Chat GPTを使って詩を書いてみた。

巷では、chatGPTが評判のようだ。使ってみると確かにこれは便利だ。早速に無料の会員になり、使ってみた。

質問を入れると、すぐに論文形式で返してくれる。たとえば、「言語習得の臨界期とは何か?」と聞いたら、以下のような回答が即座に出た。  


言語習得の臨界期とは、言語を自然に習得するための最適な時期を指します。一般的には、0歳から5歳までの幼児期が言語習得の臨界期とされています。

幼児期には、言語習得に必要な脳の発達が最も進んでおり、言語を自然に習得するために必要な知的・認知的能力や社会的な環境も整っています。また、幼児期には言語に対する感受性が高いため、短期間で豊富な言語情報を吸収することができます。

一方、幼児期以降になると、言語習得に必要な認知的・社会的な能力が低下し、言語習得が難しくなります。例えば、第二言語の習得においては、大人になると音声や文法のルールを覚えることが難しくなり、習得に時間がかかることがあります。

言語習得の臨界期は、言語教育の重要性を強調する上でも重要な概念であり、幼児期に言語環境を豊かにすることが、将来的な言語能力の向上につながるとされています。


創造的な事もできるそうなので以下のような課題を与えた。

「空の美しさを讃える詩をつくって下さい。」すると以下のような詩を即座に生み出した。

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青い空に浮かぶ雲 そよ風に揺れている

太陽の光に照らされて まるでダイヤモンドのように輝いている

空は美しい、美しい その青さに心が洗われる

大空を見上げれば 何もかもが小さく感じられる

飛び立つ鳥たちの羽音 流れる雲のかたち

空は、その美しさで 私たちを癒してくれる

私たちは、忙しない日々を送り 疲れて、心がざわついている

しかし、空を見上げる瞬間 心が静まり、癒される

青い空よ、いつまでもそこにあって 私たちを包んでいて欲しい

あなたの美しさを見上げるたびに 私たちは、心が豊かになっていくのだから

空は美しい、美しい その美しさを讃えて、私たちは生きるのだ。

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驚くしかないとはこの事だ。近い将来、事務職の人がたくさん失業しそうだ。大学のレポートの課題は意味をなさなくなるだろう。

 

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新伝さんから、4枚の書画が到着する。


今年も残りすくなって来た。2020年はとにかくコロナの年であった。来年はコロナが終息して人々の顔に明るさが戻ってくることを切に願っている。

さて、親戚の新伝さんから、4枚の書画が到着したので、皆様に紹介したい。

無心に祈っている姿
何かを無心に考えている。
お母様の昔の写真より、傘をさしている。

この3つの書画のうちで、最後の3枚目のモデルは新伝さんのお母様である。これは、昔の写真を見ながら、新伝さんは若い頃のお母様を思い浮かべて書画にしたのである。手に持っているのは日傘かと思ったが、横に雪のマークがあるので、これの元になったのは冬の日の写真であろう。でも、赤色と黄色が華やかな感じを与えるので、春か夏の日を思い浮かべてしまった。

次は吉田兼好の『徒然草』の冒頭の箇所である。これなどは、額縁に入れて家の玄関などに飾っておきたいものである。

徒然草の冒頭

若い頃は『徒然草』は心に訴えてこなかったが、私のような老境にさしかかると、兼好法師の枯れた持ち味がわかるようになってくる。

K先生の送別会を行なった。


本学で長く教鞭を取られ多大な貢献をされたK先生がこの3月で退職されることになった。英語科の教員や大学院たちが集まり、ささやかであるが、送別会を行なった。菊川酒造東店という居酒屋である。

この日、K先生はご自身の本を何冊か持ってこられ、出席者たちに気に入った本を受け取るようにと言われた。私もご好意に甘えて、ヨーロッパの詩と日本語の訳詞についての御本を頂戴することにした。私は最近は翻訳、特に詩の翻訳に関心を持つようになってきた。ヨーロッパの詩の特徴は脚韻を踏むことであるが、これを日本語の詩に移し替えることは難しい。脚韻というリズムを訳詞にするには、5・7調か7・5調で訳すしかないかなと思う次第だが、そんな自分の抱えている問題意識をこの本は何かの示唆を与えてくれそうである。

