岐阜市内の研修があった。

土曜日(7月8日)に、勤務校での授業の一環として岐阜市内の調査フィールドワークが行われた。集合場所は当初は岐阜公園の入り口の織田信長像のところであったが、当日は大雨が降りそうとのことで、集合場所は入り口近くの案内所前と変更になった。私は少し早めに家を出発して、1時間ほど前に到着したので、周囲をブラブラした。長良川沿いは広々として歩くと気持が言い。岐阜城も見える。鵜飼いの舟が何艘もつながれていて、夕方の鵜飼いの準備中のようだ。

学生がぼちぼち集まってきた。私の仕事はカメラマンである。何枚も撮影したが、一応、一枚だけ披露する。信長の銅像前で集合写真を撮った。写真撮影も最近は個人の肖像権などの問題が出てきて、以前のように気軽にブログに載せることはできなくなった。ここでは、遠くから撮影してあるものを一枚だけ掲載する。人物が特定されるのを防ぐために目のところにマスクをする写真もあるが、そこまで大げさにするのも変なので、このように掲載する。

集合写真

撮影のあとで、学生達がグループごとに出発したあとで、私は岐阜公園内をブラブラした。この日はやや小雨になりそうな曇り空であり、傘は一応持ってきたが、広げる必要はないようだった。岐阜公園内は人も少なくて、蒸し暑く、緑が濃くて、また、コケの古びた匂いがして、それなりに散策を愉しんだ。どうすれば、観光客が来てくれて、岐阜の町の活性化につなげるか考えてみたが、この何もしない、観光客に媚びない姿勢がかえってアピールするかもしれないと思うようになった。公園を過ぎたら、町内を歩いた。静かな落ち着いた町だ。退職して故郷に引き上げたら、昔この町を散歩したことを思い出すこともあるのかな。

12時近くになったので、観光案内所に戻り、そこの食堂でランチを食べた。注文したのは、カレーライスだ。650円で特に具はなくて、カレーがかかっているだけのシンプルなものだった。歩いて疲れていたのでけっこう美味しく食べれた。学生達もそれぞれ適当なところで食事をしたようであった。

『定年後の学問の愉しみ』という本をご恵贈いただいた。

私の学問仲間の松原好次先生(電気通信大学元教授)から、『定年後の学問の愉しみ』という本をご恵贈いただいた。松原先生からは、何冊か書籍をいただき、それらの多くをこのブログでも紹介させていただいた。最近では、4月23日のブログにて先生の『カフカレスクを超えて』という本を紹介させてもらった。

今までの本は先生の単著であったが、今回は25名の先生方のエッセイ集であった。この25名の先生方は、いずれも春風社という出版社から本を出版されていて、現在は大学における仕事からは退職しているという点が共通項である。

春風社は横浜にあり、実は私もお世話になったことがある。私の博士論文を春風社から出版させてもらい、その時に、会社訪問をした。そのときに、用件が一段落したあとに、スタッフの方々に横浜の中華街を案内してもらって、一緒に歓談した思い出がある。その時のスタッフの一人であった石橋幸子さんが、こんど同社を退職して新しく出版コーディネートを起業されたとのこと、その石橋さんのご尽力により、この本が世に出ることになったようだ。大学での学問・研究生活を終了して、今後の人生をどのように送るのか迷っている方もいいと思われるが、そのような方に、この25名の方々がどのように今生きているのかを示すことは、有益なことだと思う。

松原先生の「研究と教育の両立、そして・・・・・・」というエッセイが336ページからある。大学では英語を教えていた松原先生は、退職後は自分が学部生の頃に学んだドイツ語に再挑戦しようと決意する。単に独学というのではなくて、大学の生涯学習プログラムやオープンアカデミーなどを利用してドイツ語の再学習の切っ掛けにしている。同好の士と一緒になって勉強できるという点は、やはり東京は便利な場所だなと感じた。私はいまは岐阜市の郊外に住んでいるが、英語以外の言語を勉強しようとすると、独学で行うしかないようだ。

338ページに、マックス・ウエーバーの『職業としての学問』に言及されている。その中の一節は「ある写本の解釈がただしいかどうかに情熱をかけることのできない人は、学者としての職業にはむいていない・・・」と述べてある。今の自分はこの言葉が分かる気がする。何気ない言葉でも、その言葉の選択は作者のいろいろな思いが込められているのである。その思いを発掘して作者の思考を再構築することは、考古学のようなスリルに満ちた作業に違いない。松原先生の『カフカレスクを超えて』でのカフカの文体の分析は、たとえば探偵が虫眼鏡で謎を解いてゆくような姿を彷彿させるものがある。

