科研報告書「外国人高齢者に対する言語サービス」
『日本におけるマイノリティー言語に関する実態調査と言語支援開発』(平成23年度科学研究費補助金、基盤研究C研究、研究成果報告書、課題番号 23520706)
Contents
はじめに
人間はだれでも高齢者になる。その時に、身体や知力の衰えをカバーしてくれるものとして、自分自身の財産や家族や自らの属する国家がある。財産を持っていない人や身寄りがない人、さらには国民年金や生活保護等のような形での国家からのサポートが望めない人は、高齢者になってからは相当の生活難が予想される。
日本人であっても、高齢者になると困難な生活が予想されるのだが、そこに、外国人であり日本語が十分には理解できないという条件が加われば、その生活は一層の大きな困難さが予想される。70年代以降に日本に移住してきた外国人の中には、高齢化を迎えようとする人も増えており、それらの人々の存在が大きな社会問題になろうとしている。
そもそも、なぜ人が他国へ移住するのだろうか。自国では生計が見込めないことが理由となろう。自国で安全で恵まれた生活を享受している人が、他国へ移住しようと決意することは少ない。恵まれない人がよりよい生活環境を求めて、他国への移住を行うのである。しかし、労働を提供して、対価として報酬を得ることができるのは、健康で若い時代だけである。もしも、日本語を十分に理解するのならば、知的な労働に従事して、もう少し働く年月を延長できうる。しかし、日本語にハンディがあり、単純肉体労働に従事していた外国人は早期に労働できる限界に達してしまう。
ニューカマーが話題にのぼるようになったのは、1970~1980年代からである。それから、40年以上の年月が経ち、ニューカマーの中には日本での滞在が長くなり、永住権を取得したり帰化したりとさまざまな状況にある。まだ経済的な基盤は確立されてはいない人も多い。対比して語られる、いわゆるオールドカマーだが、日本に移住してからかなりの年月が経っており、日本社会での地位もある程度は定まり経済的な基盤も確立されつつある。しかし、ニューカマーたちは、経済的な基盤が確立されていないのに、労働市場から引退を迫られている人もいる。
本稿では、これらの外国人たち、すなわち高齢へと近づくニューカマーの実態について検討して、そのサポートについて、どのような政策が可能か考えてみたい。資料としては、2008年に筆者が関与した大阪府の八尾市における外国人市民の実態調査と、2012年において行った金沢市でのアンケート調査を利用したい。また、筆者には高齢者になろうとする数名の外国人との付き合いがあり、その繋がりの中で得た情報も利用したい。このように高齢化を迎える外国人にどのようなサポートが可能か考察するが、本稿ではとりわけ、言語の問題を中心に置き、言語サービスという視点から考える。
1.日本に住む外国人
1.1. その増加の実態
日本に住む外国人の数は、2013年6月時点での204万9123名である(法務省・在留外国人統計)(1)。日本の総人口1億3千万を考えると、外国人数が多いとは言えないが、長期的にはこの数字はますます増えていくと思われる。なお、外国人の数が多い国だが、中国が647,230名、韓国・朝鮮が526,575名、フィリピンが206,769名、ブラジルが185,644名となっている。
これらの人々のうち戦前・戦中から日本に住み、日本語を母語のように理解する人々はオールドカマーと呼ばれている。主に韓国・朝鮮籍の人々である。それに対して、高度成長期の頃から、労働などの目的で日本に来るようになった人々は、ニューカマーと呼ばれている。日本語に関しては、後者は前者ほど流暢ではない。
日本語が不自由な外国人へのサポートの1つとして、言語サービスが提唱されるようになったのは1990年代からである(平野圭介1996)。この頃から、学界でもこの問題の存在が意識されるようになった。平野(1996)では多言語サービスを提唱しているが、従来の「外国人への言語サービスは英語である」という認識を乗り越えた点で評価に値する論文である。その後、日本語による言語サービスの必要性も意識してニューカマー達に言語サービスを行うことが必要である、との提言もされた(河原2004、河原・野山2007)。
これらの提言に共通する認識は、対象とする外国人は、壮年・青年・その子ども達であった。つまり、生活力がある比較的若い世代とその家族であった。そのために、働く場所をどのようにして見つけるか、ふさわしい労働条件をどのように確保するか、住居をどのようにして見つけるか、子育てや子どもの教育のあり方に関する情報を提供する言語サービスが主に意識された。
1.2.八尾市の例
筆者は、2008年にかけて、大阪府の八尾市の外国人市民の言語サービスに関する調査に参加した。八尾市の外国人市民にどうしたら満足すべき情報システムを提供できるかという問題意識から始まった調査があり、数多くのボランティア、市役所の職員、各種団体が関与したのである。
その内容は、八尾市に在住する外国人市民、とりわけ中国、韓国・朝鮮、ベトナム、フィリピンなどから来た人々がどのような問題に面しているか聞き取りの調査を行い、そのかかえている問題を解決するために、地方自治体としての八尾市がどのような施策が可能か考える目的であった。その内容は『八尾市外国人市民情報提供システム調査報告書』(2009年)に公刊されている。
聞き取りの対象となったのは、八尾市の外国人市民の人々である(八尾市は「外国人」という表現よりも、「市民」である人々がたまたま「外国籍」であるという認識を表すために、「外国人市民」という表現を用いている)。
対象者は、外国人支援団体などのつてを頼って依頼した結果、103名程の人が聞き取り調査に応じてくれた。サンプリングの仕方やその数は問題があるが、一応、外国人におけるある種の傾向を示すものと考えることができるだろう。
対象者の人々は、20代が14.6%、30代は29.1%、40代は22.3%、50代は22.3%、60代は11.7%であった。なお、対象者は18歳以上としてあるので、子ども達の数は含まれていない。この調査が行われたのは、2008年であるから、現在(2014年1月時点)で、すでに6年経っている。このときの対象者たちは、その年数だけ加齢していることになる。
1.3.就職先や医療に関する聞き取り調査
