Know yourself の書画を新伝さんから送ってもらう。


先般、親戚の新伝さんから私の希望に応えて書画を書いてもらえるとのメールがあった。そこで、「花はキンモクセイ、文字はKnow yourself」とお願いしていた。昨日に、作品が届いたので皆様にご披露したい。

Know yourself

花はキンモクセイである。先ほど学校内を散歩していたら、事務局の前の建物にキンモクセイが満開であった。キンモクセイは特に匂いが素敵である。この時期は雨が多いので、雨に打たれてすぐに散ってしまうのが惜しい。

自分の好みの花だが、キンモクセイの他にも、秋はコスモス、春はアジサイ、ツツジなどが好きである。花ではないが、ススキなども奥ゆかしくて好きだ。よく、ススキとセイタカアワダチソウが空き地で陣取り合戦をしている姿を見かけるが、ススキ頑張れと声援を送っている。

さて、中央の文字、Know yourself. だが、「汝自身を知れ」という意味だ。これは、デルポイのアポロン神殿の入口に刻まれた古代ギリシアの格言が由来のようだ。ギリシア語では、 γνῶθι σεαυτόν ( グノーティ・セアウトン )である。したの画像を参照して欲しい。これは、ソクラテスが自分の哲学のよりどころにした言葉だ。ソクラテスは、「自分は何も知らないことを知る」ことが真理への第一歩と説いたのだが、いずれにせよ奥深い言葉である。

下にWikipediaから、ギリシア語の文字を掲げておく。Wikipediaで「汝自身を知れ」の意味を探るとたくさんの意味が出てくるので驚く。それほどこの言葉は、多様に解釈されて、多くの人々の生き方に影響を与えたものと思う。

know yourself (Greek)
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研究科での学位論文の最終試験があった。


研究科での学位論文の発表会(=最終試験)があった。これは学生たちが修士論文の概要をプレゼンして、その内容について質疑応答を受けるものである。質疑応答を無事に乗り越えれば、合格となり、修士号の授与へとつながる。

この日は、参加者の相当数がオンラインでの参加であり、また机の間隔をあけての発表会であった。そのために、例年よりは、会場での人数は少ないようであった。

この日の発表のうち、自分史のデータベース化について発表されたI氏の題目について紹介したいと思う。

学位論文の発表

I氏は、現代は家族の歴史が消えかけていると述べる。核家族化が進み、子供が家を継がなくなった。親が亡くなると家が解体されて、写真、手紙、仏壇や墓までもなくなる。家族史を書こうとしてもその手掛かりがなくなっている。そんな時代だからこそ、オーラルヒストリーで自分史を語り、DVD化して、記録に残すことが必要であると語られた。

昭和34年(1959年)の伊勢湾台風の時に、警察官であったTさんからいろいろと聞き取りをして、それをビデオ化して残そうとするI氏の試みは興味深い。これは、5,000年ほどの死者・行方不明者をだした大災害であった。

私自身も、2,3年前にバス停で老人と「伊勢湾台風」について話したことがあった。その日は風が強い日で台風が来そうだとニュースで述べていた。その老人は昭和34年の伊勢湾台風はすごかった、と述べた。岐阜県のこのあたりでも川が氾濫して大変であったと述べた。いろいろと話をしてくれたが、大きな災害を経験した古老たちの話はオーラルヒストリーとして記録に残しておくべきと感じた。

I氏が指摘されたのは、個人のオーラルヒストリーを歴史博物館や寺などに集めておくことで、地域文化の伝承に役立つ、知の拠点形成に役立つという点であった。

私自身も祖父母と父母のヒストリーは残しておきたい。写真などもあるので、なんとかわが家の歴史としてまとめたい気もする。しかし、息子たちは関心を持たないだろうな、と感じる。だが、老後の私自身の趣味の一つに個人史、家族史を書くことは面白そうだとも感じる。

