島嶼部東南アジア(フィリピン,マレーシア,インドネシア,シンガポール,ブルネイの各国)は多言語国家であり,欧米の旧植民地であった。元来はもっぱらオーストロネシア(マラヨーポリネシア)語族の言語が使われていた地域であったが,各国とも今日のような複雑な言語構成になった理由として,欧米諸国による植民地支配が挙げられる。現地の歴史的。地理的条件にかかわりなく,欧米諸国の都合により植民地が形成されたために,異なる言語集団が多数同一国家の中に含まれることとなった。また植民地時代には,宗主国の言語(英語,スペイン語,オランダ語)が司法,行政,教育の言語として使用され,現地のエリートの共通語となり,言語社会の上層に位置するようになった。
また移民を受け入れてきた歴史から,その言語(広東語,福建語,タミル語等)が各地に存在するようになった。さらに多言語地域なので,言語間の接触により,多くのクレオール(ピジン)が生じた。植民地時代は,これらの言語は,社会の中でそれぞれの役割を持ち補完的な関係にあった。社会における言語の地位の高さから,宗主国の言語,土着語/移民の言語,クレオール(ピジン)との順番で言語の階層的存在が見られた。これらの植民地時代の社会言語的特徴は,独立後も色濃く残っている。
多言語地域の実情を知るために,首都圏に住むフィリピンの大学生を対象として,アンケート調査を行った。その結果,相当数の家庭内では英語,タガログ語,地方語など,言語が複数使用されていることが確認された。彼らは,家庭内でも,祖父母,父母,兄弟姉妹,メイドと,話し相手により言語を使い分け(コード切り換え),中には家庭内で6つの言語が話されている例があった。
またフィリピンとマレーシアのある家族内での具体的な言語の使用状況の観察から,同一の家庭内で複数の言語が使われている場合に,言語にある種の機能的な分業が行われている場合があることが確認された。このフィリピンの家庭では,タガログ語が通常用いられるが,話し手が地方出身者としての自己確認を行うとき(故郷の話をしたりする場合)に地方語が用いられることが多い。これらの使用状況から,言語に関して実用機能と自己確認機能の二つを想定することができる。実用機能とは,言語が情報伝達として実用される側面を主に示し,自己確認機能とは言語によって自己や自己の所属する集団への帰属を確認する側面を示す。単言語社会ではこの二つの機能には同一の言語が使用されるが(例,日本における日本語),多言語社会の特徴として,これらの機能が別々の異なるさまざまな言語で遂行されていることが挙げられる。調査対象となったマレーシアの技術者(中国系)は,いろいろな言語を使用するが,家庭内での広東語,隣人とのコミュニケーションのための福建語,メイドに指示するためのインドネシア語(マレー語,中国人としてのアイデンティティを示す中国標準語,職場での英語とマレー語と,言語生活を機能させるためにさまざまな言語を必要としている。
これらの複数の言語は漠然と並列的に存在するのではなくて,階層的に存在することも多言語社会の特徴である。上位の言語ほど社会的。経済的利益をもたらすが,通常は学校教育を通して習得されるために,費用と時間に余裕のある階級の子弟のみが習得の機会を得る。エリート層たちはこの言語能力(特に植民地支配国の言語の運用能力)の格差を自己の地位の維持に利用することがあり,往々にして,植民地支配国の言語を大衆に教えることに消極的であったり,司法。行政。教育の言語を大衆の言語である国語で置き換えることに反対鼠する例が見られる。
言語社会では実用機能と自己確認機能の二つの面で別々の階層構造を想定することができる。通常は実用機能で高位にあるものは,自己確認機能でも高位にあることが多いが,植民地の言語社会では,この二つの階層構造がしばしば別々の言語で占められていた。例えば,イギリスの支配下にいる敬虐なイスラム教徒にとって,実用機能では,英語が高位にあるが,自己確認機能においては,聖典の言語アラビア語が高位にある。
旧宗主国の言語政策は植民地経営を確実にするために,分割統治を行い,植民地の多言語状態はむしろ望ましいものだった。しかし独立した各国はこの状態に終止符を打ち近代国家形成のために言語政策を行ってきた。その言語政策は基本的には,(1)数多くの土着の言語の中から最も適切な言語を共通語(国語)として選ぶこと,(2)司法,行政,教育等で強い影響力を残す旧宗主国の言語を新しく選ばれた国語で置き換えること,(3)同化に抵抗を示す移民たちに国語を受け入れさせること,(4)国語が旧宗主国の言語に十分替わりうるように,語彙の拡充,書記法・スペリングの確定,数ある変種の中で標準変種の設定など,近代化を行うことである。
(1)共通語の選択として,普通は最有力の土着語が国語として選ばれて行く(タガログ語,マレー語)。しかしインドネシアでは,各有力民族に中立的でありながら,リンガフランカとしてすでに広く使われていたマレー語が,国語(インドネシア語)として受け入れられていった。シンガポールは小さな島国であり貿易に依存する度合いが高い。そのために経済活動の観点から,また各民族にとり中立的な言語であるので,旧宗主国の言語(英語)を実質的な共通語としている。
(2)旧宗主国の言語を,国語に置き換えることは容易ではない。とりわけそれが英語のように有力な国際語である場合は,教育,外交,科学技術,商業,貿易の言語としての有益性の観点から,国語への置き換えに消極的な人々も存在する。しかし有益性の劣る言語では,フィリピンでのスペイン語,あるいはインドネシアでのオランダ語のように,比較的短期間に姿を消してゆく。また住民と旧宗主国の間に文化・宗教の類似点がある場合は旧宗主国の言語は残りやすい。また旧宗主国が自国の言語の教育に熱心であった場合も,その言語は影響力を持ち続けることが多い。
