日本 (日本語)

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日本語の言語政策(幕末から現代まで)     

1636年(寛永13年):政府は、遠洋航海のできる船はすべて打ち壊すべし、今後は外洋に出られる船は造るべからずという命令が出された。(ウィリアムズ 1994:91)

1708年(宝永5年):屋久島へ上陸したイタリア人のイエズス会宣教師シドッチを新井白石が尋問する。

1724ー25年(享保9ー10年):新井白石が『西洋紀聞』を脱稿する。シドッチは白石に日本では、漢字の数が多く、ことごとくこれを暗記することの労の多大なことについて「徒に其心力を費やすのみ」と評したという。(石附 1985:23)

1771年(明和8年):『解体新書』翻訳開始

1787年(天明7年):蘭学者、森島中良 は『紅毛雑話』の中で、日本人が漢字を学ぶのに、いかに無駄な時間と労力を費やしているかが繰り返し述べられている。(石附 1985:28)

1790年(寛政2年):幕府の「寛政異学の禁」

1808年(文化5年)8月:イギリスの軍艦フェートン号事件起こる。幕府はこのような大事に至った原因の一つは、英語を理解できなかったことにあると考え、翌年、オランダ通詞たちに命じて、英語を学ばせている。日本人が公式に英語を学んだのは、この時が最初であると言われている。川澄 (1978: 2.5)

○ 17世紀から19世紀の鎖国の時代に、オランダ語が借用された。

○19世紀中旬、識字率は男48%、女15%ぐらいと考えられた。→クルマスP.329 明治時代には、お雇い外国人教師、ならびに欧米に派遣された留学生によって、多くの術語が取り入れられた。

1811年(文化8年)5月:幕府は天文台に、蕃書和解御用の一局を設けて、翻訳を担当させ、蘭書訳局と呼んだ。長崎通詞の馬場佐十郎と仙台藩医の大槻玄沢を訳員とする。

1814年:『諳厄利亜語林大成』、長崎蘭通詞の本木正栄の他、楢林実美、吉雄権之助が主になって編集、まとまった英和辞典の最初のもの。写本

1824年(文久7年):シーボルトが鳴滝の地に塾を開く。

○西洋の文物砲術等を学び、洋書の翻訳を急ぐのが、学問中の第一の急務とした。
(倉沢、1:3)そのために学政改革として3つある。(1)安政の学政改革 (2)文久の学政改革、(3)慶応の学政改革である。

1828年:シーボルト事件がおこる。

1842年(天保13年):オランダ語による『和蘭文典前編』が翻刻される(イ 1998: 73)。

1849年(嘉永2年):長崎へ牛痘種苗が入る

1853年(嘉永6年):米艦の来航(アメリカ東インド艦隊の4隻の蒸気船)

1855年:オランダ語の『和蘭文典前編』の訳本『和蘭文典前編訳語筌』がでる(イ 1998: 74)。

1855年(安政2年)7月9日:蘭書の翻訳と蘭学の稽古のために独立の調所をおくべきとの提案が老中阿部正弘伊勢守へ上申され、さっそく7月9日洋学所が設置される。

1855年(安政2年):東インド艦隊所属のペルス・ライケン一等士官を長とする22名の教育班がオランダから来日、長崎海軍伝習が始まる。(三好1986 p.13)

1855年:安政2年6月:海防掛4名が蕃書翻訳御用取り扱いを命じられる。8月:異国応接掛古賀謹一郎へ洋学所頭取を命じる。
○蕃書翻訳は砲術・砲台・軍艦・航海・測量・水陸練兵など兵術書の翻訳を主とする。ついで器械・国勢・地理・物産の翻訳に及ぶこと。また御構内に蘭学稽古所を設けること、また通弁方の専修科を設けることが決められた。(倉1:88)
○蕃書調所の入学資格について、二つの考えの存在。一つは入学はすべて自由にして誰でも入学できるようにする(頭取古賀謹一郎)。他はまず漢学によって、日本人としての「本心」を養う必要がある(川路左衛門尉、水野筑後守)。後者が採用され、「経書弁書又は講釈等出来候もの」という入学資格が打ち出される。(倉沢1:114)また外国人教師の招聘も検討されたが、調所の段階では実現しなかった倉沢(1:130)。