さて、K先生は樽酒が好みのようで、升になみなみとついで楽しまれていた。私自身は車で参加したので、お酒を飲むことはできなかったが、K先生の酒を嗜まれる姿、K先生をお慕いする諸先生や院生たちの姿を見て感動した。この和気藹々の雰囲気は楽しい。

何枚か写真を撮ったので、下に貼り付ける。K先生、わざわざ岐阜までありがとうございました。お身体を大切に、どうぞこれからも学問の道でご指導ください。

K先生
k先生の写真もう一枚
左端は院生

俳句の翻訳がどのようにして可能になるか考えている。

俳句の翻訳はどうすれば可能になるか、そんなことを最近考えている。

「ある花が美しい」とする。花の美しさをある言語でたたえて詩を作ったとする。その内容はどんな言語でも翻訳は可能だ。しかし、詩は内容だけではなくて、形式も重要である。

松尾芭蕉の俳句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」だが、これが「旅の途中で、病気になって、横になりながらも、自分の思いは枯れた野原の上を駆け巡る」というように表現された文ならば、あんまり心には響かない。たしかに、「旅」「病気」「夢」「枯れた野原」などのイメージはある程度は読み手の心に響くものがあるが、やはり俳句の形式上大切な5-7-5という音数の制限は大切である。

この俳句を英語に直すとしたら、池上嘉彦 (1987) 『ことばの詩学』(p.23)岩波書店から、3つほど参考に並べてみる。

(1)
Ailing on my travels,
Yet my dream wandering
Over withered moors

(2)
Ill on a journey
My dreams wander
Over withered moors

(3)
On a journey, ill
and over fields all withered; dreams
go wandering still

池上はそれぞれの訳の特徴を述べている。池上の説明は有益なのだが、私が注目したいのは(3)の訳である。この訳は1行目、2行目、3行目の音節の数は、5-8-5であり、日本語の拍の数を意識している。さらに、ill, still と脚韻を踏んでいる(池上 1987:33)。この訳詞は、俳句の持つリズム性を何とか英詩に反映させようとの工夫が見られるのである。

池上はこのような工夫に対して、音韻体系が異なる言語間で、はたして価値があるのか、と疑問を呈しているが、私はこのような工夫は興味深いものだと思っている。

日本語の韻文の大きな特徴が5-7あるいは 7-5 での音数の交代であるとすれば、それを訳詞でも形式に何らかの制限をつけることで、可能になると思う。上記の訳の特徴はとにかく3行に分けたと言うことである。西洋の伝統ならば、1行か2行かで済ませることが可能な内容であるが、ここでは3行にすることで何らかの形式美が生まれる。無理な引き延ばしに見えないようにする工夫は必要だとは思うが。(続く)

私は上記の本を用いたのだが、1992年に同時代ライブラリーの一書として刊行されている。こちらの方が入手は簡単かもしれない。

「詩の技法とその翻訳ー英語教育の視点から」を発表する。


昨日は、久しぶりに学会(思考と言語研究会)で発表をした。2015年に前任校を定年退職してから、学会発表の機会にあまり恵まれていなかったが、久しぶりに発表となった。やや緊張して時間配分が分からなくなり、時間オーバーになってしまい、慌ててまとめたので、思うことの半分も語ることができなかった。

その点は残念ではあるが、発表のために資料を揃えたり、事前に頭の整理整頓をしたので、自分には勉強になってよかった。

さて、会場の雰囲気は以下の写真の通りである。発表をされているのは佐良木昌先生で「日英翻訳のための和文型の換言方式」というタイトルで発表されていた。

会場の様子(発表者は佐良木先生)

午後の一番からが私の発表だ。タイトルは、「詩の技法とその翻訳ー英語教育の視点から」である。自分の問題提起は、詩の美しさを機械翻訳で伝えることができるか、であった。

