応用言語学会(立命館大学茨木キャンパス)に参加した。

応用言語学会(立命館大学茨木キャンパス)に参加した。大学英語教育学会と連携しての学会なのだろうか。英語の表記はJAAL in JACET 2022 というようになっている。

私たちのグループは、ポスターセッションに参加した。タイトルは「大学生の多文化共生意識に関する量的及び質的研究」である。3階の受付の横に各分科会のポスターセッションの掲示物が貼ってあった。一応、11時から12時までは、ポスターセッションの時間であり、何人かの訪問者がいた。実は、この会場で、昔懐かしい人にも何人かにお目に掛かることができた。言語政策研究会のH先生、海外の外国語研究会のN先生、O先生、同志社大学のI先生、これらの方々とは一緒に本を執筆したことがある。10年前に戻ったような懐かしさを感じた。

コロナのために、ながらく、学会はZoomで行うのが常態化していたが、久しぶりの対面形式での集まりとなった。これからはコロナも急速に終焉してほしいのだ。

実は私どもの「多文化共生と英語教育研究」分科会もZoomでは頻繁に会合を繰り返していたが、対面での集まりは数年ぶりであった。昼休みは一同が揃って近くのレストランに行った。学食ではなくて、一般の人も利用できるレストランであった。

あと、驚いたことは立命館大学の茨木キャンパスが立派なことであった。建物はモダーンでいくつかの点で未来のビルディングを想像させるものであった。あと、50年ほど経つと、どこの大学もこの様な雰囲気になるのかなと思った。

ジム・カミンズ/マルセル・ダネシ『カナダの継承語教育』を紹介する。


高垣俊之先生(尾道市立大学、教授)から訳書『カナダの継承語教育』(明石書店)の新装版をご恵贈いただいた。ここに感謝の念を示すと同時に、この本の内容を紹介したい。

この本は、原題は Heritage Languages : The Development and Denial of Canada’s Linguistic Resources であり、執筆はJim Cummins とMarcel Dansei の両教授である。日本語に訳されたのは、中島和子先生(トロント大学、名誉教授)と高垣俊之先生である。この本は2005年に初版が出ており、今回はその新装版である。

この本はカナダの継承語教育の歴史を述べている。タイトルにあるように当初の継承語教育は Development であったが、近年はその後退の傾向が見られるので、Denial という表現を用いたようだ。カナダはマイノリティの言語教育の先進国と思われていたのだが、その国でさえもマイノリティへの言語教育への理解は順調ではない。そのような現状を認識できて私には有益な本であった。

以下、自分が気づいた点を箇条書きにしてゆく。

p.14  継承語(Heritage Language)という表現は、先住民とイヌイットの言語ならびに英仏両語は含まないという点である。私の認識は、先住民の言語も含まれていると思っていたので、この点は意外であった。

p.158 Heritage Language に対して、「継承語」という訳語を当てられたのは、中島和子先生が初めてとのことである。「遺産言語」という訳語も見かけられるが、「遺産」という表現はどうしても過去を引きずるが、子供の人間形成に深くかかわる生きた言語という意味で「継承語」という訳語を採用されたとのこと。なるほどと納得した次第である。

p.72 モノリンガリズムのコストという概念は面白い。ふつうは、バイリンガリズムは一つの言語をプラスして覚えるのであるからコストがかかるというのが一般常識であった。しかし、他国の言語文化を理解できる人がカナダにいることで、計り知れぬ外交的・経済的なメリットが生まれるとのことだ。安全保障の視点からも、コストがかからないのである。

p.77 ここでは、継承語も並行して学習した児童の方が、継承語の学習を減らしていった児童よりも、成績が良いという報告がいくつかある。

p.87  1920年から1960年にかけて、バイリンガリズムこそが子どもの言語上のハンディや認知面の混乱をきたす要因と学者たちが考えていたとのこと。これはその当時の時代背景が見えてくる。マイノリティの言語文化は無駄であり、早く主流の言語文化に染まることが教育の狙いであった。

p.88 に付加的バイリンガリズム(additive bilingualism)との訳語が提示されている。p.108の訳注では、加算的バイリンガリズム(additive bilingualism) との訳語である。この場合は、訳語は統一した方がいいのではと思う。

p.89  言語を二つ学んでおくと、第3番目の言語を学ぶときに役に立つとの指摘は、私の経験からもなるほどと思う。

p.99 第5章は、カナダにおける「ろう」児への言語教育について述べられている。私自身はこの分野は知識がなかったので、非常に興味深く感じた。


以上、私の感想である。カナダは「多文化・多言語主義」ではなくて、言語は英仏だけの2言語に絞った、「多文化・2言語主義」の国であると思っていたが、意外に多言語への動きがあった点が興味深かった。その動きが現代ではやや後退している点は残念である。

