通過儀式が持つ現代的な意味

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1. 現代における通過儀式の埋没(少年の成長とは)                             

通過儀式は子どもから大人へ成長する時に経験しなければならない儀式である。苦役を耐える自分を証明してなるに自分が大人になったことを内外に示すのである。これは太古の昔から伝わる儀式である。現代ではこのような通過儀式は残っているかどうか疑問である。たしかに成人式という名前の儀式はある。それは昔の通過儀式とはかなり異なるものである。実質的な通過儀式はなくなったと言っていいのではないか。

しかし、通過儀式の不在は本人にも周りの大人にも何か欠けていると感じられるようだ。「若いうちの苦労は買ってでもせよ」という諺がある。なにか、苦役を経験して自分が大人になれるのだという感覚をいだいているようだ。留学に行く、日常の心地よい生活から離れて、言葉の通じない異国に行くのだ。自宅にいれば、食事は親が全て用意してくれる。全ては日本語で通じる世界である。しかしそんな世界を捨てて、新しい世界へ行く。もちろん、そこに永住する気はない。要は自分を鍛えたい、成長させたいという感覚である。

親もそのことの必要性を感じている。そのために、無理をしてでもお金を出して留学の費用を捻出するのだ。そして、子どもたちが大きく成長して、大人になって返ってくることを期待する。これは通過儀式の必要性を本人も家族も、そしてコミュニティー全体が知っているからであろう。ここで、他の文化の様子を見てみたい。

2.通過儀式

通過儀式の一つの例として、ある部族(オーストラリアのカラジェリ族)の儀式をエリアーデ『神話・夢・秘教』から、調べてみたい。

少年たちは、15歳のある日、奥深い森の中に連れてゆかれる。その森は、他界の象徴である。少年たちの家族は、実際に少年が死ぬかのように嘆き悲しむ。その夜、少年たちは神聖な歌をはじめて聞く。その歌は、世界の創造・人類の発生・性と死の起こりを説明する神話を、歌い上げているのである。次の日に、少年たちは、血管をナイフで切り開かれ、血が流れるままにされる。焚き火のそば、煙の中で、目と耳を塞がれ、じっと座り続け、自分の血を大量に飲み干す。口を開くことは、いっさい許されない。次に一時、村に帰される。村では、その夜、歌と踊りが荒々しく催される。夜明け前、少年たちは、今度は、草原に連れてゆかれる。そこできわめて、苦痛に満ちた割礼の手術を受ける。終了後、目と耳を再び塞がれ、全身を血で塗られる。そのまま長時間座り続けなければならない。その後少年たちは、簡単な儀式を数回済ませ、成人として認められ、部族の中へ受け入れられてゆく。

この奇怪な儀式には、深い意味がある。少年を大人に変えることが、この儀式の目的である。その儀式の構造は次の通りである。

  • (1)少年が大人になるためには、はじめに少年の状態の死が必要である。そのため、彼岸を示す森で、死を象徴する儀式を数多く受ける。
  • (2)大人として、再生するためには、それに値する性格の強さを示さなければならない。その理由で、多くの試練を受ける。
  • (3)少年時には、秘密とされていた神話を教わることにより、世界と人類の起源・神々の名称・性・死の存在などの「真の知識」の所有者と成る。
  • (4)割礼により、性のタブーが解け、結婚が可能となる。

このカラジェリ族では、少年と大人は根本的に存在が異なるものと見なされ、大人になるには、神秘的・聖的な力の働きが必要とされる。少年たちは、自分がこの不可解で、神秘的な儀式を通して、今までの自分とまったく異なる自分になることを十分に承知しているので、極度の興奮と恐怖と畏れの感情を抱く。この部族では、この儀式により、試練を経験して、真の知識を授かり、自分が大人へと一挙に再生したことを、少年たちははっきりと自覚する。

