新伝さんから額縁入りの書画を送ってもらった。


親戚の新伝さんに、キンモクセイに囲まれ中央にKnow yourself.と書かれた書画を送ってもらいたいとお願いをしていたら、本日の午後、額縁入りの書画が届いた。研究室のどこかに飾ろうと思った。最初は入り口の扉の前と思ってみたが、学生の出入りが激しいので額縁を傷つけてしまう恐れがあるようにとも思った。いろいろと置いてみたが、とりあえず、本棚の上に飾ってみることにした。机の上のパソコンの後ろもいいかなともおもった。とにかく、いろいろと試行錯誤して最終的にはどこに置くか決めたいと思った。

新伝さんには、わざわざ額縁に入れた書画を送っていただき大変感謝している。柔らかい毛筆の文字と温かいキンモクセイの画像は、癒やしになる。採点などで疲れたら、この書画を眺めて、心を落ち着かせたいと思う。

研究室のドアの横に掲げてみる。
本棚の上に置いてみる。

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研究科での学位論文の最終試験があった。


研究科での学位論文の発表会(=最終試験)があった。これは学生たちが修士論文の概要をプレゼンして、その内容について質疑応答を受けるものである。質疑応答を無事に乗り越えれば、合格となり、修士号の授与へとつながる。

この日は、参加者の相当数がオンラインでの参加であり、また机の間隔をあけての発表会であった。そのために、例年よりは、会場での人数は少ないようであった。

この日の発表のうち、自分史のデータベース化について発表されたI氏の題目について紹介したいと思う。

学位論文の発表

I氏は、現代は家族の歴史が消えかけていると述べる。核家族化が進み、子供が家を継がなくなった。親が亡くなると家が解体されて、写真、手紙、仏壇や墓までもなくなる。家族史を書こうとしてもその手掛かりがなくなっている。そんな時代だからこそ、オーラルヒストリーで自分史を語り、DVD化して、記録に残すことが必要であると語られた。

昭和34年(1959年)の伊勢湾台風の時に、警察官であったTさんからいろいろと聞き取りをして、それをビデオ化して残そうとするI氏の試みは興味深い。これは、5,000年ほどの死者・行方不明者をだした大災害であった。

私自身も、2,3年前にバス停で老人と「伊勢湾台風」について話したことがあった。その日は風が強い日で台風が来そうだとニュースで述べていた。その老人は昭和34年の伊勢湾台風はすごかった、と述べた。岐阜県のこのあたりでも川が氾濫して大変であったと述べた。いろいろと話をしてくれたが、大きな災害を経験した古老たちの話はオーラルヒストリーとして記録に残しておくべきと感じた。

I氏が指摘されたのは、個人のオーラルヒストリーを歴史博物館や寺などに集めておくことで、地域文化の伝承に役立つ、知の拠点形成に役立つという点であった。

私自身も祖父母と父母のヒストリーは残しておきたい。写真などもあるので、なんとかわが家の歴史としてまとめたい気もする。しかし、息子たちは関心を持たないだろうな、と感じる。だが、老後の私自身の趣味の一つに個人史、家族史を書くことは面白そうだとも感じる。

コロナウイルスは語学教育を変えるのか?

コロナウイルスの感染が拡大していて、教育機関はどこも対策に大わらわだ。語学教育というのは本質上どうしても向い合って授業をする必要がある。とりわけ最近ではコミュニケーション重視の教育が叫ばれており、対話型の授業が基本である。教員と学生、学生同士と互いに言葉を交わしあう。しかし、それが不可能となってしまった。

対面授業の代替として、オンライン授業が推奨されている。私も慣れないながら今 ZOOM というアプリを使った授業を試みている。もしも、コロナ感染が相当長引いて対面授業への復帰が難しいようならば、世界の言語教育がかなり変化するかもしれない。

外国語とは パソコン、iPad, iPhone などの画面を見ながら音声を聞いて学習するものである、と人々の意識改革が始まるかもしれない。いまに、対話も上手にこなすAIが誕生するであろう。iPhone についているSiri というソフトはその嚆矢であろう。

すぐに、エアコン、明かりなどは音声でスイッチの切り替えができるようになる。自宅にいて、すべての家電品に音声で命令する。そして、電子レンジや洗濯が終了したと音声で伝えてくれる。その音声システムを日本語から外国語に切り替えれば、自宅の中では外国語に囲まれる。いやおうなしに外国語の能力はあがるであろう。

そんな時代には、我々のような語学教師の存在価値はなんであろうかと考えてしまう。ロボットがはるか効率よく語学教師の役割をしてくれるのでは?  100年後は人間の語学教師など、存在しているのかな?

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英語教育総合学会(6月9日)を聴く。


6月9日に英語教育総合学会が発表があった。最近は自分は小学校英語に関して関心があるので、小学校英語に関した発表を聴いてみたかったので参加した。これは自分の指導しているゼミ生が二人ほど、小学校英語に関する論文を執筆しているので、自分がその指導に当たらなければならないという理由もある。

発表の場所は、関西学院大学の大阪梅田キャンパス(ハブスクエア大阪10F)であった。自分は何回も訪問しているのだが、この日は場所が分からなくなって、かなりの時間うろうろして、貴重な時間を無駄にしてしまった。大阪周辺は本当に迷子になりやすい。