働き盛りが多い実情から、就職への関心が高い。そして、どのようにして就職先を見つけたのかという質問に対して、「同国や同じ民族の知人の紹介」の回答が42.0%で最も多く、同国出身者による私的なネットワークが就職という生活設計の上で欠かすことができないものとなっているが分かる。ついで「新聞・求人誌・チラシなどを見て」が26.0.%、「ハローワーク」が14.0%となっており、公的機関の利用は低い状況のようだ。同じ民族の間でのネットワークを介しての情報のやりとりが濃厚な点が見られる。そのことから、人々が高齢者になった時点、公共機関に頼るよりも、同じ民族間のネットワークが相互補助として機能すると予想できる。
高齢者にとって、もっとも不安を感じる点の1つとして、医療であるが、ここではそこに見られた意見を紹介してみる(同報告書、p.25)。言語問題と関係するものとして、以下のようなコメントがあった。
- (1) 診療の時は、親族に同行を依頼しているけど、病院とかになると周りに迷惑をかけすぎるから一人でいっている。ところが、この前病院で点滴をする時、液体の落ちるスピードが速かったせいか、胸の痛みを感じた。日本語でうまく表現できなかったから、そのまま我慢して点滴を終わらせた。その副作用で一ヶ月ぐらい苦しんだ。できれば中国語のできる人が病院にいてほしい。
(2) 医療機関についての情報が少ないので、多くして欲しい。
(3) 医者のいうことがわからない。
(4) 日本語表示ばかり、最初、分かる人に連れていってもらった。
(5) ほとんどの病院で通訳がいない。小さな病院にはいけない。見てもらえなかったので薬局に行ったが、病院に行った方がいいと言われた。
(6) 市民病院がすぐ見てもらえない。
(7) 医学用語がわからない。
(8) 先生の言っていることが分からない。
(9) 病院からは、「大丈夫か?」しか聞かれない。
(10) 大きな病気をした時に言葉の問題が不安。
(11) 病状説明の時に(通訳者を病院から)必ず求められる。
(12) 医師の説明が完全に理解できない。
(13) 病院に通訳がいないので不安。
(14) 意思疎通の不安がある。
(15) 医師が詳しく説明してくれない。
(16) 良い病院かどうか分からなかった。
(17) 病名が理解できない。
(18) 病名のことが分からない。
(19) 単語が難しい。
(20) 体調が良くない。
(21) 脳梗塞で倒れた時も連絡ができなかった。友人が連絡し救急車を呼んでもらった。
(22) 微妙な病状が説明できない。
また、意見や要望としては以下のようであった。
- (23) 市役所の通訳が一緒に行ってくれるから助かっている。
(24) (病院に通う時は)日本人の知人に付き添ってもらったりしている。両親がベトナムで病気であることも心配。
(25) 平野区から八尾に引っ越しできて、子どもが生まれた時は支援NPO団体のスタッフに同行してもらって助かった。自分で診察に行くのは難しい。心配、通訳同伴を求められた事はないが、不安なので自分から頼んでいる。
(26) 診断結果の訳を支援NPO団体にお願いした。内容が分かるから心配がはれた。
(27) 日本語が分からない時は(日本人の)夫等に同行してもらった。
(28) 子どもがいるから大丈夫。
(29) 中国語も、日本語も理解できない。義母に同行してもらっている。病院には感謝している。
(30) 日本語が分からないので、連れて行く。自分がダメな場合、子が同行。
(31) ことばができなく、簡単な言葉のみで会話。最初は子どもなど、一緒に行った。
(32) 親が市役所の通訳を頼んだことがある。
(33) 日本語が分かる人に付いてきてもらっている。
(34) 重い病気の時は通訳を頼んだことがある。
(35) 箱に書いてある絵を見て、くすりの効能の判断をする。
(36) 買ったくすりで効かなかったら、病院へ行く。(かかりつけはH病院、台湾人の先生がいる)
(37) 一人で病院に行くと説明できないので一人で行かない。義理の姉について行ってもらう。
(38) 子どもに通訳を頼んでいる。中国語で診療ができる病院があれば教えてほしい。
(39) 日本語ができないので、親族に仕事を休ませて通訳をしてもらう場合が多い。
(40) 病気の内情を友人に書面に書いてもらい見てもらっている。
(41) T診療所に中国語ができる通訳がいるので困らないが、以前は困った。
(42) 家庭で日本語のできる人が会社を休んで病院に同行している。
(43) 病状を医師に書いてもらい、持って帰ってきて分かる人に読んでもらう。
(44) 処方箋を英語でもらっているので、今のところ大丈夫。
(45) 大きな病気はない。
(46) 医者に書いてもらって、家に帰って夫に分かりやすく説明してもらう。
(47) カタカナ、ふりがながあったらわかりやすい。
(48) 日本語ができない時は妻を同行した。
(49) いつも日本語できる人に同行してもらっていた。
(50) 病院に行く時はいつも夫と一緒に行く。
(51) 日本にきて間もない時は姑が付いてきてくれた。子どもができた時、日本語が分からず常に姑が連れて行ってくれた。3年ぐらいいれば何とか一人で行こうとなった。
(52) 英語ができる医師の病院を紹介してもらったことがある。
この(1)~(52)のコメントでは、相当数が子育ての問題とか、自分自身の健康に関することであった。言語サービスとして、それに関する情報の伝達が要求される。しかし、年月が経てば、必要とされる情報の質は異なってくる。日本に来た当初は健康な若い人であったが、年を重ねることで、どのように仕事を引退して、安定した老後を送るということが視野に入ってくるのである。その時は、第4章で述べるが、外国人看護師や介護福祉士の必要性が強く意識されるのである。
1.4.年金・介護に関する聞き取り調査
年金・介護については、この調査では、まだ強い関心は示されていな。しかし、回答者の高齢化が進むにつれて、最大関心事になると予想される。同調査のなかで、「問17 公的年金制度への加入について」いくつかの質問がされた(同報告書、p.29)。
公的年金への加入の有無を回答者(20歳から59歳)に尋ねたところ、「加入している」が41.5%、「加入していない」が48.9%であった。また「よくわからない」と回答した人も9.6%あった。年金に加入していない人が約半数だが、「将来は母国に帰る予定である」、「年金保険料を納める余裕がない」、「老後は預金で対処する」などが、加入していない理由と考えられる。なお、「よくわからない」と回答した人が1割前後いることは注目に値する。加入していない人は、年金の意義を理解していない人である。つまりは、日本における年金の意義を十分に了解するだけの情報を得てこなかったことを意味する。
さらに、この調査では、60歳以上の回答者に公的年金の受給を尋ねているが、「受給している」が62.5%、「受給していない」が25.0%、「よくわからない」が12.5%であった。公的年金制度に関する認知度は高くなくて、その仕組みについても十分には理解が得られていない様子がここでも見られる。
