる旧フランス領アフリカ諸国と、英語の使用がとりわけ中等教育時から始められる英語圏アフリカ諸国との間には、人々の社会的な行動様式にずいぶん大きな差があるとしている。

1881/1882: ジュール・フェリー法、フランス教育の基本が示されている。

1883年:普仏戦争に敗れた後、凋落した自国の権威を回復しようと、アリアンス・フランセースを通して、フランス語とフランス文化の国外普及に努めた(青木2003: 142)。

1970: フランス語圏文化技術協力機関ACCTが設立される。フランコフォニー運動が起こる。

1982: カードル法により、国は教育行政の権限を地方に部分的に委譲した。

1989年:ジョスパン法により、IUFM(教員養成高等教育機関)が組織化されて、教員養成の一元化が図られた。教員志望の者はIUFMにて専門教育や実地研修を受ける。この教員養成機関は全国の大学区ごとに設置されて、区域内のいくつかの大学と連携してプログラムを提供している(松浦2010:43)。

1992年」マーストリヒト条約の発効をにらみ、憲法改正を行っている。第2条に追加された条項「共和国の言語はフランス語とする」により、フランス語は正式に国家語として憲法に規定されることになった(松浦 2010:40)。

1994年:トゥーボン法、外国語表現や外国語でできた製品名の使用を禁止した(15条)。

文献
青木保 2003 『多文化世界』 岩波新書
ロラン・ブルトン(田辺裕、中俣均訳) 1988. 『言語の地理学』 白水社
田中克彦 1985. 『ことばと国家』 岩波書店
田中克彦 1991. 『言語からみた民族と国家』 岩波書店
松浦京子 2010 「フランス」、大谷泰照(代表編者)『EUの言語教育政策』くろしお出版
松浦京子 2015 「フランス」、大谷泰照(代表編者)『国際的にみた外国語教員の養成』 東信堂

 

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