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日本人はなぜ「頼む」のか、を恵贈してもらった。

私の畏友白川辺達夫東洋大学教授から、ちくま新書『日本人はなぜ「頼む」のかー結びたいの日本史』を恵贈してもらった。

日本社会とその歴史をいろいろな本が独自の視点から分析している。たとえば、土井健郎『甘えの構造』、中根千枝『タテ社会の人間関係』、丸山真男『日本の思想』がある。それらは独自の分析点を持ってきて、読者をなるほどと言わせる力量がある。

この本も「頼む」という視点から、日本史の様々なことを説明してくれている。「頼む」をキーワードをして見てみると、日本人の社会的な結合や、依存関係がはっきりと見えてくる。私自身は歴史の専門家ではないが、そんな自分が読んでみても、新しい見方、着眼点があったので、有益であった。文章も平易で楽々読める本である。

6月15日は学生を引率してフィールドワークを行った。


6月15日(土曜日)はフィールドワークの日であった。岐阜公園の織田信長の銅像の所に9時半に集まって出席をとり、そこからフィールドワークを行った。この日は数日前の天気予報では、雨の予報がされていたが、幸いにも晴れたのである。正確には曇り空であったので、暑くなくて、フィールドワークには絶好の日となった。

この日のフィールドワークの課題は、岐阜公園を中心にして歩き回り、岐阜の観光促進にはどのようにすればいいのか考えることであった。例えば、宣伝を増やすとか、この道は広げた方がいいとか、ここには駐車場が必要とか、とにかく、地元の観光産業発展のための知恵を出すことであった。

さて、出席を確認して、全員そろったところで記念写真を撮った。

全員の集合写真

写真の背後にあるのは、若き日の織田信長の銅像である。弓をまさに射るところである。天下統一の野望がようやく達せられようとしたときに、明智光秀の手によってその野望は潰え去った。そのような歴史を背景にしている岐阜には、まだまだ知られていない歴史がたくさんあるのだ。

歴史を観光に結びつけて生かすのが、この岐阜市の発展するカギである。正直言って、京都や奈良と比べると岐阜の観光資源は地味である。が、創意工夫によって岐阜市が注目を浴びることがあり得る。1973年のNHKの大河ドラマ『国盗り物語』では、斎藤道三、織田信長などが登場して、この美濃の地を有名にしてくれたが、再度なにか似たような企画がほしいところである。

私自身はそんなことを考えているが、若い学生達は何か他のアイデアを考えてくれるか。岐阜市を舞台にしたアニメがあって、その聖地巡礼があれば、若い世代にはアピールするのではと考えたりする。

私は、この日は、岐阜大仏とか伊奈波神社を訪問する。岐阜大仏は、鎌倉の大仏、東大寺の大仏と並んで日本三大大仏といわれているが、やはりここは地味である。もう少しプラスアルファがほしいところである。

岐阜大仏を見る。
伊奈波神社

『パイドロス』を読み始める。

2016-02-21

昨日、本屋さんで岩波文庫で『パイドロス』(藤沢令夫訳)を見つけたので購入した。朝から読んでいる。この本は大学生のころ読んだことがある。大学の2年生の頃か、プラトンの対話編を5,6冊ほど続けざまに読んだのだ。これら対話編は特に、面白いという印象は受けなかった。その中でもこの『パイドロス』は比較的わかりやすいかなと思った、だが、感動して心が震えたという程ではない。

しかし、この年になって、若い頃と比べて人生経験が豊かになっているので、もしかしたら『パイドロス』が面白いと思うかもしれないという期待で読み始める。

読み方としては、注は全部読みながら、注でも分からないところは、googleで確認して、ゆっくりと読んで行くことにする。疑問に思った点や面白かった点を一つ一つ紹介していきたい。

(1)冒頭の部分に、「紀元前5世紀の終わり近く、真夏のある晴れわたった日の日盛り」とある。古代ギリシアの時代の年号の数え方は西暦を使うわけがないので、どうしたのかと思う。グーグルで調べるとその頃はオリンピア紀元を用いたとある。

