分かりやすい文は良くない。

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2015-07-18

いろいろな人のブログを見てみると、いわゆるプロのブロガーと呼ばれる人の文体には一応に特徴があることに気づく。それは一言で言えば、「分かりやすさ」である。まず結論を述べている。そして、結論をサポートするような文章が続く。それらは本論である。最後には「まとめ」として結論+アルファが示される。

また段落の前に小見出しをつける。小見出しは線で囲んだり、文字を大きくして強調する。忙しい人は冒頭の結論を読み、小見出しを拾っていくことで時間の節約をしながら文を読んでいける。読者は途中でこれはじっくりと読む価値のある文だと判断すれば、最初に戻りゆっくりと読み始める。

プロのブロガーの人たちの文は情報提供型である。どのメーカーの一眼レフカメラを購入したらいいのか迷っている人には、ずばりA社のこの機種がいいと述べてくれる。そして、その理由を述べてくれる。読者はそれで納得してカメラを購入する。これが分かりやすい文である。

ところが、最近、自分は「分かりやすい文は実は良くない」と思うようになった。それはどうしてか。理由は、冒頭に結論が述べてあるからである。プロのブロガーも、本当は、結論を見つけるまでには、さまざまな試行錯誤を繰り返したと思う。読者たちは、その試行錯誤を知りたいのだ。ブロガーたちは、B社の一眼レフカメラを購入してみたら、こんな長所に気づいたとか、友達から借りてC社のカメラを使ってみたら、こんな失敗をした。それらを経験したうえで結論を書いてあるはずである。その経験を知りたい。

自分は人の結論よりも、その人が結論に至ったプロセスを知りたいと思う。推理小説ならば、冒頭で犯人は誰かと教えてもらうよりも、推理の過程、そのプロセスを知ることが面白いのだ。いろいろ迷ったが、結果として結論が出なかったという文でもいいかと思う。試行錯誤をしたけれども結論には達しなかった。どのメーカーの一眼レフカメラがいいのか、断定できない、という話でもいいと思う。悩みながら選択しようとしたプロセスを語ってくれるならば、読者には十分に役立つ。

さて、自分の文の書き方はどちらか。やはり後者だな。自分は書きながら考えるタイプだ。行ったり来たりする。自分の生き方もそうだ。失敗することをある程度は織り込み済みであるから、挫折の経験もトラウマではなくて、勉強と思うようにしている。

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