ジム・カミンズ/マルセル・ダネシ『カナダの継承語教育』を紹介する。


高垣俊之先生(尾道市立大学、教授)から訳書『カナダの継承語教育』(明石書店)の新装版をご恵贈いただいた。ここに感謝の念を示すと同時に、この本の内容を紹介したい。

この本は、原題は Heritage Languages : The Development and Denial of Canada’s Linguistic Resources であり、執筆はJim Cummins とMarcel Dansei の両教授である。日本語に訳されたのは、中島和子先生(トロント大学、名誉教授)と高垣俊之先生である。この本は2005年に初版が出ており、今回はその新装版である。

この本はカナダの継承語教育の歴史を述べている。タイトルにあるように当初の継承語教育は Development であったが、近年はその後退の傾向が見られるので、Denial という表現を用いたようだ。カナダはマイノリティの言語教育の先進国と思われていたのだが、その国でさえもマイノリティへの言語教育への理解は順調ではない。そのような現状を認識できて私には有益な本であった。

以下、自分が気づいた点を箇条書きにしてゆく。

p.14  継承語(Heritage Language)という表現は、先住民とイヌイットの言語ならびに英仏両語は含まないという点である。私の認識は、先住民の言語も含まれていると思っていたので、この点は意外であった。

p.158 Heritage Language に対して、「継承語」という訳語を当てられたのは、中島和子先生が初めてとのことである。「遺産言語」という訳語も見かけられるが、「遺産」という表現はどうしても過去を引きずるが、子供の人間形成に深くかかわる生きた言語という意味で「継承語」という訳語を採用されたとのこと。なるほどと納得した次第である。

p.72 モノリンガリズムのコストという概念は面白い。ふつうは、バイリンガリズムは一つの言語をプラスして覚えるのであるからコストがかかるというのが一般常識であった。しかし、他国の言語文化を理解できる人がカナダにいることで、計り知れぬ外交的・経済的なメリットが生まれるとのことだ。安全保障の視点からも、コストがかからないのである。

p.77 ここでは、継承語も並行して学習した児童の方が、継承語の学習を減らしていった児童よりも、成績が良いという報告がいくつかある。

p.87  1920年から1960年にかけて、バイリンガリズムこそが子どもの言語上のハンディや認知面の混乱をきたす要因と学者たちが考えていたとのこと。これはその当時の時代背景が見えてくる。マイノリティの言語文化は無駄であり、早く主流の言語文化に染まることが教育の狙いであった。

p.88 に付加的バイリンガリズム(additive bilingualism)との訳語が提示されている。p.108の訳注では、加算的バイリンガリズム(additive bilingualism) との訳語である。この場合は、訳語は統一した方がいいのではと思う。

p.89  言語を二つ学んでおくと、第3番目の言語を学ぶときに役に立つとの指摘は、私の経験からもなるほどと思う。

p.99 第5章は、カナダにおける「ろう」児への言語教育について述べられている。私自身はこの分野は知識がなかったので、非常に興味深く感じた。


以上、私の感想である。カナダは「多文化・多言語主義」ではなくて、言語は英仏だけの2言語に絞った、「多文化・2言語主義」の国であると思っていたが、意外に多言語への動きがあった点が興味深かった。その動きが現代ではやや後退している点は残念である。

なお、この本は白色のハードカバーの本である。ハードカバーにしては、2,400円と手ごろな値段である。

 

DVD『聲の形』を見る。


近くのビデオショップでDVD『聲の形』のアニメを借りてきた。非常に面白くて感動した。

切っ掛けは、ある授業で学生が大垣市を紹介するときに、有名な『聲の形』の舞台が大垣市であることを発表したことだ。その学生から、アニメの中で登場するケーキ屋は実在するのであり、美味しいケーキを売っている店として有名であることも教えてもらった。ビデオショップで、このタイトルを見つけたときに、そんなことを思い出して、借りてみようという気になったのだ。