詩の美しさは形式と内容の統一にある。内容に関しては翻訳は可能だろう。しかし、形式は翻訳は不可能である。そもそも詩は元来は朗読されるものである。英語詩ならば、強弱の拍や脚韻の響きで聞き手は詩の持つリズムを感じるのだ。このような詩は日本語に直して伝えることは非常に難しい。

朗読された詩だが、文字化されると翻訳可能性が高まるようだ。現代では、詩は読む詩として鑑賞されることも増えた。上田敏の訳詞などを紹介しながら、英米の定型詩は日本語ならば、5音や7音で翻訳することで、定型詩から定型詩への翻訳が可能になる。定型詩を自由詩の形で翻訳するよりも、やはり日本語の訳詞にもある程度の形式的な縛りが必要だろうとの趣旨だ。

そして、英語教育の場においても、学生に英語詩を日本語の詩へと翻訳させる試みは有益であり、それにより学生は日英両語の音声形式や意味の違いを知り、言語の気づきへと結びつく、という趣旨であった。

しかし、自分の発表は話しているうちに、所々詳しく説明しすぎて発表が半分ぐらいのところで、司会の先生から、「あと5分」という掲示を示されて、焦ってしまった。結果としては、自分の発表はまとまりのないものとなったが、今度いつか詳しく論文の形でまとめてみたいと考えている。

定型詩と自由詩の翻訳について


詩が美しいというのは何故だろうか。まず内容の美しさがある。雄大な自然を描写した詩は美しい。母親の子どもへの愛情をうたった詩は美しい。

これらの詩はある程度、描写がまずくてもそれなりの感動を与えるのである。稚拙な表現でも、「素朴な表現の中に真実性が見られる」とか、「荒削りの表現が生きている」とかなんかと言って褒め称えることが多い。

これが、スラム街の描写だとか、育児放棄の詩ならば、いくら表現が巧みでも人に美しいと思わせたり、感動を与えることはないであろう。

フランスのボードレール?だったかの詩に犬の死骸を描写した詩があった。読んで気持ち悪くなったが、詩人というのは、いろいろな実験をするのだな、と感心したことがあった。

詩の内容に関しては、過去の詩や歴史上の大事件などに言及して価値を高めることがある。和歌における本歌取りなどはその例である。過去に書かれた詩が喚起するイメージをも、取り込むという点で、イメージを重ねたり広げたりすることができる。

このように内容は詩の価値を決定する一つの要因であるが、形式の詩の価値を定める大きな要因である。

詩は読むのか、聞くのか。読む場合は、漢語が多いな、とか、カタカナが多いな、という感想はいだくだろう。聞く場合は、リズム感が大切である。文字が5・7調とか、7・5調とかで並んでいて、5・7調は力強く、7・5調は優雅というような解釈もある。

英語の詩では脚韻がそろう。英語に限らず、西洋の言語のほとんどがそうであり、定型詩が主流であった。それに対する反発から自由詩も生まれてきており、現代では自由詩が主流である。

1886年にアルチュール・ランボーの詩集『イリュミナシオン』に「海景」Marineと「運動」Mouvementという自由詩が掲載され、これがフランスにおける近代自由詩の誕生と見なされている。

アメリカでは、近代自由詩の創始者といえるウォルト・ホイットマンが1855年に詩集『草の葉』を刊行して、フランスに先駆けて自由詩が本格的な成立を始めた。『草の葉』では、従来の英語詩の韻律を大胆に排し、行分けの散文が試みられた。

詩の世界では長らく定型詩が盛んであったが、19世紀の後半から自由詩が試みられきた。定型詩は古典的な秩序だった調和的な世界を醸し出す。自由詩は近代的で奔放な精神を表すと言えよう。

詩を定型詩と自由詩に分けるならば、日本語に翻訳する場合は、どちらが難しいだろうか。どちらも難しいのだろうが、定型詩を訳すときには、定型という制約は日本語にも課するべきだと思う。

西洋の自由詩は日本語でも自由詩に翻訳すべきである。定型詩は日本語でも定型詩で訳すべきである。つまりは5・7調とか、7・5調である。ただし、和語ならば比較的に5・7調や7・5調に納めやすいが、カタカナ語や漢語は納めにくいという特徴がある。

