『パイドロス』を読み始める。

2016-02-21

昨日、本屋さんで岩波文庫で『パイドロス』(藤沢令夫訳)を見つけたので購入した。朝から読んでいる。この本は大学生のころ読んだことがある。大学の2年生の頃か、プラトンの対話編を5,6冊ほど続けざまに読んだのだ。これら対話編は特に、面白いという印象は受けなかった。その中でもこの『パイドロス』は比較的わかりやすいかなと思った、だが、感動して心が震えたという程ではない。

しかし、この年になって、若い頃と比べて人生経験が豊かになっているので、もしかしたら『パイドロス』が面白いと思うかもしれないという期待で読み始める。

読み方としては、注は全部読みながら、注でも分からないところは、googleで確認して、ゆっくりと読んで行くことにする。疑問に思った点や面白かった点を一つ一つ紹介していきたい。

(1)冒頭の部分に、「紀元前5世紀の終わり近く、真夏のある晴れわたった日の日盛り」とある。古代ギリシアの時代の年号の数え方は西暦を使うわけがないので、どうしたのかと思う。グーグルで調べるとその頃はオリンピア紀元を用いたとある。

古代ギリシアでとられた紀年法。第1回オリンピックが開かれた西暦紀元前776年7月8日を起点に4年の周期をもって循環する数え方で、この周期をオリンピア期とよび、具体的にはオリンピア期何回の何年目、たとえば紀元前310年はオリンピア紀117回第3年と数え、Ol.177,3のように記す。[渡辺敏夫]

すると、この紀元前5世紀の終わり近く、という文章は後世の書き直しであることが分かる。紀元前5世紀の終わり頃として、たとえば、紀元前の410年の話だとすると、この箇所は776年マイナス410である366を4で割ると91で余りが2であるので、オリンピア紀366回第2年と数えるべきか。

とにかく、かなり昔のことである。日本でいえば古墳時代で倭の五王がいた時代だ。そんな時代に語られたソクラテスとパイドロスの対話が現代まで残っているのは興味深いことだ。

(2)リュシアスという当時有名な物書きが話したことをパイドロスが何回も聞いて暗誦できるほどなので、「是非ともその話を聞きたい」とソクラテスがうるさく願うのである。

こんな風にソクラテスは人々に話しかけて人の話を聴くことが好きであった。自由に語らせて、そしてその話の矛盾を突いて、真理に導くのであるが、現代のように論戦という激しいものではなくて、穏やかな、やんわりと相手の理論の矛盾を指摘して、相手に自然と分からせるという形式の対話であった。(この数ページ読んだ印象から自分は判断する)

(3)ソクラテスはいつも裸足であるいていた。p.186に「彼はいつも、体操場の片隅や市場などで、青年たちを主な相手に、人々の疑惑や嘲笑を浴びながら、役にも立たない無駄話と人々が読んだような談論を交換していた」とある。

想像するに、みすぼらしい格好で、裸足で、人々に何かを語りかけては、一人で肯いたり首をかしげたりする、変な年寄りという評判を得ていたのであろう。

私の村にも一人そんな人がいた。頭はいいのだが、変わった人で、よく人の家に来てはくどくどと話をしていく。人々からは「うざい」と思われながらも、平気な人がいた。あの人はソクラテスみたいな人だったのだと思う。

photo credit: Socrates via photopin (license)
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老ノ坂峠を越える

2015-10-05

このところ寒くなってきた。家の中では半袖と半ズボンで大丈夫だが、家の外に出る時は半袖では寒い。通勤も長袖を着用するようになった。

さて、昨日は亀岡のアルプラザでショッピングをした。亀岡に行くためには、傾斜の急な山陰道を登り老ノ坂峠を越えていく。現代は車であっという間にこの坂を越えてしまうが、昔はこの坂を越えるのはかなりの難技であったと思う。

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この道の両側は巨木が多くて昼でも薄暗い。人が住むのは日が当たらないので難しい。昔から通行の難所であり、京都を守るには最適の場所であった。この山陰道には幾つかの歴史的な出来事がある。一つは亀岡城にあづけられていた豊臣秀次の家族たちがこの道を通って三条河原に運ばれて処刑された事件である。この話は2015年2月21日に「瑞泉寺を訪問する」という記事で触れてある。

