高速道路の運転は眠くなる。

2015-12-20

昨日は子供を迎えに関西国際空港と自宅を運転往復した。帰りだが、昼飯を空港内のレストランでとり、それから家族をのせて、京都の自宅に向かったのである。自分は、(これは他の人も同じと思うが)たくさん食べると眠くなる。その日は高速道路の運転なので、眠くなってはいけないと思い、食べ過ぎないようにと心がけていた。

ところが、そのレストランの食事は思いのほか美味しくてたくさん食べたくなった。「これはいけない」と思ったが、思い切り食べてしまった。帰りの運転で、しばらくして、30分ほど運転すると案の定、眠くなってきた。家内にミカンをむいてもらい、それを食べながら何とか眠気を覚ましながら運転していた。しかし、いつの間にやら、家内も眠り始めた。

私もかなり眠くなる。前後の車と接触しそうになり、一瞬はっと気づき、ハンドルを握り直す。首を曲げたりして眠気と戦うが、どうしても眠くて眠くて仕方がない。それで、高速道路を降りることにした。茨木・高槻のインターで降りる。普通の道に戻ると、ようやく眠気がなくなった。

普通の道ならば、信号があり、ストップしたり歩行者の確認などと操作することが多い。目を覚ます刺激をいろいろ受ける。ところが、高速道路はどうしても単調な運転になる。カーブでもない限りは、ハンドルを回すこともなく、基本的には、何も操作をしないで、じっと握っているだけの時間だ。昼食後の時間は眠くなる。

買い物をすることになり、我々は高槻のイオンに入った。私は適当な場所を見つけてそこで睡眠を取ることにする。その間、家内と息子は買い物をする。しばらく小一時間ほど眠る。いい気持ちだ。睡眠ほど素晴らしいものはない。ようやく生き返った心地だ。高槻イオンから自宅までの運転は安全第一の運転で無事自宅に到着する。

自分の反省は、高速道路運転の前は食事をするべきではなかったのだ。するとしても軽く空腹を押さえる程度にすることだ。そして、睡眠防止のガムなどを購入しておくべきだったろう。それから、自分のようなシニアが高速道路を運転するのは、あまりよくない。運転の機会は徐々にへらしていこうと思った。

photo credit: 20111113_IMG_1299.jpg via photopin (license)
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このブログの将来は?

2015-07-16

このブログだが、いろいろと変えたいと思っている。このブログのタイトルは「言語21世紀塾」である。一見すると「言語」に関する知見や「21世紀」の動向を語るブログのように見える。固定ページの部分はたしかに言語政策の年表を提示しているので、一応は言語とは関係する。

しかし、投稿ページ(本来のブログ)にあたる部分は、私の個人的な日記になっている。今は教員として働いているので、英語教育や授業、学生のことにも触れるので、ある程度は言語とも関連するページがある。

しかし、将来、退職して故郷に戻ったら何を書くことになるか。これからもブログを続けたいと思っているので、退職後は、家庭菜園の話などが中心になるだろう。キュウリを植えたらすくすく育ったとか、トマトをカラスにかじられたなどの話を語ることになる。

そうなると、このブログのタイトルは内容と合わなくなってくる。それで、このサイトを二つに分けたいと考えている。日々の投稿(ブログ)と固定ページ(サイト)を分離したいのだが、どちらかを引っ越しさせる作業は面倒くさそうだなと思う。このブログは1年以上書いているので、かなり分量もたまっている。手作業で引っ越しは難しい。一挙に移行してくれるプラグイン(WordPress で機能を追加してくれる小さなプログラム)があればいいのだが、サイトを越えて働くプラグインはなさそうである。

今日は非常勤先の仕事で大阪の方面にこれから向かう。台風がきているので心配だ。交通機関がマヒしたら困ったことになると思う。台風の大阪を経験する、それでカメラを持って行って、台風の写真をたくさん撮ろうと思う。オリジナルの写真は本やブログのページに入れるのに役立つ。いずれにせよ、たくさんの画像はその人の財産になるのだ。

