母の思い出

2015-07-15

母が亡くなってから、ちょうど半年になる。今年の1月15日が母と最後の別れになった日だ。「去る者は日々に疎し」という諺があるが、時々は母のことを思い出して、追憶したいと考えている。

母はある時こんな話を私に聞かせてくれた。母が女学校に通っている頃の話である。女学校の同じクラスに、上品な感じでお嬢様タイプのクラスメートがいた。その女学生に対して、母と同じ村のK君という男子生徒が恋をした。そのK君は通学の列車の中で彼女を見かけて恋心をいだいたようである。しかし、彼女への接近の方法が分からなかった。電話もメールもない時代である。手紙を送るしかないが、女学生の家族に開封されることを恐れていたのである。

そこで、K君は母にその手紙を渡してくれるように頼んだ。K君は母に「絶対に開封しないように」と「確実に彼女に渡してくれ」とお願いしてその手紙をことづけた。母は女友達にその話をする。すると、みんな大いに関心を示したそうだ。年頃の女学生が4名ほど集まったのであるから、なかかな好奇心を抑えられない。みんな「何が書いてあるか読んでみたい!」と言った。そして、こっそりと開封することになった。

やかんに水を入れてお湯を沸かす。すると蒸気が出てくる。母たちが封筒に、ゆっくりと蒸気を当てていく。次第に封をした箇所がはがれていく。そして、ようやく、封が外れた。母たちは大喜びで、中のラブレターを取り出して読んでいく。中は、K君の恋心が綴られていた。通学列車の中で一目見てから好きになったとか何とかが書いてあったそうだ。

そして、読み終わった後、封をして、何食わぬ顔をしてクラスメートに渡したそうだ。K君の思いはお嬢様に伝わり二人は交際するに至ったのかどうかは母も分からなかった。ただ、古い慣習の残るあの時代の雰囲気では男女交際は難しかったろう。

当時はメールも電話もない時代であった。人々はそれなりに工夫して思いを伝えあったのであるが、今と異なり、恋愛成就はかなり難しかったろう。

photo credit: Stroud Cainscross Steam 1982 via photopin (license)
photo credit: Stroud Cainscross Steam 1982 via photopin (license)
スポンサーリンク

手帳がなくなった(泣)

2015-07-04

手帳がなくなった。今日も研究室の中を色々と探したが見つからない。本当に困った。大切なデータを書き込んである。銀行口座やクレジットカードの番号、パスワードなどである。手帳と一緒に住所録もなくなった。学校で落し物が集められているコーナーを見てみたが、自分の手帳が届けられている気配はない。

住所録もなくなり困ってしまった。自分の手帳は能率手帳で住所録は毎年差し替えができる。この10年ほど知り合った人の電話番号や住所はそれに書いてある。他の書類には書いてない住所も結構ある。それらの人とは、もう、こちらからはコンタクトできなくなったのか。

手帳にプライベートなことは書いてないと思う。人の悪口は書いてないし、誰かを恋しいなどとも書いてない。しかし、自分の手帳を誰かが拾って読んでいる人がいるかもしれないと思うと気味が悪い。

なぜか中学時代のあることを突然思い出した。自分が放課後の掃除で、机の上を拭いていたら、ある女生徒の机の上に「日記」と書いてあるノートが置いてあった。何気なく、開けてみると、その女生徒のクラスメートの男の子への思いが赤裸々に書いてあった。「えーつ」と驚いた声を出すと、掃除仲間たちが集まってきて、みんな驚いて読んでしまった。

その女生徒は地味な感じでクラスでもあまり目立つ生徒ではなかった。彼女が思いを寄せていたのはクラスの中で明るいスポーツマンである男子生徒であった。「隠していた思いが明るみに出た」事件になった。それはクラスの中で、かなり大きな事件になった。その後は、その二人は互いに気まずい状態になった。二人は互いに避けるようになり、互いの会話はなくなったようだ。

私自身は、担任の先生から呼ばれて、「人の日記だとわかった瞬間に読むのをストップするのが常識ではないか」と大いに叱られた。しかし、その女の子はなぜそんな日記をクラスに持ち込んできたのか、そして、それを自分の机の上に置いたのか。しかも、表紙に日記と明記していたのか、ミステリーである。