この種の荒っぽい成人儀式は、大半の原始社会の中で、存在が確認されている。王の即位式、シャーマンの成巫式も、この聖人の儀式と同一の性格と持つものとされ、まとめてイニシェーション(通過儀式)と呼ばれている。 我らの先祖は、子供を成人とするために、この儀式を生み出し、有史以前からの無限に近い時間をかけて、儀式を洗練していった。この儀式は、東西を問わず、現在に至るまでも、存在しているのである。

3.大国主の通過儀式  

日本の古代社会にも、この儀式は存在した。日本の神話は当時の人々の慣行を数多く含むと考えられるが、ここで古事記から、大国主の物語に注目したい。

大国主は因幡の白ウサギを助けた後、数々の苦難、死と再生を得て、葦原中つ国の王者となる。そのプロセスをまとめると次の通りである。 「大国主は、数々の成功をおさめるが、妬んだ兄弟たちに謀られ、燃えた大石のために焼け死ぬ、しかし神産む巣日の神の力で生き返る。再度謀られ、大木の割れ目に、はさみ殺される。今度は、大国主の母の力で蘇生する。執拗な兄弟たちの追求をさけるために、須佐之男の国にゆく。そこで娘の須勢理姫と情を通じる。須佐之男はこの娘の求婚者を、蛇の室、次にむかでと蜂の室へといれ、試練を受けさせる。大国主は無事に試練を終了したが、野原で再び火攻めの試練にあう。生き延びた彼は、須佐之男の寝ている隙に、トリックを用いて、娘とともに逃げ出す。

須佐之男は気づいて追いかけるが、追いつけない。彼は、逃げてゆく大国主に、娘と結婚しろ、国の王者になれと祝福する。大国主は、数回の死と再生を経験することで、少年から大人になった。そして

  • (1)妻の父から与えられた試練を乗り切ることで、大人にふさわしい意志と性格の持ち主であることを証明した。
  • (2)トリックを用いることで、大人の知恵の所有者であることを証明した。
  • (3)須勢理姫を迎えることで、性を許されたものになったことを、自ら証明した。

これらの自己証明が済んで、はじめて大国主は、葦原中つ国の王者となる。この物語は、当時の日本人の通過儀式の様式を、ある程度反映していることは間違いないだろう。 我々は、この大国主の物語とカラジェリ族の儀式に対して、そこに途方もない強力なエネルギーが充満しており、少年を知性と性格の両面で、一挙に大人へと変貌させる、と感じる。

これらの通過儀式には、神秘的な生命力が宿ると思われ、少年を存在の根底から揺さぶる。少年は、不透明なまどろみの世界から、透明で目覚めの世界へと、とつぜん、その存在様式を変えるのである。この儀式は人間の日常生活の中で、節目の部分(非日常)として存在する。日常(少年)は非日常(通過儀式)を媒介にして、日常(大人)へと展開するのである。

3.教育のおこり

子供がおとなになるという意味で、この儀式と現代の学校の機能は重なりあう。カラジェリ族の少年たちが、苦痛に満ちた割礼を受ける姿は、現代の少年たちが黙々と苛酷な練習に耐えて、スポーツの腕を上げてゆく姿と似ている。またカラジェリ族の少年が、村の長老から、天地創造の神話、部族の聖なる歴史、性の神秘を教えられている姿は、今日の少年たちが、学校の教師から、物理学、世界史、生理学を教えられている姿と重なり合う。

我々が日本の教育の歴史に関する本を繙くときに、大半は、奈良時代の大学寮と国学の創設、あるいは天智期の学識頭の任命からの記述が始まっていることを見る。これらは、主に知識の習得を目的に作られたものである。教育の本来の機能は、知力と性格の両面から、子供を育てることである。その意味で教育の起こりを奈良時代の官学の創設におくことは、知力としての教育に焦点を絞りすぎている。

太古の時代の通過儀式では、知力と性格の教育が統一されて機能していることを見たが、その意味で、この通過儀式に本来の教育の源泉を見たい。そして、海外留学などが現在では、通過儀式の意味を担っていることを主張したい。

