三好重仁先生のこと

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2015-03-27

本棚を整理していたら、三好重仁先生の追悼文集があった。東京電機大学の教授であり、JACET言語政策研究会の2代目の代表をされていた三好重仁先生が急逝してもう5年近くたつ。私は今年の初めに母を失ってから、なんだか感傷にふけることが多くなった。そして、昔お世話になった人、今は物故された方を思い出すことが多くなってきた。三好先生の追悼文集を読み返しながら、先生のこと、そしてお世話になったことをしばし思い出した。

三好先生は2010年の6月4日に急逝された。その数か月ほど前から「腰が痛い、なかなか腰痛が直らない」と語っていたことを思い出す。「これじゃ、休職して徹底的に直す必要があるかな」ともおっしゃっていた。先生はまだ60歳になりたてて、世間的にはまだまだ働き盛りであるので、病気がまさかそんなに重いものとは全然知らなかった。

そして、6月5日か6日であったが、三好先生が急逝されたというメールが入り、驚いて東京にいる友人や研究仲間に問い合わせると「確かにその通りだ」とのことであった。その月に開かれたJACET言語政策研究会の月例会の雰囲気は重苦しいものであった。誰からともなく、追悼文集を作ろうという話になり、私がその担当となった。合計30名の方が追悼文を提出して下さり、37ページほどの小冊子となった。

その小冊子のタイトルは『三好先生の思い出』であった。そして、副題はこれは私が選んだのだが、『少年の目の輝きの人』となった。三好先生と初めてお目にかかったときから、印象的であったのは、穏やかな微笑みと澄み切った目であった。人間はどんな人でも打算やずるさがある。しかし、三好先生にはまったくそんな気配がない。邪心がなくて澄み切った目をしていると言っていいのか。そして、昆虫採集や工作に夢中になっている少年のように、目を輝かせて学問に取り組まれていた。そんな印象から、私は勝手ながら、『少年の目の輝きの人』という副題を小冊子につけさせてもらった。

JACET言語政策研究会は、田中慎也先生と三好重仁先生が、代表・副代表とコンビを組まれて創られた。この研究会は三好先生の精神を受け継いで、その会合の場所を工学院大学の新宿キャンパスに移して、積極的な研究活動が行われている。今年も学問成果を出版する予定のようだ。

三好先生の追悼文集だが、このブログに三好先生の思い出を載せてある。追悼文を寄せていただいた人々の役職などは2010年8月時点であある。追悼文の順番は編者のもとに届いた順番に並べてある。

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