受給していない人が4割(37.5%)である。母国では年金制度がない国もあり、子どもが老親の面倒を見るものと意識されている国も多い。いずれにせよ、国民年金の金額は決して高いわけではないが、それでも支給されているならば、多くの助けになる。さらには厚生年金も支給されるならば老後に大きな助けとなる。
介護保険制度に関しても同調査はいろいろと質問をしている。問い18で制度を知っているかどうか聞いているが、回答者からは、「知っている」が31.1%、「知らない」が68.0%であった。介護保険制度自体が比較的近年(2000年4月)導入されたものであり、認知度が少ないのはやむを得ないかもしれないが、これまた高齢者を介護するときに、財政的に大きな助けとなるものであり、是非とも外国人にも利用してもらいたい制度である。
同調査で、介護をする人が家庭内にいると答えた人に、介護制度を利用したことがあるかどうか聞いたところ、3割しか利用した事がないと答えている。利用しなかった人にその理由を聞くと、「利用方法が分からない」と答えた人が3割である。さらには「介護者との意思疎通が難しい」と3割の人が答えており、このあたりに多言語での情報サービスの必要性が感じられる。
介護保険制度とは日本が高齢化社会への対応するために作られた制度である。それまでは年老いた親の介護は原則として自宅で行い、時々病院を利用しながら、親を看取るのが普通であった。しかし、この介護保険制度により、いろいろな施設を使い、また専門家のアドバイスを受けやすくなった。介護保険を利用することで、金銭的にも1割の負担で済むものが増えた。福祉用具貸与業者から手すりや車椅子を借りる場合も、せいぜい月数百円の負担で済む。またこの制度のもとで新設されたケアマネージャー(介護支援専門員)にいろいろな相談をすることができる。
1.5.金沢市の例
2012年の6月に筆者は金沢の教会に来る外国人を中心にアンケート調査を行った。対象者数は13名と少ないが、ある程度の傾向は見えるだろうと思われる。対象者は、20代が4名(30.8%)、30代は4名(30.8%)であり、40代は3名(23.1%)、50代は0名(0%)、 60代は1名(7.7%)である。この中で、永住権を持っていたのは、約半数であった。日本人男性と結婚したフィリピン人女性たちは、滞在期間が長い人は26年であり、短い人でも8年の滞在期間であった。
26年在住の人をJさんと呼ぶことにする。Jさんは、ある程度は日本語が話せるが、強いなまりが目立つ。読み書きできないとのことであった。一般に外国人が長期滞在すれば、日本語を話す聞くことは慣れてくるが、読み書きは難しい。日本語の書記体系の難解さに驚いて、最初から習得を断念した人もいる。
24年在住のフィリピン女性をEさんと呼ぶ。Eさんは、かなり上手に日本語を話す。日本語の読み書きも、ひらがな、かたかなと簡単な漢字は理解できる。しかし、これでは、日常のさまざまな書類のやりとりは難しい。さらに、25年在住のJuさんも日本語の読み書きに関しては問題を抱えている。読み書きの問題に面したら、3人とも知人の日本人から言語的なサポートを得るか、市役所で何回も分かるまで尋ねるとのことである。
3人の年金の支給状況であるが、Jさんは、現在国民年金を支給されている。夫は厚生年金と国民年金を支給されているので、その合算額で生活をしている。決して裕福ではないが、一応、自宅もあり生活には困らない。
Eさんに関しては、ずっと国民年金の保険料は払っておらず、老後のことは現在は考えていないとの話であった。貯金をして老後に備えたいようだが、生活も苦しくてなかなか貯金もできずに、老後に関しては見通しがつかないようである。
Juさんに関しては、やはり保険料は払っていない。パートを転々としてきたので、厚生年金にはもちろん加入していない。しかし、子どもが4名ほどいるので、この子ども達に将来頼りたいようである。しかし、「母国の文化では、老親の面倒をみるのは当然だが、日本文化に染まった子ども達は老親を無視する傾向にあるので、その点が心配である」と言う。
2.高齢者がかかえる問題点
2.1.現状の問題点
高齢化時代には、高齢者(2)の年金、医療保険、そして介護をどのようにするという問題が生じてくる。外国人の高齢者となると、どのようにして、この人達とコミュニケーションを図りながら、各種の情報を過不足なく提供するかという問題が加わる。
また格差の問題も生じてくる。若者間では比較的に格差は少ないが、年が進むにつれて、身体的な機能の衰えの差のみならず、資産や社会的地位、権力の有無などの点においても高齢者間の格差が広がる。この傾向は、日本人と外国人の間では、より顕著となる。高齢者になればなるほど、日本人と外国人の間の格差が広がっていくのである。この是正がどうすれば可能か考える必要がある。
2.2.職業の継続
高齢者になれば、身体の衰えや頭脳の衰えが顕著になる。しかし、その両者の衰えの程度は同じではない。身体を使う仕事ならば50代半ばで限界となるが、頭脳を使う仕事ならば60代の半ばまで働くことは可能である。自己の属する組織内で、若いときは現場で働き、ある程度の年齢にならば管理職という形で残ることがある。しかし、外国人で日本語を十分に駆使できないならば、年齢が進んでから、頭脳を使う仕事や管理職という形で働き続けることは難しい。高齢者が働く場を見つけることは難しいが、ましてや外国人となれば問題はより深刻になる。
これらの問題を少しでも軽減するために、高齢者や外国人に理解できる言葉の活用が必要である。高齢者は、毎年生まれる新しい事物に付いていくのが難しい。たとえば、IT技術関連で次から次と新しい装置そして付随して新しい用語で誕生する。マニュアルを参照しようとしても、そこには高齢者に配慮したやさしい日本語が使ってあるわけではない。高齢者の就労の機会を増やそうとするならば、やさしい分かりやすいという言語をできるだけ使うことは必要である。
高齢者を労働市場に確保しておくためには、定年の延長を法で定めるだけではなくて、新技術が高齢者に分かりやすくするための方策、例えば、難解なマニュアルの言い換え、職業訓練所への入学の支援、職場の確保などが考えられる。このことは、外国人の高齢者にも大きく役立つ施策である。
2.3.年金
日本で働く外国人は、若い時は、日々の生活や子育てに懸命で将来の設計の余裕のない場合が多い。日本にこのまま滞在するのか母国に帰るのか、遠い将来をイメージすることは難しい。そして、老年に達すると母国との縁も薄くなり、結局は日本で生きていくことになる。老後の生活の保障は第一に年金であるが、年金の保険料を払っていなければ無受給となり、子どもや親戚に頼るか、生活保護に頼ることになる。
