言語起源論の歴史年表
紀元2世紀から3世紀:『オルフェウスの賛歌』(エーコ 1995:177)
紀元2世紀:『カルデァの神託』(ゾロアスターの作とされた)(エーコ 1995:177)
?オリゲネスからアウグスティヌスに至るまで、教父たちはヘブライ語が混乱以前の人類最初の言語であったということを当然のこととして受け入れていた。(エーコ 1995:118)
14世紀:ドイツ語が原初の言語としての権利を持っているのではとの思考が芽生える。ドイツ語の大部分の語根語が聖なる言語に対応していると述べている。(エーコ 1995:151f)
1460年:『ヘルメス文書』がフィレンツェにもたらされた。(エーコ 1995:177)
?トーマスモア『ユートピア』の中で、「豊富な語彙を持ち、耳に心地よくて、そして人間の精神の表現のために、非常に完璧で確実である」ユートピアの言語を記した。かれは、想像の言語の領域へはじめて果敢に踏み込んでいった先駆者とみなされていた。(ノウルソン 1993:166f)
1533年:コンラート・ペリカヌスが『聖書註解』の中で、ドイツ語とヘブライ語を比較しながら、両者が類似があると述べている。(エーコ 1995:151)
16世紀から17世紀にかけて:ヘブライ語を深く研究して、できることならば、普及させようとの動きが出る。アウグスティヌスの頃とは時代が異なる。プロテスタントの宗教界改革は、教会の解釈が介在することを拒絶して、聖書をじかに読むことを奨励した。(エーコ 1995: 119)
1569年:ベカヌスは『アントウエルペンの起源』の中で、オランダ語が原初語であると唱えた。(エーコ 1995:148)
1641年:ショッテルが『ドイツ語の語法』の中で、ドイツ語は純粋さの点でアダムの言語にもっともに多言語であるとしている。(エーコ 1995:153)
?ロイヒリン『驚異の言語について』の中で、アダムの言語においては、「純粋で、神聖で簡潔で、いつも変わることのない単純な話し方であり、神は人間と、人間は天使と、通訳者を介さずに、じかに話していた。アダムが天の鳥や野原のあらゆる動物と会話する、と述べている。(エーコ 1995:269)
1600年:ポール=ロワイヤル『一般論理文法』これは、文法規則そのものに関する考察であり、文法規則を理論的に根拠づけ、さらに文法のカテゴリーと論理学のカテゴリーとの完全な一致と確立することであった。事物の本性をそのまま表すことのできる理想言語(アダムの言語)を復元しようとする思潮がおこった。(ヤグェーロ 1990:77)
1660年:ポール・ロワイヤル文法は、我々の国の言語は、明晰さと、もっとも自然で、かつもっとも支障のない語順を持っているとほめたたえている。(田中 1996:99)
1669年:ジョン・ウエッブが『シナ帝国の言語が原初の言語であることを確かめようとした歴史的試論』の中で、中国語が原初語であるとの案を提示する。(エーコ 1995: 141)
1679年:アナタシウス・キルヒャーの『バベルの塔』を出版する。ヘブライ語が原初の聖なる言語であると主張する。(エーコ 1995: 130)
1710年:ライプニッツは「主として、言語の指示に導かれた諸民族の起源に関する考察の略述」を書く。(風間 1978: 23)
1746年:コンディヤックは、『人間的認識の起源に関する試論』の中で、言語は、原始的な身振り、顔の動き、感情の自然発生的な叫びを用いる人間同士ですでに確立されていた触れ合いから発展したものであるとの仮説を示す。(ノウルソン 1993:204)
?:コンディヤックは自国語に外来語の混入を許したために、観念間に存在する類似性にかっては密接に対応していた記号同士の本来の類似性をかなり混乱させてしまった。その結果、現代の諸言語は起源との真の関連を振り返ることなく、かなり無差別に諸観念にあてがわれた語の単なる寄せ集めというか、とにかくも大混乱の様相を見せているのである。(ノウルソン 1993:242)
1751年:ジェームス・ハリス『ヘルメスあるいは普遍文法についての哲学的探求』の中で、言語記号がシンボルであって、自然の模倣ではなくて、本質的に恣意的なものであると主張する。…事物の特性や本質を、鏡が色や形を忠実に映し出すように、そのまま表すことのできる言語は一つとして存在したことはなく、作り出すこともできないとする。(ヤグエーロ 1990:90)
1762年:アダム・スミスが「諸言語の起源についての論文」(後に『道徳感情論』に付録として付け加えられる)を発表した。その中で、川というものをテムズでしか知らない「無知な」人間にとっては、別の川を見た時もテムズというはずだから、全ての名詞の起源は固有名詞だったと主張している。(田中克彦 1996: 5)
1765年:ド・ブロス『機械的言語形成論』彼は、この中で、当時話題になった、原語根に達することを目指す、単語と物の関係はまだ社会慣習的とは捉えられていなくて、必然的と考えられている。つまり発声器官と物自体の本質との繋がりが問われていたのである。特に、基本語根に還元される普遍語彙リストを提示します。なお、世界中で、父親と母親の呼称が唇音と歯音によることを指摘している。(ヤグエーロ 1990:88)@シャルル・ド・ブロスは『言語の機械的形成に関する論稿』にとって、原始言語は人間の肉体の組織と外界の物体から、すなわち自然そのものから受ける感覚によって、厳密に決定されるものである。我々の知っている言語のことごとくが、必然的な共通の根―語からなる共通の蔵から派生するのである。少数の原始的な語根のもとで、ヨーロッパと東洋のすべての言語の普遍的な語彙集を我々にもたらしてくれる考古学と辞書のけいかくを立案して、述べたのである。すべての言語は、全部で400に満たないごくわずかの共通の根―語に還元されうる。(ノウルソン 1993:210)