もう一つは、亀岡の城主だった明智光秀がこの道を通って本能寺の明智光秀の襲撃に向かったことだ。明智光秀はどの時点で謀反を決意したのか。はじめは羽柴秀吉の救援に向かおうと兵を動かしたが、途中で謀反を決めたのか、それとも最初から心は定まっていたのか。

信長を襲う光秀の侍たち
信長を襲う光秀の侍たち

この暗い山陰道を進む光秀の気持ちは如何?さらに、その配下の武将たちの気持ちは如何?と430年前の出来事を想像する。大変な決断だったろうと思う。山崎の合戦に光秀がもしも羽柴秀吉に対して勝っていたならば、歴史はどうなったか。いずれにせよ、負けたことで歴史書では彼は冷酷で残虐な人物として描かれることになった。勝てば官軍、負ければ賊軍である。

京都には歴史がいろいろ詰まっている。歴史を知らなければ単に陰気臭い山道が、歴史の光をあてることで、生き生きとしてきて、人の想像力を刺戟する風景になる。

さて、最近は山陰道に並行して京都縦貫道が完成した。車の動きはそちらが主流になっていく。この山陰道も次第に忘れ去られていくのであろうか。

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逢坂の関

2015-04-19

昨日は滋賀県へドライブした。草津のイオン(イオンモール草津が正式の名称)へ向かう。草津のイオンは数か月前に訪れた時は2階や3階は改装中の店が多くて、閉店かと思うほどテナント店が抜けていた。どうなるのかと心配したが、3月20日からのリニューアルオープンの準備のためであった。今日久しぶりに訪れた。

確かに店の中は変化していた。買い物客の数はかなり多い。休憩しようとしてカフェをさがす。一階の Honolulu Coffee の前にはかなりの人が並んでいる。自分も入りたかったが、並んで立っているだけで疲れそうなので、別の店に入る。とにかく新規開店のショップには人々は好奇心からか、客足が絶えない。

さて、3時間ほど滞在して買い物を済ませて草津イオンを出る。この琵琶湖周辺のあたりは景色が素晴らしい。京都に住むよりも、大津に住む方がはるかに居心地がいい。さらに美しい自然も堪能できると思う。とくに琵琶湖の周辺は散歩道も整備されていて最高と思う。一時期はこのあたりで家を買おうかと真剣に物色したこともあったが、自分の年齢でのローンは難しいことが分かって諦めた。

京都への帰り道は国道1号を通って山を越える。この辺りはかなりさびれていて、太陽もささず陰気臭いところである。ところどころに家があるが、かなり古くて、老夫婦がいなくなったら廃墟となるのではと予想される家ばかりである。このあたりは、逢坂の関(山城国と近江国の国境)があった場所である。毎回、このあたりをドライブするたびに逢坂の関とはどこかなと思っていた。写真を下に示す。地名が逢坂一丁目となっている。

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本当の逢坂の関はこの画像の場所からさらに数キロ先であり、大津側から見て坂道を下ったところにあったようだ(現在はその正確な場所は分からない)。この国道1号線沿いの逢坂山検問所脇には「逢坂山関址」という碑が建てられているのだが、この日は残念ながら、そこには立ち寄らずに京都に帰った。

逢坂の関は百人一首に読まれている。
これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関 蝉丸(第10番)
夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ 清少納言(第62番)

ネットで調べると、蝉丸という人は逢坂山に住んでいて和歌の作り手であったとある。また彼を祀った神社、関蝉丸神社(せきせみまるじんじゃ)が近くにあるとのこと。是非ともいつか訪問してみたい。第62番、清少納言の歌は藤原行成との間で交わされた歌であるという。清少納言を訪れた藤原行成が早めに帰ったのを非難した歌とあるが、この歌が二人の間の本当の出来事を示唆しているのか、それとも宴会などでの戯れ歌であるのか、このあたりは後日調べてみたい。枕草子の「関は」の段には「逢坂、須磨の関、鈴鹿の関」と記されていて、清少納言はこの関をかなり意識していたようだ。

また、関寺というものがあり、その近くに晩年の小野小町が住んでいたそうだ。その関寺は今はなくて、長谷寺がその跡地に建っていると聞く。逢坂の関記念公園というのが最近できたことも知った。