おそらく、年頃の女の子たちは自分の思いを互いに相談しあうのではないか。その一環として自分の日記を友人の女の子に見せて、アドバイスをし合っていたのではないか。読んだ友人が日記を返そうとその女の子の机の上に置いたのだろう。そうでもなければ日記などというプライベートなものを学校に持ち込むことはないはずだ。ところで、この事件は私にも影響を与えた。学んだことと言ったらいいのか。

  • 人の日記だと分かった瞬間にそれは読まない。(担任の先生のお叱りを素直に受け入れる)
  • 日記というものは付けるものではない。自分の本当の思いは誰にも言わずに心にしまっておくこと。書くとしても、万が一見つかったときに、万事休すとなるようなことは書かない。
  • 中学生の女の子は、同年代の男の子と比べて2歳から3歳は早熟であること。その日記を読んだ男子生徒たちは私も含めて、その女の子の真剣な思いが「えーつ?」であった。(その当時は現代のように恋愛に関する情報は溢れていなかった)
  • 地味でおとなしそうな女の子でも激しい思いを持っていること。

さて、その二人であるが、時々はその事件を思い出すのであろうか。もう半世紀ほど前の話であるので、笑い話となっているのかもしれない。私を叱った先生はおそらくもう他界しているのではないか。

いろいろなことがあったが、さて、私の手帳はどうなったのか。ある時に、ある場所でひょっこり見つかるといいのだが。他人の手に渡ってないことを切に願う。

写真素材 足成
写真素材 足成

画像が与えるインパクト

2015-07-01

画像に関して自分はあまり意識していなかった。このところ、意識して画像を入れるようにしている。プロの人たちのサイトをみていると、たしかに画像の使い方は上手だと思う。投稿した内容が画像と結びついてうまく管理人の個性を輝かせる働きをしている。気づいた点を箇条書きすると以下のようになる。

  1. 画像の大きさはサムネイルではなくて、大きなサイズである。その方がインパクトが強い。
  2. 一つの記事に対して、一つの画像を使う。たくさんの画像はうるさい感じがするので不可。
  3. 画像の位置は、先頭か、文中か、末尾か、これはプロの人のサイトをよく見て、一層研究する必要がある。
  4. 風景の画像よりも、人物の画像が読者に印象が強く残る。
  5. 日本人の登場する画像よりも外国人の登場する画像を使うブロガーが多い。その訳は、著作権にかかわる問題に抵触することを避けようとしているのか、外国のフリー素材の方がストックが多いので選択の範囲が広がるのか、それとも外国人の登場する素材の方がサイトの持つ非日常性と合致するのか、多分このうちのどれかだろう。
  6. 無料素材のサイトの写真だが、全体にアメリカのサイトの提供する素材の方が、日本のサイトの提供するものより、優れている(自分の印象だが)。
  7. 自分自身で撮った画像は解像度が低いので、先頭のバナーに使うのは不可。画像が滲んでしまう。よって、プロの撮影した画像を使うべき。

自分の管理しているこのサイトは白が多いので、やはり画像を入れないと単調になる。文字も時々は色付きにすべきだろう。今まで自分にあったWordPress のテーマを探し求めていたが、なかなか見つからない。しばらくは現在のこのテーマでいくと決める。ただしCSSの技術を夏休み中に磨いてこのサイトをもっと見やすくする必要がある。さて、今日の画像は下をご覧あれ!

19077254810_6b7357419f_k
flickr

 

 

電車

2015-06-25

朝は石川県の総務部納税課に電話をして、車の納税証明書を再発行してくれるように依頼をする。車の登録場所は石川県であるが、京都の自宅に送ってくれるようだ。何年か前に京都の自宅に送ってくれるように依頼した時は、規則で車を登録してある住所にしか送れないと断られたのだが、今回は送ってくれると言う。融通が利くようになったようだ。現在の車検証のコピーに住所を記載した返信用封筒を同封して石川県の納税課に送ることにする。

