言語サービスの再定義

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2015-03-09

科研の仕事を一緒にしている先生から、「言語サービス」という語について再定義が必要ではないかと問いかけがあった。その先生は京都に立ち寄るとのことで、京都駅内の喫茶店にて落ち合い、2時間ほどだが、いろいろな面から検討を行った。外国人への「言語サービス」とは10年以上も昔から提唱されてきた概念だが、やや古くなり時代にそぐわなくなってきた面もある。再定義がどのように可能か考えてみたのである。

今までの定義の詳細については、河原編『自治体の言語サービス』(春風社、2004年刊) pp.6-7を参照のこと。なお、この本は絶版であるが、アマゾンでは中古本が出品されている。また、同様の趣旨で執筆された本として、河原・野山編『外国人住民への言語サービス』(明石書店、2007年刊)もある。実は、この本も絶版であるが、やはり中古本として、何冊かが出品されている。

今までの定義は以下の通りに二つの側面から見ている(『自治体の言語サービス』[春風社]pp.6-7)。

第一の定義(具体的・技術的な側面)
「外国人が理解できる言語を用いて、必要とされる情報を伝達すること」
第二の定義(理念的な側面)
「外国人住民の母語によるアイデンティティを守り、その文化の発達を支援すると同時に、日本人住民との共生社会を作っていくための言語政策の一つである」

この定義の問題点を以下のように幾つかの点を考察する。

(1)「言語サービス」を「言語」と「サービス」という二つの視点に分けて考える。「言語」という表現を使ったが、実は言語だけに限らないのである。それに付随するもろもろの情報の提供である。知的活動への援助ということである。それゆえに、「情報サービス」という表現もいいが、「情報」とすると本質が見えにくくなる。情報という言葉は非常に曖昧である。情報を提供すると言ったとする、具体的に何をするのかわからなくなる。「日本語のパンフレットを渡してこれ読んでおいて」と言うだけだったり、「英語のホームページがあります」と述べるだけだったりする。情報サービスという言い方では、外国人の理解できる言語で情報を提供するという側面が見えなくなる恐れがある。

(2)「サービス」という言葉の持つ意味合いだが、無償で提供する。提供者が善意でもって行うというニュアンスがでる。これは問題であろう。外国人・外国人住民が権利として要求できるもの、という意味合いが薄れてくる。当然の権利を要求するという意味で「言語権」を定義に含めるのはいいだろう。「外国人が人として本来的に所有する言語権に基づいて、日本の公的機関が提供する言語サービス」と考えられる。

(3)外国人と外国人住民と分けたが、外国人では観光客を含めた短期滞在者にも分かりやすく情報を提供することである。たとえば、トイレはどこにあるのかというようなことも含まれる。外国人住民とすると長期滞在者あるいは移住して日本国籍を取得した人まで含まれる。後者には外国人市民という表現がふさわしいかもしれない。

(4)第二の定義の「アイデンティティを守り、その文化の発達を支援する」ことと「日本人住民との共同社会を作っていく」という命題は対立すると考えられる。この命題がうまく両立する道を探ることが必要である。一般に外国人住民は閉じこもりがちである。「家族」とか「同一民族というコミュニティー」に閉じこもりがちになる。どのようにしたら、その人たちを引っ張り出せるか。「多文化共生主義に基づくグローバルコミュニティーの中で、たまたま日本にいた人々が、適切にそのローカルな社会に円滑に参加できるようにする行為」と考える。この場合は、日本人住民や外国人住民との違いを意識しなくてもいいだろう。

ここの(4)では、「文化の発達」という表現を用いたが、ここは頭の整理整頓が必要ではと、今日お会いした先生から指摘があった。文化相対主義という考えがあり、無文字文化とアメリカの高消費文化のどちらが文化的に発達しているのかという問いかけをされると、確かに、答えに詰まってしまう。このことがあるので、文化の「発達」ではなくて、「展開」とか「共鳴度を高める」などの表現がふさわしい場合もある。今後の検討課題であろう。
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今日お会いした先生は岡山への出張の帰りとのことで、岡山名物の「きびだんご」をお土産にいただいた。家内や子供たちも美味しいと喜んでおり、このブログでも御礼を述べたい。

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