大垣市は実際にたくさんの水路があって、水の豊かな都市として知られている。映画の中でも水のイメージがたくさん出てきて、なるほど大垣市らしいと感じた。

主人公は石田将也という少年であり、相手は西宮硝子という聴覚障害の少女であり、この二人の関係を巡ってストーリーは展開する。

小学校のクラスに西宮硝子という転校生がやってくる。石田翔也はその子をいじめてしまう。ところが、その子をいじめたことで逆に自分がいじめにあってしまう。

高校生になってから、ふとしたことで、二人は再会するのだが、小学生の頃の過去を引きづりながら、周囲を巻き込みつつ、次第にわかり合ってゆくようになる。

聴覚障害、いじめ、と難しいテーマをこのアニメに盛り込んだが、上手く成功したと言えるだろう。

「聲の形」と、題名を「聲」の字にしたのは、作者が、この字は「声と手と耳」が組み合わさってできているという説があることを知り、「気持ちを伝える方法は声だけじゃない」という意味を込めて「聲」という旧字にしたようだ。

このアニメを論じている、いろいろな解説を読むと、このアニメは聴覚障害を特に取り上げたわけではなくて、人間同士のコミュニケーション障害に焦点を合わせたかったようだ。コミュニケーション障害を乗り越えるために、人は声、手、耳を活用していくのだ。

女主人公の西宮硝子は、筆談、スマホ、手話とコミュニケーションを図ろうとする。周りもそんな彼女の求めに応じて、手話を学ぶ人が増えてくる。この映画はアニメだが、手話の場面は指の動きをはっきりと描いており、指の動きでも意味が分かるようになっている。

さらには、彼女は声を出すことも始めている。主人公に「好き」という言葉を伝えるあたりはこのアニメの圧巻でもある。音声はぎこちないが、ある程度は伝わるように訓練の成果が出てきている。

ただ、このアニメで主人公の石田将也と女主人公の西宮硝子の二人とも自殺を図ろうとする点は、どうも自分には必然性はないように思える。他者とのコミュニケーションが取れないことは、それくらいの絶望を人に与えるという点は理解できるが、このアニメでは二人はそこまで追い込まれているようには思えないのだが。


追記(2017-08-06)

最近、『君の名は』を見る機会があった。この映画の魅力の一つは舞台となっている飛騨市の美しい自然と落ち着いた町並みが描かれていることである。東京という大都市と飛騨という地方の小都市を対照させることで、飛騨市の落ち着いた優雅さが目立った。とにかく、風景がアニメ化されると、東京も飛騨も幻想的な雰囲気が出て、別の魅力が出てくる。

ところで、『聲の形』は、各場面に大垣市内の風景が盛り込まれている。作者がたまたま大垣市出身ということで、この場所を選んだようだ。大垣は水の都というイメージがあるそうだが、現在は、運河なども埋め立てられて、さほど水が多い町というイメージはない。ただ、このアニメでは、橋や川が頻繁にでてきて、水の豊かな大垣市を印象づけている。

この二つの映画ともヒットしたので、舞台となった飛騨市、大垣市とも観光地としてのイメージアップにつなげようとしている。飛騨市では、ウエブサイトに映画の聖地巡りのmap まで掲載している。大垣市も似たようなことをしている。

中学や高校の修学旅行や遠足などで、これらの地域を訪問することは有効だと思う。話題になったアニメなどで、その聖地巡りをすることで、その地域の産業や自然、特徴などを知ることにつながる。身近な話題から入ってゆくことで、子どもたちの関心をより強く引きつけることができるだろう。

聲の形のウエブサイト

差別語について

先日、学生と差別語について話をしていたら、「白痴」をいう言葉を知らないことに気づいた。成績がいい学生であるが、そんな学生でも「白痴」という語を知らなかったのだ。

現代ではこの語は差別語と見なされているようだ。そのために、もうマスコミに登場することはない。新しい小説や映画などでこの語が使われることもない。この語は抹殺されてしまったのだ。

私はパソコンで文章を作成するときはATOKを使っているが、この語を書こうとして「はくち」とキーを打ち込むと「白地、泊地、白雉、迫地」とは変換できるが、「白痴」とは変換できない。この語への変換は不可能にしてある。(でも、「白池」とは何か。この語は私は知らない。白い池を表すのか。)

ATOKを開発したのは四国にある会社だが、この会社は差別用語になりそうな語はすべて変換できないようにしている。実験的に幾つかの語の変換を試みたが、かなりの語が変換不可能になっている。

差別語と見なされる語は放送禁止用語として、マスコミは自主規制をしている。マスコミでは使わないようにしているために、若い人たちの目に触れることはなくなってきた。そのために若い人は知らなくなってきた。この勢いが続くと、「白痴」という語は完全に消えるだろう。

