名前が知られるということ

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2015-08-25

自分のこのサイトは名前を明記して運営している。また所属する組織なども明記している。このことで自分は不安や窮屈さを時々感じる。つまり自由に語れないという点である。たとえば、「自分の所属する学校の教育方針は間違っている!」とか「所属する学会は方向性が全然見えない!」などと書くと、大目玉をくらったり、叱責を受ける可能性がある。

かと言って「自分が勤務する学校は理想の教育環境である」とか「自分が所属している学会は若い研究者にとって理想的な環境である」などと書いたら、お世辞を言っている、あるいは誰かに媚びへつらっている、と考えられてしまう可能性がある。

名前を明記するとこのような実際的な面での影響がある。しかし、それとは別に何であるとは説明しずらい圧迫感をも感じるのである。このことについて少々語ってみたい。

人は古来から自分の名前を人に知られることを好まなかった。あるいは逆に名前を知られたいという強い気持ちを持っていた。つまり、自分の名前に関しては、みんなに知ってもらいたいという気持ちと同時にできるだけ隠したいという気持ちの二つ、両義的な感情を持っていた。ここでは、特に名前を隠したいという気持ちの方について語りたい。

名前はその人の本質の一部である。名前を知ることで相手を支配することができる。あるいは名前を知られることで自分の力を奪われてしまうと感覚を人間は持っている。グリム童話集に以下のような話がある。

第55話 Rumpelstilzchen は、あることから、王妃が小人 (Männchen) に自分の子供を譲ることを約束した話である。王妃は、小人から自分の名前を言い当てたら、その約束は反古にしてもいいと言われて、何とか小人の名前を当てようとする。最終的には その小人の名前が Rumpelstilzchen とであることを言い当てて、子供を守ることに成功したという話である。

魔力を持った小人だが、名前を知られることでその魔力の効力が失せるという点が面白い。フレイザーの『金枝篇』には、身体のまだ弱い小さな子供たちの名前をできるだけ知られないようにする事例が出てくる。魔物の潜んでいるような場所では子供の名前を呼ばない。魔物がとりついて子供たちに悪さをする恐れがあるからだ。

名前を知ることはその人を支配することになる。魔物の名前を知ることで、魔物の魔力を封じ込めるという構造は他の物語でもよく見られる。昔の人の素朴な感覚は、現代でもある程度は残っていて、我々は自分の名前をタブー化してめったに他人には教えない。言霊の感覚が残っている。

片山潜という名前の社会主義者がいる。彼は若い頃に大病を患って名前を変えた。「潜」という名前は「ひっそりと潜む」という意味である。病魔から見つからないように、二度と取り憑かれないようにとの意図があったようだ。

ネット空間には何か不気味な魔物が潜んでいるような気がすることがある。そんな空間に自分の名前や顔写真を晒していいのか、危険ではないかと考える人もいよう。単なる物理的な空間であり、そんな迷信的なことを考えるべきではないと笑う人もいるだろうが。

このことは、自分のメールアドレスを晒しただけで、膨大な数のスパムメールが来て収拾がつかなくなることがある。そのことと似ている。

人間には名前を知られて人々から賞賛されたいという気持ちもある。名前を知られたいと同時に隠したい、というふたつの相反する感情、この両義的な感情は不思議である。私自身はどちらの感情が強いのか、どのような態度で臨むべきか迷う次第である。

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