遥洋子の本を読んだ。

2016-02-22

昨日、古本屋に行ったら遥洋子著『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』という本を見つけた。購入する。100円だ。これは安い。昨晩から読み始めて先ほど読み終わった。

遥洋子さんは勤務校に来て講演をしたことがある。その時の講演はとても面白かったので、このブログでも昨年の7月25日7月26日にそれぞれ感想を記してある。そのことも購入した理由だ。二日ほどで読む。一番興味が引かれたのは、上野教授のゼミの様子である。そこは、議論の戦いの場であり、ちょっとでも緩いことを言うと、たちまち教授から罵倒されてしまう。ゼミの場が言葉の真剣勝負の場になっていることを知って面白いと思った。

近頃、『パイドロス』を読んでいるが、パイドロスとソクラテスの討論のあり方に納得するものがある。ソクラテスは相手に語らせて、時々質問しながら、相手に自ら悟らせるという方法をとる。非常にゆっくりとした方法だが、その当時のゆっくりと時間が流れる時代に似つかわしい方法のようにも思える。ソクラテスの方法は産婆術ともいわれ、真理という赤子を生み出す産婆のような働きをするものである。

遥洋子さんの説明による上野ゼミの議論は真剣で持って戦う気迫が伝わってくる。しかし、この本を読んで限りでは議論に勝った負けたということで終わりがちであり、真に納得したということにつながるのかちょっと疑問である。

自分は近頃、朝はFox Radioを聴いている。Alan Colmes がホストを努めるトークショウをよく聴く。視聴者とAlan Colmes との間の議論を聴くと驚くことが多い。Alan Colmes は遠慮無く、相手の曖昧な議論を攻撃する。特に、人種問題などの議論では、相手の議論の根拠や知識の前提を問いただす。日本では、視聴者とトークホストはもう少し穏やかに議論し合うのだが、Alan Colmes の番組ではケンカのようになることもある。これがアメリカ式なのかと驚く。小学生から議論の戦いの訓練をしている西洋人相手に、日本人が議論をふっかけてもかなうわけがない。

西洋人の場合は、論破されても悪感情をいだくことは少なく、相手と相手の議論とを切り離すことができると聞く。この点は日本人とか異なると聞くが、それでもある程度は論破されれば西洋人でも相手を恨むことはあるであろう。

昨年末、私は『クリティカル・シンキングのすすめ』という英文テキストを同僚の研究者たちと共同で発刊した。そのことをこのブログの12月4日の記事に記した。 このテキストの特徴の一つは、問題提起として2人の対話から各レッスンが始まるのである。1人が疑問を出して、それに対して他方が答える形の対話文であり、一応は何か結論に達するような構成にしてある。対話の部分はソクラテスの対話篇の、問いかけがあり最終的には結論に達するという形を意識した。ただ、半ページほどの対話文であり、スペースの制約があり、その点は切り詰めた対話文となった。次回、チャンスがあれば、2人の対話が自ずから結論に至るような英文のテキストを作成してみたいと思う。

西洋で生まれた対話法だが、元祖ソクラテスのように全面対決でない、のんびりした対話の繰り返しで、最終的に相手を納得させる方法が日本人には向いているような気がする。

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『パイドロス』を読み始める。

2016-02-21

昨日、本屋さんで岩波文庫で『パイドロス』(藤沢令夫訳)を見つけたので購入した。朝から読んでいる。この本は大学生のころ読んだことがある。大学の2年生の頃か、プラトンの対話編を5,6冊ほど続けざまに読んだのだ。これら対話編は特に、面白いという印象は受けなかった。その中でもこの『パイドロス』は比較的わかりやすいかなと思った、だが、感動して心が震えたという程ではない。

しかし、この年になって、若い頃と比べて人生経験が豊かになっているので、もしかしたら『パイドロス』が面白いと思うかもしれないという期待で読み始める。

読み方としては、注は全部読みながら、注でも分からないところは、googleで確認して、ゆっくりと読んで行くことにする。疑問に思った点や面白かった点を一つ一つ紹介していきたい。

(1)冒頭の部分に、「紀元前5世紀の終わり近く、真夏のある晴れわたった日の日盛り」とある。古代ギリシアの時代の年号の数え方は西暦を使うわけがないので、どうしたのかと思う。グーグルで調べるとその頃はオリンピア紀元を用いたとある。

