言語政策を考える。

2016-04-27

「言語政策を考える」だが、8月締め切りのある論文のタイトルなのだ。今その内容を愚考中である。言語政策とな何か、これに対して言語計画という言葉もある。言語政策と言語計画を別の概念として定義づけしようとした論文もあったが、この区別は学界には広まらなかった。

言語政策とは抽象的で大枠を語るとあんまりピンとこない。やはり、ある時代のある地域を特定しないと語りにくい。その意味では、歴史性と地域性に限定されると言えるであろう。

私が関与した本、『世界の言語政策』も、要は論文集であった。多くの人が地域を決めて、ある時代の言語政策を語ったのであった。それらを集まると、言語政策共通の何かが浮かび上がってくる点もある。

人間の言語に対する思い入れは深い。人々は他人を言葉遣いで判断する。言葉遣いを観察することで、その人の教養や人柄、生まれなどを推測するのである。そのことを知っているが故に、人々は自分の話し方、書き方などに細心の注意を払うのである。自分の持つ言葉を変えようとするのである。

さらには、外国語を勉強しようとする。それは言語のレパートリーを増やすことである。その目的はその文化に対する憧れやどうかしたいと願うことから生じることがある。それは「統合的な動機」と言われているものである。しかし、他方、それを利用して、金儲けや出精の手段にしようとして勉強すること、それは「道具的な動機」と呼ばれているもである。

これは、ガードナーとランバート(Gardner & Lambert)という二人の研究者が、フランス語を学ぶカナダ人学習者に対する研究から、学習する動機を統合的な動機(integrative motivation)と道具的な動機(instrumental motivation)に分け、前者による学習の方が効果的であると発表したのである。

しかし、日本の受験界でももう一つの動機を想定したらいいかもしれない。それは、受験をパスするためだけに勉強すること、合格したらきれいさっぱり忘れるつもりで、嫌々勉強すること。そんな学習を消極的動機(negative motivation)とでも称したらいいのか。先ほどの統合的な動機と道具的な動機は、いずれにせよ本人に取っては有意義な動議付けであるから、積極的動機(positive motivation)と名付けたい。(これは私の勝手な用語であり、学界では使われていない)

さて、言語政策もこれらの動機付けを参考にして、分類ができるのである。が、今日はここまで。

音吉/『日本語の科学』

2015-05-10

ある先生が私の研究室に来られていくつかの話をしてくれた。興味ふかい話を一つ教えてもらったので紹介したい。幕末のころだが、船乗りだった音吉という少年たち3人が難破して遠くアメリカまで流されたしまう。そこでアメリカインディアンに奴隷として捕まる。しかし、その後イギリス人に売られて、さまざまなことを経験した後に、この3人はチャールズ・ギュッラフというドイツ人宣教師に手伝って世界で最初の日本語訳の聖書「ギュツラフ訳聖書」を出すことになる。そのとき、ヨハネによる福音書を訳するときはいろいろと苦労があったようだ。

ヨハネの福音書の冒頭は今では「始めに言葉があった」と訳されている。日本語訳を担当した彼らは普通の生活を送っていた船乗りであり、何か教養があったわけではない。この聖書の翻訳は、彼らの言葉、すなわち船員言葉を用いて訳したそうである。またその村の唯一の教養人であるお寺の和尚さんの説教を思い出しながら翻訳をおこなっていったので、和尚さんの口調がまじっているそうである。「ことば」を「かしこきもの」と訳したので、冒頭の部分は「はじめに賢きものがあった」となったそうだ。

この先生は数年前まで本学の教授であったが、定年退職されて、現在は非常勤で働いていらっしゃる。定年後の身の振り方などをいろいろと教えてもらった。また、このように学問的な話も教えてもらい、今日はとても勉強になった。