いろいろと故事を調べると、陰気臭くてつまらぬ山道と思っていた箇所に、いろいろな歴史が残っていることが分かる。現在はこの関を、車ならば国道1号線で、電車ならば京阪電車で簡単に通り抜けることができる。昔はこの山越えは大変だったろうと思う。しかし当時の人々はゆっくりと歩きながら、この関にまつわる故事を互いに語り合いながら越えていったとしたら、それもロマンティックな話だと思う。

長泉寺を訪問する

2015-04-12

私は酒を飲んだ時、『徒然草』を読むというか、眺めるのが好きである。兼好法師は今で言えばブログに投稿するように、自分の聞いたこと、見たこと、感じたことを書き留めた。現代人がパソコンに向かって気楽に文章を書くことと比べると、兼好法師は墨をすって筆で書き留めたので、かなり手間暇がかかったと思われる。しかし、現代人と比べるとずっと時間はあったので、さほど苦にせず「硯に向かいて」墨をすったことと思われる。

今日は午後から長泉寺を訪問することにした。長泉寺には吉田兼好の墓がある。長泉寺の中には入れないらしいが寺の外側からでも見てみたいと考えたのである。さて、桂の方から仁和寺の方へ向かうとたくさんの車があって渋滞している。日曜日で比較的穏やかな天候であるので、人々は仁和寺か金閣寺に向かうのであろう。ほとんで動かないので、ナビを頼りに近道を通って長泉寺に行くことにした。このあたり大きな立派な家が多い。

長泉寺にようやく到着する。しかし、中には入れない。お寺の外にある「兼好法師舊跡」と記された石碑を写真に撮る。比較的小さなお寺である。さて、兼好法師の住居はこのあたり、双ヶ丘(ならびがおか)の西麓にあったそうだが、1704年ころに長泉寺に移されたそうである。

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車で周辺をドライブしながら、このあたりは昔は鬱蒼とした森であり、兼好法師の隠居地がどこかにあったのだと想像していた。このあたりは、今は、まったく緑はなくて、とうてい昔の面影はないが、とにかく兼好法師のゆかりの地をドライブしたり散策できたことはよかった。

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長泉寺は仁和寺に近い。昔は仁和寺には広い境内があり、このあたりもその一部だったようだ。兼好法師は仁和寺の法師に関する段が少なくとも3つある。法師は仁和寺に関する情報通、噂をいろいろ知っていた。

ネットで調べると兼好法師は鎌倉や比叡山横川、修学院、大阪の阿倍野などいろいろなところに住んだようだ。一箇所に落ち着くのではなくて、様々なところに行き、様々なことを知りたいと考えたようだ。このあたりの人生態度は現代の人は共鳴するだろうと思う。

なお、長泉寺の向かい側にオムロン発祥の地との石碑があった。仁和寺は別名が御室(おむろ)であり、この一帯の地名が御室となっている。そこから発祥したので、オムロンという名前をつけたそうだ。なるほど。京都には京都発祥の企業がいくつかある。オムロン、任天堂、京セラ、日本電産、堀場製作所、村田製作所、ワコール、島津製作所、ロームなどである。これらの企業は京都の企業文化を背景に健闘している会社であり、京都人の誇りであろう。

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さて、この日は下鴨神社内に『方丈記』の鴨長明の庵が保存されているので、そこも見物する予定であった。たぶん下鴨神社の周辺は多くの観光客の車で身動きが取れないだろうと考えて、後日訪問することにする。

お初天神と適塾

2015-03-26

次男がこんど大阪大学に入学することになり、たくさんの書類が大学から送られてきた。その中の大学案内を見ていると、大阪大学のルーツは緒方洪庵の適塾であると述べてあり、淀屋橋駅の近くに適塾が残っていると記されてあった。それではと、さっそく野次馬気分で訪問することにした。しかし、一か所だけでは物足りないので、お初天神(露天神社・つゆのてんじんじゃ)をも訪問する。また、来月から電車通勤で非常勤講師として働くことになるのでPiTaPaの申込書をも駅で入手することにする。