もともとは中立的な語であったのが、侮蔑の意味が加わると、言い換えが行われる。言い換えられた語が時代と共に侮蔑の意味が付いてくる。そこで言い換えが行われる。

差別語は消えても、差別はなくならない。ただ、人間は、子どもから大人になるにつれて多様性ということに寛大になる。世の中のことを知ることが多くなるにつれて、いろいろな人が世の中にいるのだ、ということを知るようになる。そしてその存在を自然に受け入れるようになる。

差別をなくすためには、差別語をなくすよりも大切なことがある。子どもたちが、多様な人々との接触の機会を持つようにすることで、存在を受け入れられるような意識改革ができると思われる。

Web の作り方にはまる

2015-07-08

このところ、毎日他人のブログを読み漁っている。面白いのは、Web 制作をしている若い人たちのブログである。WordPress を利用している人はテーマを選ぶ必要がある。自分のこのサイトのテーマはTwenty Twelve という世界的にかなり普及していて、安定しているテーマである。バグもなさそうである。Webの知識のある人ならば、ソースを書き直して自分流にアレンジすることもできるのだろうが、現時点では私には無理である。

このサイトは自分は名前を出して顔出ししている。一応、自分公式のサイトである。ただ、名前を出しているブログへの投稿は気分的に制約がある。勤務校の企業秘密などは漏らしてはいけないし、知っている人のプライバシーにも触れないようにしている。何となく窮屈な感じもする。

それで、近頃は匿名の新サイトを立ち上げた。そして、そこでは自分の思うこと、一番関心あることを書いている。それはウエブ制作である。今のこのサイトでは、「言語に関する知見を発信する」ことが建前であるから、そこから外れたことは書きたくない。ウエブ制作の細かいことは新サイトに書いている。技術的な事項で自分が新たに生んだことを備忘録を兼ねて記しているのである。

他人のブログを読むのは好きである。当初は中高年のブログを好んで読んでいた。健康、介護、年金、植物観察など、自分の関心とも重なるので、興味深く読んでいた。しかし、最近はちょっと飽きた気がして、若い人のブログを読むようになってきた。

一番迫力があるのは、Web制作にあたっている人のブログである。Web構築にあたって試行錯誤したこと、つまづいた点などを正直に書いてあるので、自分にも参考になる。また、技術的なことが書いてあっても、時々は、その人の人生観、生活の苦労話が垣間見られるので面白い。

近頃感動したのは、寝ログというサイトを運営している「わいひら」Yhiraさんのことである。Yhiraさんは首から下は動かない。事故で頚椎損傷となり手足を動かすことはできないのである。顔の動きでパソコンの操作がパソコンを操作している。最近は技術的な進歩が著しいので、障がいを持った方でも、かなり機能を補佐できるようになってきている。(この方のブログを読んでいると正岡子規の随筆集『仰臥漫録』を思い出す)

Yhiraさんのブログは、技術的にとても参考になる。その方はWordPressのテーマを一つ開発された。Simplicity というテーマである。単純明快、簡単で易しく操作できることが特徴だと謳ってある。無料でダウンロードできるので、さっそく入手して、私の新サイトに適用してみた。すこぶる調子がいい。新サイトに投稿するのが最近は楽しみである。

それから、キャリコさんのブログも最近気に入っている。この方は自分のブログを「WordPress や STINGER5 のカテゴリを中心に徒然なるままに綴る個人ブログ「 Calico 」です」と紹介している。この方は無料で入手出来る画像の一覧表を教えてくれている。「フリー写真素材サイト超絶まとめ61選」というページである。(もしかしたら、勝手にリンクを貼るのはルール違反か?このあたりマナーを知らないので、ご容赦を!)

自分はこのところ、画像に関心を持っている。と言うか、画像と文字の結びつき、文章の中にでどのように画像を並べたらいいのかという点である。容易に画像を入れられるのは書籍と比べてのWebの利点であろう。その利点を最大限に活用するにはどうすればいいのかが、私の関心ごとの一つである。

さて、ブログを見ていると自分にとっては出会いがある。与沢翼さん、わいひらさん、キャリコさん、それぞれしっかりしたブログである。歳をとってきたので、自分はもう外に出歩かないで、家の中で他人のブログだけを読むだけという生活にしようかな。