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今日は注文していた本『日本語の科学が世界を変える』(松尾義之、筑摩選書)が到着した。研究者仲間のM先生から面白い本があるからと薦められたので注文したのである。先ほど読み上げた。確かに面白い本なので、これまた紹介したい。私自身は日本の科学の研究はたしかに盛んであるが、応用方面の科学が盛んであり、理論研究や純粋な科学研究(基礎研究)は不得意であると思っていた。しかし、この考えは間違っているようだ。現代では、その分野もかなり成果を出している。日本人研究者たちは日本語という西洋語とはかなり異なる言語で思考するので、西洋人の気づかない視点から考えることができる。その点が最近の科学研究に有利に働いている。そのような内容がこの本の趣旨である。以下、面白いと思ったか所を下に示す。

p.21 ハングルは漢字を捨てたことで同音多義語が増えて混乱が生じて学問研究にはかなり不利になった。(サムソンの躍進などを見ると韓国の科学技術もかなりの水準に達したという印象を持っていたがそうではないようだ)

p.27 世界共通の言語はブロークン英語である。世界中の人が自国なまりの英語で互いにコミュニケーションをしているのが現実である。(私も同意する)

p.118 日本人は思考で「中間的」なものに関心をしめす。湯川博士の中間子論も日本人の典型的な思考の成果である。

p.130 西洋の思考は、「二者択一」の傾向がある。それゆえに、曖昧なものへの敵意、反感が見られる。

p.136 ノーベル化学賞と物理賞の違いは、分子より大きいものを対象とするのはノーベル化学賞であり、原子よりも小さいものを対象とするのはノーベル物理賞である。(これは私の全く知らなかったことで、なるほど)

p.142 近年、日本から画期的な発見が相次ぐ(私は日本の科学は西洋よりもかなり遅れていて、せいぜい応用の分野でなんとか頑張っているという印象を持っていたので、これは意外であった)

p.159- 西澤潤一博士と東北大学の貢献度についても教えてもらった。西澤博士はノーベル賞に値する研究をされているようだ。

p.210 アメリカやヨーロッパからの論文が最近つまらなくなった。また中国、韓国の論文も数は増えているが、つまらない論文ばかりだという。

以上、かなり科学史や最新の科学情報など門外漢の自分にたくさんのことを教えてもらった。日本語がどのように科学に貢献するのか。とにかく英語ばかりに頼ると思考が袋小路に陥る危険がある。やはり、多文化、多言語という下地があって、はじめて科学の発達がありうるということのようだ。

ホテル・モントレーでの会合

2015-03-19

昨日はある研究者仲間の先生方とお会いして情報交換をした。場所は烏丸通りにあるホテルモントレーの一階の喫茶室である。雰囲気のいいホテルであるが、外国からの観光客が多くなり、満室状態が続き、宿泊は難しくなってきているとお聞きした。以下に教えてもらったことを記す。

(1)Wikipedia の情報量は大変なものであり、とりわけ英語版は充実している。その英語はモデルになりうるかという点だが、どこの国の英語であるかは記されていない。例えば、en.wikipedia.org のように、冒頭に en の文字があるのは、英語版であることを示すだけである。us. uk. のような文字が付加されていてアメリカ英語、イギリス英語で書かれたことを示す表記はない。

(2)Wikipedia はオープンであり、著作権が設定されていないので、フリーに使える。

(3)著作権は執筆者の死後50年までである。(なお、ネットで調べると、アメリカやヨーロッパでは死後70年までとなっている。たとえば、バートランド・ラッセルは1970年に亡くなっているから、2040年までは、著作権が有効である)

(4)アメリカ政府公刊の資料は著作権は設定されていない。「ゴアの報告書」などは問題ない。

(5)GUTENBERG (日本では青空文庫が該当する)で提供しているデータは自由に使うことができる。

(6)TED ( Technical Education and Design) という団体があり、そので提供している英文やビデオはフリーである。Ted Kyoto などのプレゼンの利用もフリーである。

(7)アメリカの産業の力の根源は、世界中から優秀な人を集めることのできるシステムにある。50-70年代はドイツから亡命してきたユダヤ人が技術革新のリーダーとなっていた。(ネットで調べると、スティーブジョブズの父はシリア人のようだ)

そのほかにも、いろいろと教えてもらった。研究者仲間たちにはいつも大変に感謝する。

中村教授のインタビュー

2014-10-09

ノーベル賞を取った中村修二教授が日本とアメリカの文化を比較していろいろと述べている。日経ビジネスonlineのバックナンバー(2013年7月9号)に、「国境を越える人材争奪戦」というインタビューが載っていて、日本文化へのかなり辛辣な批判となっている。以下にその一部を引用する(http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20130705/250730/)。

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(引用始まり)

質問者:移民はアメリカの強さにつながっているということですか。

中村:いろんな人がいるほど社会は安定するんですよ。物理学にエントロピー増大の法則ってありますね。なんでもバラバラになろうとする。バラバラになったほうが安定するんです。