(1)梅田駅に行く。梅田駅のインフォメーションにて、PiTaPaの申込書をもらう。京都市バス、阪急電車、地下鉄御堂筋線、南海電鉄で共通で使えるので、非常勤の勤務先への乗り換えには切符をその都度買わなくてもいい。今日にでも郵送で申し込みをする予定である。

(2)梅田駅から降りて、阪急デパートの横を通ると、曾根崎お初天神通りの入り口を見つける。そこに入る。このあたりは近代的なビルが建ち並ぶが、この通りだけは、庶民的な香りのする飲食店の建ち並ぶ通りであった。何か猥雑な感じがするが、同時に昭和の頃の雰囲気が残っている通りでもある。ここで、立ち食いそばを食べる。きつねそばで300円を支払う。さて、お初天神ビルを通り抜けて露天神社へ入る。ここは、高いビルディングに囲まれていて、今ひとつ雰囲気がでない。

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お初と徳兵衛の銅像を見つける。さっそく写真に撮る。曾根崎心中はWikipediaでは、次のように記してある。「『曽根崎心中』は、元禄16年4月7日(1703年5月22日)早朝に大坂堂島新地天満屋の女郎「はつ(本名妙、21歳)」と内本町醤油商平野屋の手代である「徳兵衛(25歳)」が西成郡曾根崎村の露天神の森で情死した事件を題材にしている。」二人が森の中で心中をしたのであるが、このあたりはすでに森はない。ここがむかし森であったと想像するのはかなり難しい。二人の心中は当時大きな評判となり、近松門左衛門の浄瑠璃の題材になったのである。近松の文章はとても美しい。
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この世のなごり 夜もなごり 死にに行く身をたとふれば、
あだしが原の道の霜 一足づつに消えて行く 夢の夢こそあはれなれ
あれ数ふれば暁の 七つの時が六つ鳴りて 残る一つが今生(こんじょう)の
鐘の響きの聞き納め 寂滅為楽(じゃくめつ いらく)と響くなり

鐘ばかりかは 草も木も 空もなごりと見上ぐれば 雲心なき水の音
北斗は冴えて影映る 星の妹背(いもせ)の天の川
梅田の橋を鵲(かささぎ)の橋と契りて いつまでも 我とそなたは婦夫星(めおとぼし)
かならず添うと縋(すが)り寄り 二人がなかに降る涙 川の水嵩(みかさ)も増(まさ)るべし
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荻生徂徠がこれらの文章を読んで感動のあまり机を叩いたそうだ。さて、この神社は現代では縁結びの神社として有名なようである。並んである絵馬をちょっと見てみると、恋愛の成就を願う文章が多く書かれてある。その中には、中国語、タイ語、英語の文もある。外国人にも有名になりつつあるようだが、この周辺をもう少し空間を広げ圧迫感を取り除いていかないと、閉所恐怖症の人は困るのではないか。

さて、次は緒方洪庵の適塾に向かう。御堂筋線の淀屋橋駅で降りる。途中で「懐徳堂旧阯碑」(かいとくどうきゅうしひ)という石碑が埋め込まれてある壁に見る。ここに、むかし商人の学校があり、これが大阪大学の文系の学科のルーツになっている。さて、適塾を見つける。開館は10時からであり、しばし休んで開館を待つ。入場料は240円である。入り口には、「3位じゃダメなんです」というポスターがある。日本で第3位の大学という地位に安住していないで世界のトップクラスの大学を目指すという意気込みのようだ。さて、中に入って写真を撮っていたら、係の人から写真禁止と注意された。それで、主にノートを取りながら館内を見学する。庭も入れて百坪ほどの敷地か、2階建ての建物である。

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この塾は阪大の医学部と理学部のルーツである。緒方洪庵の医者としての業績が紹介してあった。また種痘をここで始めたようだ。急な階段を2階に上るとヅーフ部屋があった。これは6畳ほどの天井の低い部屋で中央に蘭和辞典(ヅーフ・ハルマ写本)が置いてある。福沢諭吉の自伝によれば、蘭和辞典は一冊しかないので、塾生たちは争ってこの辞典を利用して、蘭学の勉強をしたという。その横は、塾生大部屋である。数えたら28畳の部屋である。塾生は一人が一畳を占めて、成績で上記の者から好きな場所を選んで寝泊まりをしたという。西洋の学問を伝えるオランダ語の学習に当時の若い人々が夢中になったことが分かる。そして、医学書の翻訳書がいくつか並んでいる。必死の思いで訳していった当時の若者達の情熱が今でも伝わってくるようだ。写真を禁止されているので、画像をお見せできないことが残念だ。

