今立吐酔(いまだてとすい)とグリフィス

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自分は最近ふとしたことで北陸出身の教育者や思想家に関心を持つようになった。北陸出身の教育者として、今立吐酔(いまだてとすい)に関心を持っている。今立吐酔とは、ネットによれば次のような説明がある。

福井県鯖江の浄土真宗の寺に生まれ、「神童」と言われるほど、幼い頃から優れた才能をもつ人物でした。
 福井藩には「藩校・明新館(旧明道館)」がありましたが、当時は藩の武家にしか門扉が開かれていませんでした。しかし1871(明治4)年に、時代の移り変わりを見据えて一般人にも入学を認めるようになり、15歳になった吐酔はこの明新館に入学します。そして、この明新館に外国人(アメリカ人)教師として勤務していたグリフィスと運命的な出会いをします。飛びぬけて成績優秀な吐酔を、グリフィスは大変かわいがりました。その後グリフィスが上京し開成学校(後の東京大学)の教師になると吐酔も開成学校に入学し、グリフィスがアメリカに帰る際には、吐酔も同行して留学しました。ペンシルバニア大学に入学した吐酔は、ここでもずば抜けた成績で周りを寄せ付けませんでした。
 1879(明治12)年、吐酔は大学卒業後すぐに帰国して同年10月、京都府中学校に迎えられ、翌年初代校長に就任しています。この時、吐酔は25歳の若さでした。
 その後、1887(明治20)年、京都府中学校長を辞め、外務省の仕事をしたり、裁判関係の仕事などをしていたのですが、1895(明治28)年以降の彼の足取りについては、はっきりしていません。ただ、1927(昭和2)年にグリフィスが福井に再来日した際には、非常に喜び片時も離れることなくお世話をしたと言われています。
 その頃吐酔は兵庫県に住んでいたそうですが、1931(昭和6)年東京嫁いだ娘婿宅に来訪した際に病に倒れ、そのまま息を引き取りました。享年77歳でした。

明治期には多くの人々が活躍したが、この今立吐酔も大いに活躍した人であろう。当時としては、珍しくアメリカで勉強するという機会を持ったのである。これはグリフィスに師事したことがきっかけであった。ただ、彼は熱心な浄土真宗の宗徒であったので、キリスト教への改宗を進めるグリフィスとは最終的には別れざるを得なかった。

さて、自分も昔、グリフィスについて論文を書いたことがあった。お雇い外国人一般についても興味があり、資料もそろえたが、引っ越しを繰り返したので、今はその資料がどこにあるか分からなくなっている。こんど時間があったら、それらの資料を見つけて、読み直したいと思っている。なお、自分のグリフィスに関する論文をこのブログに載せたので、興味がある人はご覧いただきたい。

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