2014-09-28
母の入院している病院に見舞いにいってくる。寝返りはうてない。食事は自分では取れないので、胃瘻で栄養の補給を行っている。大小便はオムツを使っている。つまり寝たきり老人である。声を掛けるとある程度は返事をしてくれる。息子が見舞いにきているという認識はある。認知症であるが、ひどい認知症というわけではない。
「生き甲斐」という言葉がある。高齢者でも生き生きと頑張っている人は「趣味」や「ボランティア活動」が生き甲斐になっているのである。ところが、寝たきり老人の生き甲斐は何だろうか。母に以前、「何を考えているの?」と聞いたことがある。その時は、「ただ、時間が経つのを待っている」との返事であった。認知症であっても、自分は昔のように起き上がって活動はできない、ということは分かっている。こんな時は、どのような言葉掛けをしたらいいのか分からない。以前は、「退院したら、田舎をまわって昔懐かしい人と会ってみよう」などと激励したものだった。しかし、寝返りもできない今は、そんなことを言っても、白々しい。
今こそ考えよう高齢者の終末期医療(http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=60441)というブログを見ていたら、デンマークやスエーデンでは寝たきり老人はいないそうである。つまり、自分から栄養補給ができなくなったら胃瘻などの処置はしない。自力で生きていけなくなったら、その時で最期とのことである。引用すると以下の通りである。
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その理由は、高齢あるいは、がんなどで終末期を迎えたら、口から食べられなくなるのは当たり前で、胃ろうや点滴などの人工栄養で延命を図ることは非倫理的であると、国民みんなが認識しているからでした。逆に、そんなことをするのは老人虐待という考え方さえあるそうです。
ですから日本のように、高齢で口から食べられなくなったからといって胃ろうは作りませんし、点滴もしません。肺炎を起こしても抗生剤の注射もしません。内服投与のみです。したがって両手を拘束する必要もありません。つまり、多くの患者さんは、寝たきりになる前に亡くなっていました。寝たきり老人がいないのは当然でした。
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日本人にはこのような割り切りができるのか。私は担当の医者には胃瘻や点滴はお願いしたが、酸素呼吸ができなくなり、気管切開などでチューブを入れて呼吸するまでは希望しないと伝えてある。
最初の質問、つまり「寝たきり老人の生き甲斐とはなにか」に戻ってしまう。体が動かせなくても「言葉掛け」への反応はできるだろう。認知症でも最終段階まではコミュニケーションはある程度はできる。答えとしては、肉親や友人たちとのコミュニケーションということになるのではないか。肉親や友人が自分を気遣っていると知ること、その人たちとの対話が生き甲斐になるのではと思う。