松原先生の書かれたたくさんの著書の特徴だが、一貫してマイナーな言語への差別の実態分析から、権力の持つ暴力性を露わにしようとしている。それは単に声高に叫ぶのではなくて、事実を示して事実に語らせようとする態度はウエーバーからの影響のようだ。松原先生がこれからもウエーバーからの示す方向へとゆっくりだが着実に進んでゆくことを願うのである。

 

定年後の学問の愉しみ

哲学者と死にゆく男との対話

ChatGPTは大変な評判である。自分は、いろいろと質問をしてその回答を読みながら納得している。昨日は、英語で次のような設問をした。”Make a conversation between a philosopher and a dying man who is afraid of death.”である。自分の年齢になると死を意識することも多くなる。こんな哲学的な設問に対して、AIはどのような回答をするのか興味があった。そして、その回答はきわめて常識的な回答であった。でも、それで納得した。個性的な人が回答すると、個性的な回答が出てくる。それはそれで面白いこともあるが、自分は拒否反応を起こす場合もある。AIがきわめて常識的な回答であったので、私は非常に納得した。とにかく、常識的なことほど当てはまるのであろう。

さて、回答は以下の通りであった。a harmonious return to the cosmic orderとか we can learn to cherish the present moment と言うような言葉が心に刺さった。皆様はどうであろうか。

Philosopher: Good evening. I couldn’t help but notice the weight of concern on your face. Is something troubling you?

Dying Man: Good evening. Yes, I am troubled indeed. I am facing my own mortality, and the fear of what lies beyond death haunts me. I’ve spent my life avoiding the thought of it, but now it feels imminent, and I don’t know how to reconcile with it.

Philosopher: I understand that the prospect of death can be unsettling. It is a mystery that has intrigued humanity for centuries. Tell me, what specifically troubles you about death?

Dying Man: I suppose what troubles me most is the unknown. Will there be anything after I take my last breath? Will I simply cease to exist? The thought of losing consciousness forever is terrifying.

Philosopher: Your concerns are natural and shared by many. Death has been a subject of contemplation for philosophers throughout history. While we cannot claim certainty about what awaits us after death, we can explore different perspectives and philosophies that might help us make peace with it.

Dying Man: I am open to any insights you might have. I yearn for some solace or understanding to alleviate my fear.

Philosopher: One perspective worth considering is that death can be seen as a natural part of the cycle of life. Just as we were not aware of our existence before birth, death may be a return to that state of non-existence. Instead of viewing it as a loss or cessation, we can see it as a harmonious return to the cosmic order.

Dying Man: That’s an intriguing perspective, but it still doesn’t entirely alleviate my fear. The idea of losing my consciousness and all that I hold dear is deeply unsettling.

Philosopher: Another way to approach this fear is through the recognition of impermanence. Life itself is transient, and everything we hold dear is subject to change and eventual loss. By accepting the impermanence of life, we can learn to cherish the present moment and find meaning in the time we have.

Dying Man: I can see the wisdom in that. Perhaps if I focus on living fully in the present and appreciating the people and experiences around me, it will help alleviate my fear of what comes after.

Philosopher: Precisely. Embracing the present moment and cultivating a sense of gratitude can bring immense joy and fulfillment. Additionally, reflecting on the legacy you leave behind can provide comfort. Your actions, relationships, and the impact you’ve had on others can continue to resonate even after you’re gone.

Dying Man: I hadn’t considered that before. It’s true, if I can leave a positive impact on the world and the people I love, then perhaps I can find solace in knowing that a part of me will live on in their memories and the influence I’ve had on their lives.

Philosopher: Exactly. Death is a reminder of the preciousness of life and an opportunity to reflect on what truly matters. It can serve as a catalyst for personal growth, a motivation to live authentically and embrace the inherent uncertainty of existence.

Dying Man: Thank you for sharing your insights. I feel a little lighter, as if a burden has been lifted. While my fear might not completely disappear, I now have a new perspective to guide me through this transition.

Philosopher: I’m glad to hear that. Remember, philosophy can provide us with frameworks for understanding the world and ourselves, but ultimately, the answers lie within you. Embrace this moment, live with purpose, and find your own path toward peace.