古代ギリシアでとられた紀年法。第1回オリンピックが開かれた西暦紀元前776年7月8日を起点に4年の周期をもって循環する数え方で、この周期をオリンピア期とよび、具体的にはオリンピア期何回の何年目、たとえば紀元前310年はオリンピア紀117回第3年と数え、Ol.177,3のように記す。[渡辺敏夫]

すると、この紀元前5世紀の終わり近く、という文章は後世の書き直しであることが分かる。紀元前5世紀の終わり頃として、たとえば、紀元前の410年の話だとすると、この箇所は776年マイナス410である366を4で割ると91で余りが2であるので、オリンピア紀366回第2年と数えるべきか。

とにかく、かなり昔のことである。日本でいえば古墳時代で倭の五王がいた時代だ。そんな時代に語られたソクラテスとパイドロスの対話が現代まで残っているのは興味深いことだ。

(2)リュシアスという当時有名な物書きが話したことをパイドロスが何回も聞いて暗誦できるほどなので、「是非ともその話を聞きたい」とソクラテスがうるさく願うのである。

こんな風にソクラテスは人々に話しかけて人の話を聴くことが好きであった。自由に語らせて、そしてその話の矛盾を突いて、真理に導くのであるが、現代のように論戦という激しいものではなくて、穏やかな、やんわりと相手の理論の矛盾を指摘して、相手に自然と分からせるという形式の対話であった。(この数ページ読んだ印象から自分は判断する)

(3)ソクラテスはいつも裸足であるいていた。p.186に「彼はいつも、体操場の片隅や市場などで、青年たちを主な相手に、人々の疑惑や嘲笑を浴びながら、役にも立たない無駄話と人々が読んだような談論を交換していた」とある。

想像するに、みすぼらしい格好で、裸足で、人々に何かを語りかけては、一人で肯いたり首をかしげたりする、変な年寄りという評判を得ていたのであろう。

私の村にも一人そんな人がいた。頭はいいのだが、変わった人で、よく人の家に来てはくどくどと話をしていく。人々からは「うざい」と思われながらも、平気な人がいた。あの人はソクラテスみたいな人だったのだと思う。

photo credit: Socrates via photopin (license)
photo credit: Socrates via photopin (license)

テキスト『クリティカル・シンキングのすすめ』が発売される。

2015-12-04

私も執筆参加したテキスト『クリティカル・シンキングのすすめ―基礎から応用への総合英語 』が南雲堂から発売された。執筆者は高垣先生、斉藤先生、ライト先生、木村先生、そして私である。

このテキストの狙いは、学生に英語力だけでなくて理論的に考える力を付けてもらいたいという意図から生まれた。

最近の大学生は理論的に考えることが苦手になってきたとよく言われる。でも理論的に世の中を見ていかないといろいろと社会に出てから失敗することが多くなる。感情にまかせて生きていけば結局は損をするのは自分である。新聞や広告宣伝をすぐに鵜呑みにしてしまう、巷の偏見やステレオタイプをすぐに受け入れてしまう、これは自戒の念も込めて自分自身を鍛え上げる必要がある。

そんなことで、英語力と思考力養成を二つの大きな目標にして、「Critical Thinkingで学ぶ総合英語教材」を目指すテキストを執筆したわけである。本書のキーワードは“Critical Thinking”である。このキーワードがこの本の柱となっている。骨太の本ができたのではと思ってる。

手前味噌になるが、ただ単に、正解を出すだけではなく、出来るだけ様々な考えに触れ、「批判的思考」に基づく思考力を鍛える事で、英語で物事を正しく捉えられるように工夫が凝らしてある。

そこでは、会話やパッセージを通じて、多岐にわたる思考のあり方を学び、それに続くExercisesで物事の適切な捉え方を実践学習しながら答えを導き出す訓練を行っている。

そして、英語力習得のみならず、学生の皆さんが将来必要とする思考力の習得を目指した総合英語テキストである。と良いことづくめの宣伝をするが、とにかく一回手にとって見ていただきたい。96ページほどの手軽な本である。この本をじっくりと読むことで何か自分自身が変わっていくことを感じるのではないか。