安政3年(1856)3月から蕃書調所となり、安政4年1月18日開業式で191名が入学する。(倉沢1:117)主に蘭書の研究をおこなう。
(倉沢1:77)機能としては外交と国防(西洋兵術の研究)が中心となる。

1856年:オランダ語の『和蘭文典前編』の訳本『和蘭文典読本』がでる(イ 1998: 74)。

1856年(安政3年):米人ハリスの来日

1857年:オランダ語の『和蘭文典前編』の訳本『訓点和蘭文典』がでる(イ 1998: 74)。

1857年(安政4年):幕府は第一次と第二次のオランダ教育班の交代を機に、幕府伝習員を江戸に引き上げさせ、講武所のなかに軍艦教授所を設けた。教育の日本化への努力の一つ。三好1986 p.21

1858年(安政5年4月):井伊大老が出現、対内的には保守反動政策を採り、阿部正弘以来の進歩的な教育政策は抑圧される。蕃書調所を冷遇。
万延・文久:英学を望む稽古人が著しく増え、日々およそ100人ほどの内、英学が6、70名に達したとの記述がみえる。(倉沢1:160)また当代一流の洋学者がもれなく蕃書調所に集められた。(倉1:164)

1858年(安政5年):フルベッキが長崎の語学所の教師になる。彼は済美館と佐賀藩の到遠館に隔日交代で出勤する。三好1986 p.37

1858年(安政5年):江戸で種痘所が開設される。

1859年(安政6年2月):長崎海軍伝習は中止となる。

1860年:安政7年1月:遣米使節(新見豊前守ら3人)は日米本条約書交換のために米国に派遣されるが、英語でなくては諸外国人との引合もできない情勢を、身肌で感じとり、ひろく国内に英語を普及するために、英語の稽古用書を購入。(倉1:170)

万延元年:蕃書調所は英語入門書として「ファミリアル・メソード」を刊行する。英語稽古人のために入門テキストに用いる。

万延元年:小林秀太郎ら幕臣の子弟4名が、正泉寺の宿舎で、ジラールからフランス語を伝習した。幕末の語学伝習の始まり。倉沢剛(1:p.6)

1861年(文久2年5月):幕府は学政の進展を計るために、数十カ所に小学校を起こすことを決定するが、財政難から中止となる。

1862年:『英和対訳袖珍辞書』堀達之助が編集主任、箕作真一郎と千村五郎が助手をおこなう。英蘭Pocket dictionaryの蘭の部分を削り作る。等編 オランダ系の辞書

1862年(文久2年)2月:官版バダビヤ新聞や官版海外新聞を発行する。

1862年5月:蕃書調所は洋書調所となる。

1863年(文久3年)8月:洋書調所は開成所と改称。洋書の翻訳は手段であり、目的は学術の修得であり、諸器械の制作であり、利用厚生と富国強兵である。従来は手段を名称にしていたが、今後は目的を名称とする事になった。また語学と技術の部門が分離した。名称変更は単なる書籍上の研究から実事実験へと兼官したことを象徴とする。(倉1:193)

1863年(文久3年):ポンペの門弟であった松本良順が緒方洪庵急逝のあたをついで、奥医師兼医学所頭取になり、医学所をとりしきった。福村p.278

1863年(文久3年):ジャーディン・マセソン商会は5名の長州藩士をイギリスに国禁を犯して留学させる。三好1986 p.14

1865年(慶応1年):グラバー商会は15名の薩摩藩士を国禁を犯し、イギリスに留学せせるのを手伝う。三好1986 p.14

慶応1年3月:仏蘭西語学伝習所開校、最初の教師にカションが就任。三好1986 p.40

慶応2年10月:長崎の究理分析所を開成所にうつす。教師オランダ人ガラタマを江戸に呼び寄せる。

1866年(慶応2年)12月:前島密(幕府開成所反訳方)は、将軍徳川慶喜に「漢字御廃止之議」を呈して、国民に教育を普及するには、なるべく簡易な文字文章を用いなければならない、そのためには漢字を廃止して、「西洋諸国の如く音符号(仮名文字)を用いて」教育を布くべきであると、建言した(川澄 1978:18)。 