 

「日本語教師を国家資格にする」法律が成立した。

日本語教師を国家資格にする法律が成立した。NHKのウエブニュースによれば次のことが報じられた。

“日本語教師を国家資格にする” 法律が成立 在留外国人増加で”

国内で暮らす外国人が増え、日本語教育の需要が高まる中、日本語教師を国家資格にすることなどを盛り込んだ日本語教育機関認定法が、26日の参議院本会議で可決・成立しました。

法務省によりますと、国内の在留外国人は新型コロナの感染拡大で一時減少したものの、最近は再び増加し、去年6月末には296万人と過去最多を更新しました。

日本語教育機関認定法は在留外国人の増加に伴い、日本語教育の需要が高まっていることを受けて、日本語教育の適正かつ確実な実施を図るためのものです。

法律では、一定の要件を満たす日本語教育機関を文部科学大臣が適正な教育機関であると認定し、外国人の留学生などに情報提供を行うとしています。

そして、日本語教師の国家資格を創設し、筆記試験に合格して実践的な研修を修了すれば「登録日本語教員」として文部科学大臣の登録を受けることができることなどが盛り込まれています。

日本語教育機関認定法は、26日の参議院本会議で採決が行われ、自民・公明両党や立憲民主党などの賛成多数で可決・成立しました。https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230526/k10014079031000.html

日本語教師を国家資格にする法律が成立することは大きなインパクトを与えると思われる。以前から、日本語教師の資格は国家資格でないので、きちんとしたプロの日本語教師が育たずに、それゆえに低い給料のままであることが指摘されていた。

文部科学省のサイト(https://www.mext.go.jp/a_menu/hyouka/kekka/1421037_00012.htm)を見ると、「日本語教員の登録制度の創設」とあり、「日本語教育を行うために必要な知識及び技能を有するかどうかを判定するために行う試験(以下「日本語教員試験」という。)に合格し、かつ、認定日本語教育機関において日本語教育を行うために必要な実践的な技術を習得するための研修(実践研修)を修了した者は、文部科学大臣の登録を受けることができることとする」とある。

現在では、日本語教師になるためには、次の3つのコースが考えられる。(1)大学での専門課程の修了者、(2)民間の日本語教員養成講座(420時間程度)の修了者、(3)日本語教育能力検定試験の合格者、である。新制度のもとで、(1)~(3)を修了・合格して実際に日本語教師として働いている者はそのまま「登録日本語教員」となるのか、まだ分からない。

日本語教育機関の認定制度が創設されるのであり、その後、認定を受けた日本語教育機関での修了者が日本語を修了した者が教えることができることとなる。(1)と(2)では、大学や民間の日本語教員養成講座を主宰する機関が申請をして、一定の条件を満たせば認定された日本語教育機関になるのだろう。どのような条件であるかは、文科省のサイトにはまだきさいされていない。(3)の日本語教育能力検定試験は、日本国際教育支援協会という公益財団が主催するものであり、公的な性質を持っているので、名称は変わるとしても、試験の合格者は、依然として登録日本語教員となるのではと思われるのだが。

以前から、日本語教員になっても「食べてゆけない」ということは言われていた。ボランティアの人たちが日本語を教えてきた。ほとんど無給でも教えてきた。そのために、プロの日本語教師が育たないという問題点はあった。諸外国では、専門的に学んだ人だけが教える資格があり、それだけで十分に生活をすることができる給料を得ていた。日本でも、そのような状態に早くなればいいという願いは何人かの日本語教師の方から聞いたことがあった。

まだ、全貌が見えてきてないが、これがどのように発展するか、ちゃんとフォローしていきたいと思う。

 

ChatGPTでは韻を踏んだ詩が創れる。

ChatGPT で詩を作ると、脚韻を自動的に踏んでくれるので驚いた。次のような課題を英語で与えた。Create a poem which admires the sky.すると即座に以下のような詩が創られた。


Oh sky, how wondrous and vast

Your endless expanse is unsurpassed

Your shades of blue and hues of gold

Are sights to behold, a treasure to behold

 

Your clouds dance freely in the breeze

Moving with ease, as if they please

A canvas of art, ever-changing and bold

A masterpiece of nature, never to grow old

 

Your stars twinkle in the night

Guiding us with their radiant light

A peaceful sight, so calm and still

Reminding us of life’s beauty and thrill

 

Oh sky, your beauty never fades

A source of wonder that never evades

In your embrace, we feel so small

Yet we stand in awe of you, standing tall

 

Your beauty inspires, it lifts our soul

Filling our hearts with wonder and goal

Oh sky, we are forever grateful

For your beauty that’s forever faithful.