PiTaPaを使う

2015-04-16

今日は非常勤講師として初めての出講である。大阪の南の方にある大学に向かう。本格的に電車通勤をするのは本当に久しぶり、そう40年ぶりである。昔、会社員だった頃、毎朝、満員電車にぎゅうぎゅう詰めにされて会社に出勤していた。そのころは、20代で若かったし、通勤とはそんなものだと思っていたので、さほど苦には感じなかった。

その後は、車や徒歩、バスでの通勤となり、本格的な電車通勤はほとんどなかった。それで久しぶりの電車通勤であるので、やや興奮していると言える。少し余裕がでたら、梅田駅、心斎橋駅、難波駅の周辺を、通勤の途中に探検してもいいかなと思っている。

この10年は京都に住んでいたが、ほとんど大阪に行ったことはなかった。京都の市内を見るだけで忙しくて、その他の地域を訪れることを忘れていた。自分の住んでいるところは実は大阪に近い。最寄りの駅から40分ほどで、梅田に行くことができる。もっと大阪を知るべきだったと反省をしている。巨大都市の大阪には訪れるべき場所がたくさんある。江戸時代の商人文化の伝統が残っている。大阪探検を今年の目標の一つにする予定である。

さて、最寄りの駅からは、PitaPaというICカードを使う。切符を買わなくてもいいのは本当に助かる。技術進歩の成果だ。それ以外は40年前の電車通勤の頃とほとんど変わらない。乗客も同じような顔つき服装の人々である。ただ、その頃の自分は乗客の中では若い方だったが、今は乗客の中では年長の方だな、と、その点が異なることに気づく。

さて、自分が出勤する時間帯は、ラッシュアワーを過ぎているので、乗客はさほど多くない。おかげで、結構座れる。阪急京都線では座れた。次の御堂筋線はラッシュアワー並みの混雑で座れない。そして南海電車では空いていて簡単に座れた。暖かい日で、気持ちがいい。昨日までの冬が戻ってきたような寒さはもうない。今日は通勤は楽であった。駅を降りて途中で、大根の花が咲いているのを見つけた。大根の花は今の時期に咲き、そして白い花であることを知った。色は白くて結構派手に咲いているのが意外だった。写真に撮る。

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さて、非常勤先での授業だが、今日の学生さんたちは熱心に私の話を聴いてくれて、ありがたい。私はこれからもテキストと PowerPoint を相互に使い変化をもたせて、また、できるだけ学生との対話形式にして、なんとか90分という時間に飽きがこないように工夫をしたい。

野菜の名前

2015-03-15

今日は家内と一緒に久御山のイオンに買い物に行った。野菜売り場に行ったが、今まで何気なく通り過ぎていたが、野菜の名前に注目したら、自分の知らない野菜の名前がたくさんあったので、びっくりした。新しい名前の野菜がたくさん登場している。自分が全く見当がつかないものを Evernote に打ち込んでみた。すると次のような名前の野菜を自分は知らない。

しろな、にんじん菜、おくらの新芽、フリルレタス、パクチー、タイム、チャービル、ルッコラ、ピューアベール、みぶ、なばな、とうがん、サンチュ、などである。この中で「にんじん菜」や「おくらの新芽」は見当がつく。しかし、にんじんの葉っぱ(or 新芽)を食べることは、昔はなかったと思う。おくらも成熟していない新芽を食べるようだ。

米売り場に行ったら、無洗米と名付けてある米を売っていた。洗ってない米!?とは何かか。このあたり、分からない。それから、「きぬひかり」という銘柄の米を売っていた。このように米の種類は親しみやすくて売れそうなネーミングが付いている。昔みたいに「農林47号」のようなネーミングでは、無機的すぎて、買い手達から拒絶反応にあうだろう。