なお、この本は白色のハードカバーの本である。ハードカバーにしては、2,400円と手ごろな値段である。

 

『難民支援』(松原好次・内藤裕子共著)を読む。


先日、『難民支援ードイツメディアが伝えたこと』を寄贈いただいた。筆者は松原好次氏(元電気通信大学教授)と内藤裕子氏(ベルリン在住翻訳者)の二人である。

このブログの管理人(河原俊昭)は松原好次氏と何回か一緒に研究をして共著もある。そのご縁で今回、この本を寄贈してもらった。深く感謝したいと思う。

この本は春風社から今年の8月に出版されている。価格は2700円+税である。大きさは208ページ+索引が付いている。本の形式はドイツ語の新聞・雑誌の中から難民問題を扱った記事を取り出して、その記事に語らせる。つまり、著者たちの気づきを新聞・雑誌の記事を通して、それらに語らせるという方法である。

著者たちは読者を強引に一つの方向に誘導するのではなくて、新聞記事などに描かれた客観的事実を紹介することによって、読者たちに自ら考える機会を与えることで、一歩一歩自らの考えを形成することを奨励している、という印象を受けた。

この本はドイツにおける難民への支援を語っている。ドイツは難民支援の優等生であるとよく言われる。ナチスドイツの時代の民族迫害の反省から、できるだけ広く難民を受け入れようとしてきた。この方針は、好調なドイツ経済と労働者不足という現実にも支えられて今まで機能してきたのである。

この本によれば、難民の数が増えてきており、好調なドイツ経済でも支えきれない、と考えるドイツ人が増えてきているようだ。キリスト教民主同盟の党大会で提案されたスローガンに「多文化主義よりもドイツの国益を」(p.139)があったそうだ。

このことは日本の現実とも重なる。日本ではドイツと比べると難民受け入れの数ははるかに少ない。私が数年前に社会人講座で多文化共生社会について講演したときに、「急速な多文化社会は好ましくない。ゆっくりと進めていくべきではないか?」という質問を受けたことを思い出す。

日本では移民の数が2%ほどであるが、それでも、移民受け入れに反対の声を上げる日本人は多い。そのことを考えたら、決して広くはない国土に、日本よりも少ない人口のドイツ人たちが、多数の難民・移民を受けて入れ支援している姿をみると、ドイツ人たちの受け入れへの決意・覚悟は並々ならぬものがあることに気づく。

しかし、これまで移民・難民受け入れに寛容であったドイツをはじめとするEUでも、そして、トランプ大統領の当選に見られるようにアメリカでも反移民主義が台頭している。世界全体が反移民主義に振り子が揺れているようにも感じる。

各界のオピニオンリーダーたちがいろいろと意見を述べている。しかし、結論がなかなか見えない、どこに妥協点をおくべきか、相互の合意点が見えない問題である。

ただ、難しい問題だからと手をこまねいていたり、目を背けるわけにはいかないだろう。ドイツの直面する問題は、明日の日本の問題でもある。ドイツほどの深刻さはまだまだと考える人がいるかもしれない。しかし、グローバリゼーションの進展の速度から考えると、遠い未来のお話ではなくて、日本が今日明日にでも直面するかもしれないのである。

そんなことを考えると、ドイツの中で難民支援にいろいろと携わっている機関や自治体の活動状況、トラウマを抱えた難民への支援、ドイツ語講座の提供、難民カフェなどの実例が紹介されているのはありがたい。日本でもこれらの活動を見習うことはできるだろう。

とにかく、目を大きく見開いて、現実を知ることの必要性を教えてくれる本だ。そして、それに基づいて自分の頭で考えてゆくことの大切さも教えてくれる。

「外国人集住都市の言語問題」を『日本語学』に発表した。

明治書院の『日本語学 2018年8月号』は、「都市とことば」という内容で特集が組まれた。私も声を掛けてもらって、「外国人集住都市の言語問題」というタイトルで執筆した。この論文の副題は「日本語で格差を生み出さないために」である。

