俳句の翻訳がどのようにして可能になるか考えている。

俳句の翻訳はどうすれば可能になるか、そんなことを最近考えている。

「ある花が美しい」とする。花の美しさをある言語でたたえて詩を作ったとする。その内容はどんな言語でも翻訳は可能だ。しかし、詩は内容だけではなくて、形式も重要である。

松尾芭蕉の俳句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」だが、これが「旅の途中で、病気になって、横になりながらも、自分の思いは枯れた野原の上を駆け巡る」というように表現された文ならば、あんまり心には響かない。たしかに、「旅」「病気」「夢」「枯れた野原」などのイメージはある程度は読み手の心に響くものがあるが、やはり俳句の形式上大切な5-7-5という音数の制限は大切である。

この俳句を英語に直すとしたら、池上嘉彦 (1987) 『ことばの詩学』(p.23)岩波書店から、3つほど参考に並べてみる。

(1)
Ailing on my travels,
Yet my dream wandering
Over withered moors

(2)
Ill on a journey
My dreams wander
Over withered moors

(3)
On a journey, ill
and over fields all withered; dreams
go wandering still

池上はそれぞれの訳の特徴を述べている。池上の説明は有益なのだが、私が注目したいのは(3)の訳である。この訳は1行目、2行目、3行目の音節の数は、5-8-5であり、日本語の拍の数を意識している。さらに、ill, still と脚韻を踏んでいる(池上 1987:33)。この訳詞は、俳句の持つリズム性を何とか英詩に反映させようとの工夫が見られるのである。

池上はこのような工夫に対して、音韻体系が異なる言語間で、はたして価値があるのか、と疑問を呈しているが、私はこのような工夫は興味深いものだと思っている。

日本語の韻文の大きな特徴が5-7あるいは 7-5 での音数の交代であるとすれば、それを訳詞でも形式に何らかの制限をつけることで、可能になると思う。上記の訳の特徴はとにかく3行に分けたと言うことである。西洋の伝統ならば、1行か2行かで済ませることが可能な内容であるが、ここでは3行にすることで何らかの形式美が生まれる。無理な引き延ばしに見えないようにする工夫は必要だとは思うが。(続く)

私は上記の本を用いたのだが、1992年に同時代ライブラリーの一書として刊行されている。こちらの方が入手は簡単かもしれない。

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「詩の技法とその翻訳ー英語教育の視点から」を発表する。


昨日は、久しぶりに学会(思考と言語研究会)で発表をした。2015年に前任校を定年退職してから、学会発表の機会にあまり恵まれていなかったが、久しぶりに発表となった。やや緊張して時間配分が分からなくなり、時間オーバーになってしまい、慌ててまとめたので、思うことの半分も語ることができなかった。

その点は残念ではあるが、発表のために資料を揃えたり、事前に頭の整理整頓をしたので、自分には勉強になってよかった。

さて、会場の雰囲気は以下の写真の通りである。発表をされているのは佐良木昌先生で「日英翻訳のための和文型の換言方式」というタイトルで発表されていた。

会場の様子(発表者は佐良木先生)

午後の一番からが私の発表だ。タイトルは、「詩の技法とその翻訳ー英語教育の視点から」である。自分の問題提起は、詩の美しさを機械翻訳で伝えることができるか、であった。

詩の美しさは形式と内容の統一にある。内容に関しては翻訳は可能だろう。しかし、形式は翻訳は不可能である。そもそも詩は元来は朗読されるものである。英語詩ならば、強弱の拍や脚韻の響きで聞き手は詩の持つリズムを感じるのだ。このような詩は日本語に直して伝えることは非常に難しい。

朗読された詩だが、文字化されると翻訳可能性が高まるようだ。現代では、詩は読む詩として鑑賞されることも増えた。上田敏の訳詞などを紹介しながら、英米の定型詩は日本語ならば、5音や7音で翻訳することで、定型詩から定型詩への翻訳が可能になる。定型詩を自由詩の形で翻訳するよりも、やはり日本語の訳詞にもある程度の形式的な縛りが必要だろうとの趣旨だ。

