言語喪失論

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2014-10-08

9月28日のブログに次のような文を投稿した。「寝たきり老人の生き甲斐とはなにか」に戻ってしまう。体が動かせなくても「言葉掛け」への反応はできるだろう。認知症でも最終段階まではコミュニケーションはある程度はできる。答えとしては、肉親や友人たちとのコミュニケーションということになるのではないか。肉親や友人が自分を気遣っていると知ること、その人たちとの対話が生き甲斐になるのではと思う。」この点で若干付け加えたい。

近頃は母と会話する時は、Evernoteの録音機能を使ってその会話を録音している。あとで聞き直すといろいろな発見がある。

自分:母さんや、どうや、調子は?
母:おー、いい
自分:どこか痛いか?
母:だいじょーぶ
自分:退屈せんか?
母:せーん
自分:腰いとーないか?
母:いとーない
自分:はよー元気になれ
母:おー
自分:また、みんなと会いたいな
母:おー

もう会話というよりも、自分の問いかけに何とか母が答えているだけである。毎回このような調子である。母から問いかけを発することはほとんどない。こうなると出会いの単なる儀式である。互いに存在していることを確かめる儀式である。このような会話を続けると母を単に疲れさすだけではないか、と思うことがある。自分の言葉掛けが母の生き甲斐になっているのだと信じて行っているのだが。

認知症の高齢者、寝たきりの人への言葉掛けが生き甲斐になるのか。無理にでも返事をさせることで脳の活性化にはつながりそうであるが、その効用はまだ分からない。AEDのように電気ショックを与えて生き返らせる効果があるのか、それとも単に疲れさせるだけなのか分からない。

老人への言葉掛けに関する論文はあまりないようだ。これが幼児の言語習得の本はたくさんあることと対比的である。老人が言葉を失うプロセスの研究として、「言語喪失論」という学問が必要だが、研究者たちはあまり関心を示さないようだ。これから、高齢者だらけの世の中になっていく時代には、「言語喪失論」が必要である。

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