元電気通信大学教授の松原好次先生から『カフカレスクを超えて』をご恵贈いただいた。ここに感謝の意を示すと同時に、この本の紹介をしてみたい。なお、普通は松原先生を示すのに「松原先生」という呼び方をしているが、この紹介文では、客観性を持たせるために、「筆者」という言い方で統一したい。
この本のタイトルは『カフカエスクを超えて』である。カフカエスクとは、「カフカらしい/不条理な」という意味である。カフカの短編を読んで触発されて浮かんだ考えをエッセイ風にまとめたものである。この本は、2年ほど前に刊行された『ことばへの気づき―カフカの小篇を読む』(春風社、2021年)の続編という性格を持っている。このブログでも、以前、その本の紹介をしている。
この本の魅力は3つあると思う。一つは、カフカの短編への鋭い分析である。筆者はドイツ語の専門家であり、複数の訳者の訳文と原文を比較しながら、カフカが本当に意図していたことを見いだそうとしている。さらに当時の社会情勢をも露わにしている。これは筆者の並々ならぬ語学力と分析力、豊穣な連想力、それらを裏付ける豊富な知識が基盤にあることは言うまでもない。
もう一つの魅力は、筆者の生き方、心構えが垣間見られる点である。冒頭(p.2)で「70歳を過ぎた今」カフカの小作品集を再読していると述べている。実は、私自身も70歳を過ぎている。同世代の人間である70歳を過ぎた高齢者が何をしようとするのかについて私は興味津々である。本を書くことは大変な作業である。筆者が70代の貴重な時間を割いて知的な活動を行っていることは、私自身の生き方への示唆にもなる。同世代の高齢者達に生き方の示唆を与えているという点が魅力である。
筆者が家族のことも、時には、ユーモアを交えながら語ってくれている点も魅力の一つである。以前の著書と比べてかなり筆者のプライベートなことも語ってくれているので面白い。軽妙な語り口調により、筆者の若い頃の姿が浮かび上がってくる。あまり昔を語らなかった筆者であったが、この本では自由に語ってくれている。
さて、カフカの短編への鋭い分析であるが、筆者はカフカの原文と訳文を比較している。複数の訳を比較して、その訳文のずれの中から、何かカフカが語ろうとしたことを探り当てようとしている。たとえば、文法の視点から、主語の有無、現在完了の使い方、副詞の選択などをヒントにして、原文の分析を冷静に行っている。あたかも、筆者は大きな虫眼鏡を持ちながら、小動物の動きを観察しているようである。それらの観察から、人間の心理の微妙な動き、社会の隠された側面、権力構造の不当さを暴き立てようとするかのようである。
カフカは肺結核で1920年に40歳ほどで亡くなっている。もし長らえていたとしても、それ以降にヨーロッパを襲った戦乱と迫害を考えれば、ユダヤ系のカフカには悲惨な運命が待ち構えてたかもしれない。
カフカは、肺結核ゆえに常に死を意識せざるを得なかった人生であった。死を紛らわす、あるいは死を超えるためにも、カフカは書くという作業に没頭した。筆者は退職後も、盛んな執筆活動を行っていると述べたが、もしかしたら、筆者は自分に残された時間を意識したうえで執筆活動を加速度化させているのかもしれない。注(p.252)に、筆者の前立腺癌が判明した時のことが記してある。この部分は私も同じ70代であるがゆえに、読んでいくのが怖かった箇所であった。
カフカは吐血をして、そしてそれ以降はカフカの作品は死を意識したものになってゆく。喀血で、彼の安定した世界は崩れてしまう。スペイン風邪にかかったことも病状の悪化に拍車をかけたようだ。「カフカにとっては、日記や手紙、そして小説を書くことが「心身の観察」であり、心を平静に保つ最小の方法だったととらえてよいのだろうと思う。」(p.252)と述べているが、これは筆者自身のことを述べているのかもしれない。筆者がカフカを読んで覚え書きを記すといいう行為自体が、死を意識して執筆に没頭したカフカへの共鳴となっている。
カフカは夢と現実の境界線が曖昧な小説を書いた人である。現実と非現実は画然と分かれているのでなくて実は背中合わせだ(p.69)とある。カフカの作品の多くは、非現実を書いて、そこから現実世界の不合理性を浮かび上がらせている。
私はこのエッセイを読み進むにつれて、これは筆者自身のことか、カフカのことか、カフカの作品の登場人物のことか、混乱することがあった。逆に言えば、それだけ互いに共鳴度が高いのだ、とも言えよう。この本に触発されて、私個人にも似たような経験があったことを思いだした。何年も前の出来事だが、本当に夢だったのか、それとも現実だったのか、と分からなくなったことがあった。ある女性と語りあったことを思い出したのだが、それが現実か単に夢だったのか分からなくなった。
第二章では、「セイレーンたちの沈黙」と婚約者フェリーツェがカフカに対して沈黙していたことが書かれている(p.283)。沈黙を守るフェリーツェに対して膨大な量の書簡を送り続けている。カフカはフェリーツェやもう一人の恋人であったミレナに対して膨大な量の手紙を書いたそうだ。それらの手紙は残っていて、のちに書簡集として公刊されている。恋に落ちた若者が書く手紙であるから、心のままをさらけ出していると思う。冷静になれば、ずいぶんと恥ずかしいと思えることも書いたのだろう。受け取った恋人達はこれらの手紙を処分しなかったようだ。おかげで現代の私たちはカフカの心情を知る貴重なデータを得ることができたのであるが。
こんなにたくさんの手紙を受け取ったならば、恋人は、なかなか返事は書くことはできない。それがカフカには、沈黙と見えたのかもしれない。そして意地になって手紙を書くー返事の来ない手紙を書いているカフカの姿が現れる(p.324)。
なお、p.431 では婚約破棄の理由は、要は書きたいという筆者の願いだったと述べている。肺結核で結婚に対して自信がなくなったことと残りの人生を書くことに当てたいというカフカの決断だったようだ。
p.357では、詩人村上昭夫の 「雁の声」のからの引用がある。
私は治らない病気を持っているから
それで
雁の声が聞こえるのだ
不治の病を得た者は、見えてくるものがある、聞こえてくるものがある、ということか。感覚が極度に鋭くなり、健康なときには聞こえなかった音、見えなかった物が見えてくる。著者は、不治の病に冒された者、少数言語話者、迫害された者達など、マイノリティに対しての暖かい眼差しを持っている。それは同時に、権力を持ちおごり高ぶる者たちへの怒りへともつながる。暖かい眼差しと静かなる怒りから、見えてきたもの聞こえてきたものを語っている点が、この本をさらに魅力的にしていると言えよう。