4 若者組の制度  

太古の通過儀式と現代の間に位置するものとして、「若者組」の制度に着眼してみたい。この制度は、江戸期から明治大正期にかけて、農漁村に存在して、現在は消滅あるいは青年団へと変化した。目的は村落共同体の一員としての自覚と、数多くの技術の習得を、少年たちに得させる事にあった。

その機能としては、『平凡社百科事典』によれば、(1)村の治安と警備を行うこと、(2)村の風紀を維持すること、(3)御輿担ぎ等の祭礼に参加すること、(4)性の知識を伝授して、結婚の準備機関としての役割を果たすこと、(5)村の生活に必要な生産技術を習得させること。以上が主たるものである。  

通常、若者組に加入するときは、加入儀式を行う。地方により千差万別であるが、その内容は、天野武『若者の習俗』や文化庁文化財保護部『年齢階梯制Ⅰ』によれば、三角薪の上に座らせられ、膝をくずすと薪でなぐられる加入式(伊豆地方)、加入希望の少年を、一度絞め殺す儀式をおこなう加入式(西彼杵半島)、アニイとなるために、米一俵をかつぎあげる加入式(新島本島)などの例がある。  

若者組全体が一つの通過儀式であり、若者組への加入式も通過儀式である。若者組というシステムの中に、少年に試練を与えること、死と再生を擬態すること、制を開示する事、聖(祭礼)に関与すること、生産技術を習得すること、等の要素を見る。これらの要素は、太古の通過儀式のそれと共通であり、その理由で、若者組の制度は、原初の通過儀式と同様に、性格と知力の教育が統一されたものである。  

若者組の終了とともに、少年は一人前と認められ、結婚の資格が生じ、酒・たばこが許されたりする。なお、酒やたばこがどの社会でも子供に禁止されている理由は、発達途上の身体に害であるという理由以外に、大人と子供の峻別をつけるという強い意味がある。  ただ、若者組は、原初の荒々しく素朴な儀式と比べて、複雑化、機能の分離が見られ、強烈なエネルギーに満ちあふれているとの印象は受けがたくなっている。

5.現代の通過儀式  

我々の周囲の大人に、いつ大人になったかと問いかけたらならば、知らないうちに、気づいたならば、大人になっていた、との答えが多いであろう。大人になるためには、通過儀式が必要である。現代の通過儀式は何であろうか。  地域社会にあった若者組、丁稚奉公、徒弟制度は消え去り、成人の日に開催される「成人式」は、古代の通過儀式とは似ても似つかぬものである。

あえて言うならば、現代では、学校が一つの大きな通過儀式であると考えられている。卒業と同時に、一人前と見なされ、酒・たばこも許され、結婚も認められる。  ただ、少年たちは、実質的な通過儀式を自らの手で求めている。大学をめざす少年たちは、受験競争の中で、この儀式を終える。膨大な時間を忍耐すること、精神を極度に緊張させること、志望校に熱狂的に執着すること、これらは、まさに通過儀式の要素である。合格体験記の随所に見られる「苦しかったけれども、自分は大きく成長した」、「試練の時であり、有意義だった」との表現はこのことを物語る。

肉体に秀でた少年たちは、部活動の中で、この儀式を終了する。体力の限界まで繰り返される練習、厳しい礼儀作法の修得、勝利への熱狂的な集中心、すべて少年たちの通過儀式である。

人間は、世界をあくまでに体系的にとらえようとしている。その体系の中にじぶんはどの位置に属するのだろうかと、あくまでも問いかけを続けてゆく、それは、逆にカオスに対する無限の恐怖である。体系化・分類化への意志とは、世界の中に、おける自分の位置を絶えず、問うてやまないことと結びつく。この世界では、天と地、死と生、シャーマンと常人、子供と大人は厳しく峻別される。一方から、他方への移行は重大な存在様式の変更と見なされる。それゆえに、その変更が行われる場合は、内的には意識の変容(死と再生)、外的には神秘的な通過儀式となる。

6. まとめ

現代の通過儀式は一見分かりにくくなっているが、それは依然と必要とされ求められている。人間存在の基本がほとんど変わらないものである限りは今後も求められるであろう。

1985-03-13

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