そして、英語教育の場においても、学生に英語詩を日本語の詩へと翻訳させる試みは有益であり、それにより学生は日英両語の音声形式や意味の違いを知り、言語の気づきへと結びつく、という趣旨であった。

しかし、自分の発表は話しているうちに、所々詳しく説明しすぎて発表が半分ぐらいのところで、司会の先生から、「あと5分」という掲示を示されて、焦ってしまった。結果としては、自分の発表はまとまりのないものとなったが、今度いつか詳しく論文の形でまとめてみたいと考えている。

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定型詩と自由詩の翻訳について


詩が美しいというのは何故だろうか。まず内容の美しさがある。雄大な自然を描写した詩は美しい。母親の子どもへの愛情をうたった詩は美しい。

これらの詩はある程度、描写がまずくてもそれなりの感動を与えるのである。稚拙な表現でも、「素朴な表現の中に真実性が見られる」とか、「荒削りの表現が生きている」とかなんかと言って褒め称えることが多い。

これが、スラム街の描写だとか、育児放棄の詩ならば、いくら表現が巧みでも人に美しいと思わせたり、感動を与えることはないであろう。

フランスのボードレール?だったかの詩に犬の死骸を描写した詩があった。読んで気持ち悪くなったが、詩人というのは、いろいろな実験をするのだな、と感心したことがあった。

詩の内容に関しては、過去の詩や歴史上の大事件などに言及して価値を高めることがある。和歌における本歌取りなどはその例である。過去に書かれた詩が喚起するイメージをも、取り込むという点で、イメージを重ねたり広げたりすることができる。

このように内容は詩の価値を決定する一つの要因であるが、形式の詩の価値を定める大きな要因である。

詩は読むのか、聞くのか。読む場合は、漢語が多いな、とか、カタカナが多いな、という感想はいだくだろう。聞く場合は、リズム感が大切である。文字が5・7調とか、7・5調とかで並んでいて、5・7調は力強く、7・5調は優雅というような解釈もある。

英語の詩では脚韻がそろう。英語に限らず、西洋の言語のほとんどがそうであり、定型詩が主流であった。それに対する反発から自由詩も生まれてきており、現代では自由詩が主流である。

1886年にアルチュール・ランボーの詩集『イリュミナシオン』に「海景」Marineと「運動」Mouvementという自由詩が掲載され、これがフランスにおける近代自由詩の誕生と見なされている。

アメリカでは、近代自由詩の創始者といえるウォルト・ホイットマンが1855年に詩集『草の葉』を刊行して、フランスに先駆けて自由詩が本格的な成立を始めた。『草の葉』では、従来の英語詩の韻律を大胆に排し、行分けの散文が試みられた。

詩の世界では長らく定型詩が盛んであったが、19世紀の後半から自由詩が試みられきた。定型詩は古典的な秩序だった調和的な世界を醸し出す。自由詩は近代的で奔放な精神を表すと言えよう。

詩を定型詩と自由詩に分けるならば、日本語に翻訳する場合は、どちらが難しいだろうか。どちらも難しいのだろうが、定型詩を訳すときには、定型という制約は日本語にも課するべきだと思う。

西洋の自由詩は日本語でも自由詩に翻訳すべきである。定型詩は日本語でも定型詩で訳すべきである。つまりは5・7調とか、7・5調である。ただし、和語ならば比較的に5・7調や7・5調に納めやすいが、カタカナ語や漢語は納めにくいという特徴がある。

定型詩の魅力は内容と形式の両方にある。内容だけに注目して、自由詩で日本語に訳するのは定式の持つ美しさを切り捨てることになる。

結論を急ぐが、英詩の大半をしめる定型詩を訳す場合は、日本語は何かの形式を取り入れる必要がある。それは自由詩ではなくて、5・7調とか、7・5調の口調であろう。

『不思議の国のアリス』の発表を聴いた。


今日は卒業論文に関する発表会があった。その中でルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に関する発表があったので、その報告と感想を述べておきたい。