1866年(慶応2年):福沢諭吉が『西洋事情』初編刊行する。

1867年(慶応3年):『和英語林集成』 ヘボン(J.C.Hepburn)による ◎英和辞典による訳語の確定と一般へその訳語が普及していった。(森岡から)

1868年6月(慶応4年):旧幕府の医学所が復興された。(1858年種痘所→1861年西洋医学所→1863年医学所)

慶応4年6月:開成所は医学所とともに朝廷に引き渡される。

1868年:福沢諭吉が初等科学をあつかった『訓蒙窮理図解』において、訳語は漢語を用いており、その訳語はいまでも物理学や化学の用語として用いられている(イ 1998: 35)。

1868年(明治1年):新政府の雇った最初の外国人は会計官雇となったフランス人コワネであり、生野鉱山の開発に寄与した。三好1986 p.44

1869年4月(明治2年):フルベッキが開成学校に雇われ、のち大学南校の教頭になる。三好1986 p.44@開成所は大学南校になる。

1869年:大学南校(東京大学の前身)は、英仏独の三カ国の言葉で、まず普通学が教授された。学生は、外国人教師から教えをうける正則生と、日本人から教えを受ける変則生に分かれていた。川澄 1978:9

1869年:『和訳英辞書ー薩摩辞書ー』高橋新吉

1866ー1869年:ロブシャイドの『英華辞典』が香港で出版、後年の日本の辞書や中村正直訳『西国立志篇』明治4年、『自由の理』明治5年の訳語に影響を与える。
西周訳『利学』明治10年にも影響あるだろう。当時の日本の辞書の訳語は蘭学の影響から抜けて、新たな拠り所として、英華辞書を用いたらしい。

1869年:多数の外国人教師が雇われた。以前の幕府の医学校も復活される。

1869年:前島密は「国文教育之儀に付建議」を明治新政府に提出する。その中で、またもや「漢字を廃し仮名字を以て国字と定め」と強く主張する(イ 1998: 31)。

1870年2月(明治3年):外務省達「外国人雇入心得条々」で雇い入れの注意事項を前8条にわたり、記している。三好1986 p.45

1871年:東京医学校にドイツからミュルレルとホフマンが来日してオランダ医学からドイツ医学へと転換が計られた。それ以降同校の外国人教師はすべてドイツ人で占められた。(三好1986:174)○外国教師の多くは自国語を用いて教授したが、理化学の授業の実際の場面では、ドイツ人教師がドイツ語ではなく英語で講義し、イギリス留学経験者の日本人教師が通訳を行うかたちや、他に日本での在住が長期間に渡る外国教師の中には日本語で授業を行っていた例なども見られる(井上,1984:228,241)。

