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今、お雇い外国人に関する本を読んでいる。三好信浩『日本教育の開国』(福村出版)である。この本は図書館から借りて読んだことがあり、興味深かったので、購読しようとした。しかし、1986年刊であり、すでに絶版になっているので、中古本で入手した。
以下、本の紹介を兼ねながら私の感想を述べてゆく。
日本は長い間鎖国をしていたが、そのことにより国内では平和が続き文化が円熟していった。平和が続いたゆえに、寺子屋などの教育産業は盛んとなり、その当時で識字率は48%であり、当時のヨーロッパ諸国と比べても遜色のない数字であった(イタリアやスペインよりも高い)。この高い識字率が、ヨーロッパの西洋技術を受け入れる土台となり、受け入れは成功したと言えるだろう。
外国教師の雇い入れは、はじめは日本に居留する外国人の中から選ばれた。しかし、そのような外国教師の中には、怠惰や無能な者が含まれていた。本国で食い詰めて日本にやってきたという教養の乏しい外国人も、ただ外国人という理由で教師になった者がいるということだ。(p.44)
明治政府はそのような経験の反省から、正式の外交ルートを通して、有能な外国教師を雇い入れようとしたのである。この政策はおおむね成功して、有能な外国教師を雇い入れることに成功した。しかし、それゆえに、高い給料で雇うことにもなった。中には当時の太政大臣(総理大臣)よりも高い給料をもらっていた外国教師がいた。
これらの外国教師は主に高等教育機関で働いた。彼らは、自らの言語(英独仏)で話したのである。受講生となった日本人たちは、通訳がいたのであろうが、大半は直接に理解していったのである。日本人学生は、西洋の学問を吸収したいがゆえに、必死で覚えたゆえに語学力は伸びた。なお、テキスト類は当然、外国語のテキストである。(これらのテキストを簡単に購入できたのかは分からない。おそらく、図書館に数冊は置いてあったかもしれないが、学生個人での所有は少なかったのではないか。それゆえに、講義ノートの作成は大事なことであり、大事に保管されていったのである。)
政府は外国教師の雇い入れと同時に有能な日本人学生を留学させた。そして、ゆくゆくは交代させようと考えたのである。膨大な費用のかかる外国教師よりも、日本人で置き換えたい、それもできるだけ早くと考えたのである。(東京大学の文科の教授であるラフカディオ・ハーンは留学してもどってきた夏目漱石と交代する)
当時の外国教師たちはいわゆる「国際人」である。フェルベッキなどの経歴は面白い。オランダ人でアメリカに渡り、東洋に関心を持って中国や日本に来る。 彼はオランダに長い間帰国しなかったのでオランダ国籍を喪失した。アメリカへの帰化もうまく行かなかったので、グリフィスは彼を「国籍のない人」と言っている。ただ、フルベッキは国籍のない人ゆえに、日本政府への外国教師選択のアドバイスに関して、「特定国の利益にこだわらない国際人として、客観的な判断をすることができた。」(p.80-81)
お雇い外国人は多能な人が多かった。宣教師としてキリスト教を教えながら、教育者として、また専門の学問を教えるなどの多彩な活動が目立つのである。
当時の幕府、明治政府の最大の関心は国防にあった。アジア諸国が次から次と植民地になってゆく情勢の中で、どのようにしたら国の独立を守れるかが最大の関心であった。陸軍はフランス機、海軍はイギリス式を学んだ。なお、陸軍は普仏戦争の結果を受けて、プロシアから軍事学を学ぶようになる。このあたり、太平洋戦争まで陸軍はドイツの影響、海軍はイギリスの影響という意味でつながっているようだ。
海軍はイギリスから学んだ。イギリスでは、海軍兵学校よりも海軍機関学校が先に整備されたのであるが、日本でも同じであり、海岸は軍艦を動かすという意味で、精神論よりも、実学的な教育が優先したようだ。
女子教育、音楽教育なども外国教師の活躍が目立つ。障がい児教育も、どうであったのか知りたいところだが、この本には書かれていなかった。おそらく、これらも西洋からの外国教師が西洋の進んだ制度を導入したのではと推測する。