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次男がこれからお世話になる大阪大学はこのように由緒ある適塾がルーツであることが分かった。なお、次男からは本人に関するプライベートなことはブログに書くな、と禁じられているが、これくらいは許してもらいたい。

本能寺を訪問する

2015-03-24

今日は寒い日であった。急に思い立って本能寺を訪ねることにした。織田信長が明智光秀に襲われて自害した本能寺は、堀川にあったが、その後、豊臣秀吉の命によって現在の市役所近くの本能寺に移転されたという。私の予定としては、まず、本能寺跡を訪問して、その次に現在の本能寺を訪れることにした。

32番系列の市バスに乗り、「四条堀川」のバス停で降りる。まず、堀川高校に向かう。堀川高校は京都でも名門の高校であり、近代的なビルディングの校舎であって、高等学校という感じはしない。その校舎を一周して裏手に向かう。途中で「空也堂」という空也上人が開いたというお寺があった。一応、写真を撮っておく。

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さて、ようやく、本能寺跡という石碑を見つけた。昔、本能寺があった場所は、堀川高校の本能寺館と老人ホームが建っている。これら近代的なビルの間を歩いてみるが、ここで信長が自害したということはイメージができない。ふと、老人ホームをのぞくと、老人たちが食事をしていた。

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次に、移転先の本能寺を訪問することにする。3番系列の市バスに乗って20分ほどして「市役所前」で降りる。本能寺ホテルがあり、本能寺御池門と書いてある標識の横を抜けていくと、本堂が見えてきた。信長公の御廟所と矢印が示されているのでそこに行く。御廟所とあるが、歴史書によれば信長の遺体は発見されていないので、墓所ではないのだと思う。その近くに浦上玉堂の廟所があったので、これも写真を撮っておく。だいたい30分ほどで見終わる。さほど大きなお寺ではない。このお寺は廻りを高いビルディングに囲まれていて、いかにも窮屈そうなたたずまいであった。河原町通りへと通り抜ける。振り返ると「贈正一位織田信長公御廟」と表示があった。本能寺には、河原町通りと御池通りの二か所から出入りができるようである。

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小牧集落の歴史

2015-03-16

昨日あたりから、温度も上がりようやく春らしくなってきた。今日はある小冊子を紹介したい。私は石川県の能登半島の出身で、そこの七尾市中島町が故郷である。その故郷の歴史をまとめた小冊子がある。

2013年刊行で地元の郷土史研究家の加賀實氏による『小牧集落の歴史』という82ページほどの冊子である。昨年実家に戻った時に、郵便入れに入っていたのを、この数日取り出して読んでいるのである。なお、実家には誰も住んでいない。私が年に何回か行き掃除や空気の入れ替えをする程度である。なお、「小牧」は「おまき」と発音する。

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今から、5500年ほど前の縄文時代の土器や石器が見つかったことが記されている。また、この地は交通の要所であり、港として荷物を運ぶ舟が出入りしていたようだ。倉庫の柱跡や製塩の遺跡の残っている。海の交通が重要な交通手段であった当時は、能登島と能登半島に位置するこのあたりは重要な港として機能していたようだ。当時の舟は小型であり、現代のように大掛かりな港の機能は必要なかったようだ。

私の実家の近くに白山社という神社がある。子供の頃はここでお祭りが行われ、楽しんだことを思い出す。この小冊子によると、ここは本来は神社ではなくて、真言宗のお寺だったそうである。蓮如が能登にきて浄土真宗を広めていった。ほとんどのお寺が浄土真宗に改宗していったが、白山社は改宗せずに、神社となって生き残っていった。今でも、奥には、坐像の木仏がご神体として祀られているそうである。

執筆者の加賀實氏は2013年で92歳というお年のようである。私の父がよくこの方を優れた郷土史研究家として言及していた。父も晩年は郷土の歴史に関心を持ち、この方のお話を聞いてノートにまとめたりしていた。加賀實氏のような優れた郷土史研究家の存在が、日本における歴史研究の質量を豊かにしていると思う。