細江美佳先生(鳴門教育大学)は「これからの小・中接続した文字指導の在り方ーバランスト・アプローチによる系統性のある読み書き指導を」という内容で発表をされていた。自分が関心を持った点はアルファベットの教え方である。細江先生は大文字を教えてから小文字を教えるべきとの考えだ。「大昔700年から800年かけて大文字がいまの小文字になってきたのですよ」と小学生に語って、その具体的な変化の様子を教える。ビデオを活用して、たとえば、D が早く書くようにしてゆくと、しだいにdの形に収斂されてゆくことを実際に教えていた。(このブログでは、そのあたり視覚化して説明できないが、その点はご容赦ねがいたい)。B →b ならば、上の部分が取り除かれて b になってゆく。Aも一筆書きで早く書いていこうとすると a になる。歴史的な経緯を説明しながら、アルファベットを教えるのは面白い方法だと思った。

私のゼミ生の一人は、a/b   p/q   などの鏡文字をどうやって効果的に教えたらいいのか論文化している最中だが、細江先生のハンドアウトを渡して参考にしてもらえればと思う。

池田周先生(愛知県立大学)の「小学校外国語科における文字と音の扱いーどのようにして、そして、どこまで」も興味深い発表であった。音韻認識のレベルを、脚韻、音節、オンセットライム、音素と次第に深化していくと述べていた。この場合は音素というのは子音だけのレベルでもある。自分では理解し切れない面もあったが、要は小学生がどの程度音韻認識をするかを理解した上で、文字と音の指導を行うべきとの趣旨だ。

池田先生の話の本筋からそれるのであるが、池田先生はアルファベットは小文字から教えたらいいというようなことを話されていた。私の勘違いかもしれないが、その根拠として、国語の時間に教えるローマ字との関連性をその根拠にしていたようだ。

 

このあたり、実はゼミ生が、アルファベットは大文字からか、小文字からか、両方を同時に教えるべきか、またローマ字指導との関連性はどうなるのか、内閣式とヘボン式の関連は、等と悩んでいたので、この点は自分のゼミ生とも討議してみたいと思っている。

なお、別途資料として、成田一先生の対談記事「脳科学からみる早期英語教育」というプリントがあって拝読した。成田先生の強みは脳科学に関する知識が豊富な点である。B4裏表一枚ほどで簡単に読める内容であるが、示唆に富んでいた。この内容を詳しくしたものとして、成田先生は『日本人に相応しい英語教育』(松拍社)という本を出版している。かなり文科省の方針にはかみついているので、痛快な点もある。小学校の英語教育に携わる人は、この様な見方もあるという点で勉強になるだろう。

言語保障

2016-09-12

言語保障という言葉がある。言語に関して人間が本来的に持っている権利を保障することと言ってもいいか。

言語に関する権利と言ったらどうなるか。日系ブラジル人の子どもが親と一緒に日本にやってきた。彼は何を考えるのか、そしてそれはどのように守られるべきなのか。また親たちも言語には不自由を感じている。それはどうすべきか。

(1)母語保持教育:日本社会の中にいれば当然母語は次第に忘れていく。子どもがある程度の年齢になって、故国の文化伝統が大切であることに気づいても遅すぎる場合がある。母語の言語文化に常に触れさせておく必要がある。

(2)就学の機会:現在の日本では外国籍の子どもの教育は義務教育ではない。行政は、外国人の子どもの保護者が通学を希望する時のみ受け入れるという方針である。西洋では、「不就学」という事実自体があまり見られない。それは、義務教育という基礎的な教育を受けることは人間の基本的な権利であり、国籍とは無関係と考えられているからである。

そこで問題になるのは、外国人学校に行くのか、日本の学校に通学するのかの選択が出てくる。言語保障とは、この場合のどちらでも選択した道が可能になるように努めることであろう。

(3)成人の場合:成人は働き手であり、工場などの労働者として勤務することが多い。工場などで、ある程度の日本語学習の機会を与えることが望ましい(研修生ならば日本語の学習が義務付けられている)。それが不可能ならば、地方自治体が成人向けの日本人学校を廉価で提供することが望ましい。

(4)成人が日本で生活していく時に感じる様々な言語バリアーがある。ゴミ出しの方法が分からない。病院へのかかり方が分からない。年金制度や介護保険が分からない。この「分からない」は日本語の理解不足に由来する。この場合は理解が十分であるように、日本人の側から(ここでは地方自治体)が言語サービスが提供されるべきである。


考えられる言語保障とはそのようなことか。言語話者を集団で考えて、少数民族の言語が圧迫をうけているとして、その民族の言語を保障することが一般的な言語保障と考えるが、個人での立場から考えることも重要である。

中高一貫校のメリット

2016-08-22

世界のほとんどの国で、教育は初等教育(Primary Education)、中等教育(Secondary Education)、高等教育(Tertiary Education)に分かれてる。ただ、その開始時期は、数年は異なることが多い。日本では、6歳から小学校へ、12歳からは中学校へ、18歳からは大学へ行くのが通例になっている。

中等学校は前期と後期に分かれていて、前期中等学校(Lower Secondary School)と後期中等学校(Upper Secondary School)に分けられていて、日本での名称は前者は「中学校」、後者は「高等学校」である。

中等学校を分割しないで一貫教育を行うことが近年始まっている。もともとは、私立学校では、中学から高校へのスムーズな移行をめざして中高一貫校は行われていたが、1998年(平成10年)6月の学校教育法改正により中等教育学校が新設され、公立の中高一貫校が生まれている。

メリットは何か?6年間一貫教育が可能であるため、前期課程・後期課程間で学習指導要領に指定されている内容の一部入れ替えや先取りが行われることであろう。これは教育課程の特例として認められているのだ。これに基づき教育内容の整理・精選が可能となるのだが、往々にして、大学入試を意識して教科の編成を行うことがより柔軟にできるようになることを意味する。

何か、ある目的を設定して、特異な理科教育を提供して生徒の才能を伸ばすという風にまとまればいいのだが、単に大学入試を目指す予備校という位置づけならば、これは問題である。