認知症の高齢者への刺激

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2014-10-13

9月28日のブログに次のような文を投稿した。「寝たきり老人の生き甲斐とはなにか」に戻ってしまう。体が動かせなくても「言葉掛け」への反応はできるだろう。認知症でも最終段階まではコミュニケーションはある程度はできる。答えとしては、肉親や友人たちとのコミュニケーションということになるのではないか。肉親や友人が自分を気遣っていると知ること、その人たちとの対話が生き甲斐になるのではと思う。」との投稿に10月8日に若干の文章を追加したが、さらに今日も追加する。

実は、私が見舞いに行っても母との話はあまり続かない。私が無理矢理話しかけて、母が何となく答えているという風である。きょうは、担当する看護師さんとお話しする機会があった。看護師さんは「お母さんはよく私たちに話しかけてくれます。特に若い時の話などです。今日は昔女学校に通っていたときに、通学途上の汽車に酔ってそれが辛かった、と話してくれました」と私に教えてくれた。

母はかなり積極的にお話をするらしい。しかし、私とはあまり話をしない。「担当の看護師さんとはかなり積極的に話をする」という点をどう考えるのか。このことからどのような結論が出てくるのか。

(1)看護師さんとは毎日接するので、週一で見舞いにくる息子よりも親しみを感じるようになった。看護師さんとは安心して話をすることができる。
(2)息子とは毎回同じ話題で、中程度の認知症の母親でも退屈してしまう。赤の他人との会話の方が新鮮で面白い。

そのようなことか。そう言えば、以前の介護施設でもヘルパーさんが母は饒舌だ、と言ってたことがある。寡黙か饒舌か、ちょっとミステリーである。肉親には寡黙で、赤の他人には饒舌か、あるいは、毎日接する看護師さんにはより親しみを感じて、たくさんお話をするのか。(一般に男女では、ほとんど知らない間同士は会話はほとんどないか、ぎこちない。ある程度知り合うとたくさんの会話が生まれる。結婚すると、逆に会話の量が減ってくる、そんなことと関連するのか)

看護師さんは、認知症の患者からのお話を聞くことから、その家族のプライバシーに触れることも多いと思う。逆に認知症の患者はどの程度まで自分のプライバシーを話すのか。すべてを暴露することはなくて、やはり何か自己抑制はあるのか。このようなことに関する研究論文はないだろうか。

そんなことを母の病室で考えていたら、「せーの よいしょー」 と看護師さんが3人がかりで同室の患者さんを風呂場へ運んでいっていた。4人部屋の病室は意外に音声に満ちあふれている。同室の患者の独り言、見舞客との会話、看護師さんたちからの声掛け、オムツ替え、体温・血圧のチェック、食事などである。それらは患者の脳への刺激になる。認知症の患者にとっては、音声的な刺激の面からは、個室よりも大部屋の方が望ましいようだ。

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