1767年:フランスのイエズス会士クールドーは、フランス学士院に報告書を送り、サンスクリットとラテン語には単語間に数多くの類似点が見られるし、語形変化にもいくつかの類似点が見られると注意を向けた。しかしながら、彼の観察は其の後、40年間公刊されなかった(ウイルソン 1981:44)。
1775年:コンディヤック『教程』で、身振り言語が最初で、自然を起源として、やがて慣習に基づく言語へと変化したいったとする。「身振りや顔の表情、はっきりと分節されない声。よろしいですか、これこそが人間が互いにその思いを伝えるのに用いた最初のものなのです。」(ヤグェーロ 1990:86-7)
1776年:クール・ド・ジュプランの『言葉の博物誌』の中で、全言語の派生原である語根の提供を意図した原初の辞書を確立することであった。(ノウルソン 1993:210)
1784年:ウィリアム・ジョーンズ卿とサー・チャールズ・ウイルキンズと共同で、カルカッタにアジア協会を設立した。(ウイルソン 1981:44)
1784年:リヴァロールは、「明晰でないものはフランス語でない」と述べた。(田中 1996:99)
1786年:ウィリアム・ジョーンズ卿が、ボンベイの『アジア学会誌』の中で、サンスクリットの紹介をしている。(エーコ 1995:158)@「インド人について」と題し、同年9月27日、講演をしている。この中で、サンスクリットとヨーロッパ諸語の比較している。(ウイルソン 1981:45)@風間 (1978: 13)によれば、2月2日に、カルカッタで、アジア協会設立3周年を記念して、「インド人について」との講演をおこなった。
1788年:ジョーンズ卿の86年の講演が、彼の編集する「アジア研究」創刊号に掲載された。(風間 1978: 14)
1808年:フリードリッヒ・シュレーゲルが『インド人の言語と知恵』を出版して、ジョーンズが講演で示唆したサンスクリットとヨーロッパ諸語との比較を、その中で、詳細に行った(ウイルソン 1981:46)。@彼が「比較文法」との名称をつける。(風間 1978:34)
1816年:フランツ・ボップが『サンスクリットの動詞活用体系についてーギリシア語、ラテン語、ペルシア語、ゲルマン語のそれとの比較』を出版する。かれは、これらの関連した言語の文法を、徹底的に分析して比較すれば、記録として残っている最古の形態が見つかるだろう。さらにその道をたどってゆくと、文法形式の究極の起源も発見できるかもしれない、と考えた(ウイルソン 1981:49)。
1823年:クラプロートがパリで公にした「アジア博言集」にインド・ゲルマン語との名称がはじめて見られる。(風間 1978:45)
1859-1863年:ピクテ『インド=ヨーロッパ語の起源、あるいは原初のアーリア人』の中で、アーリア文化への賛歌をうたっている。「この人種は最初から征服者になる運命にあった。」(エーコ 1995:161)
1861-62年:アウグスト・シュライヒャーが『印欧語比較文法要説』を発表する。印欧語の系統樹を発表する。(風間 1978:126 )
1863年:シュライヒャーがワイマールで出した「ダーウィンの理論と言語学」との論文があり、「言語は自然の有機体である。人間の意思によって規定されることもなく、生じて、一定の法則にしたがって成長し発達したが、また老いてしんでゆく。言語にもまた、ふつう生命の名でりかいされているあの一連の現象がある。だから言語学は自然科学である。その方法は大体のところ、その他の自然科学の方法と変わらない。」(風間 1978:127)
1866年:フランスの言語学会はパリに創設されたが、その規約の第2項には「本学会は、言語の起源や普遍語の創作に関するいかなる発表も許さない」と規定してある。(渡部 1973: 62)
1868年:シュライヒャー(Schleicher)は『比較言語研究詩』の中に印欧祖語で書いた寓話を掲載した。かれは有史以前の印欧語形の再構を試みる。(風間 1978: 150)
1868年:デ・ライクホルト男爵は、『リエージュ地方…あらゆる言語の祖である原初のフラマン語』の中で、フラマン語が原初語であると唱える。(エーコ 1995: 148)
1872年:J.シュミットが波紋説(Wellentheorie)により、シュライヒャーの系統樹の考えに反対した。(風間 1978: 133)
1921-22年:ウィントゲンシュタイン『論理哲学論考』の中で、自然言語のあいまいさについて述べ、あるゆる記号が一義的に使用され、命題が現実の論理的形式を明示しているような言語の実現を祈願している。(エーコ 1995: 442)
1922年―25年:カルナップ『世界の論理的構成』の中で、あらゆる概念が原始的な諸観念からなる一つの基本的な核から派生しているような事物と概念の論理的体系を構築し様としている。(エーコ 1995: 442)