2015-08-27
母が他界してからもう半年以上たつ。月日の経つのは早いものだと強く感じる。今日は、母の語ってくれたことを思い出しながら書いていきたい。
母は昭和5年生まれであり、青春の時代を戦中と戦後の混乱期で過ごして、生きていくのがやっとであり、とても楽しい思い出はなかったと言っていた。その頃の話を時々語ってくれた。
(1)戦争中の富山の大空襲(1945年8月1日)は、能登半島から海越しに火が見えたそうである。母の実家は能登半島の七尾湾に面しているが、そこから対岸の富山方面が赤々と燃え上がり見ていた人々は恐怖に震えていた。普段は七尾湾から富山方面は見えないのだが、それくらい火の粉が高く舞い上がった。
なお、富山の街は大通りが広くて直線で、車の運転がしやすい。それは街全体が焼き払われて、都市計画をゼロから始めたからだそうだ。(空襲のなかった金沢の街は道が狭くて曲がりくねっていて運転しずらい)
(2)母は戦争の思い出はほとんどないと言っていた。能登半島の寒村には米軍の飛行機はほとんど来襲しない。戦禍を受けることからは免れた。戦争の開始は、ある日小学校の校長先生が子供達を集めて、大東亜戦争というものが始まった、と告げたことであった。そして、数年後に、また校長先生が子供達を集めて、大東亜戦争が終わった、と告げたことだった。村にはラジオはなかった。母は戦争と聞くと、小学校の校長先生の二つのアナウンスと結びついている。ただ、村には都会から疎開してきた子供達は何人かいたそうだ。
(3)母は女学校に通っていた。卒業してからある日、女学校の時の先生がふらりと実家にきたそうだ。祖母が「娘はもう嫁に行きましたよ」と言うとその先生は寂しそうな顔をして去って行った。(母は卒業してすぐに父と結婚した)母はその先生を好きだったのか、あるいはその先生は母に好意を抱いていたのかは分からない。ただ、母は時々は父以外の人と結婚していたら自分の人生はどうなっていたのかと想像することもあったのでは、と私の推測だ。
母は自分の昔話、個人的なことでもよく語ってくれた。対照的に父は個人的なことはほとんど語らない。父も多感な少年時代、青年時代は色々な経験をしたのであろうが、めったに話さなかった。息子の義務として、母と父の思い出を少しでもいいから記録に残しておきたいと思う。急速に消えていく記録だから、なんとか残したいと考えている。