『定年後の学問の愉しみ』という本をご恵贈いただいた。

私の学問仲間の松原好次先生(電気通信大学元教授)から、『定年後の学問の愉しみ』という本をご恵贈いただいた。松原先生からは、何冊か書籍をいただき、それらの多くをこのブログでも紹介させていただいた。最近では、4月23日のブログにて先生の『カフカレスクを超えて』という本を紹介させてもらった。

今までの本は先生の単著であったが、今回は25名の先生方のエッセイ集であった。この25名の先生方は、いずれも春風社という出版社から本を出版されていて、現在は大学における仕事からは退職しているという点が共通項である。

春風社は横浜にあり、実は私もお世話になったことがある。私の博士論文を春風社から出版させてもらい、その時に、会社訪問をした。そのときに、用件が一段落したあとに、スタッフの方々に横浜の中華街を案内してもらって、一緒に歓談した思い出がある。その時のスタッフの一人であった石橋幸子さんが、こんど同社を退職して新しく出版コーディネートを起業されたとのこと、その石橋さんのご尽力により、この本が世に出ることになったようだ。大学での学問・研究生活を終了して、今後の人生をどのように送るのか迷っている方もいいと思われるが、そのような方に、この25名の方々がどのように今生きているのかを示すことは、有益なことだと思う。

松原先生の「研究と教育の両立、そして・・・・・・」というエッセイが336ページからある。大学では英語を教えていた松原先生は、退職後は自分が学部生の頃に学んだドイツ語に再挑戦しようと決意する。単に独学というのではなくて、大学の生涯学習プログラムやオープンアカデミーなどを利用してドイツ語の再学習の切っ掛けにしている。同好の士と一緒になって勉強できるという点は、やはり東京は便利な場所だなと感じた。私はいまは岐阜市の郊外に住んでいるが、英語以外の言語を勉強しようとすると、独学で行うしかないようだ。

338ページに、マックス・ウエーバーの『職業としての学問』に言及されている。その中の一節は「ある写本の解釈がただしいかどうかに情熱をかけることのできない人は、学者としての職業にはむいていない・・・」と述べてある。今の自分はこの言葉が分かる気がする。何気ない言葉でも、その言葉の選択は作者のいろいろな思いが込められているのである。その思いを発掘して作者の思考を再構築することは、考古学のようなスリルに満ちた作業に違いない。松原先生の『カフカレスクを超えて』でのカフカの文体の分析は、たとえば探偵が虫眼鏡で謎を解いてゆくような姿を彷彿させるものがある。

松原先生の書かれたたくさんの著書の特徴だが、一貫してマイナーな言語への差別の実態分析から、権力の持つ暴力性を露わにしようとしている。それは単に声高に叫ぶのではなくて、事実を示して事実に語らせようとする態度はウエーバーからの影響のようだ。松原先生がこれからもウエーバーからの示す方向へとゆっくりだが着実に進んでゆくことを願うのである。

 

定年後の学問の愉しみ

大学院の修士論文発表会が行われた。


昨日21日に大学院の修士論文発表会が行われた。コロナ感染防止のために、Zoomで発表する学生や、Zoomで発表を聞く人も多数いて、例年とはかなり様変わりの発表会となった。

最初の発表は、生成文法を日本語に適用して、日本語の構文への分析研究であった。私が従来いだいていたイメージとしては、生成文法はもっぱら英語を基盤にして誕生した考えであるので、日本語にどれくらい適用されるのか疑問に思っていた。普遍文法という視点では、あらゆる言語の文法には共通性があり、その共通性に基づいて考案された文法ならば、普遍性は確かにあるだろうとは思っていたが。そのあたりを発表後の質疑応答の時間に質問したら、「生成文法は英語に基づいているが、日本語に適用される試みは数多くあり、それなりに成果が上がっている」とのことであった。

発表会の様子
全員がマスクをして発表あるいは聞き入っていた。

その後はオーラル・ヒストリーに関する研究発表が数点続いた。ある地域の歴史、あまり文献が残されていない事項ならば、その土地の古老から昔話を語ってもらうしかないのだ。それがオーラル・ヒストリーだ。それを文献、ビデオ、録音などの形で残すのだ。

発表者の一人は沖縄の古典音楽について、もう一人は戦後沖縄の公衆衛生についての研究発表だった。それぞれが関係者からの聴き取りを重ねて、歴史の再構築を行っていた。

私自身も退職後は郷里に戻って、郷土史を調べてみたいと常々思っていた。その意味で、お二方のオーラル・ヒストリーの発表は参考になった。ところで、私の郷里だが、高齢化が進んでいる。そして、歴史が次世代に語られることなく消えている。その意味では、私の仕事も急がなければならないと感じた。

研究科での学位論文の最終試験があった。


研究科での学位論文の発表会(=最終試験)があった。これは学生たちが修士論文の概要をプレゼンして、その内容について質疑応答を受けるものである。質疑応答を無事に乗り越えれば、合格となり、修士号の授与へとつながる。