各連の1行目と2行目、そじて3行目と4行目に脚韻が踏んである。驚異的なことをAIは即座に行う。こんな装置を生み出した人たちの頭脳はどうなっているのか。

Chat GPTを使って詩を書いてみた。

巷では、chatGPTが評判のようだ。使ってみると確かにこれは便利だ。早速に無料の会員になり、使ってみた。

質問を入れると、すぐに論文形式で返してくれる。たとえば、「言語習得の臨界期とは何か?」と聞いたら、以下のような回答が即座に出た。  


言語習得の臨界期とは、言語を自然に習得するための最適な時期を指します。一般的には、0歳から5歳までの幼児期が言語習得の臨界期とされています。

幼児期には、言語習得に必要な脳の発達が最も進んでおり、言語を自然に習得するために必要な知的・認知的能力や社会的な環境も整っています。また、幼児期には言語に対する感受性が高いため、短期間で豊富な言語情報を吸収することができます。

一方、幼児期以降になると、言語習得に必要な認知的・社会的な能力が低下し、言語習得が難しくなります。例えば、第二言語の習得においては、大人になると音声や文法のルールを覚えることが難しくなり、習得に時間がかかることがあります。

言語習得の臨界期は、言語教育の重要性を強調する上でも重要な概念であり、幼児期に言語環境を豊かにすることが、将来的な言語能力の向上につながるとされています。


創造的な事もできるそうなので以下のような課題を与えた。

「空の美しさを讃える詩をつくって下さい。」すると以下のような詩を即座に生み出した。

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青い空に浮かぶ雲 そよ風に揺れている

太陽の光に照らされて まるでダイヤモンドのように輝いている

空は美しい、美しい その青さに心が洗われる

大空を見上げれば 何もかもが小さく感じられる

飛び立つ鳥たちの羽音 流れる雲のかたち

空は、その美しさで 私たちを癒してくれる

私たちは、忙しない日々を送り 疲れて、心がざわついている

しかし、空を見上げる瞬間 心が静まり、癒される

青い空よ、いつまでもそこにあって 私たちを包んでいて欲しい

あなたの美しさを見上げるたびに 私たちは、心が豊かになっていくのだから

空は美しい、美しい その美しさを讃えて、私たちは生きるのだ。

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驚くしかないとはこの事だ。近い将来、事務職の人がたくさん失業しそうだ。大学のレポートの課題は意味をなさなくなるだろう。

 

『カフカレスクを超えて』の紹介文

元電気通信大学教授の松原好次先生から『カフカレスクを超えて』をご恵贈いただいた。ここに感謝の意を示すと同時に、この本の紹介をしてみたい。なお、普通は松原先生を示すのに「松原先生」という呼び方をしているが、この紹介文では、客観性を持たせるために、「筆者」という言い方で統一したい。

この本のタイトルは『カフカエスクを超えて』である。カフカエスクとは、「カフカらしい/不条理な」という意味である。カフカの短編を読んで触発されて浮かんだ考えをエッセイ風にまとめたものである。この本は、2年ほど前に刊行された『ことばへの気づき―カフカの小篇を読む』(春風社、2021年)の続編という性格を持っている。このブログでも、以前、その本の紹介をしている。

この本の魅力は3つあると思う。一つは、カフカの短編への鋭い分析である。筆者はドイツ語の専門家であり、複数の訳者の訳文と原文を比較しながら、カフカが本当に意図していたことを見いだそうとしている。さらに当時の社会情勢をも露わにしている。これは筆者の並々ならぬ語学力と分析力、豊穣な連想力、それらを裏付ける豊富な知識が基盤にあることは言うまでもない。

もう一つの魅力は、筆者の生き方、心構えが垣間見られる点である。冒頭(p.2)で「70歳を過ぎた今」カフカの小作品集を再読していると述べている。実は、私自身も70歳を過ぎている。同世代の人間である70歳を過ぎた高齢者が何をしようとするのかについて私は興味津々である。本を書くことは大変な作業である。筆者が70代の貴重な時間を割いて知的な活動を行っていることは、私自身の生き方への示唆にもなる。同世代の高齢者達に生き方の示唆を与えているという点が魅力である。

筆者が家族のことも、時には、ユーモアを交えながら語ってくれている点も魅力の一つである。以前の著書と比べてかなり筆者のプライベートなことも語ってくれているので面白い。軽妙な語り口調により、筆者の若い頃の姿が浮かび上がってくる。あまり昔を語らなかった筆者であったが、この本では自由に語ってくれている。

