2014-10-09
ノーベル賞を取った中村修二教授が日本とアメリカの文化を比較していろいろと述べている。日経ビジネスonlineのバックナンバー(2013年7月9号)に、「国境を越える人材争奪戦」というインタビューが載っていて、日本文化へのかなり辛辣な批判となっている。以下にその一部を引用する(http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20130705/250730/)。
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(引用始まり)
質問者:移民はアメリカの強さにつながっているということですか。
中村:いろんな人がいるほど社会は安定するんですよ。物理学にエントロピー増大の法則ってありますね。なんでもバラバラになろうとする。バラバラになったほうが安定するんです。
日本は平等サラリーマンでみんな同じ。アメリカは貧乏人からスーパー金持ちまでいる。みんな同じというのは崩壊する運命なんですよ。エネルギー的にこんな不安定な国はあり得ない。
世界はアメリカ式の国になっていくのではないかと僕は思っています。日本は一番不安定なんですよ。今つぶれる方向に向かっているのは良いことなんです。新しい時代に合ったシステムができるから。
質問者:技術者として見た場合、アメリカの良いところは何でしょうか。
中村:全員がアメリカンドリームを見るチャンスがあることでしょう。いい発明をしたら、誰でもビル・ゲイツみたいになるチャンスがある。日本ではそんなチャンスは与えられていない。永遠のサラリーマンなんです。一生懸命働いても途中で肩たたきにあって、年収が半分になってしまうのが日本の科学者や技術者。
ベンチャー企業もありますけれどアメリカに比べるとないに等しい。有名大学、有名企業に入って永遠のサラリーマンをやるのがいいと思っている。全くの間違いなんですが。「こんなサラリーマン生活はわしの夢じゃなかった」と気がついて酒場で酒飲んで文句を言う。そういうのをすべて壊さないといけません。
質問者:ご自身も企業で技術者をしていました。
中村:ええ僕もそうでした。出たのが徳島大学でしょ。電子工学科だと、夢は東芝、ソニー、シャープ、松下(電器産業、現パナソニック)に入ること、それが夢ですから。成績の良い順に推薦を受けて入社できるんです。
学科には100人くらいいましたが、成績1番の学生は電電公社、今のNTTに行けるわけです。「電電公社に推薦で入れるぞ、1番になれ」って。もう洗脳ですよ。アメリカじゃ考えられない。夢見るのは個人でベンチャーをやることですから。
質問者:大学にも責任があると。
中村:こちらの大学だと工学部の教授はほぼ100%、企業のコンサルティングをやっています。そして50%は自分のベンチャー企業を持っています。学生も自然にベンチャーに目が向くわけです。日本はゼロですよね。
質問者:日本に外国から人材が来てもらうには何が必要だと思いますか。
中村:やはり言葉でしょうな。英語は世界標準語です。特にサイエンスや技術ではそう。学会でも全部英語です。ですから英語ができる国にしないとまず来ない。アジアで人材が集まっている国はシンガポールと香港ですよね。
日本は保守的だから難しいと思いますけれど、一度崩壊したら言葉も英語にしてやり直したらいい。日本民族だけで日本語しか使わないのではどうしようもない。
質問者:日本企業でも英語を公用語化しようという動きが出ていますが。
中村:いや言葉は企業だけではダメでしょう。小さい頃から変えないと。例えば、小学校では英語以外しゃべらないとか。国語も英語にする。保守的な人が「とんでもない」と言いそうですが、学校では勉強も遊びもみんな英語にする。週何時間か授業でやるだけでは無理ですよ。
質問者:英語以外の課題は何でしょう。
中村:日本もアメリカンドリームを見られるようなシステムを作ることです。ベンチャーに投資して金持ちになる、自分でベンチャーをやってお金を稼ぐ。そういうことが可能なシステムを作る。
(引用終わり)
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昨日のニュースで中村教授のノーベル賞受賞のアナウンスがあった。このインタビューのポイントは、「様々な移民がいることがアメリカの強さである」「日本でも、日本語から英語へ教育言語を変えるべきである」「アメリカでは有能な人はベンチャービジネスを指向する」である。なるほどと思う部分があるが、そうかな、と賛成できない部分もある。
スーパー金持ちから極度の貧困層まで様々な階層がいるのがアメリカの特徴だ。日本では良かれ悪かれ、あくまで比較的だが、人々の所得にさほど差はない。大会社の社長と平社員の年収の差は、アメリカほど極端に異なることはない。アメリカでは、能力があって、社会的に上昇できるエリートにとっては、こんなに楽しい社会はないだろう。しかし、能力がない人たちにとっては、何の意味がある社会なのだろうか。すべてが自己責任となる。そんなことに人は耐えられるのか。いや、エリート達も常にスーパーマンであり続けなくてはいけないので、本当に楽しいのか疑問に思う。
日本の社会で、帰宅して風呂上がりにビールを飲みながらテレビでプロ野球観戦も楽しいではないか。だいそれた望みなど疲れるだけで、小さな幸福でも十分に結構、と自分は考えるのだが。