(3)移民の言語は全般に次第に影響力を失いつつある。新世代は現地への同化傾向を示す。各国とも移民の言語による学校(華語,タミル語)は縮小または廃止の傾向にある。
(4)国語の近代化は極めて重要である。専門の言語機関が設けられ,そこで専門家たちは語彙の拡張。選択,スペリング゜書記法の確定を行う。また言語に多くの変種がある場合は,その中でどれを標準とするか確定しなければならない。なおナショナリズムの観点から,言語の純粋化が行われる場合がある。言語の中から外来の要素を取り除き,本来の言語の姿を取り戻し,言語が自己確認機能をよりよく持つようにするための試みである。
ここで言語社会の中で言語が階層的に存在しているとすると,言語政策の目的とは,新しく選ばれた共通語(国語)の地位を,階層構造の中で,他の土着語,宗主国の言語,移民の言語よりも上位に持ってくることである。それは,社会の中での言語構成の改革を通して,植民地時代の負債を引き継いだ社会の再編成を目指しているとも言える。しかし,独立したばかりの新興国にとり,新しく選ばれた共通語(国語)を階層構造の最上位に持ってゆくことは必ずしも容易ではない。とりわけ現実性を反映する実用機能の階層構造では,高位へと上げることはなかなか困難である。そのために,言語政策としては,まず観念的に言語を高位に上げること,つまり自己確認機能の階層構造で上位に持ってくることからはじめ,次第に実用機能の階層でも高位へと上げようとする方法がとられる。具体的には,国語の持つ歴史’性や美的価値を国民に訴えるために,国歌や公的儀式の場で国語を頻繁に使用することから始まり,やがては行政,司法,教育の言語として使用を広げてゆくことである。
新興国の憲法の規定を見れば,国語(民族の統一の象徴としての言語)は当初から土着語としている場合が多いが,公用語(国家を運営する実用的な言語)の規定にはどうしても(少なくとも一定期間は)旧宗主国の言語が残ることからも,国語が実用機能を+分に持つようになるには相当の時間がかかることがうかがえる。また国語として選ばれた言語が国家全体の象徴として自己確認機能を持たせるために,言語の名称が変更される場合がある。フィリピンではタガログ語との名称はタガログ族との結びつきが強いので,ピリピノ語やフィリピノ語との名称が選ばれた。マレーシアではマレー語との名称では他の民族(中国系,インド系住民)にとり受け入れにくいので,マレーシア語との名称が選ばれた。インドネシアでもマレー語の名では主にマレー民族を連想させるので,国民全体を示すインドネシア語との名称が選択された。
自己確認機能から実用機能へとの方法は,社会における全体の言語の階層構造を変革してゆく際に,きわめて有益な方法である。そのことは逆に言語政策が成功するためには,自己確認機能の階層構造
で国語の地位を上げ,その後に実用機能の階層構造で地位を上げるという方式が順調に作用する必要がある。
島嶼部東南アジア各国の言語社会の状況として,フィリピンでは大衆の言語として,地方でも地方語からタガログ語へと変わりつつある。行政・教育の言語としても,英語からタガログ語への変換が進んでいるが,マレーシアと比較するならば,やや遅れている。それは,スペイン,アメリカという植民地支配国としては特殊な国の統治を受けたために,自己確認機能の階層構造で地位を高めてから実用機能で高めるとの方式がうまく働いていないからである。この分野でのタガログ語への完全な転換は数世代先のことと予想される。
マレーシアでは行政,司法,教育などの面で英語からマレー語への転換が進んでおり,数々のエリートを生み出した英語学校は廃止され,あらゆる層が国語教育を受けるようになった。またマレー人の間にはマレー語への誇りも生じつつあり,インドネシアとの間でマレー語の語彙,スペリングの統一の動きもある。マレーシアでは移民の有力な集団(中国系,インド系住民)が存在しているので,移民の言語をどのように取り扱うかとの点が問題の一つとなっている。
シンガポールでは憲法で4つの言語(英語,中国語,マレー語,タミル語)を公用語としているが,実質的には公用語は英語である。この社会では英語の地位はますます高まっている。しかし国民の間にある過度の英語への傾斜の傾向とバランスを取るために,政府は「華語を話す運動」を行っている。インドネシアでは,学校行事等を通して,インドネシア語の普及が進み,順調に言語政策が実施されている。
多言語地域での言語政策とは,どうしてもある特定の言語の選択,他の言語の排除へとつながるが,多言語社会の持つ文化の多様性は継続されながら国家統一が図られることが望ましい。言語社会の中では,最も階層が下とされたクレオール(ピジン)はこの問題に解決を示す可能性がある。複数の言語の接触から生じたクレオール(ピジン)は,情報伝達との実用機能は持っているが,どの民族にも属さないとの意味で,自己確認機能は持っていないとされる。しかし逆に,特定の言語にしばられずに各言語の要素をさまざまに取り入れているとの意味で,クレオール(ピジン)が国の民族全体の表徴となり自己確認機能を持ち得る可能性があるとも考えられる。フィリピンでは,純粋のタガログ語ではなくて,各地方語の要素を取り入れた言語(フィリピン語)を将来の国語にする事が憲法に述べられている。またマレー語も由来はこの地域に通商の言語として広く使用されていたリンガフランカである。その意味ではクレオール(ピジン)には各民族の架け橋となり国家統一の象徴となりうる可能’性がある。