外国人が受ける可能性のある年金は国民年金(老齢基礎年金)である。それは20歳から60歳までの40年間保険料の払い込みをすることで、65歳から満額で年778,500円(月あたり、64,875円)の支給を受ける(2014年1月時点)。支給の条件として、保険料納付済期間と保険料免除期間の合計が25年以上であることだが、多くの外国人の滞在期間はこの数字に満たないようだ。保険料の免除を申請すれば負担の軽減が可能だが、外国人にはそもそも免除の申請の仕方が分からない。たとえ、支給されたとしても、減額された金額であり、生活はかなり苦しいものになる。
国民年金以外の他に厚生年金がある。しかし、外国人が働くのは零細企業が多くて、企業自体が厚生年金に加入していない場合が多い。さらに、雇用される形態として、パートが多くて厚生年金への加入者は少ないようだ。
年金の問題を複雑にしているのは、外国人にその存在、その意義が伝わっていないという点である。日本に住む外国人は、1982年1月より日本の国民年金に加入することが義務づけられるようになった。しかし、現行の年金制度は制度的な矛盾を抱えて、部分的な手直しを繰り返すことで何とか存続してきた。そのために、現行の年金制度はかなり複雑で日本人でさえも理解できづらい。ましてや、外国人にはより難解な制度となっている。
体系的にすっきりとして明快な制度になるのは難しいかもしれない。しかし、それでも、その利点を外国人が理解できるのならば、少々複雑な制度でも外国人は喜んで加入しようとするであろう。分かりやすい説明が求められる。また、25年以上の加入という条件は外国人には厳しいと思われるので、この点で年数の短縮が可能か検討が必要であろう。なお、外国人にも制度上は強制加入となったが、この点はまだ徹底されていない。徹底化は必要であり、それは長い目で見れば日本の社会全体からみても得策である。
第2章で述べたJさんは、例外的に、夫の厚生年金と国民年金、また自分自身の国民年金である程度の収入があるので、このまま日本に滞在したいと考えている。この場合は比較的早期に日本人パートナーから年金の情報を得て準備に取り組んできたことで効果があったようだ。
2.3.失業保険、介護保険、国民保険
日本には、年金以外にも生活を保障する制度として数々の保険がある。これらの中には外国人の母国にはない制度もある。そのために、概念自体に馴染みがない場合がある。例えば、フィリピンには、介護保険制度も医療保険制度も国民年金制度もない。また生活保護制度もない。それだけの財源がないのである。フィリピンでは、老後の準備は個人の責任である。しかし、若いうちは数十年後の自分をイメージすることは難しい。いつまでたっても貯金はたまらずに、子どもが親を援助する余裕がないと、社会的に見捨てられることになる。
フィリピンでは、病院へ行くことができない人のために、Charity Hospitalという慈善病院があり、医学生が無料で診断してくれる。もちろん学生であるので誤診もあろうし、重い病気だとあまり頼りにならない。また、薬代は払わなければならない。日本では比較的安価な高血圧の薬や糖尿病の薬も、フィリピンでは、高価なので庶民の手に届きづらい。
フィリピンと比較すると、日本の医療保険制度や介護保険制度の有り難さを痛感する。その意味で、日本の各種保険の制度をフィリピン人をはじめとする外国人に是非とも活用してほしいと考える。
3.外国人を介護すること
3.1.日本人の介護に対する認識
「家族の絆と老後の生活に関する意識調査」(メディケア生命保険株式会社2013年11月11日)によれば、現在の日本人の間には、老後の生活を考える余裕はないと考えている人が多い。将来の計画を聞いたところ、「現在の生活で精一杯」が7割であり、「老後の生活を考える余裕がある」が3割であった。回答者たちは、自分と配偶者や子どもとの絆はあまり強いとは考えておらず、将来に不安をいだいている人が多いようだ。もしも、配偶者に介護が必要になったら、経済的に耐えられないと予想する人が75%の割合である。日本人を対象として調査でも、介護などに関して老後の展望は開けない、と悲観的な数字が出ている。これがもしも、外国人を対象とした調査ならば、その数字はもっと悲観的になったと予想される。
3.2.介護施設への入所
人は家族との絆に頼れないならば、施設へ入ることを考える。しかし、介護施設への入所はいろいろな問題点がある。1つは待機する日数の長さである。比較的に費用のかからない特養(特別養護老人ホーム)は入所待ちの人々が、どこでも数百人もいて、入所に4,5年待つ必要がある。有料の老人ホームならば、待機日数が少なくてすぐに入所できることが多い。そこでは、高いレベルのサービスを受けられ、ヘルパーや利用者との間でのコミュニケーションも十分に取れていることが多い。しかし、有料の老人ホームは費用が高いという問題がある。
ここで、外国人が施設に入ることが実際に可能かどうか考えてみたい。発展途上国からきている外国人の中には、日本と母国との物価差を利用して、ある程度の年齢になったら、日本での貯金を母国に持ち帰り、その金で老後を過ごそうと考える人もいる。しかし、現実はさほどお金も貯まらず日本で何とか過ごすことを考えるようになる。そんな中で、身体が不自由になれば、施設へ入ることが当然必要となってくる。しかしその費用をどのように捻出するか、介護施設内で日本語によるコミュニケーションが可能か、という問題点があるので、施設へ入ることが難しくなっている。
3.3.外国人への介護サービス
介護制度は、社会全体がある程度豊かであり、同時に国や自治体レベルでも、ある程度は財政的に余裕があることが前提となっている。保険料の支払いは、現在、個人は50%、国が25%、都道府県が12.5%、市町村が12.5%の負担となっている。このように、日本人の大半が、保険料を毎月支払うだけの余裕があり、国や自治体が相当の額の負担をするだけの財源のあることが前提である。これは豊かな国でしか可能でない制度である。この制度は発展途上国からの人たちにとって非常に魅力的な制度である。
しかし、情報不足のために外国人には十分には利用できていないという現実がある。存在自体は知っていても、細かい情報は得ていない。「家庭で介護する場合はどの程度サポートを受けられるのか」、「デイサービスの場合の利用の仕方」などの情報が伝わっていない。入所になると一層の細かい情報が必要である。「どこにどのような種類の施設があるのか」、「いくらお金がかかるのか」、「保証人は必要か」、「病気が重くなったら退去しなければならないのか」、「寝たきりになっても面倒を見てもらえるのか」、「利用者を最期まで見てくれるのか」、「自立できる人だけ受け入れるのか」、「看護師は常駐しているのかどうか」「どれくらいの要介護度ならば受け入れてくるのか」などである。パンフレットなどを見ても、外国人には分かるようには記されていない。
