千と千尋の神隠し

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2014-11–22

昨晩、テレビで『千と千尋の神隠し』を見た。とても面白かった。しかし、たくさんの謎があり、全体にどのような話なのかは分からない。

自分が一番興味を持ったのは、湯婆婆が「人の名前を奪ってその人を支配する」能力を持っているという点である。千尋は名前を奪われて「千」だけ残って、それで湯婆婆にこき使われる。ハクも「コハクガワ」という川の神様であった。名前の全部か一部が奪われて、奪われた人は他人に支配される。

名前がその人の本質を表すという考えや感覚は古来から見られる。『万葉集』の冒頭の歌は、雄略天皇が、春の野で若菜を摘んでいる少女に求婚する歌である。下にその歌を示す。

籠(こ)もよ み籠持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串持ち この丘に 菜摘(なつ)ます子 家告(の)らせ 名告らさね そらみつ 大和の國は おしなべて われこそ居(を)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告らめ 家をも名をも

ここで注目するのは、「名前を聞くことは求婚することと同義である」点だ。名前を教えることは相手との深いコミットメントに同意することである。

グリム童話集にも面白い話がある。第55話の Rumpelstilzchen は、小人 (Männchen) に子供を差し出すことを約束した王妃が、小人から「自分の名前を言い当てたらその約束は反古にしてもいい」と言われて、何とか小人の名前を当てようとする。最終的には Rumpelstilzchen という名前を言い当てて子供を守ることに成功したという話である。名前を知られたら魔物でさえも自分の魔力を失ってしまうのである。

フレーザーの『金枝編』には、名前に関するタブーがたくさん例示されていて面白い。宮崎駿監督もこの映画でも、当然、名前のタブーに関するさまざまな研究の成果を取り入れて、「名前を奪われて支配される」人を描いたのであろう。

このブログでは、時々学生達の研究や発表を紹介している。その時は学生達の名前は出さない方針である。学生の中には「名前を出しても構わないし、顔が出ても気にしない」という学生もいる。事前に了承を得た学生の顔はブログにあげることもあるが、名前となるとブログに出すことは躊躇する。プライバシーを守るということは当然だが、「古来から人間に備わっている名前を知られることへの恐れ」が根底にある。

古来では、名前を知られることは、例えば病魔が名前に取り付いて悪さをするので避けられていた。特に体の弱い幼児は幼名として別個の名前を持っていた。もしも病魔がその子を狙ったとしても、幼名の方に取り付いて、その子の本質的な部分には影響を及ぼさないようにしていた。成長して元服してはじめて本名を名乗るのである。

この映画を見ながら、そんなことを考えていた。でもこのストーリは全体の流れを追うのが大変だ。まるで人の夢の中のようで、次から次と画面が変わり、筋の流れを追うのは大変だ。でも面白い。まるで、宮崎駿監督の「夢日記」ではないかと思った。

この映画の背景だが、日本の昔の風物がたくさん登場するのが面白い。 昭和30年代の雰囲気があるのは、自分には懐かしい。江戸時代の雰囲気もあるし、ハクという男の子の格好は古墳時代ではないか。

さて、この映画の評価だが、さまざまな知的な刺激に満ちて、素晴らしい映画であったと思う。自分が見た宮崎駿監督の映画は『風の谷のナウシカ』に続いて二つ目である。ほかの作品も見たくなった。

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