下の画像はcredit表記はいらないBEIZ Graphics というサイトからダウンロードした。

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あべのハルカスに行く。

2015-05-28

今日は非常勤の仕事で大阪に行く。途中の電車の中で正岡子規の『病牀六尺』を読む。死の4か月前の子規の随筆で鬼気迫るものがある。自分の母は最期の4か月は身動きできなくなった。そこまでは同じだが、母は認知症が進んで、意思疎通もおぼつかなくなっていた。そんなことを思い出しながら、この本を読んでいた。

DSCN7370DSCN7375さて、今日は途中下車として、あべのハルカスに行くことにした。御堂筋線の天王寺駅で降りる。駅のすぐそこに近鉄デパートの入り口がある。10時の開店に備えて人々が並んでいる。ほとんだが、中高年の人である。こんな時間帯にデパートの入り口に並べる人は中高年だけであろう。自分は切符売り場へ向かい、展望台への切符を購入する。1500円であった。エレベータまで道のりが長い。係りの人がたくさんいて、道のりを案内してくれる。ようやくエレベータに入るが、16階で乗り換えて、そこから別のエレバーターで展望台まで上っていく。そこにも係りの人が何人もいる。かなりの数である。

展望台から,いろいろ見ることができる。大阪も結構緑があることに気づく。天王寺公園がある。四天王寺がある。オープン早々なので、まだ人は少ない。その人々は感嘆の声を上げている。

DSCN7391DSCN7400下に降りて、天王寺公園内にある美術館に向かう。緑が濃い。ここからのあべのハルカスの姿がよく見える。何枚か写真に収める。ざっと一時間ほど、残念ながら美術館の中に入る時間的な余裕はない。すべてを大急ぎで済ませてから、非常勤先に向かう。

途中でいつも食事するうどん屋で680円のサービス定食を注文する。680円と思っているが、支払いの時には税金が加算されて724円と言われる(それで自分はいつも損をした気になる)。今日は千円札を出したら、「千円札でいいですか」と言われたので、小銭入れの中を探して24円を出す。すると、現金係の人は嬉しそうに受け取った。小銭はいつも不足するのであろう。

さて、非常勤先で授業をする。今日は色々と準備をして行った。学生は知らないが、有益な知識を提供できたので、まあまあの成功をおさめた授業だったと自画自賛しておく。

DSCN7408DSCN7410そのあと、非常勤先のO先生から誘われて、その大学の別のキャンパスまで一緒に散歩することにした。二つのキャンパスの間はあるいて20分ほどか。大阪とはいえ、まだ田舎の面影を残す散歩道を歩く。O先生の学問に対する情熱、若い頃の苦労話など、話は弾んだ。近年の大学の状況など、どこの学校も似たような状況であり、互いに励ましあった次第である。

さて、帰りの電車の中、正岡子規のことを考える。病気で苦しんで身動きできなくなった人でもあんなに観察力のたしかな日記(随筆)を残している。五体満足な自分は、今日もいろいろなことを見聞きすることができた。感謝の気持ちとともに、このブログを書き込んでいるのである。もちろん、子規ほどの迫力のある文は書けないが。

投票日に成人になる人は?

2014-12-07

12月14日は衆議院議員総選挙の投票日である。実は息子の誕生日は12月14日である。そして選挙の日に20歳の誕生日を迎える。それで、気になっていたのは、この日に20歳を迎える人物は投票権があるのかないのか、ということであった。そんな話を家族でしていて、おそらく今年の1月1日現在で20歳だった人だけが投票権があるのでは、などど勝手に決めつけていた。

すると、ちゃんと息子にも「選挙のお知らせ」という葉書がきた。息子は張り切って人生初めての投票をする、と意気込んでいる。ところで、私が不思議に思ったことだが、選挙には、「期日前投票」という制度がある。息子が期日前投票をしようとすると、それは可能だろうか。まだ20歳には達しないのだから、無理だろうなと思うが、どうなのか。電話を掛けて聞いてみようかとも思うがどうだろうか。

ネットで調べると、「不在者投票」という制度もあり、これは他の市町村(投票日にその場所にいる場合)、病院や老人ホーム(身動きができない場合)、自宅(身体障害の人・要介護5の人の場合)で行うことができる。自宅で投票するときだが、前もって投票用紙を送ってもらい、自宅で記入して郵送で送るのである。自宅で投票する場合は、投票の数日前には記入して投函しなければならない。すると、投票日に成人となる人はやはり投票する権利はないのかな、と考えたりした。