古代ギリシアでとられた紀年法。第1回オリンピックが開かれた西暦紀元前776年7月8日を起点に4年の周期をもって循環する数え方で、この周期をオリンピア期とよび、具体的にはオリンピア期何回の何年目、たとえば紀元前310年はオリンピア紀117回第3年と数え、Ol.177,3のように記す。[渡辺敏夫]

すると、この紀元前5世紀の終わり近く、という文章は後世の書き直しであることが分かる。紀元前5世紀の終わり頃として、たとえば、紀元前の410年の話だとすると、この箇所は776年マイナス410である366を4で割ると91で余りが2であるので、オリンピア紀366回第2年と数えるべきか。

とにかく、かなり昔のことである。日本でいえば古墳時代で倭の五王がいた時代だ。そんな時代に語られたソクラテスとパイドロスの対話が現代まで残っているのは興味深いことだ。

(2)リュシアスという当時有名な物書きが話したことをパイドロスが何回も聞いて暗誦できるほどなので、「是非ともその話を聞きたい」とソクラテスがうるさく願うのである。

こんな風にソクラテスは人々に話しかけて人の話を聴くことが好きであった。自由に語らせて、そしてその話の矛盾を突いて、真理に導くのであるが、現代のように論戦という激しいものではなくて、穏やかな、やんわりと相手の理論の矛盾を指摘して、相手に自然と分からせるという形式の対話であった。(この数ページ読んだ印象から自分は判断する)

(3)ソクラテスはいつも裸足であるいていた。p.186に「彼はいつも、体操場の片隅や市場などで、青年たちを主な相手に、人々の疑惑や嘲笑を浴びながら、役にも立たない無駄話と人々が読んだような談論を交換していた」とある。

想像するに、みすぼらしい格好で、裸足で、人々に何かを語りかけては、一人で肯いたり首をかしげたりする、変な年寄りという評判を得ていたのであろう。

私の村にも一人そんな人がいた。頭はいいのだが、変わった人で、よく人の家に来てはくどくどと話をしていく。人々からは「うざい」と思われながらも、平気な人がいた。あの人はソクラテスみたいな人だったのだと思う。

photo credit: Socrates via photopin (license)
photo credit: Socrates via photopin (license)

老ノ坂峠を越える

2015-10-05

このところ寒くなってきた。家の中では半袖と半ズボンで大丈夫だが、家の外に出る時は半袖では寒い。通勤も長袖を着用するようになった。

さて、昨日は亀岡のアルプラザでショッピングをした。亀岡に行くためには、傾斜の急な山陰道を登り老ノ坂峠を越えていく。現代は車であっという間にこの坂を越えてしまうが、昔はこの坂を越えるのはかなりの難技であったと思う。

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この道の両側は巨木が多くて昼でも薄暗い。人が住むのは日が当たらないので難しい。昔から通行の難所であり、京都を守るには最適の場所であった。この山陰道には幾つかの歴史的な出来事がある。一つは亀岡城にあづけられていた豊臣秀次の家族たちがこの道を通って三条河原に運ばれて処刑された事件である。この話は2015年2月21日に「瑞泉寺を訪問する」という記事で触れてある。

もう一つは、亀岡の城主だった明智光秀がこの道を通って本能寺の明智光秀の襲撃に向かったことだ。明智光秀はどの時点で謀反を決意したのか。はじめは羽柴秀吉の救援に向かおうと兵を動かしたが、途中で謀反を決めたのか、それとも最初から心は定まっていたのか。

信長を襲う光秀の侍たち
信長を襲う光秀の侍たち

この暗い山陰道を進む光秀の気持ちは如何?さらに、その配下の武将たちの気持ちは如何?と430年前の出来事を想像する。大変な決断だったろうと思う。山崎の合戦に光秀がもしも羽柴秀吉に対して勝っていたならば、歴史はどうなったか。いずれにせよ、負けたことで歴史書では彼は冷酷で残虐な人物として描かれることになった。勝てば官軍、負ければ賊軍である。