デイサービスという形で時々施設を利用する場合でも言語は大きな問題となる。日本に滞在する外国人には流暢に話せる人も多いが、読み書くことになると苦手な人が多い。施設の中ではたくさんの書類のやり取りがある。高齢の外国人がデイサービスを利用したとしても、帰るときには施設の担当者は克明な日誌をつけてくれる。それらは「利用者は入浴をしたのかどうか」、「排便したかどうか」、「食事はすべて食べたかどうか」、「どの程度の介助があったのか」などである。きわめて多くの日本語による情報のやりとりがある。保証人となった外国人たちが理解できるようになるために、それらを通訳するサポーターの存在が必要となってくる。
このように色々と考えていくと、外国人の高齢者のためには、外国人による看護師や介護士が必要であることが分かる。そして、実は、現在その方向に進んでいる。外国人による看護師や介護士の導入は、日本人の介護のためという視点から図られたのであるが、これは外国人への介護という視点からも歓迎されることである。
4.外国人の看護師と介護士
4.1.介護職と離職率
介護はきわめて需要の高い仕事であるが、介護の業種における離職率の高さが問題となっている。就職難のこの時代であっても、介護の分野には、なかなか日本人の若者が応募しない。給与の低さと共に職種自体がかなりストレスを感じさせる仕事であることが不人気の理由であろう。筆者自身も親の介護のためによく介護施設に出入りするが、働いている人々は常に新しい顔ぶれとの印象をいだいている。このように日本人の働き手がこの業種を避けようとするので、この分野に外国人の若者を導入しようとの考えが出てきたのである。
日本は高齢化社会へと進みつつある。2010年では、65歳以上の高齢者の人口は全体の23.1%を占めている。日本に住む3,000万人以上の高齢者の介護や看護を担うのは誰なのかという問いかけは常に出てくる。そして、日本人の若者では支えきれないという現実がある。すると若い人の多い国、具体的にはフィリピンやインドネシアのような発展途上国の若者に頼ることになる。
2008年から、「日・インドネシア経済連携協定」と「日・フィリピン経済連携協定」に基づき、インドネシアとフィリピンから看護師・介護福祉士候補者の受入れが始まった。候補者の第一陣が、2008 年8 月(インドネシア)と2009 年5月(フィリピン)に来日した。その人たちは、自国で看護師の資格を持ち、実務体験が3年以上ある人の中から選ばれたのである。候補者たちは数年後、試験をうけて合格すれば、日本で長期に働くことが可能になる。そのためには、看護師は3年以内、介護福祉士は4年以内に日本の国家試験を合格しなければならない。
4.2.政府や送り出し国の考え
日本が看護師や介護福祉士を受け入れを始めたことには、色々な側面がある。諸外国に対して日本は労働市場を開いているとのポーズを示している面もあるし、高齢化社会に備えて人手不足への対策という面もある。しかし、実は、日本国内でも色々な考えが交錯したのであった。受け入れの是非に関して色分けをすれば、推進派は経済産業省と外務省である。中立の立場は法務省である。慎重な態度は、厚生労働省と農林水産省であった。なお、財界は東南アジアでの関税の免除を目的として、包括的な経済連携に積極的であった。
外国の立場からは、例えば、フィリピンは外貨を獲得する面から積極的であった(3)。日本政府はフィリピン人への興行ビザを制限したが、それは、フィリピン国の外貨獲得の障害となった。そこで、興行ビザで減った日本への出稼ぎ労働者を看護師、介護士で取り戻そうとフィリピン政府は考えている。このように、相手国からの強い要望に基づき交渉した結果、経済活動の連携の強化の観点から実施した、という面もある。
4.3.試験の状況
看護師や介護福祉士の国家試験だが、その成績はあまり芳しくない。合格者は毎年ごく少数である。2013年の国家試験は、厚生労働省によれば、介護福祉士候補者322名が受験して128名が合格した。また、看護師の国家試験は311名が受験して、30名が合格している。後者の合格率は9.6%であり、前年度の11.3%から1.7ポイント低下した。その対策として、2013年の試験から、試験時間を1.3倍に延長し問題文の全ての漢字に振り仮名をつける、病名に英語を併記するなど、特例措置を設けたが、効果はあまり見られなかったとのことである(医学書院)。
日本経済新聞によれば、合格率が低いのは日本語の習得が難しいのが1つの理由であるとしている。さらに、「漢字の存在が大きな問題と考えられていたが、受け入れ病院からは「漢字以前に日本語の理解に苦しむ候補者が多い」との声があがっているとも報じている(日本経済新聞、2013年3月25日)。
看護師候補者の滞在期間は3年間で、試験を受けられるのは3回であるが、政府は2013年の2月に、滞在期間を1年延長する特例措置を決めた。さらに、フィリピン人の候補者は2013年度から訪日前の日本語研修を3か月から半年に延長して日本語の習得に力を入れるようになった。
なお、毎日新聞によれば、狭き門となっている正看資格が取れなかった場合に備え、准看護師(准看)資格(4)の取得を目指す動きが広がっているという。厚生労働省が候補者の准看受験を容認する姿勢を示したため、准看受験者が一気に広がったという。都道府県が実施する准看試験はふりがなは付かないが、内容は正看試験 より易しいとのことである。准看資格があれば、候補者の身分を失って帰国を余儀なくされても再来日して准看として働きながら正看試験を受け続けられるメリットがある(毎日新聞2013年3月13日)。
このように、現状の国家試験が難しいのならば、准看という形での日本の医療界への貢献も考えられる。
4.4.試験問題の実際
第1回の試験問題が公表されたときに、批判されたのは、「褥瘡」(じょくそう=床ずれ)、「仰臥位」(ぎょうがい=仰向け)」、「清拭」(せいしき=体をふくこと)などの日本人にも難しい用語を外国人にも出題することであった。専門的な知識をもっぱら問う、外国人向けの試験問題を作成することはどうすれば可能なのだろうか。ここで実際の問題を見てみよう(過去5年間の問題からランダムに抽出する)。
日本の平成21年(2009年)における男性の平均寿命に一番近いものはどれか?
