お半長右衛門供養塔

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2015-03-12

今日は寒い日であった。焼酎の黒霧島を買おうと思ったが、馴染みのコンビニでは売っていないので、やや遠いところにあるサークルKに寄って1カップを購入する。そして、桂川沿いに馴染みのない道を歩いて自宅に戻ることにした。すると、供養塔が建っている。石碑はかなり古い、これは何かなと不思議に思ってよく見る。お半長右衛門供養塔と書いてある。昔、男女が心中したのかと推察する。私が知っている心中は、曽根崎心中のお初と徳兵衛ぐらいだが、お半長右衛門とは何かと自宅でグーグルで調べてみる。

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すると、以下のような文をネットで見つけた。「お半長右衛門の供養塔」http://www2u.biglobe.ne.jp/~yamy1265/kyoto-130.html である。この説明によれば、二人は別に恋仲ではなくて、単に一緒に強盗に殺害されただけのようだ。しかし、1776年に、菅(すが)専助がこれを基に心中ものにした脚本を書いている。浄瑠璃「桂川連理柵(れんりのしがらみ)」をして上演して、これが評判になったという。

(引用始まり)……………………………………………………………………………..
『桂川連理柵』(かつらがわれんりのしがらみ)作品の真似をして心中をする者が続出するようになったため享保8年 (1724) に、幕府は心中物の上演の一切を禁止した。・・・・・・・菅専助作の浄瑠璃,またこれに基づく歌舞伎劇。1776年初演。・・・・・・38歳の帯屋長右衛門と14歳の信濃屋の娘お半の情話を描いたもので,長右衛門がお半との恋ゆえに継母や義弟からいじめられるのを,貞節な女房お絹がかばう〈帯屋〉の場が有名。
「桂川連理柵」安永五年十月十五日初日京都柳馬場押小路の帯屋長右衛門、隣家信濃屋の娘お半の伊勢参り下向と石部の宿でゆきあい、同宿します。その夜、お半はお供に連れてきている丁稚の長吉にいいよられ、長右衛門の部屋へ逃げ込み匿った長右衛門と契ってしまいす。それを見ていた長吉は、腹いせに長右衛門が預かっている正宗の刀をすりかえます。その後、帯屋の隠居繁斎の後妻おとせ、その連れ子の義兵衛により、長右衛門はおとしいれられそうになるのですが、長右衛門の妻お絹の機転によりことなきですみます。しかし長右衛門は、お半の妊娠・正宗の刀紛失で死を覚悟していました。そんなとき、お半は書き置きを残し桂川へ死に行ってしまいます。。長右衛門は、5~6年前芸妓の岸野と桂川で心中しようとして相手だけ死なせてしまっていることから、岸野がお半と生まれ変わり自分を死へ招きよせる因果をかんじて、お半の後を追い、桂川で心中を遂げてしまいました。

事実は・・・・・
中京区柳馬場押小路の帯屋の主人。長右衛門は、38歳の中年男で彼は、隣の呉服商の信濃屋の亡くなったご主人に、5歳まで育てらた。?孤児だったのかも?で、帯屋の跡取り息子として、帯屋に養子に貰われた。現在ここには、老舗の【茨木蒲鉾店】
お半:中京区柳馬場押小路の呉服商、信濃屋の娘で年齢は14歳です。信濃屋の娘、お半が、大阪に奉公(行儀見習いかも?)に行くので、長右衛門は、信濃屋の主人から保護者を頼まれます。で桂川の渡船場で出発を待っていたところ、悪者(泥棒)に所持金を奪われ、と同時に殺されます。悪者は二人の(裾の長い着物の)竪褄(たてずま)を結びつけて、あたかも、二人が心中したかのように偽装し、川に流したその時、長右衛門は38歳、お半は14歳だった。このような衝撃的な心中事件は、(偽装心中事件)、その年の差が離れていたことから、噂が噂をよんで話が拡大した。

この近郊,嵐山から約3k程下流にあり水路がカーブしていて昔から水害も多い在原業平が藤原高子を背負って,芥川から長岡への逃避行と同じのようだ。業平と高子は,追っ手に捕まり連れ戻された地でもある、2人の供養塔の1基は「法華塔」、いま1基は「法花塔」と刻まれており、大水害犠牲者の供養塔とか、桂川の堤防を守る水防の碑。
(引用終わり)……………………………………………………………………………………..

この桂川だが、時々は水嵩が増す。昔ここに渡し場があったのかと思うと不思議な気がする。下流に長岡市があり、都を長岡京に移したが、水害があったので、また都を京都に戻したという話を聞いて、治水の技術が未熟であった時代は、この桂川はさぞ厄介ものであったと推測される

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