さて、カフカの短編への鋭い分析であるが、筆者はカフカの原文と訳文を比較している。複数の訳を比較して、その訳文のずれの中から、何かカフカが語ろうとしたことを探り当てようとしている。たとえば、文法の視点から、主語の有無、現在完了の使い方、副詞の選択などをヒントにして、原文の分析を冷静に行っている。あたかも、筆者は大きな虫眼鏡を持ちながら、小動物の動きを観察しているようである。それらの観察から、人間の心理の微妙な動き、社会の隠された側面、権力構造の不当さを暴き立てようとするかのようである。

カフカは肺結核で1920年に40歳ほどで亡くなっている。もし長らえていたとしても、それ以降にヨーロッパを襲った戦乱と迫害を考えれば、ユダヤ系のカフカには悲惨な運命が待ち構えてたかもしれない。

カフカは、肺結核ゆえに常に死を意識せざるを得なかった人生であった。死を紛らわす、あるいは死を超えるためにも、カフカは書くという作業に没頭した。筆者は退職後も、盛んな執筆活動を行っていると述べたが、もしかしたら、筆者は自分に残された時間を意識したうえで執筆活動を加速度化させているのかもしれない。注(p.252)に、筆者の前立腺癌が判明した時のことが記してある。この部分は私も同じ70代であるがゆえに、読んでいくのが怖かった箇所であった。

カフカは吐血をして、そしてそれ以降はカフカの作品は死を意識したものになってゆく。喀血で、彼の安定した世界は崩れてしまう。スペイン風邪にかかったことも病状の悪化に拍車をかけたようだ。「カフカにとっては、日記や手紙、そして小説を書くことが「心身の観察」であり、心を平静に保つ最小の方法だったととらえてよいのだろうと思う。」(p.252)と述べているが、これは筆者自身のことを述べているのかもしれない。筆者がカフカを読んで覚え書きを記すといいう行為自体が、死を意識して執筆に没頭したカフカへの共鳴となっている。

カフカは夢と現実の境界線が曖昧な小説を書いた人である。現実と非現実は画然と分かれているのでなくて実は背中合わせだ(p.69)とある。カフカの作品の多くは、非現実を書いて、そこから現実世界の不合理性を浮かび上がらせている。

私はこのエッセイを読み進むにつれて、これは筆者自身のことか、カフカのことか、カフカの作品の登場人物のことか、混乱することがあった。逆に言えば、それだけ互いに共鳴度が高いのだ、とも言えよう。この本に触発されて、私個人にも似たような経験があったことを思いだした。何年も前の出来事だが、本当に夢だったのか、それとも現実だったのか、と分からなくなったことがあった。ある女性と語りあったことを思い出したのだが、それが現実か単に夢だったのか分からなくなった。

第二章では、「セイレーンたちの沈黙」と婚約者フェリーツェがカフカに対して沈黙していたことが書かれている(p.283)。沈黙を守るフェリーツェに対して膨大な量の書簡を送り続けている。カフカはフェリーツェやもう一人の恋人であったミレナに対して膨大な量の手紙を書いたそうだ。それらの手紙は残っていて、のちに書簡集として公刊されている。恋に落ちた若者が書く手紙であるから、心のままをさらけ出していると思う。冷静になれば、ずいぶんと恥ずかしいと思えることも書いたのだろう。受け取った恋人達はこれらの手紙を処分しなかったようだ。おかげで現代の私たちはカフカの心情を知る貴重なデータを得ることができたのであるが。

こんなにたくさんの手紙を受け取ったならば、恋人は、なかなか返事は書くことはできない。それがカフカには、沈黙と見えたのかもしれない。そして意地になって手紙を書くー返事の来ない手紙を書いているカフカの姿が現れる(p.324)。

なお、p.431 では婚約破棄の理由は、要は書きたいという筆者の願いだったと述べている。肺結核で結婚に対して自信がなくなったことと残りの人生を書くことに当てたいというカフカの決断だったようだ。

p.357では、詩人村上昭夫の 「雁の声」のからの引用がある。
 
私は治らない病気を持っているから
それで
雁の声が聞こえるのだ

不治の病を得た者は、見えてくるものがある、聞こえてくるものがある、ということか。感覚が極度に鋭くなり、健康なときには聞こえなかった音、見えなかった物が見えてくる。著者は、不治の病に冒された者、少数言語話者、迫害された者達など、マイノリティに対しての暖かい眼差しを持っている。それは同時に、権力を持ちおごり高ぶる者たちへの怒りへともつながる。暖かい眼差しと静かなる怒りから、見えてきたもの聞こえてきたものを語っている点が、この本をさらに魅力的にしていると言えよう。

カフカエスクを超えて