1865年に Alice’s Adventures in Wonderland が刊行された。そして、その翌年にドイツ語版とフランス語版が出版されたそうである。この作品は作中に織り込まれた言葉遊びが特徴的である。英語の音韻や語法、文字通りの意味とイディオムの意味の交錯、メタファー、メタニミー、シネクドキ(提喩)などで溢れていたので、翻訳不可能のように思われたのだ。だが、不可能のように思えるが故に、翻訳に挑戦する人が絶えなかった。日本語の翻訳も試みる人がたくさんいて、アマゾンを見るとたくさんの人が翻訳を試みていたことが分かる。

日本語でも人気の作品であるが、これは言葉遊びが受けたというよりも、作品の内容、奇抜さが受けたと考えるだろう。言葉遊びの部分に関しては翻訳不可能である。この部分の味わいは英語にきわめて堪能な人が、英語で読むことで鑑賞することができるであろう。

発表者に私は「この物語は日本語に翻訳可能でしょうか?」と質問を投げかけたのだが、答えは「言葉遊びの部分は翻訳不可能だが、内容や映像部分がそれだけで素晴らしいので、その部分を翻訳すればいい」であった。まあ、そうゆうことになるのだな。私も同意見だ。

この本の起こりは、ルイス・キャロルが子どもたちと船遊びをしていたときに、面白い話をねだられて、即興でお話を語ったそうだ。それが後の『不思議の国のアリス』に発展してゆくのだ。このことからも、この物語は音声から、音で楽しむ物語だと思われる。いや、お伽噺や子ども向けの話しはすべて「語られる」ことでその魅力が発揮できる。

テレビで「日本昔話」という番組を聴いていたが、ゆったりした語り手の口調に自然と引き込まれる。これが文字で書籍を通しての鑑賞ならば、あまり面白さを感じなかったと思う。

Alice’s Adventures in Wonderland は音声で語られ味わられるるのが一番本来的なあり方であろう。ただ、この物語は文字で読んでもかもし出す映像的なイメージも素晴らしい。それゆえに、映画やアニメもたくさん作られてきている。

最近は、ジョニー・デップ主演の映画で見たが、あまりに派手すぎで、これはアリスの物語とは無関係の新しい創作であると考えた方がいいだろう。

Alice’s Adventures in Wonderland を英語学習に使うべきとの意見がある。可能だと思うが、高校生以上に使うべきだろう。ただ、純粋に音だけを楽しむのならば、小学生でも可能かもしれない。

学生の発表を聞いて、説明と感想を書いてみた。書いているうちに、どれが学生の説明か自分のコメントか区別がつかなくなった。その点、ご海容を。

 

脚韻について考え始めている。


今度、3月19日にある研究会で発表をすることになった。自分は今までは言語政策とか英語教育に関する発表をしてきたのだが、前任校を定年退職したことを機会に別のことを発表したくなった。それは、英語の詩を日本語に翻訳する場合は、脚韻はどうするのかという点に最近関心があるからだ。

日本語で書かれた韻文は脚韻はあまり意識されない。ただ、テレビのコマーシャルや芸人の流行口上に韻が踏まれることがある。「セブン、イレブン、いいきぶん」とか「ラーメン、つけめん、僕イケメン」とか「さんまのまんま」などは覚えやすい。リズム感がでるのは、やはり脚韻を用いているからである。

しかし、一般には日本語は脚韻を用いるのは難しいとされている。日本語は開音節で最後が母音でおわるのだが、母音は5つしかないので、同じ母音がきても韻を踏んでいるという感じがしない。滅多に現れない音同士が現れると、音の共通性を強く意識できる。子音+母音あるいは母音+子音が同じならば、数は少なくなるから、韻が踏んであるという感じは出る。上の例で言えば、「ブ+ン」という構造が互いに共鳴しあったのである。しかし、日本語では脚韻を踏むのは難しいという点は変わらない。