豊かな時代とは、種類が広がり、そこから選択する楽しみが増えることである。本当は、たいして、違わないのだろう。だが、ほんの少しの差異がまるで生き死ぬを左右するように人間は騒ぎ立てる。このように、分類がますます精緻になっていくのはいいけれども、人間たちは追いついていけるのか。
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今日の夜、外食で、神の河(かんのこ)を飲んでみる。初めて飲む焼酎だ。なんだか、ウイスキーと味が似ている。ウイスキーを燗して飲んでいるみたいである。

高速道路で運転する

2014-10-20

土日曜と石川県の自宅に行った。日曜日はドライブしながら京都へ戻る。北陸自動車道と名神高速道を使うわけだが、運転の緊張感が異なる。北陸道は車も少なくて、のんびりとドライブができるが、米原から名神高速に入ると車の数が増えてとたんに緊張感が高まる。渋滞が時々あるのも名神高速の特徴である。京都に近づくと高い防音壁のため外界が見えなくなって閉鎖感が高まる。(大阪市内の高速を走るとこの感じが極端になる、ドライブが怖くなる)ドライブに集中するので外をみて楽しむことができなくなる。

さて、ドライブしながら、例によっていろいろと観察して、さらに愚考する。4時間あまりのドライブだが、ほとんどは山の中の高速道を走ることになる。日本は緑の国であるとつくづく感じる。「青い山脈」という歌があるが、まさしく青い山脈の中を走る感じである。この「青い」と「緑色の」の区別が難しい。日本語では伝統的には「青」が現在の「緑」「青」「藍」を含む語であり、意味する範囲が広かった。その伝統が現在でも続いており、本当は緑色のものでも青という表現を用いる。青信号、青野菜などの言い方にその名残が残っている。

種田山頭火の句「分け入っても分け入っても青い山」を思い出す。どう見ても、山の色は緑だが、伝統文化に親しんでいた詩人達は「青い山」「青い山脈」と歌ったようだ。私が歌を作るとしたら、「緑の色濃い山々」という表現しかつくれない。「青い」という表現は思いつかないな。

次の話題だが、この季節は、セイタカアワダチソウとススキをよく見かける。自分はセイタカアワダチソウは嫌いである。むかし、 外国人の女性がセイタカアワダチソウを素材に使って生け花を作ったと話すのを聞いて、自分とかなり感覚が違うと感じたことがあった。ネットで調べてもススキは好きと言う人が多いが、セイタカアワダチソウを好きと言う人は少なかった。40年ぐらい前からこの草が増えてきたようだ。ススキとの領土争いは有名で、近年はススキもある程度は勢いを取り戻しているようだ。

松がところどころ枯れているのが見える。松食い虫による被害と思われる。色が茶色に変化している。これは紅葉の色とも異なっている。石川県の海岸沿いは防風林としてたくさんの松があり、その結果たくさんの松食い虫も蔓延する。同じ種類の木ばかり植えると何か病気や虫が広がりやすいのだと思う。その意味では、様々な木が育っている雑木林が一番最強だと思う。

高速道で見る山で、多い木は杉や檜のようだ。ほとんどの山は人の管理で同一種の木ばかりが目立つ。北陸のあたりは昔は照葉樹林で覆われていたのだが、人間は利用しやすい針葉樹に置き換えていった。しかし、若い人で林業に関心を持つ人が少なくなり、山を自然に任せるようになると、これらの針葉樹の山々は次第に本来の照葉樹林へと戻っていくと思われる。するとバラ、クスノキ、サザンカ、ツバキのように葉が厚くて色の濃い木が増えるだろう。すると、山の色は現在の針葉樹の緑色から藍色に近い緑色になるのではないか。

200年後にこの北陸道をドライブする人はどのように山を見ていくだろうか。多くの木は照葉樹林に置き換わっていて、葉の色が濃くなる。そのために、その頃の詩人達は「藍色の山脈」と歌うかもしれない。

庭が発するメッセージ

2014-10-15

今日帰宅しようとして、職場の門の近くを通ったらキンモクセイの香りがした。意外な気がした。キンモクセイの花は散ってしまったと思っていたからである。とりわけ台風が数日前にあったので、残り少ないキンモクセイの花もすべて散ったと思った。キンモクセイでも種類によって遅咲きや早咲きがあるようだ。