この日は、参加者の相当数がオンラインでの参加であり、また机の間隔をあけての発表会であった。そのために、例年よりは、会場での人数は少ないようであった。

この日の発表のうち、自分史のデータベース化について発表されたI氏の題目について紹介したいと思う。

学位論文の発表

I氏は、現代は家族の歴史が消えかけていると述べる。核家族化が進み、子供が家を継がなくなった。親が亡くなると家が解体されて、写真、手紙、仏壇や墓までもなくなる。家族史を書こうとしてもその手掛かりがなくなっている。そんな時代だからこそ、オーラルヒストリーで自分史を語り、DVD化して、記録に残すことが必要であると語られた。

昭和34年(1959年)の伊勢湾台風の時に、警察官であったTさんからいろいろと聞き取りをして、それをビデオ化して残そうとするI氏の試みは興味深い。これは、5,000年ほどの死者・行方不明者をだした大災害であった。

私自身も、2,3年前にバス停で老人と「伊勢湾台風」について話したことがあった。その日は風が強い日で台風が来そうだとニュースで述べていた。その老人は昭和34年の伊勢湾台風はすごかった、と述べた。岐阜県のこのあたりでも川が氾濫して大変であったと述べた。いろいろと話をしてくれたが、大きな災害を経験した古老たちの話はオーラルヒストリーとして記録に残しておくべきと感じた。

I氏が指摘されたのは、個人のオーラルヒストリーを歴史博物館や寺などに集めておくことで、地域文化の伝承に役立つ、知の拠点形成に役立つという点であった。

私自身も祖父母と父母のヒストリーは残しておきたい。写真などもあるので、なんとかわが家の歴史としてまとめたい気もする。しかし、息子たちは関心を持たないだろうな、と感じる。だが、老後の私自身の趣味の一つに個人史、家族史を書くことは面白そうだとも感じる。

作家の安部譲二が死す。

作家の安部譲二(あべじょうじ)が亡くなった。急性肺炎で82歳であった。この人は中学生の時に、暴力団に加わり、その後は客室乗務員、ばくち打ち、用心棒、キックボクシングの解説者などを経験したそうであり、そのような体験をもとにした小説は軽妙なタッチがあり、かなりの人気作家であった。

昔、私の勤めていた学校で安部譲二を招いて講演をしてもらったことがあったが、その話を昔、このブログで紹介した。

この人の講演を聴いて、とにかく頭のいい人だなと言う印象を受けた。体も大きくて堂々としていて、闇の世界にも通じていて、ヤクザとしても一目置かれていたのだろう。彼があるときに、当時の橋本龍太郎元首相のことを、「橋本首相とは麻布中学校で同級生だった。私の方が成績ははるかに良かったのだが」と週刊誌に述べていたことを覚えている。本人も自分の頭の良さにはかなりの自負心を持っていたようだ。

さて、講演の後に、講演会を企画した関係者と安部譲二との間で昼食会を持った。そのときに、奥様が同伴していた。若くて、背のすらっとした美人であった。安部譲二の自伝を読むと、人間関係に関して、前妻とか、前前妻とか、前前前妻という言葉が次から次と出てきて、この人はいったい何人と結婚したのか分からなくなってしまった。でも、毎回、若くてきれいな人と結婚したのだろうと推測する。その日の昼飯会では、話題が豊富で次から次と面白い話をしてくれた。

さて、Wikipediaでこの人の略歴をみると仰天する。話を盛っているのかもしれないが、普通の人では考えられないような生き方であった。この人の一生を伝記にすればベストセラーになりそうだが、それにしても、複雑すぎて、ちょっと生き様を追うのは難しそうだ。

 

高校での出張授業、大学時代の恩師に挨拶


昨日はある高校で出張授業を行った。観光と英語に関する授業であった。最近は、年に数回は、高校で出張授業をする機会がある。大学生に教えるのと高校生に教えるのでは、教える内容は同じでも教え方は少々変える必要がある。初めての相手であるから、相手の理解度が分からない。生徒達はどの程度のバックグラウンドの知識があるか分からない。そんなわけで、相手に質問をしながら、どのようなレベルで教えたらいいのか判断をしていく。だいたい5~6名ぐらいに質問すると、クラス全体の雰囲気、あるいはその学校全体の雰囲気もつかめてくる。しばらくするとどのような教え方をすればいいのかだいたい勘で分かってくる。

昨日の学校は生徒達は集中して授業を聴いてくれてよかったと思う。時々、この様に高校生の皆さんに授業をすると、大学生とは異なっているので、新鮮な感じがする。教える側としても有意義な経験となる。

