アナログ時代の復活

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現代は、アナログの時代からデジタルの時代へと移行している。それは時計に象徴されるだろう。太古の人々は日没とともに家に帰り、日の出とともに働きに出た。お腹がすいたら食事をしたのである。それは日時計や腹時計の世界であった。やがて機械時計が発明されて、朝、昼、夜という大ざっぱな単位は時間で区分けされるようになり、さらにその時間は半分あるいは4等分されるようになってきた。

むかし『エデンの東』を読んでいる時に、ある人物が今何時か知りたいと思って家の外に出て太陽を見あげて時間を知る場面があった。そうか、そうやって昔の人は時間を知ったのだと感動した。

そしてデジタル時計の普及は人々の生活をさらに変えていった。機械時計の針を見ながら、今は漠然と7時ぐらいとして了解していたものが、秒まで、例えば、7時21分36秒まで計れる。より高級な時計ならば、何万分の1秒の単位まで確定することができる。現代社会の発展は、産業のデジタル化のおかげに負うことが多い。

デジタル化が言語に及ぼす影響を考えてみよう。パソコンの普及で文章が簡単に書けるようになった。しかし、デジタル時代には二つの危険性がある。日本語の文を書いていても、一太郎で使われるATOKでは、間違いをすぐに指摘してくれる。これは重宝である。しかし、それは他面ではその他の解釈を許さない厳しさがある。今までの世界の文化は、写本に依って行われてきた。人が自らの力でもって写していくのである。いくら注意していても間違って映していくこともあったろう。それは原点から離れるという意味では問題であったが、そこに自らの創造性を生み出せる。間違いから新しい創造が生まれるという意味があるのである。

Wordは世界的に広まっているソフトであるが、これは一つの問題を抱えている。それは、スペルをすぐさま修正してくれるのである。しかし、スペルはイギリス式のスペルは赤字が出てすぐさま修正要求が出る。また、nightをnite lightをliteといったような合理的なスペルは拒絶されたのである。現状の固定であり、現状の世界から逃げられない。現状に閉ざされているとも言えるだろう。つまり間違いを犯すことができないのである。これはデジタル社会の呪いであり、限界である。

このようなデジタル化の制約を乗り越えるためには、社会全体の中でのアナログ力を再生すること、アナログ力の再発見をする必要がある。

電車の運転手が秒単位で正確に運転するために、著しいストレスをかかっている。我々は人と待ち合わせをするときは、より正確により大きくよりが過剰に反応している。それゆえに、私がマレーシアの旅の時に経験したことだが、半日ほど列車は遅れてきたが、人々は別に文句は言わなかった。時計をみながら、日時計や腹時計の時代の良さ、を取り戻すことが必要であろう。どのように掘り戻したらいいのか問題であるが、それは人間の叡智でもって解決していければと願う。

(2007-07-19)

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