日本は平等サラリーマンでみんな同じ。アメリカは貧乏人からスーパー金持ちまでいる。みんな同じというのは崩壊する運命なんですよ。エネルギー的にこんな不安定な国はあり得ない。 

世界はアメリカ式の国になっていくのではないかと僕は思っています。日本は一番不安定なんですよ。今つぶれる方向に向かっているのは良いことなんです。新しい時代に合ったシステムができるから。

質問者:技術者として見た場合、アメリカの良いところは何でしょうか。

中村:全員がアメリカンドリームを見るチャンスがあることでしょう。いい発明をしたら、誰でもビル・ゲイツみたいになるチャンスがある。日本ではそんなチャンスは与えられていない。永遠のサラリーマンなんです。一生懸命働いても途中で肩たたきにあって、年収が半分になってしまうのが日本の科学者や技術者。

ベンチャー企業もありますけれどアメリカに比べるとないに等しい。有名大学、有名企業に入って永遠のサラリーマンをやるのがいいと思っている。全くの間違いなんですが。「こんなサラリーマン生活はわしの夢じゃなかった」と気がついて酒場で酒飲んで文句を言う。そういうのをすべて壊さないといけません。

質問者:ご自身も企業で技術者をしていました。

中村:ええ僕もそうでした。出たのが徳島大学でしょ。電子工学科だと、夢は東芝、ソニー、シャープ、松下(電器産業、現パナソニック)に入ること、それが夢ですから。成績の良い順に推薦を受けて入社できるんです。

学科には100人くらいいましたが、成績1番の学生は電電公社、今のNTTに行けるわけです。「電電公社に推薦で入れるぞ、1番になれ」って。もう洗脳ですよ。アメリカじゃ考えられない。夢見るのは個人でベンチャーをやることですから。

質問者:大学にも責任があると。

中村:こちらの大学だと工学部の教授はほぼ100%、企業のコンサルティングをやっています。そして50%は自分のベンチャー企業を持っています。学生も自然にベンチャーに目が向くわけです。日本はゼロですよね。

質問者:日本に外国から人材が来てもらうには何が必要だと思いますか。

中村:やはり言葉でしょうな。英語は世界標準語です。特にサイエンスや技術ではそう。学会でも全部英語です。ですから英語ができる国にしないとまず来ない。アジアで人材が集まっている国はシンガポールと香港ですよね。

日本は保守的だから難しいと思いますけれど、一度崩壊したら言葉も英語にしてやり直したらいい。日本民族だけで日本語しか使わないのではどうしようもない。

質問者:日本企業でも英語を公用語化しようという動きが出ていますが。

中村:いや言葉は企業だけではダメでしょう。小さい頃から変えないと。例えば、小学校では英語以外しゃべらないとか。国語も英語にする。保守的な人が「とんでもない」と言いそうですが、学校では勉強も遊びもみんな英語にする。週何時間か授業でやるだけでは無理ですよ。

質問者:英語以外の課題は何でしょう。

中村:日本もアメリカンドリームを見られるようなシステムを作ることです。ベンチャーに投資して金持ちになる、自分でベンチャーをやってお金を稼ぐ。そういうことが可能なシステムを作る。
(引用終わり)
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昨日のニュースで中村教授のノーベル賞受賞のアナウンスがあった。このインタビューのポイントは、「様々な移民がいることがアメリカの強さである」「日本でも、日本語から英語へ教育言語を変えるべきである」「アメリカでは有能な人はベンチャービジネスを指向する」である。なるほどと思う部分があるが、そうかな、と賛成できない部分もある。

スーパー金持ちから極度の貧困層まで様々な階層がいるのがアメリカの特徴だ。日本では良かれ悪かれ、あくまで比較的だが、人々の所得にさほど差はない。大会社の社長と平社員の年収の差は、アメリカほど極端に異なることはない。アメリカでは、能力があって、社会的に上昇できるエリートにとっては、こんなに楽しい社会はないだろう。しかし、能力がない人たちにとっては、何の意味がある社会なのだろうか。すべてが自己責任となる。そんなことに人は耐えられるのか。いや、エリート達も常にスーパーマンであり続けなくてはいけないので、本当に楽しいのか疑問に思う。

日本の社会で、帰宅して風呂上がりにビールを飲みながらテレビでプロ野球観戦も楽しいではないか。だいそれた望みなど疲れるだけで、小さな幸福でも十分に結構、と自分は考えるのだが。