なお、係りの人の話だと、4月から電子データを利用したシステムが動き始めているので、どこの運輸支局でも納税しているかチェックできるので、今後は車検に納税証明書はいらなくなるという話だ。始まったばかりで、京都の運輸支局が対応しているかどうかは分からないと言う。車検をお願いしようと思っている業者に電話して、尋ねてみたら電子データを利用したシステムの存在は知らなかった。とにかく、納税証明書は絶対必要と業者は言う。

今日は非常勤で大阪に行く。電車の中では、例によって正岡子規の随筆を読んでいる。今週は『病牀六尺』を読む。晩年の2年間ほどの随筆で、新聞に連載されたものである。この時期は公刊を予定していなかった『仰臥漫録』が書かれた時期と重なる。『仰臥漫談』は生々しいので読んでいて苦しくなるが、『病牀六尺』は一応新聞掲載なので、フィルターがかかっていて、読みやすい。全部で127回の連載だが、ブログで言えば127回の投稿があることになる。病気に関しては、連載9回目に次のような記事がある。

八日には少し善くて、その後また天気具合とともに少しは持ち合うていたが十三日という日に未曾有の大苦痛を現じ、心臓の鼓動が始まって呼吸の苦しさに泣いてもわめいても追っ付かず、どうやらこうやらその日は切抜けて十四日もまず無事、ただしかも前日の反動で弱りに弱りて眠りに日を暮らし、十五日の朝三十四度七分という体温は一向に上らず、それによりて起りし苦しさはとても前日の比にあらず、もはや自分もあきらめて、その時あたかも牡丹の花生けの傍に置いてあった石膏の肖像を取ってその裏に 「自題(みずからだいす)。

ほとんで身動きできない中で、庭の写生や友人たちが持ってきてくれた絵画を鑑賞したりと超人的な努力で随筆を書いていく。しかし、上記のように苦しみに耐えかねて嘆きの声を上げることもある。このような部分は自分も感情移入してしまう。

さて、非常勤先では、O先生と一緒に学生食堂で食事をとる。私は400円のB定食を注文する。O先生と色々と話がはずむ。松本清張の小説『砂の器』を映画化するときに、丹波哲郎が出てきた最初の映画では、犯人の父がハンセン氏病にかかったという話になっているが、最近のドラマ化ではこの部分が問題となり、ハンセン氏病に対する偏見を助長しないようにとあらすじが変更になったことを教えてもらった。

さて、今日の授業は学生の数も少なくて、学生も眠そうであった。私の授業はあまりぱっとしなかったようだ。うーん、学生の反応がいいと、こちらも気持ちが乗ってくるのだが。DSCN7608DSCN7615DSCN7616DSCN7617

帰りは学校から駅まで歩く。途中でいろいろと緑が多い散歩道に格好の場所があるので写真をとる。また日本最古のため池であるという「狭山湖」を見る。水鳥が何羽かいる。静かな光景で心温まる。

さて、帰りだが、阪急京都線の大山崎駅近くで、どーんという音がする。電車が急ブレーキで止まる。人身事故というアナウンスがあって、20分ほど止まる。 飛び込みか?何の放送がない 様子が分からない。いろいろなことがあったが、今日もなんとか自宅にたどり着く。

昔の同僚と会う

2015-06-19

今日は、久しぶりに昔の同僚の先生と酒を飲んだ。その先生は現在、関東の方にある大学では働いている。研究調査の関係で大阪のとある旧家が保持していた資料を調査するために、関西に来ているとのこと、久しぶりに会おうという話になり、烏丸の近くの居酒屋で会うことになった。

時間通りに行くと、店の前になにやら老人が立っている。よく見ると旧友ではないか。10年以上会っていないので、しばらくは分からなかった。かなり老けたようだ。向こうも見知らぬ老人が来たと思っていたのではないか。

話題は近況を語り合い、その後は以前の勤務校での懐かしい話に花を咲かせた。10年も20年も前の話は懐かしい。居酒屋から喫茶店と場所を変えて、4時間ほども語り合った。別れには握手をして、次も元気で会おうと誓い合ったが、今度、旧友と会えるのは、いつの日か。

