庭が発するメッセージ

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2014-10-15

今日帰宅しようとして、職場の門の近くを通ったらキンモクセイの香りがした。意外な気がした。キンモクセイの花は散ってしまったと思っていたからである。とりわけ台風が数日前にあったので、残り少ないキンモクセイの花もすべて散ったと思った。キンモクセイでも種類によって遅咲きや早咲きがあるようだ。

自分が石川県にいたころ、20年ほど前だが、キンモクセイの木を購入して玄関の前に植えた。しかし、地面が固くて、なかなか根が張れないようで、その木は成長しなかった。それで、土の柔らかい裏庭に植え替えたら、そこは日当りが悪くて、やはり成長せず、半ば枯れたような状態のままになった。育つ環境を与えられなかったことで、その木に対して申し訳ない気がしている。

定年後に石川県に戻ったら、そのキンモクセイを実家の庭に植え替えして、何とか生き返らせたいと考えている。さらに3本ぐらいキンモクセイを追加で植えようと考えている。定年退職後は実家の庭の管理をするのは私の責任になるのだが、どんな風にするか時々構想する。その構想が楽しい。キンモクセイ、アジサイ、コスモスなどで、異なる種類の花木を植えて1年中何かの花が咲くような庭にしたい。

庭の手入れの仕方も持ち主の感性というかセンスが表れる。実家の庭は、祖父は家のまわりを大きな樹木で囲んでいた。ちょっとした森の中に家があるという印象だった。父の代になると木の数を減らして光が入るようになった。母の代になると、徹底的にまわりの木を切って、家だけがぽつんと建っているという印象になった。

近年は田舎では、みんな家のまわりに木があるのを好まないようだ。虫がつくこと、日当りが悪くなること、台風で木が倒れると家に直撃する恐れなどの点である。もっと光を!

京都に来てから緑に飢えている状態になった。職場まで歩く途上は緑が少ない。小さな建て売り住宅が多くて、庭もすべてセメントで駐車場にしてある家が多い。三階建ての小さい家が密集している。(自分はそんな小さい家も買えないで安アパートに住んでいるのだが)このあたり散歩が楽しくない。緑が少ないからだろう。殺風景な印象の地区である。

緑が少ないがゆえに、緑に対して敏感になる。昔、埼玉に住んでいた時、通勤の途上に、緑が豊かな家が何軒かあった。その家の前を通るのが楽しみだった。季節によってそろそろあの庭の花が咲く頃だ、と待ちこがれてしまう。通行人もそれらの緑をながめて楽しむことができた。きれいに手入れされた庭の家、その前を通る時は、ほっとする。庭の持ち主のセンスが感じられる。Self-presentation である。庭は通行人に対して持ち主の個性というメッセージを発している。すてきな庭を見ると、持ち主は自然に対して畏敬の念を抱き、心穏やかな人だと想像するが、だいたい当たっているだろう。

現在の通勤の途上には、庭の見える家はない。高い塀の家が何軒かあるのだが、中の庭が見えない。残念な気がする。通行人にも庭木を眺めるという楽しみを与えてもらいたいのだが、防犯上の理由で庭を高い塀で囲っているようだ。京都は緑の少ない町である。少なくとも私の住んでいるこの地区は少ない。

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