→70年、75年、80年、85年
日本人の食事摂取基準(2010年版)において、摂取量の減少を目指しているのはどれか? →カリウム、食物繊維、ナトリウム、カルシウム
勤労女性に関して、労働基準法で規定されているのはどれか?
→介護休業、この看護休暇、産前産後の休業、雇用における女性差別の禁止
呼吸で正しいのはどれか?
→最大呼気時の機能的残気量は0になる。横隔膜は吸気時に収縮する。睡眠時の呼吸は随意運動である。動脈血酸素分圧は肺胞内酸素分圧に等しい。
咀嚼で正しいのはどれか?
→咀嚼筋の不随意的収縮で行われる。唾液にはムチンが含まれている。 顎関節を形成するのは下顎骨と頬骨である。舌の運動は三叉神経によって支配される。
骨髄抑制が出現するのはどれか?
→麻薬、インスリン製剤、抗癌薬、利尿薬
このように、問題自体はさほど難しくない。実際、日本人の国家試験の合格率は約9割である。しかし、外国人の受験者(本国ではすでに看護師として働いている場合が多い)は合格率が非常に低い。その理由は、ひとえに日本語の壁であると思われる。この壁を下げる努力をしない限りは、研修という名目で、安い賃金と長時間労働を強要して、最後に難解な日本語による試験で落として帰国させるだけと誤解される。外国に対して日本の労働市場は開かれているというポーズを取っているだけと非難されよう。
4.5.ベトナムや中国からの看護師
インドネシアやフィリピン以外に、近年ベトナムからの候補者の受入れに向けて、政府部内やベトナム側との間で調整が行われている。日・ベトナム経済連携協定(2009年10月1日発効)の規定に基づき、日本によるベトナムの看護師・介護福祉士候補者の受入れの可能性について交渉を行った。2011年10月の日本とベトナム首脳会談で日本がベトナムから看護師・介護福祉士候補者を受け入れることに合意した。その後、2012年4月18日に、両政府代表者により、受入れの基本的な枠組みなどを定める法的拘束力を有する文書への署名・交換が完了し、その文書が2012年6月17日に発効している。
この制度が既存のインドネシアやフィリピンからの受入れと比べて特徴的な点は、日本語能力試験N3(日常的な場面で使われる日本語をある程度理解することができるレベル(5))を候補者の要件として課すことである(ただし、第1陣の受入れから5年後に見直しを行い、改めて、日本語要件(さらに高いレベルとするかどうかなど)について日本側が判断することになっている)。
中国からの看護師も増えているようである。深刻な看護師不足を背景に、国内のNPO法人が中国の大学と病院側の橋渡し役になり、数年ほど前から急増している。現在では経済連携協定で来日したインドネシア、フィリピン人看護師(96人)の2倍を超えている。中国からの看護師は漢字の読み書きという点で他の国からの人と比べて優位に立っているので、試験は有利となる。
4.6.日本語能力はどの程度必要か
看護師という人の命を預かるからには、高い日本語能力が必要との考えもあるが、外国人看護師に対して必要以上の日本語能力を要求しているとの考えもあろう。いずれにせよ、日本語による国家試験が高い参入障壁となっている。日本の医療から学びたいと期待を持って来日した人たちは、失望して帰る結果になっている。今の試験内容や制度のままでは日本嫌いを増やすだけになることを恐れる。優秀な人材を、もっと積極的に受け入れるべきだ。それは、少子高齢化が進む日本が、活力を保ち続ける道でもあろう。
考え方として、日本語の理解にはある程度の時間がかかるという前提で受け入れるべきであろう。母国では看護師としての資格を持ち十分な実務経験があるのであるから、その専門知識を活かしてもらうように、そして日本語に関しては通訳などのサポートで補うことが可能だろう。看護や介護にはルーティンな書類作成の作業が含まれる。それらは、パソコンによる書類のフォーマット化や翻訳機械などの利用で負担は軽減されるだろう。また、准看という形で勤務して、より長い時間をかけて日本語を習得してもらうという風に考えを変えるべきである。とにかく、現在の3~4年という滞在期間内で日本語を習得すべきとの要求は厳しすぎるであろう。
なお、アメリカ、イギリスなどの先進国では、すでに約40%が外国人看護師だといわれている。この点は日本に参考になるだろう。アメリカの実情だが、アメリカで看護師として働くには日本の看護師国家試験に相当するNCLEX-RN (National Council Licensure EXamination-Registered Nurse)に合格することに加え、労働ビザや永住資格が必要である。英語を第2言語とする植民地出身者にとっては、英語で問われる試験は比較的容易である。
4.7.今後の予想
外国からの介護福祉士や看護師の受け入れが、今後どのようになるのか予測はむずかしい。介護施設などでは、多くが外国人の介護福祉士になることもありうるだろう。言葉がおぼつかなくなった高齢者を、日本語はまだ不十分な外国人が世話をする事例が増えるかもしれない。入居費の安い特別養護老人ホームでは、外国人の介護士や看護師が多く働き、入居費の高い有料老人ホームでは、日本人の介護士や看護師が多くなるかもしれない。病院や介護施設でのコミュニケーションの問題に今から備えておく必要があるだろう。
いずれにせよ、病人のための病院や高齢者のための福祉施設が日本人のためだけの施設であるという考えは時代にそぐわない。現在の日本に住む200万人の外国人住民は、やがて年取れば介護制度の利用者になっていくのである。彼らには、外国人の介護士や看護師の方が頼りになる。高齢化と外国人との共生化の進む日本社会の将来のために、「外国人や高齢者に分かりやすい日本語」が必要となってくる。その点を次の章で考えてみたい。
5.医療用語の言い換え
5.1.言い換えの提案
国立国語研究所は難解な医学用語を、分かりやすい表現に言い換えることを提案している。この提案は注目に値する。現在2つの報告書(中間報告と最終報告)がある。それは『「病院の言葉」を分かりやすくする提案(中間報告)』(国立国語研究所・吉岡泰夫他)と『医療における専門家と非専門家のコミュニケーションの適切化のための社会言語学的研究』である。一般人にとってどのような語が難しく、どのように代替すれば分かりやすくなるのかアンケート調査で調べた結果を報告している。