ブログに顔をのせるかどうか

2015-05-02

急に暑くなる。2週間ほど前は、まだまだ寒いな、と襟袖をたてて帰宅していたのに、なんだか道行く人たちは、半袖の人が増えた。この気候の急変、どうも解せない。

連休が始まった。だが、特に何処か行くところもない。妹からは家族でフランスのパリへ行くとの連絡がライン経由できた。羨ましい。こちらはお金がないので、連休中は静かにしているつもりだ。ときどき、イオンに買い物に行くくらいが、私にとって、ちょっとした贅沢か。

最近、パソコンで人々のブログを読んでいる。日本では何人ぐらいの人がブログを開設しているのだろうか。自分と年齢が近い人のブログを好んで読む。若い人のブログの中には、気迫があって面白いものがあるが、自分の生き方の参考にすることは難しい。やはり、60歳ぐらいの落ち着いて静かに生きている人のブログが自分には参考になる。

自分はブログを開設して、1年以上はたつ。少しずつだが技術的なことも覚えた。見栄えのいい画面の工夫とか、画像の処理とか、リンクの貼り方なども慣れてきた。あとは、プロフィールを作成して、自分をもう少しアピールしてみたいとも考える。西洋人のブログはよく本人の写真があって、それも微笑んでいて、読み手に親近感を与えるようにしてある。日本人のブログでは、作成者本人の写真はあまり載せない。載せたとしても硬い表情が多い、というのが自分の印象だ。

私が自分の写真を載せるのをためらう気持ちの最大の理由は、こんな老人の顔を載せて誰が喜ぶか、ということである。若々しくて、いかにも仕事ができる、という印象を与える顔ならば、載せていいだろう。そんな事は関係ないとも考えたりするが、やはりためらう。ところで、学生が私の似顔絵を描いてくれた。下の画像だが、学生は正直な印象を描いたのであろう。なるほど老け顔だ。ラインでは、「道の駅」で見つけた人形の顔を自分の顔に代用している。自分をアピールすべきだが、どのようにアピールすべきか、顔出しは必要か否かなど、いろいろと連休中に考えてみたい。

IMG_1343b
IMG_1166

『若い二人の心斎橋』の歌詞

2015-04-28

急に暑くなってきたようだ。先週までは寒い日もあって、なかなか春にならない、と思っていたら、突然、初夏になったようだ。ところで、心斎橋の話だが、さらにいろいろと調べてみた。Wikipediaを見ると、次のように記してある。

(1)1962年(昭和37年)に長堀川が埋め立てられて、心斎橋は撤去された後、1964年(昭和39年)に長堀通を横断する歩道橋として移築された。

(2)長堀川と西横堀川と出会うところは四つの橋が架けられてあり、四つ橋という地名だったそうだ。その東側が東長堀川といって、心斎橋はその上に架かっている橋であった。1960年(昭和35年)から東長堀川の埋め立てがはじまった。そして1964年(昭和39年)に埋め立てが完成したとある。つまり、4年ほどかけての大工事であった。

(3)この曲は作詞が佐伯孝夫、作曲編曲が吉田正である。また、『若い二人の心斎橋』が発売されたのは、1964年10月である。

つまり、何が言いたいのかというと、佐伯孝夫が歌詞を構想していた時は、すでに心斎橋は撤去されたあとのようだ。歌謡曲の歌詞が完成するのが1年ほど前と仮定して、1963年に作詞をしたとする。すると、撤去されていたか、あるいは大工事中であって、とうてい、若い二人がロマンティックな気持ちで会えるような場所ではないと思う。佐伯孝夫は現実の心斎橋ではなくて、昔のガス灯がともる心斎橋を想像しながら、この歌詞をつけたのではないか。

「浪速の夜霧にガス灯が青く潤んで君は来る」という歌詞は、佐伯孝夫は関西に住んでいる人からヒントを得て、自分の想像を膨らませて、この歌詞を書いたものであると思う。多忙な彼のもとにいろいろな人が作詞の依頼にきたことと思う。そして、依頼者の話を聞きながら、依頼者と作詞者のコラボレーションでこのような美しい歌詞ができあがったのではないか。つまり、言語は美しい対象物を忠実に描写したから美しいのではなくて、言語それ自体が美しくなりえるのだ。