2015-02-22
今日は近江八幡の町に行く。昨日ネットを見ていたら、秀次が近江八幡に城を築いて、善政をひいて町を繁栄させた、とあるので、実際に訪問してそのことを確認することにした。
名神高速道路の竜王のインターでおりて、近江八幡の町に向かう。まず、日牟禮八幡宮を訪れた。ここは特に秀次とは関係ない。古くから、近江商人の信仰のお宮として有名である。左義長(さぎちょう)祭りが3月の14日ごろに行われるそうである。近くの公民館では準備のために屋形みたいなものを製作中であった。境内は能の舞台が二つほどある。夏になると、ここで薪能が行われると推測した。この日は小雨で見物客も少なかった。
それから、ロープウェイで八幡山の頂上に向かう。八幡山の頂上に八幡城の城跡があるが、歩いて行くのは無理なのでロープウエイを使う。往復で820円で、この日は15分間隔で動いていた。頂上までおよそ4分ほどである。ゆっくりとロープウエイは上っていく。近江八幡の町がよく見える。区画整理がよくされていて、町並みが美しい。
終点から山頂まですこし歩く。秀次が自害したあとは、八幡城は廃城となり、現在は石垣しか残っていない。北の丸跡、西の丸跡、二の丸跡などの掲示があって、当時の城を偲ぶだけである。傾斜の急なこんな山の上によく城を築いたと感心する。これでは城攻めは難しいとおもう。ただ、籠城する方も食料や水を確保する場所がないので、これまた大変だろうと思う。実際には、この城をめぐっての攻防戦はなかったようだ。
ロープウエイをおりて、近くの八幡公園にいって、秀次公の銅像を見ることにした。そこには、厳しい顔立ちの銅像があった。28年の生涯であり、悲劇的な死を遂げたことから、人々から同情を受けている。銅像前の説明を読むと、秀次の功績として以下の3つほどの点が挙げられている。
(1) 楽市楽座を定めて有力な商人や職人を呼び寄せ自由商業都市とした。
(2) 碁盤目状の町並みをつくり、職種別に住む地域を分けた。
(3) 八幡堀を整備して、琵琶湖につながる運河として交通の要衝とした。
彼は18歳から23歳までのこの近江八幡を支配した。5年間の短い期間だが、善政をほどこして町の商業的発展に貢献した。いまだにこの町の人々からは慕われている。もしも、秀吉のあとに秀次が政治の中心になったなら、どのように日本の政治は変わったか。歴史に「もしも〜」を想像してみるのもいいだろう。