さて、それから午後は、大学時代の恩師である亀井俊介先生に挨拶をした。亀井先生がある喫茶店で打ち合わせ中とお聞きして、そこに参加しつつ挨拶をした。亀井先生は私が駒場の時の英語の先生である。それは今から50年ほど前であろうか。亀井先生は当時はアメリカの留学から帰られたばかりの新進気鋭の学者であられた。今では、アメリカ文学の大権威であられる。50年前と比べるとたしかに姿形は大きく変わられたが(それは私も同じであるが)、相変わらず温和で和やかな笑顔が特徴であられた。50年ぶりでお会いしたわけで、先生は現在は、80歳代の半ば頃の年齢であられるが、すこぶるお元気そうで何よりであった。先生はこれからもお元気で是非ともますます活躍してもらいたいと思う。

さて、5限の授業で間に合うように、学校に戻った。5限の授業中だが、雑談をしたときに学生から次のようなことを教えてもらった。学生は犬を飼っている。その犬はオスである。メスと比べてオスは小用をする回数が多いそうである。オスは縄張り意識が強くて、マーキングをして、その場所が自分の領域であることを主張するそうである。なるほど、犬でも性別でそのような違いがあるのか。勉強になったので、このブログに記したのである。

研究誌『国際理解』に論文が掲載される。

帝塚山学院大学の国際理解研究所から発行されている研究誌『国際理解』に私の投稿論文「東南アジアの英語ーフィリピンとマレーシアの事例から」が掲載された。論文と言っても4ページほどなので、正確にはコラムと言った方がいいかもしれない。

東南アジアの英語を紹介しながら、近年ブームになっているフィリピンやマレーシアへの英語留学に焦点をあてて、そのメリットなどを論じたものである。この小論を読んで、一人でも英語留学(英語圏以外の国への留学)に関心を持つ人が出てくることを願う。

さて、昨年1年間は帝塚山学院大学に非常勤講師として通ったのである。そのことが懐かしく思い出される。この大学の学生さんは熱心に勉強してくれて、自分には教え甲斐のある1年間であった。特に後期になってからは、学生たちと歯車が上手く回るようになって、充実した日々であった。昨年のこのブログ日記には、時々その記事を書いてある。今年度は自分が岐阜に転勤になったので、大阪に通うことはできなくなり、非常勤の仕事を続けられなくなったのだが、その点は残念であった。

自分にとっては、大阪はあまり出かけたことはなかった。それで、せっかくに機会であったから、大阪見物もしたのである。非常勤先に行くときは、数時間早めに出勤して途中で必ずどこかに下車して、大急ぎで大阪見物をしたのであった。そんな風にして、通天閣、あべのハルカス、心斎橋、御堂筋、道頓堀などを訪問してみた。大阪は自分にはかなり異文化であり、楽しい混沌とエネルギッシュな町で、大いに楽しめたのであった。そんなことも懐かしく思い出したのであった。

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ブログに微笑んでいる写真を

2016-09-06

最近、よく他人のブログを読むことが多くなった。そこに写真が載っていると、読み手と語り手の距離がぐーつと近くなる気がする。そんなことで数カ月前に自分の写真をブログに載せてみた。こんな老人の写真でも、読んでもらう人には、親近感が増すのではという気がしたからである。

よく、手だけとか、後ろ向きの写真とか、マスクをした写真を載せる人がいるが、やはり正面を向いている写真が一番いいように思える。ペットの写真を載せる人がいるが、これもあんまり賛成しない。

それで、ブログの第一ページに、自分はまず正面を向いた写真を載せてみた。やや威厳をつけて真面目くさった顔だ。ネクタイまでしている。数日、それを載せてみたが、どうも勝手はよくない。クソ真面目な感じで読者はブログを読みたいと思わないのではと思った。

他にいい写真はないかと探したが、自分の教え子が子供を連れて私の研究室にきた時の写真があった。私は横を向いているのだが、微笑んでいて、これならば大丈夫だなと思って掲載することにした。つまりそれらは下の二つの写真である。

真面目な顔をしている。
真面目な顔をしている。
教え子の赤ちゃんに話しかけている。
教え子の赤ちゃんに話しかけている。

最初の写真は神経質そうにカメラを睨みつけるようにしている写真だが、不思議に思うのは、今は亡き父親に年とともに顔が似てくることである。自分は父親とそんなに似ているとは思っていなかったが、年とともに相似点が増えてくる。

ところで、父が亡くなった年に自分の年が段々と近づいてくる。自分は父よりも長生きできるかな、と、そんなことを考える日々である。

実家には父の買い集めた本が残っている。宗教書がけっこうある。若い頃は何も宗教に関心がなかった父だが、年を取ってからは、キリスト教や仏教の本などを読んでいたようだ。

実家は浄土真宗の盛んな地域である。今までに何回と葬儀には参加したが、御坊さんが読み上げる、「朝(あした)に紅顔(こうがん)ありて、夕(ゆうべ)に白骨となれる身なり」という蓮如上人の一節は心にしみる。そんなことをふと思い出す。