例えば、医療の現場で使われる「インフォームド・コンセント」「セカンドオピニオン」「腫瘍マーカー」「寛解」「生検」などの用語は一般人には分かりづらい。それらの言い換えとして、「納得診療」「別の医師の意見」「がんがあるかどうかの目安になる検査の値」「病状が落ち着いて安定した状態」「患部の一部を切り取って、顕微鏡で調べる検査」などの表現を提案している。
これらの語は言い換えを行うことで、確かに患者により分かりやすい言語になる。しかし、現状では、一般にはこれらの表現は広まっていない。膨大な医学用語が先端技術の発展にそって次から次と生まれ、既存の概念も変化が著しくて一般の人では付いていくのは困難と感じることが多い。ましてや、高齢者、さらには日本語に不慣れな外国人には大きな問題となっている。そのことを常に意識して言い換えの努力を医療関係者は行っていく必要がある。
一般人に分かりやすい医療日本語とは、高齢者にも分かりやすい日本語である。それは外国人にとっても分かりやすい日本語である。逆に、外国人にも分かりやすい日本語とは、日本人にも分かりやすい日本語なのである。
5.2.介護分野の言い換え
馴染みのない用語を分かりやすい表現に言い換える必要性は介護の分野でも同様である。この制度の仕組みには理解しづらい点がある。その理由の1つとして、カタカナと漢字が混在していること、関連する用語が体系的でないことが挙げられよう。
例えば、短期入所生活介護をショートスティ、通所介護をデイサービスと呼んでいて、カタカナを使う表現が一般的である。しかし、高齢の利用者にはショートスティやデイサービスという意味がすぐには分からない。こんな時は、大和言葉を使った「おでかけ」「おとまり」などの表現が断然分かりやすいと思われる。なお、外国人の高齢者には英語のショートスティやデイサービスがより分かりやすいのではとの意見もあろうが、高齢化する外国人はアジア圏の人が多くて、英語はむしろ苦手な人がほとんどであり、簡単な日本語がはるかに役に立つ。
福祉施設の相互の位置づけも、関連する用語を見ただけでは一目瞭然ではない。地域包括支援センター、居宅介護支援、通所介護、短期入所生活介護、小規模多機能型居宅介護、認知症対応型通所介護、特養(介護老人福祉施設)、老健(介護老人保健施設)などの表現がある。介護を受ける人の要介護度に応じて、様々な種類の施設とそのサービスの利用の仕方があるのだが、それぞれの位置づけがよく分からない。
これらは施設の機能を示すのだが、面倒なことに各施設はそれぞれが固有名詞を持っている。その固有名詞を見ても、どのような機能を持っているのか更に分からなくなる。グループホーム○○、エイジフリー○○、ヘルパー・スティーション○○、ケアプランセンター○○、ケアサポート○○、介護支援センター○○、ケアハウス○○などと聞いても、どのような機能の施設なのか首をかしげてしまう。その場合は、問い合わせればいいのだが、手間暇がかかってしまう。
介護制度自体がつぎはぎ的に成長しているようで、関連する用語が体系的に策定されていない。例えば「グループホーム」とは、元来はスウェーデンから取り入れた概念で、認知症の高齢者を受け入れる施設であるが、グループホームというネーミングからはそれを読み取ることは難しい(6)。これは「認知症の高齢者のための共同生活施設」などの言い方にすれば、機能をはっきりと示すことになる。いずれにせよ、この制度がある程度成熟した段階で用語の全面的な見直しを図り、やさしい日本語を利用して体系化すべきである。
5.3.言語聴覚士
外国人が高齢化により、言語に問題が起こったらさまざまな対策が必要である。ここで、言語聴覚士という職業に注目したい。言語聴覚士は、比較的新しい国家資格である。米国などでは、100年近い歴史があるが、日本ではようやく社会に定着してきており、現在の有資格者は約17,000人である。
言語聴覚士は、1997年にことばによるコミュニケーションや食事に障害がある人々を支援する目的で制定された「言語聴覚士法」という法令で定められている国家資格である。ことばによるコミュニケーションの問題は脳卒中後の失語症・構音障害、聴覚障害、ことばの発達の遅れ、声や発音の障害など多岐に渡る。対象とするのは小児から高齢者まで幅広く現れる。言語聴覚士は、これらの問題の持っている原因や発現するメカニズムを明らかにし、対処法を見出すことが目的となる。そのために検査・評価を実施し、必要に応じて訓練、指導、助言などのサポートを行うのである。
注目したいのは、これから増え続けるだろう外国人の高齢者の言語問題を取扱う専門家になる可能性がある点である。つまり、外国人の高齢者へのサポートを専門的な見地から行えるのは、制度的にもまだ始まったばかりであるが、言語聴覚士であろうから、大学の授業のカリキュラムでもそれに関連した科目を提供してほしい。この点は現在はまだほとんど意識されていない。
まとめ
外国人の高齢者の増加は今後顕著な社会現象になってくるだろう。日本社会では日本人の高齢者の増加に対応するだけで精一杯で、とても外国人の高齢者まで考慮する余裕はないというのが本音であろう。しかし、早めに準備しておくことは必要で、そのために必要な法整備や学的な研究が必要である。
本稿では、外国からの看護師や介護士の受け入れについて論じた。発展途上国から介護士や看護師を受け入れることは、それらの国へ医療や介護技術の移転と繋がり、その国への富の移転にもなる。それらの国を経済的に援助することになる。日本側にとっても、高齢化社会を乗り切るためには、医療制度や介護制度を担う人材の確保が重要である。相互にとって有益な制度である。ただ外国人への依存が必要となるが、どうしても言語の問題は避けて通れない。分かりやすい日本語が必要とされる。
さらには、関連する専門用語の言い換えが必要である。高齢者を対象とする福祉介護の分野では、医療分野以上に、用語の分かりやすさという点が要求される。利用者やその家族が納得のできる介護サービスを提供するためには、用語の簡素化・体系化が必要である。簡素化・体系かは日本人にとっても外国人にとっても有益である。