自分が石川県にいたころ、20年ほど前だが、キンモクセイの木を購入して玄関の前に植えた。しかし、地面が固くて、なかなか根が張れないようで、その木は成長しなかった。それで、土の柔らかい裏庭に植え替えたら、そこは日当りが悪くて、やはり成長せず、半ば枯れたような状態のままになった。育つ環境を与えられなかったことで、その木に対して申し訳ない気がしている。

定年後に石川県に戻ったら、そのキンモクセイを実家の庭に植え替えして、何とか生き返らせたいと考えている。さらに3本ぐらいキンモクセイを追加で植えようと考えている。定年退職後は実家の庭の管理をするのは私の責任になるのだが、どんな風にするか時々構想する。その構想が楽しい。キンモクセイ、アジサイ、コスモスなどで、異なる種類の花木を植えて1年中何かの花が咲くような庭にしたい。

庭の手入れの仕方も持ち主の感性というかセンスが表れる。実家の庭は、祖父は家のまわりを大きな樹木で囲んでいた。ちょっとした森の中に家があるという印象だった。父の代になると木の数を減らして光が入るようになった。母の代になると、徹底的にまわりの木を切って、家だけがぽつんと建っているという印象になった。

近年は田舎では、みんな家のまわりに木があるのを好まないようだ。虫がつくこと、日当りが悪くなること、台風で木が倒れると家に直撃する恐れなどの点である。もっと光を!

京都に来てから緑に飢えている状態になった。職場まで歩く途上は緑が少ない。小さな建て売り住宅が多くて、庭もすべてセメントで駐車場にしてある家が多い。三階建ての小さい家が密集している。(自分はそんな小さい家も買えないで安アパートに住んでいるのだが)このあたり散歩が楽しくない。緑が少ないからだろう。殺風景な印象の地区である。

緑が少ないがゆえに、緑に対して敏感になる。昔、埼玉に住んでいた時、通勤の途上に、緑が豊かな家が何軒かあった。その家の前を通るのが楽しみだった。季節によってそろそろあの庭の花が咲く頃だ、と待ちこがれてしまう。通行人もそれらの緑をながめて楽しむことができた。きれいに手入れされた庭の家、その前を通る時は、ほっとする。庭の持ち主のセンスが感じられる。Self-presentation である。庭は通行人に対して持ち主の個性というメッセージを発している。すてきな庭を見ると、持ち主は自然に対して畏敬の念を抱き、心穏やかな人だと想像するが、だいたい当たっているだろう。

現在の通勤の途上には、庭の見える家はない。高い塀の家が何軒かあるのだが、中の庭が見えない。残念な気がする。通行人にも庭木を眺めるという楽しみを与えてもらいたいのだが、防犯上の理由で庭を高い塀で囲っているようだ。京都は緑の少ない町である。少なくとも私の住んでいるこの地区は少ない。

キンモクセイ

2014-09-30

今日は9月の最後の日である。キンモクセイの香る季節となった。職場に行くまでに5、6カ所でキンモクセイを見かける。今が一番咲き頃のようだ。

ところで、植物間でもコミュニケーションをするという話を聞いたことがある。たとえば、ある植物は害虫に侵入されると、独特の「香り」を発して、仲間の植物に危険信号として伝えるそうである。その信号を受けた植物は防衛の準備をする。体内に害虫の苦手な物質でも生み出すようだ。またある植物は、特別な香りを発して、その害虫の天敵を呼び寄せるようだ。それも害虫ごとに香りが異なっていると言う。不思議な植物のコミュニケーションである。

さて、このキンモクセイの香りは何を伝えているのか。どのようなコミュニケーション・システムなのであろうか。キンモクセイの種は見たことがないので、昆虫を呼び寄せて花粉を運ばせる目的でもないようだ。キンモクセイの美しさと香りはいったいどうしてか。今度じっくりと調べてみたい。

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