京都には歴史がいろいろ詰まっている。歴史を知らなければ単に陰気臭い山道が、歴史の光をあてることで、生き生きとしてきて、人の想像力を刺戟する風景になる。

さて、最近は山陰道に並行して京都縦貫道が完成した。車の動きはそちらが主流になっていく。この山陰道も次第に忘れ去られていくのであろうか。

逢坂の関

2015-04-19

昨日は滋賀県へドライブした。草津のイオン(イオンモール草津が正式の名称)へ向かう。草津のイオンは数か月前に訪れた時は2階や3階は改装中の店が多くて、閉店かと思うほどテナント店が抜けていた。どうなるのかと心配したが、3月20日からのリニューアルオープンの準備のためであった。今日久しぶりに訪れた。

確かに店の中は変化していた。買い物客の数はかなり多い。休憩しようとしてカフェをさがす。一階の Honolulu Coffee の前にはかなりの人が並んでいる。自分も入りたかったが、並んで立っているだけで疲れそうなので、別の店に入る。とにかく新規開店のショップには人々は好奇心からか、客足が絶えない。

さて、3時間ほど滞在して買い物を済ませて草津イオンを出る。この琵琶湖周辺のあたりは景色が素晴らしい。京都に住むよりも、大津に住む方がはるかに居心地がいい。さらに美しい自然も堪能できると思う。とくに琵琶湖の周辺は散歩道も整備されていて最高と思う。一時期はこのあたりで家を買おうかと真剣に物色したこともあったが、自分の年齢でのローンは難しいことが分かって諦めた。

京都への帰り道は国道1号を通って山を越える。この辺りはかなりさびれていて、太陽もささず陰気臭いところである。ところどころに家があるが、かなり古くて、老夫婦がいなくなったら廃墟となるのではと予想される家ばかりである。このあたりは、逢坂の関(山城国と近江国の国境)があった場所である。毎回、このあたりをドライブするたびに逢坂の関とはどこかなと思っていた。写真を下に示す。地名が逢坂一丁目となっている。

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本当の逢坂の関はこの画像の場所からさらに数キロ先であり、大津側から見て坂道を下ったところにあったようだ(現在はその正確な場所は分からない)。この国道1号線沿いの逢坂山検問所脇には「逢坂山関址」という碑が建てられているのだが、この日は残念ながら、そこには立ち寄らずに京都に帰った。

逢坂の関は百人一首に読まれている。
これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関 蝉丸(第10番)
夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ 清少納言(第62番)

ネットで調べると、蝉丸という人は逢坂山に住んでいて和歌の作り手であったとある。また彼を祀った神社、関蝉丸神社(せきせみまるじんじゃ)が近くにあるとのこと。是非ともいつか訪問してみたい。第62番、清少納言の歌は藤原行成との間で交わされた歌であるという。清少納言を訪れた藤原行成が早めに帰ったのを非難した歌とあるが、この歌が二人の間の本当の出来事を示唆しているのか、それとも宴会などでの戯れ歌であるのか、このあたりは後日調べてみたい。枕草子の「関は」の段には「逢坂、須磨の関、鈴鹿の関」と記されていて、清少納言はこの関をかなり意識していたようだ。

また、関寺というものがあり、その近くに晩年の小野小町が住んでいたそうだ。その関寺は今はなくて、長谷寺がその跡地に建っていると聞く。逢坂の関記念公園というのが最近できたことも知った。

いろいろと故事を調べると、陰気臭くてつまらぬ山道と思っていた箇所に、いろいろな歴史が残っていることが分かる。現在はこの関を、車ならば国道1号線で、電車ならば京阪電車で簡単に通り抜けることができる。昔はこの山越えは大変だったろうと思う。しかし当時の人々はゆっくりと歩きながら、この関にまつわる故事を互いに語り合いながら越えていったとしたら、それもロマンティックな話だと思う。