とにかく、何でも厳密に考えていくと、どんな制度でも完璧はありえないようだ。

触手話

2014-11-10

今日の8時からのハートネットTVは「見えず聞こえずとも」であった。京都の郊外に住む梅木好彦さん(67歳)、久代さん(64歳)の夫婦の物語であった。久代さんは視覚障害と聴覚障害の二つの障害を抱えている。久代さんと夫の好彦さんは触手話という方法でコミュニケーションを取りあっている。

この触手話という方法に関心を持ったので、ネットで調べてみた。すると盲ろう者のコミュニケーションhttp://www.jdba.or.jp/about/about_communication.htm というサイトを見つけた。そこでは、触手話に関して次のようなことが書いてあった。
「聴覚障害者が使っている手話を基本としている。両手を使って手話を使う相手の両手に軽く触りながら触読するところから、「触手話」と呼ばれている。弱視の人は近い距離から相手の手話を目で見て理解することもある。視野の狭い弱視ろうの人と話す場合は、手話の動きを小さめにする必要がある。弱視の人は暗いところが苦手であったり、逆に明るいところではまぶしくて見えなかったり様々なタイプがあるので、その人に合わせた環境を選ばなければならない。」

好彦さんは、新しき村(武者公路実篤)の考えに共鳴してそこに入り農業に従事した。やがて一人で生活をするようになり、味噌や醤油も自分で作っているとのこと。誰かの役に立ちたいとヴォランティア活動をするなかで、久代さんと知り合い、 54歳で結婚したとのこと。そして、現在、同じ障害を持つ人たちと交流の場を作っている。お二人の日常がよくテレビで描かれていて、好番組であった。もちろん、二人の生活は山あり谷ありだろうが、お二人が静かな日々を今後も続けてほしいと願った。

私が関心を持ったのは、盲ろう者とのコミュニケーションには様々な方法があることである。上記のサイトをそのまま引用する。
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指文字
相手の手のひらの中に、指文字を綴って会話する方法。受け手は手のひらを軽くすぼめて、指の形が分かるようにしたり、手のひらへの当て方で、文字の形が識別できるようにするなど、若干の工夫が必要。日本手話で使われている指文字をそのまま使う方法と、アメリカ手話のアルファベットをローマ字式に綴る方法とがある。日本手話の指文字の場合、左右や上下の動きがあるため、盲ろう者の場合はアルファベット式の方が理解しやすいと言われているが、「ろうベース」の盲ろう者は、ほとんどが手話と一緒に日本手話の指文字を使っている。

指点字
両手の人差し指、中指、薬指の6本の指を差し出し、これを点字タイプライターのキーに見立てて点字記号を打つ方法。向かい合わせで会話するときと、横に並んで会話するときでは、点の位置が左右逆になる。どちらのタイプなら理解できるのか、会話を始める前に確かめてから行う。日本で発達した独特なコミュニケーション手段で、1語1語正確に言葉を伝えることができる。人によって理解できる早さに差があるので、まず相手が読み取れる早さをよく理解してから始める必要がある。

プリスタ通訳
「ブリスタ」はドイツ製の点字タイプライターで、1枚の紙に点字を打つのではなく、幅13ミリの紙テープに点字が1列に打たれて出てくるものである。途中で頻繁に紙を替える必要がないことと、軽量で音が小さく、会議などの通訳に用いられることが多い。横に並んで1本の紙テープを複数の人で読むこともできる。打たれた点字が本人の指先に送られてくるまでの時間差があるのが難点。即時性のある指点字と組み合わせれば、スムーズな会議参加を図ることができる。

手書き文字
相手の手のひらに指で直接文字を書く方法。特別な技術を身につけなくても、誰にでもできるのが利点。多くの盲ろう者が理解できるが、かな文字を使う人、カタカナ文字を使う人、漢字も含め、どんな文字でも大丈夫な人、読むのが早い人、遅い人様々である。
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視覚障害だけでなく聴覚障害も加わると、コミュニケーションが著しく困難になる。しかし、人々はそんな中でもいろいろと工夫をしながら、コミュニケーションの方法を見つけ出している。それは素晴らしいことである。

人は加齢とともにいろいろなことができなくなっていく。自分の母親を見ると、寝返りが打てない、立てない、歩けない、食事ができない、唾が飲み込めない、排便ができない、などである。自分の身内、自分を含めて、誰でも障害を持つ可能性があることを考えると、この番組の問いかける意味は深いと思った。