論文の概要は、「ニューカマー」と呼ばれる外国人労働者が外国人集住都市を中心に集まっている実態を報告したものである。好むと好まざるとにかかわらず、高齢化社会にむかう日本は、外国人労働者の受入数を増やすことになる。それは、日本社会が多言語・多文化・多民族社会を迎えることである。問題点として言語問題が生じるだろう事である。つまり、日本語を理解できない外国人の存在なのだ。

そのことはやがては、日本語能力の差で格差が生じるのではないか、その格差を生み出さないようにするには、どうしたらいいのか、などを述べている。とにかく、詳しい内容は、この雑誌を購入してもらえればと思う。

日本語学の表紙

2015年に定年退職して、現在は岐阜県の大学で特任教授として働いている。定年退職したことで、自分自身の中でこれまで研究したことに一区切りが付いたかなという気持であったが、この度、執筆に声を掛けていただき出版社には感謝している。このテーマは自分がこれからも追求していくつもりであり、成果はこのブログで発表していこうと考えている。

『マイ・フエア・レディー』を観る。

ケーブルテレビで『マイ・フエア・レディー』を観た。面白かった。まだ、階級意識が強く存在するイギリスのロンドンの町での話だ。花を売って生計をたてていたイライザ(オードリー・ヘップバーン)をヘンリー・ヒギンズ教授は発音の教育をしてレディーに仕立てるという話だ。これは有名な話なので、内容には特に言及する必要はないだろう。ここでは映画を観て、自分が考えてことをいくつか箇条書きにして述べてみたい。

(1)学生に見せる教材として面白いと考えた。英語の発音によって階級がはっきりと分かれていること、ロンドンの下町のコクニー発音でも細かく分かれていて、ヒギンズ教授は人の発音を聞いて、どこの地域生まれを即座に言い当てることができる知識を持っていること、などを学生に知ってもらうと有意義だと思う。

(2)proper  English を話すことが階級社会を登ることに必要である。これは全世界的にも成立することになってしまった。日本人なまりの日本式英語を話していると、グローバル社会の中では負け犬になってしまう。日本人でもアメリカ英語が話せるならば、若い頃にアメリカに留学して(それだけの資力のある家庭に育ったことの証明になる)、学術を修めたことを意味している。留学できるだけの知力があるならば、頭脳も優れていることを意味する。という風に一般には信じられている(この英語を観るとそんなメッセージを受け取ってしまうかもしれない)。

(3)英語の世界のヒエラルキーを考えるならば、マイフェアレディーが舞台となった19世紀末のイギリスでは、同時に世界的にも、いわゆるイギリス英語(Received Pronunciation)が世界の頂点に君臨していたが、これが今ではアメリカ英語へと移動してしまった。この頃は、カリフォルニアあたりの英語か、ニューヨークの英語が一番権威ある英語となってしまった。そんな話を学生にすれば、英語の世界の威厳あるモデルが、実は変わるものであることを、学生に教えるいい材料になるだろう。

(4)イライザは/h/の音を出すのに苦労していた。コクニーは/h/の音を使わない。それゆえに、ヘンリー・ヒギンズ教授を「インリー・イギンズ」と発音していた。世界的にも/h/を出さない例はよく見られる。フランス語などはその典型だ。

(5)イライザは、/eɪ/と代わりに/aɪ/を発音してしまう。矯正するために、 The rain in Spain stays mainly in the plain. という文をイライザは繰り返して発音して、/eɪ/の音声に慣れてゆく。The rain in Spain stays mainly in the plain. という文は自分のクラスでも学生に発音させたが、その時に、映画『マイ・フエア・レディー』やイライザが発音矯正のためにこの文を何度も繰り返したという話しをすれば学生は興味を引いただろうと思った。

(6)原作者のバーナードショーは、階級差をなくすために、全員がRPを学んで話すようにすべきとの考えであったようだ。だが、コクニーを自己を表現する大切な資産であるという発想はなかったようだ。この英語は明らかに、「社会方言=悪」というメッセージを学生に伝えてしまう。さらには、「World Englishes =悪」というメッセージにまでつながってしまう。この映画は面白くて学生に音声に関する興味を高めさせる点では有益だが、伝えるメッセージをそのまま受け取らないように学生には警告を発しておく必要があるようだ。

