エスペラントの歴史年表
1887年:ポーランドの眼科医であるザメンホフが、国際語の一種として、エスペラントを発表した。
1891年:丘浅次郎がドイツのフライブルク留学中にエスペラントを学習する。(大島義夫、宮本正男 1987:6)
1896年:エスペラントの歴史の第1期であるスラブ・ドイツ時代が終わって、宣伝時代ともいわれているフランス時代が始まった。神秘に包まれているルイ・ド・ボーフロンの登場とともに、前には色の濃かった平和主義的および宗教的な特徴が影をひそめ、資本主義時代の国際交流のために、エスペラントが実際に役に立つ、という利点が強調され始めた。(リンス 1975: 10)
1900年: パリで万国大博覧会が開かれた。いろいろな学術の国際会議が開かれた。その折、各国の学者たちの間で、言葉の不便が強く感じられた。(二木 1994: )
1906年:二葉亭四迷が本邦初の日本人向けエスペラント教科書「世界語」を著す。
1908年:UEA(ウエア)Universala Esperanto-Associo, 世界エスペラント協会 が創立される。UEAの中で、理想主義と実用主義がうまく共生することになった。(リンス 1975:16)
1908年:呉稚暉(ウージーホエ)が、パリの中国人アナーキストグループが発行していた『新世紀』誌上でエスペラント採用論を唱える。これは中国の漢字を廃してエスペラントを採用すべきと言う内容である。(浜田ゆみ 1997:338)@これは、森有礼の英語採用論から影響を受けているらしい。呉稚暉はつぎの様に述べている。「近頃日本文を全国的に英文に改めることを説く者がいる。思うにその趨勢はそうせざるを得ないものであろう。中国の文字の難しさは、文明の発達の妨げになっており、日本に比べてもとりわけひどいのは言うまでもない。だが、私は、英文に改めるよりもエスペラントに改めるほうがよいと考える。」(浜田ゆみ 1997:339)
1918年:銭玄同(チェンシュエントン)が『新青年』で、「しかし英語などは漢語よりもわりと良くて、新しい道理を記述することができるが、結局は歴史的に伝えられてきた言葉であり、人工的に改良された言葉ではないので、錯雑な発音、おかしな文法、野蛮で幼稚な慣用語がなお非常に多い。」と述べている。(浜田ゆみ 1997:340)
1919年:中国における5・4運動の頃、中国語の改革問題で、銭玄同、胡適、陳独秀のような知識人は、中国の言語と文字をいかに近代的必要に適応させるか、の問題で熱っぽい討議を行った。銭玄同は中国語を躊躇なく廃止して、エスペラントをその代わりにすべきと提案した。(リンス 1975: 92)
1919年:北一輝『日本改造法案大綱』を出版する。その中で、英語を廃止して、エスペラントを課し第2国語とするとある。(大島義夫、宮本正男 1987: 50f)
1921年8月:労働者エスペランチストの国際組織であるSAT(サート) Sennacieca Asocio Tutmonda 全世界脱民族性協会が設立された。SATは「中立主義くたばれ!」との掛け声のもとに、中立主義エスペラントと完全に手を切った。エスペラント運動の内部で階級による分裂が起こった。(リンス 1975:25)@ランティによって設立される。(浜田 1997:340)
1933年:Basic English が張夢麟(ジャンモンリン)によって、『新中華』の中で、紹介される。この中で、次のように述べている。「これらの様々な国際語は、それぞれ数万ないし数十万の賛成者がいるが、依然として広く流布していない。その最大の原因は、つまりこれらの世界語が自然に発生した、生きた言語ではなくて、人為的で、死んだものだからであり、これらの言語を学ぶことは別にもう一つの外国語を学ぶことに等しいからである。しかもこういった言語は祖国がなく、学んでも使う場所がないのだ。」なおオグデンはBasic English を発表する時にエスペラントの存在を意識していた。(浜田 1997:344)
1965年:東京で第50回エスペラント大会が開かれた。
1996年7月:国際語エスペラント運動に関するプラハ宣言、この宣言は、チェコのプラハで開かれた第81回世界エスペラント大会で採択されたもので、21世紀を前にした国際語運動の原則と目的を指し示すとともに、現代社会におけるエスペラント語使用者の立場を明らかにしようとするものである。
1997年:オーストラリアのアデレードで第82回世界大会が開かれる。
1998年:フランスのモンペリエで 第83回世界大会が開かれる。
1999年:ドイツのベルリンで 第84回世界大会が開かれる。