2016-07-07
外国語の存在を知るとどうなるのか。人間は生まれたときは、主に母親から言葉を教えてもらう。そして、それが続いていくと、いつの間にやら、言葉と事物の結びつきが必然的のような感覚が生まれてくる。外を見て上に存在するのは「ソラ」であり、向こうに見えるのは「ヤマ」であり、家の横を流れているのは「カワ」であると呼ばれる存在であることが知るようになる。すると、それ以外の名前で呼ばれることがあることを思いつきさえしない。
外国語を学ぶということは、この素朴な「言語=事物」信仰が崩れることである。今までヤマと呼んでいた物が mountain と呼ばれたり、ソラは sky と呼ばれることがあるということを知るのは驚きである。
言葉とは実は代替可能であり、恣意的な存在であること。そのことを知ることは実はあんまり楽しい経験ではない。自分の周りに存在する確固たる世界が崩れて、それが入れ替えが可能な世界であることを知るのは困ったことと感じる人がいよう。
であるから、外国語を学ぶ始めても、母語の世界が一番確実であり、+アルファとして外国語を学ぶのだ。というふうに考えたがる人も多い。
ギリシアの人々は外国人をバルバロイ(βάρβαροι)と呼んだ。これはバルバロス(βάρβαρος)の複数形である。バルバロイとは「聞きづらい言葉を話す者」または「訳の分からない言葉を話す者」の意である。
外国語を学ぶとしても、この態度が一般的であろう。自分の母語の世界に安住して、他の言語はバルバロイであると退ける態度である。
しかし、なかには、学校教育では、バルバロイの言語を学ぶ機会を与えてくれたことで(あるいは、「強要してくる」とも言えるか)、今までにない言語観を持つこともあろう。新しい言語観を打ち立てることが可能になるのであるが、二つの可能性が可能であろう。
一つの方向性は言語とは虚構である。全く恣意的なものであり、そこでニヒル的な考えに陥ることである。すると社会全体にもニヒルな考えを抱くようになる。もう一つは新しい言語文化にのめり込み、言語と事物の結合を全く新しくしようとすることである。外国かぶれといえよう。
日本語の上手な、ある中国人の人とおしゃべりしていた時に、その人は、「日本に来て10年経つのに、まだ中国語を忘れないで困る」とすと述べていた。自分は、ちょっと驚いた。バイリンガルであるその人にとって中国語の能力は資産であると思っていたのに、その人は負債と考えていたようだ。その人は中国語を介した事物と言語の結びつきから、日本語を介した事物と言語の結びつきの世界へと全面的にのめり込みたかったようだ。その人は、日本に永住する予定のようだ。
言語と事物の結びつき、まったく否定してニヒル的な感覚を抱く人、あるいは新しい結びつきを求める人、ただ、多くの人はやはり母語による言語と事物の結びつきは、いくら頭では否定しても母語の影響は残っている。そして、何となく言語と事物は繋がるように気がする。それは原初的な感覚であり、いつまでも強く残る感覚である。