将来は介護施設などでは、多くが外国人の介護福祉士ということもありうるだろう。言語がおぼつかなくなった高齢者を日本語はまだ不十分な外国人が面倒を見るという形での両者の出会いがあるかもしれない。あるいは、入居費の安い特養などでは外国人の介護士や看護師が働くが、高い入居費が必要な老人ホームでは、日本人の介護士や看護師が十分にコミュニケーションを取りながら、利用者の要望に応えていくと図式になる可能性もある。これは日本人と外国人との間の格差に繋がる恐れがある。この格差是正という問題について専門的・学的に研究する必要がある。
ここで、老人学の重要性を再確認したい。老人学(Gerontology)は、老齢化に伴う諸問題を研究する学問である。比較的若い学問である。しかし、学問自体としては、あまり食指が動く分野ではないようで、研究者が殺到するという状況ではない。これは児童を対象とする研究が活発な点と比べて対照的である。発達心理学、言語習得論などの分野での研究は多い。しかし、それに対応する「老化心理学?」「言語喪失論?」などの研究はほとんど存在しない。現在は、65歳以上の高齢者が人口の23%となっている時代であり、確実に必要な学問である。
高齢者の問題と扱う学会として、日本老年社会科学会、日本老年精神医学会、日本応用老年学会等がある。しかし、高齢者の言語問題、コミュニケーションに特化した学会はない。将来は、老人の言語問題、コミュニケーションに特化した言語学、社会言語学、言語政策学を扱う学会が必要とされる。この分野がこれからの言語政策学の1つの必要な分野になることは間違いない。
注
(1)在留外国人統計
住民基本台帳法などの改正により、2012年7月9日より、在日外国人の外国人登録が廃止され住民登録に移行した。改正法では3か月を超えて合法的に日本に滞在する外国人に対し、外国人登録証に代わる身分証を発行するとともに、日本人と同様に住民票を作成する。それにより、従来の外国人登録者統計は在留外国人統計になった。
(2)高齢者
「年齢が高い人々」を示すために、「老人」や「年寄り」などの色々な表現が従来からあるが、どれもネガティブな意味があり好まれていない。従来から適切な表現が求められている。近年では中立的な表現として、「高齢者」という表現がよく使われる。もっとも高齢者という存在自体がネガティブと考えられている現状では、どのような表現を用いたとしても、その表現には次第にネガティブな意味が含まれるようになることは避けられない。
(3)フィリピンにおける看護師の受け入れ
2007年でのフィリピン人看護師の受入数は、サウジアラビアは44,923名、アラブ省庁国連邦3,610名、アメリカは11,468名、イギリスは10,265名である。日本の受入数の少なさが目立つ(山本克也)。
(4)准看護師
看護師と准看護師の違いは次のようである。看護師は合計3000時間以上の養成教育を受け、卒業すると看護師国家試験の受験資格が得られる。実際には卒業見込みの段階で国家試験を受験できるが、最終的にその年度で卒業できなければ、試験で合格点以上を獲得しても不合格扱いになる。一方で国家試験の難度が非常に易しく、その職責と均衡が取れておらず能力の担保に結びついていないという課題もある(このように一般には看護師の国家試験は易しいと認識されている。一方、准看護師は1890時間以上の教育を受け、卒業後、都道府県知事試験の受験資格が与えられる。この知事試験に合格すると都道府県知事から准看護師の免許が交付される。現状では、看護師は大学の看護学科を卒業している資格であり、准看護師は専門学校で取得する資格という区分けになる。
(5)日本語能力試験
日本語能力試験は難易度の高い順にN1からN5までの5段階あり、N3はちょうど中間で「日常的な場面で使われる日本語をある程度理解することができるレベル」である。
(6)グループホーム
元来、「グループホーム」という名称は、スウエーデンで、民家を借りて認知症高齢者と共同生活を始めたのが、その発祥である。日本はその概念を輸入したものであり、歴史的には根拠があるが、現状の利用者から見ると、分かりにくい名称となっている。
参考・引用資料
医学書院 http://www.igaku-shoin.co.jp/paperDetail.do?id=PA03024_02(2013年11月5日閲覧)
「家族の絆と老後の生活に関する意識調査」(メディケア生命保険)
http://www.medicarelife.com/news/pdf/N274/file1.pdf (2014年1月15日閲覧)
河原俊昭(編)2004『自治体の言語サービス』春風社
河原俊昭・野山広(編)2007 『外国人住民への言語サービス』明石書店
京都市介護保険課 (2010)『介護保険エリアマップ』
国立国語研究所「病院の言葉」委員会 2008 『「病院の言葉」を分かりやすくする提案(中間提案』
国立国語研究所「病院の言葉」委員会 2009 『「病院の言葉」を分かりやすくする提案』
日本経済新聞(2013年3月25日)
http://www.nikkei.com/article/DGXNASGC2500W_V20C13A3PP8000/(2013年8月28日閲覧)
平野圭介 1996. 「言語政策としての多言語サービス」『日本語学』 第12号、明治書院
法務省・在留外国人統計
http://www.moj.go.jp/housei/toukei/toukei_ichiran_touroku.html(2014年1月28日閲覧)
毎日新聞(2013年3月3日)mainichi.jp/area/news/20130303ddq041040009000c.html(2013年
8月28日閲覧)
八尾市人権文化ふれあい部 2009『八尾市外国人市民情報提供システム調査報告書』
山本克也『我が国における外国人看護師・介護士の現状と課題』
http://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/19176305.pdf(2014年1月28日閲覧)
吉岡泰夫他 (2007) 『医療における専門家と非専門家のコミュニケーションの適切化のための社会言語学的研究』 平成17年度~平成18年度科学研究費補助金基盤研究(C)研究成果報告書