新刊テキスト『クリティカル・シンキングのすすめ』
新刊テキスト『クリティカル・シンキングのすすめ』

分かりやすい文は良くない。

2015-07-18

いろいろな人のブログを見てみると、いわゆるプロのブロガーと呼ばれる人の文体には一応に特徴があることに気づく。それは一言で言えば、「分かりやすさ」である。まず結論を述べている。そして、結論をサポートするような文章が続く。それらは本論である。最後には「まとめ」として結論+アルファが示される。

また段落の前に小見出しをつける。小見出しは線で囲んだり、文字を大きくして強調する。忙しい人は冒頭の結論を読み、小見出しを拾っていくことで時間の節約をしながら文を読んでいける。読者は途中でこれはじっくりと読む価値のある文だと判断すれば、最初に戻りゆっくりと読み始める。

プロのブロガーの人たちの文は情報提供型である。どのメーカーの一眼レフカメラを購入したらいいのか迷っている人には、ずばりA社のこの機種がいいと述べてくれる。そして、その理由を述べてくれる。読者はそれで納得してカメラを購入する。これが分かりやすい文である。

ところが、最近、自分は「分かりやすい文は実は良くない」と思うようになった。それはどうしてか。理由は、冒頭に結論が述べてあるからである。プロのブロガーも、本当は、結論を見つけるまでには、さまざまな試行錯誤を繰り返したと思う。読者たちは、その試行錯誤を知りたいのだ。ブロガーたちは、B社の一眼レフカメラを購入してみたら、こんな長所に気づいたとか、友達から借りてC社のカメラを使ってみたら、こんな失敗をした。それらを経験したうえで結論を書いてあるはずである。その経験を知りたい。

自分は人の結論よりも、その人が結論に至ったプロセスを知りたいと思う。推理小説ならば、冒頭で犯人は誰かと教えてもらうよりも、推理の過程、そのプロセスを知ることが面白いのだ。いろいろ迷ったが、結果として結論が出なかったという文でもいいかと思う。試行錯誤をしたけれども結論には達しなかった。どのメーカーの一眼レフカメラがいいのか、断定できない、という話でもいいと思う。悩みながら選択しようとしたプロセスを語ってくれるならば、読者には十分に役立つ。

さて、自分の文の書き方はどちらか。やはり後者だな。自分は書きながら考えるタイプだ。行ったり来たりする。自分の生き方もそうだ。失敗することをある程度は織り込み済みであるから、挫折の経験もトラウマではなくて、勉強と思うようにしている。

デールカーネギーを聴く

2015-06-04

デールカーネギーの本『道は開ける』『人を動かす』の英語の原文を、このところ通勤の途中で iPod で聴いている。原文のタイトルは、How to stop worrying and start livingHow to win friends and influence people である。とても勇気付けられる本である。

アメリカ社会特有の楽天さ、楽観主義は日本人が学ばなければならないものである。「人生は何度でもチャンスがある」というメッセージをこの本は伝えてくれる。抽象的なことを述べるのではなくて、具体的に、アメリカの何々市に住んでいる何々さんの実体験を紹介することで、読者に分かりやすい事例を示している。

授業でも抽象的なことを述べるのではなくて、具体例を幾つかあげて、それを学生がまとめるように形にすべきであろう。異文化理解の授業で「日本社会は対決型ではなくて調和型である」ことを示すならば、そのような事例を3つほど提示する。そして諸外国の事例をも3つほど提示して、両者を比較させる。比較して、何か一般化できる法則を学生に見つけさせる。帰納法を使った授業になる。最初に「日本社会は調和型で、この国の社会は対決型である」と授業の冒頭に言ってしまうと、学生は最初から抽象的な法則を提示されたのではきょとんとするだけだ。発見型の学習にならない。

いろいろなことを考えるが、とにかく自分自身の生きかたにもこの本は役に立つ。自分の年齢だが、まだチャンスはあるという気がしてきた。歩くときは背筋を伸ばして、常に楽しいことを考えて、人と話すときは目をしっかり見ながら相手の話を真剣に聞こう、という気になった。この本を読んで学んだことを箇条書きにすると以下のようになる。

  1. 自分の目標をクリアーにする。何がしたいのかはっきり決める。
  2. 関連した情報を集める。
  3. その情報に基づいて決断をする。
  4. その決断を実行する。