定型詩の魅力は内容と形式の両方にある。内容だけに注目して、自由詩で日本語に訳するのは定式の持つ美しさを切り捨てることになる。

結論を急ぐが、英詩の大半をしめる定型詩を訳す場合は、日本語は何かの形式を取り入れる必要がある。それは自由詩ではなくて、5・7調とか、7・5調の口調であろう。

脚韻について考え始めている。


今度、3月19日にある研究会で発表をすることになった。自分は今までは言語政策とか英語教育に関する発表をしてきたのだが、前任校を定年退職したことを機会に別のことを発表したくなった。それは、英語の詩を日本語に翻訳する場合は、脚韻はどうするのかという点に最近関心があるからだ。

日本語で書かれた韻文は脚韻はあまり意識されない。ただ、テレビのコマーシャルや芸人の流行口上に韻が踏まれることがある。「セブン、イレブン、いいきぶん」とか「ラーメン、つけめん、僕イケメン」とか「さんまのまんま」などは覚えやすい。リズム感がでるのは、やはり脚韻を用いているからである。

しかし、一般には日本語は脚韻を用いるのは難しいとされている。日本語は開音節で最後が母音でおわるのだが、母音は5つしかないので、同じ母音がきても韻を踏んでいるという感じがしない。滅多に現れない音同士が現れると、音の共通性を強く意識できる。子音+母音あるいは母音+子音が同じならば、数は少なくなるから、韻が踏んであるという感じは出る。上の例で言えば、「ブ+ン」という構造が互いに共鳴しあったのである。しかし、日本語では脚韻を踏むのは難しいという点は変わらない。

岩波書店の『逆引き広辞苑』を今見ている。適当に何かを作ってみる。「岩倉、大柄、あぐら、山上憶良、桜、もぐら」などを選び出し、「大柄な山上憶良が岩倉で、あぐらをかいて、もぐらと桜を見ていたら」というようなナンセンスな文を作ることができる。「から」「くら」などが続くので韻を踏んであるなという気がするが、相互の音の関連性は強くは感じられない。

さて、韻文であるが、外国語の韻文を翻訳を翻訳するときだが、韻を踏むべきかどうか迷う。日本語に訳すときは脚韻は無視している。白雪姫のドイツ語の原文で、悪い女王が世界で一番美しいのは誰かと鏡に訪ねる場面がある。そこは、以下のように韻が踏んである。

“Spieglein, Spieglein an der Wand,
Wer ist die Schönste im ganzen Land?”

“Frau Königin, Ihr seid die Schönste hier,
Aber Schneewittchen ist tausendmal schöner als Ihr.”

これは日本語に翻訳すると、どうなるか。菊池寛翻訳(http://www.aozora.gr.jp/cards/001091/files/42308_17916.html)では以下のようになっている。

「鏡や、鏡、壁にかかっている鏡よ。
 国じゅうで、だれがいちばんうつくしいか、いっておくれ。」

「女王さま、ここでは、あなたがいちばんうつくしい。
 けれども、白雪姫は、千ばいもうつくしい。」

初めの2行では、「鏡よ」「おくれ」とあって、韻は踏んでいない。次の2行では、「うつくしい」という語が二回使われているので、音はそろう。しかしこれは韻を踏んでいると言っていいのかどうか、微妙である。

ここでは、西洋語同士の場合は、どうであろうか。英語ならば、 以下のように韻が踏んでありリズム感が出てくる。

‘Mirror, Mirror on the wall,
Who is fairest of us all?’        

‘Queen, thou art fairest here, I hold,
But Snowdrop is fairer a thousandfold.’

(出典:https://www.gutenberg.org/files/37381/37381-h/37381-h.htm)

これはフランス語では、上の二つは韻が踏んであるが、下の二つは韻は踏んでない。おそらく翻訳者は努力したのであろうが、韻を踏む適切な語を見つけることができなかったようだ。

Miroir, miroir joli,
Qui est la plus belle au pays?

Madame la reine, vous êtes la plus belle ici
Mais Blanche-Neige est encore mille fois plus belle.

(続く)