岩波書店の『逆引き広辞苑』を今見ている。適当に何かを作ってみる。「岩倉、大柄、あぐら、山上憶良、桜、もぐら」などを選び出し、「大柄な山上憶良が岩倉で、あぐらをかいて、もぐらと桜を見ていたら」というようなナンセンスな文を作ることができる。「から」「くら」などが続くので韻を踏んであるなという気がするが、相互の音の関連性は強くは感じられない。

さて、韻文であるが、外国語の韻文を翻訳を翻訳するときだが、韻を踏むべきかどうか迷う。日本語に訳すときは脚韻は無視している。白雪姫のドイツ語の原文で、悪い女王が世界で一番美しいのは誰かと鏡に訪ねる場面がある。そこは、以下のように韻が踏んである。

“Spieglein, Spieglein an der Wand,
Wer ist die Schönste im ganzen Land?”

“Frau Königin, Ihr seid die Schönste hier,
Aber Schneewittchen ist tausendmal schöner als Ihr.”

これは日本語に翻訳すると、どうなるか。菊池寛翻訳(http://www.aozora.gr.jp/cards/001091/files/42308_17916.html)では以下のようになっている。

「鏡や、鏡、壁にかかっている鏡よ。
 国じゅうで、だれがいちばんうつくしいか、いっておくれ。」

「女王さま、ここでは、あなたがいちばんうつくしい。
 けれども、白雪姫は、千ばいもうつくしい。」

初めの2行では、「鏡よ」「おくれ」とあって、韻は踏んでいない。次の2行では、「うつくしい」という語が二回使われているので、音はそろう。しかしこれは韻を踏んでいると言っていいのかどうか、微妙である。

ここでは、西洋語同士の場合は、どうであろうか。英語ならば、 以下のように韻が踏んでありリズム感が出てくる。

‘Mirror, Mirror on the wall,
Who is fairest of us all?’        

‘Queen, thou art fairest here, I hold,
But Snowdrop is fairer a thousandfold.’

(出典:https://www.gutenberg.org/files/37381/37381-h/37381-h.htm)

これはフランス語では、上の二つは韻が踏んであるが、下の二つは韻は踏んでない。おそらく翻訳者は努力したのであろうが、韻を踏む適切な語を見つけることができなかったようだ。

Miroir, miroir joli,
Qui est la plus belle au pays?

Madame la reine, vous êtes la plus belle ici
Mais Blanche-Neige est encore mille fois plus belle.

(続く)

 

『大伴家持』を読む。


藤井一二先生(松蔭大学特任教授)が『大伴家持』という本を中公新書として出版された。この本をご恵贈いただいたので、ここに紹介したい。

藤井先生は長く日本史の研究をされて、幾つかの大学を歴任され、現在は松蔭大学特任教授として教鞭を執っておられる。先生のこれまでの数十年の研究の成果がこの本に結晶化していると言えるであろう。

さて、自分の感想だが、自分は日本史の専門家ではないので、素人としての感想になってしまうが、その点はご海容いただきたい。

さて、自分は「歌を詠む」ということはかなり個人的な活動だと思っていた。自分の個人的な感情を密かに詩歌にして自分が満足する、というイメージを持っていた。

しかし、この本を読むとその認識は訂正する必要があるようだ。「歌を詠む」というのは当時はきわめて公的な活動である。何か儀式があるとその儀式の締めとして歌が詠まれる。この時代の人は宴会が好きだったようだ。その席では歌を詠むことが必修である。歌の上手下手がその人の人物評価にもかなり影響しそうだ。

宴会で歌を詠むことは、現代社会で言えば、会合で議事録を記すこと、と同じような意味合いだったようだ。さらには、現代の旅行記、日誌、風景画、植物図鑑、カメラやビデオ撮影と似たような要素がある。万葉集もそのような視点から読み直すと、面白そうだと感じた。