『英語教育徹底リフレッシュ』が刊行された。

今尾康裕・岡田悠佑・小口一郎・早瀬尚子の4氏が編集をされた『英語教育徹底リフレッシュ: グローバル化と21世紀型の教育』が開拓社から刊行された。大阪大学大学院言語文化研究科は、毎年の夏に公開講座として、「教員のための英語リフレッシュ」を開催している。

その公開講座の講師の方々がこの本の執筆の中心である。私は部外者としての立場からであるが、数回、この公開講座の講師を担当した。その縁で、この『英語教育徹底リフレッシュ』の執筆者の一員として、「言語政策 ー国際比較の観点からー」という小論を寄稿することになった。

その小論は言語政策の国際比較を行っている。骨組みとして、言語政策に関して、東南アジアやヨーロッパという地理的な視点と、植民地時代・独立後の時代・現代という歴史的な視点の両方から言語政策を論じて、現代の日本の言語政策に何らかの提言をしている。

現代はあまりに動きが早すぎる。英語の普及、グローバル化の進展、インターネットや携帯・スマホの普及など、昔は100年かけて時代が動いたことは、今は1年ぐらいで様変わりしてしまう。正直な話、自分は目が回りそうだ。言語政策に関する論文を書く場合でも、できるだけ普遍的な点を中心に述べて、数年で様変わりしそうな部分は避けたいとも考えたが、現代のホットな部分を無視するわけにもいかない。

自分の小論は12ページほどの文字通り小論だが、そんな点を苦労した。あらためて、他の執筆者の方々の論文を読んでみると、普遍的な点は押さえながら現代のホットな事象にも触れているという点で、同じ方向を目指していると思う。できるだけこの本が広く受け入れられることを願う次第である。

 

多文化社会専門職機構が設立された。

3月13日に、N先生と京都駅構内の喫茶店で会った。N先生とは1年ぶりぐらいで、本当に久しぶりであった。私は前任校を定年退職してからセミリタイアのような状態だが、N先生は、バリバリの現役で活躍されている。

N先生は現在、多文化社会専門職機構なる組織を立ち上げている。去る2月26日に、明治学院大学において、第一回多文化社会実践研究フォーラムが開催されたとの話をうかがった。

学会を立ち上げるのではなくて、機構を立ち上げるとのこと。このあたり、学会というアカデミックな分野に限定されないで、より実践的・行動的な組織として動こうとする意図があるのだと推察する。

ゆくゆくは多文化社会に関する専門職を認定していこうとの考えのようであるが、これは非常に革新的なことである。多文化社会に生じるさまざまな問題に対応することができる専門職を育てていこうという考えは非常に新鮮に思えた。この機構のさらなる発展を祈念する次第である。

なお、全国47都道府県の言語サービスを網羅した研究を行ってみたいとの話になった。N先生は今年、ある財団に応募して研究費を獲得したいと意欲的であった。もしも、この応募が採択されれば、各地の言語サービスの実態を実地調査するわけであり、その資金が確保されたことになる。調査研究が全国的に実施されて、全体をまとまれば非常に有意義な調査になる。応募が認められますようにと願う次第である。


さて、翌日の3月14日は、京都駅近くのキャンパスプラザ京都で、「言語サービス」に関する科研の研究者の集まりがあった。私は連携研究者としての資格で参加させてもらっている。当日は、私は岐阜県の美濃加茂市の外国人の子ども達の教育環境について発表した。日系ブラジル人達の置かれている教育環境について、市役所を訪問してお聞きしたことを主にまとめたのである。美濃加茂市はこれからも何回も訪問して、調査を深めてゆきたい。

なお、その後、科研の研究のテーマとして、Easy English について考えてみたらという話になった。日本にいる外国人の方々が災害などの非常時には「やさしい日本語」を使うことが現在は提唱されている。

その考えを延長して、日本語の最低限の知識もない外国人を支援するために、Easy English とい概念が使えるのではという問題意識の提唱である。これまた、面白い考えであり、今後の数年間をかけて深化できればと思う。