自分の目標は「子供が大学を無事卒業する」であり、次は「所有する家のリフォームをする」である。当面はこのようなことか。そのためには、自分は「金を稼ぐこと」と「健康であること」が大切である。さて、この金を稼ぐことが難しいのだが、できることから始めていきたい。

研究仲間達との会合

2015-03-16

今日は研究者仲間の先生方4名と会って今後の研究の方針などを相談した。キーワードは、多文化共生社会 (multicultural symbosis)である。できたら、今年の9月10日〜11日にイギリスの学会で発表しようということになった。申し込みをして発表が認められるかどうかは5月ごろに分かるとのこと、無事に認められることを願っている。

S先生からは、東京近郊の越谷市における多民族共生の実態に関して報告があった。越谷市は人口が30万人ほどの町で外国籍住民は4400人ほどである。いろいろと産業が多いので、そこで働く外国籍の人が多いようだ。多文化・多民族・多言語の共生についてはどの自治体も真剣に取り組んでいるとの印象を受けた。

そのほかに、本を出版しようという企画があり、そのこともみんなで話し合った。私自身はこの企画を Million-Seller 計画と名付けている(かなり大胆なネーミングだが、夢だけは大きくありたい)。 まだ内容を公表できる段階まで達していないのだが、この出版が教育・学問の世界に貢献して、同時に私たちのキャリア・アップにつながることを願っている。

相談が終わった後で、みんなで京都駅構内を探検した。京都駅は1997年に現代的な建物に生まれ変わり、重厚な立体感を訪問者に与えるようになった。長い長い階段とエレベーター、空中径路、高所にある広いスペースなど、いい意味で京都らしくない空間感覚を感じる。

寺社・仏閣だけの観光では、京都の街はもう生きていけない。これからは、伝統と現代を融合させた新しい文化が京都の特徴になるべきだ。そうでなければ、世界中から観光客はこない。

殺人事件の93%は….

2014-11-25

昨晩のFox Radio では、Fergusonでの白人の警官による黒人の少年の射殺事件についてGrand Jury Decision(大陪審の評決)を人々は固唾を飲んで待っている旨のニュースがあった。そこで、Meet the Press という番組で二人の識者が激しい論戦をしたことが伝えられる。二人論戦の模様が再生されたが、二人とも興奮していて早口で私にはよく分からない。ただ、白人を擁護する識者は、「黒人の殺人事件の93%は加害者は同じ黒人である。なぜ例外的な白人による黒人の殺人にのみ注目するのか。大多数の黒人による黒人の殺害に注目して、これを減らす為の対策を考えたらいいのでは」と述べていた。

二人の論戦で、どちらに組すべきかは別として、印象に残ったのは、論者達は興奮しながらも数字を挙げて何かを証明しようとしていたことである。日本人ならば別の論戦方法を取るだろうと思われる。数字、具体的な事項をアメリカ人は好む。

永井荷風の『摘録 断腸亭日乗(下)』に次のような文章がある。昭和15年の5月16日に書かれた文章で「余は日本の新聞の欧州戦争に関する報道は英仏側電報記事を読むのみにて、独逸よりの報道また日本人の所論は一切これを目にせざるなり」(p.91)がある。

この当時、永井荷風のように、若くしてアメリカ、フランスに行き、西洋事情に明るくて、またフランス語が堪能でフランス語による情報も得ることのできる人は稀であろう。一般の人々は、新聞かラジオでニュースを聞くのみで、情報を吟味して選択する力はなかっただろう。繰り返し流される報道に、何かおかしいと感じながらも、次第に洗脳されていく。

現代では、メディアリテラシーの重要さが叫ばれている。日本のように多くのメディア媒体があり、比較的自由にその媒体を選べる場合でも、偏見や視野狭窄に陥ることがある。比較的客観的であると思われる数字でさえも作為的に作られる。マスメディアの報じる数字のからくりを知りたいと思う。とにかく心がけてマスコミに接しなければと思う。
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クリティカルシンキングに最近関心を持っている。ネットを見てみたら、「批評」(クリティック)とは、19世紀後半にフランス新カント派のルヌヴィエ(Charles Renouvier)が、カントの三批判(純粋理性批判、悟性批判、判断力批判)にインスピレーションを受け、主観的な文献解釈を総称してクリティークと言ったことで、この言葉がよく使われるようになったとあった。この考えが、カントに由来するとは知らなかった。