歌の持つ公的な要素、その当時の貴族社会を機能させるための重要な基盤であったことに気づいた。現代の我々が持っているスマホがこれと似ている。スマホは、何かを記録し、何かを人に伝え、過去の文を読んだり、視聴する。「歌を詠む=スマホを用いる」と私は勝手に解釈する。

あと、自分が知ったことを幾つか挙げてみたい。

(1)大伴家持は薩摩の国司に赴任した。太宰府だけではなくて、薩摩まで足を伸ばしたことは知らなかった。
(2)東北地方の平定に向かい、持節征夷将軍に任じられた。大伴家持には武将としてのイメージはなかったのだが、そんな仕事までもさせられたのかと驚いた。
(3)彼の生きた時代は橘仲麻呂の反乱などいくつかの生臭い事件があったが、彼は上手に泳ぎわたり、連座などで致命的なダメージを受けることはなかった。
(4)「越中」というのは家持の時代は、能登半島も含まれていた地理概念であった。能登半島には彼が視察して幾つかの歌を残しているが、てっきり彼の能登訪問は趣味の旅行と私は思っていたが、そうではなくて、ちゃんとした彼の仕事の一部であったことを知った。


大伴家持は色々な地域に住んだことがあるが、「北陸」はその中でも重要な地域になる。藤井先生は家持に関するこの本の中で、北陸での滞在を主に研究して得られて知識を縦横無尽に駆使されている。

映画スターウォーズを見る。

2015-12-27

昨日は、イオン桂川に行って、映画『スターウォーズ』を見た。自分は正直言ってあまり関心はなかったが、家族が行こう行こうというので、たまには家族そろって外出もいいものかと思い、4人で見ることにした。

今までは、TOHO シネマズ二条で映画を見ることが多かった。しかし、ここは駐車料金がかかる。それも結構な値段だ。映画を見たからといって割引にはならない。ふつうに駐車料金がかかるのだ。それに対して、イオン桂川は映画を見ると3時間の駐車料金が無料になる。というようなケチくさい理由でイオン桂川を選んでここで映画を見ることにした。

さて、映画だが、どうコメントしたらいいだろうか。シリーズの続きで、いままでのスターウォーズを見ていると話の概要が分かるそうだ。私は大昔にこの第一作だけを見たことがある。その時は、スケールの大きな映画で、実際に宇宙を飛び回るように興奮を覚えたものだった。とにかく、どれくらい金をかけたのか、制作費はいくらかというような点にも興味が行った。

今回の Star Wars: the Force Awakens は、これまた大変な制作費がかかったろうと思われる映画であった。しかし、画面は砂漠とか孤島の情景とか、自分が行ったことのない場所の描写など興味深かった。でも、アメリカ映画特有の、アクションの連続は見ていて疲れる。アクションとなる見せ場は映画の中で2,3回あればいいと思う。この映画のように最初から最後までアクションの連続は、こちらの神経が持たない。

面白いと思ったところは、Han Solo (ハリソンフォードが演じる)が息子である Kylo Ren (Adam Driver という俳優が演じる)に自分のところに戻るように説得する場面だ。息子は涙を浮かべたりしたので、父のもとに戻るかと思ったが、最後は父を刺して、闇の主への忠誠を示す。このあたり、何故、父と息子は別れたのか、何故、息子は闇の世界に入っていったのか、知りたいのだが、過去のシリーズを見ることで分かるのであろう。

父と息子とがライバルで敵対したり、互いに協力するというのは、古今東西のよく好まれるテーマである。この映画が、Kylo Ren の心の葛藤をもう少し、念入りに描いてくれたら面白かったと思うのだ。とにかく、たくさんの撃ち合い、爆発、殺傷があり、見ていて疲れ果てる。

こんな映画ばかり見ているアメリカ人は、影響を受けて大量射殺をするようになるののではないか、いやむしろ、これがカタルシスとなって、そのような気持ちがなくなるのか。このあたり、どちらだろうか。社会心理学者の意見を聞きたい。

photo credit: OKIMG_3902 via photopin (license)
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