1871:独魯清語学所が外務省によって作られる。

1872年:『学制』の発布、なおその中で、外国教師という言葉を使い、また御雇教師とか御雇外国人などの公用語も使用された。

明治4年7月:改革により、大学南校は南校と称され、変則生が廃止された。翌年の入学者は英学生が9等級に、仏独学生は6、4等級に分けられた。英9、仏6を除いて、主任教師はすべて外国人で、その補助として数名の日本人があたった。6年に開成学校になったが、学科は法学、理学、工学に分けられ、その講義は英語だけでおこなう「英学本位制」がとられた。それは英語が最も、一般的であり、生徒数が多かったからである。今まで、仏独を修めたものは、なるべく英学に転学させる方針がとられた。川澄 1978:9 ○当時は法学、理学、工学といった実用的な学問や技術教育が重んじられたのに対して、、文学教育や史学はきわめて軽んじられていた。専門学が外国人教師によって、英語で教授されることになった結果、生徒たちは英語に熟達していなければならない。明治7年に、東京、愛知、広島、新潟、宮城、大阪、長崎に英語学校が設立された。また英学をおこなう私塾がたくさんできて、福沢諭吉の慶應義塾、中村敬宇の同人社などが有名である。これらの公私の諸学校でも盛んに外交人教師を雇用したが、彼らは必ずしも教師としての学識を備えた人ではなくて、当時在留外国人の間で、開成学校が「無宿者の収容所」と呼ばれていた事から、分かるように、横浜あたりにいる外国人をただ英語が話せるというだけで、高級をはらって採用することも多かった。そのために教師の前歴は、商店員、マドロス、ビール醸造業者、サーカスの道化役者、屠牛所の親父までが雇われたという。川澄 1978:11 ○この状況は明治10年頃の東京開成学校と東京医学校の合併で東京大学となることから変わり始める。外国人教師に対する質的要望が高まってくるからである。明治11年にハーバード大学より、フェノロサを招聘したころから情勢は変わり始める。川澄1978:12 

1872年8月(明治5年):文部省の「教師雇入条約規則書」三好1986 p.46

1872:韓語学所が外務省によって作られる。

1872年(明治5年5月21日):森有礼はエール大学教授のW.D.Whitney(ホイットニィー)に書状を送り、「英語を日本の国語として採用する必要がある」という彼の意見に対して意見を求めた。川澄編 1978:22(資料1「ホイトニー宛書状」)@日本の教育に英語を導入するために、英語の文法的な不規則性を全て排除した「簡易英語Simplified English」の使用を提起している。(浜田ゆみ 1997:338)@「その英語も現在のままでは、複雑かつ難解であるから、日本人が習得しやすいような英語にしなければならない。例えば、すべての不規則動詞や、名詞の複数形を規則的にする。気まぐれな綴り字法を廃して、音声に基づいた正書法を確立すること」を提案した。(川澄編 資料日本英学史2 1978:22)

1872年:新約聖書の翻訳委員が選ばれ、1879年に翻訳完成
      ギリシア語原典 プラス 英訳注解書
              ↓
       外人の委員の不十分な日本語による口述 プラス 漢訳聖書
                           ↓
                     補佐人の書いた日本語

1873年(明治6年):森有礼は『日本の教育』をニューヨークで刊行するが、そこで、日本語の廃止と英語の採用を唱えている。ホイトニー宛の手紙では、まだ、日本語をローマ字で書くと言う形で残しておく計画があったが、ここでは、それもすべて放棄してしまった。川澄編 1978:23(資料2「序文」)

1873年:森はニューヨークで英書『Education in Japan』を刊行して、その序文でおおやけに日本語廃止論、英語国語化論を展開している。(渡辺 1983: 66)

1873年:ロンドン在住の馬場辰猪(たつい)が、『Elementary Grammar of the Japanese Language, with Easy Progressive Exercises日本語の練習問題つき簡約文法』の中で、森の日本語廃止論に反論している(渡辺 1983: 69)。@An Elementary Grammar of the Japanese Language『日本語文典』を書いて、森有礼の議論の根幹をなす認識、つまり日本語は不完全な言語であるという認識をくつがえそうとした(イ 1998: 14)。馬場は、「文法」を書くことがその言語の存在を確認し、その言語を話す言語共同体の自立性を表示する最大のあかしになるという社会言語学的先見性をもっていた(イ 1998: 17)。馬場は英語でしか書けなかった。当時は、書き言葉と話し言葉の間に越えがたい壁があり、漢文調の書き言葉(漢学)の素質がなかったために、英語でしか書けなかった(イ 1998: 23)。

1873年:『英和字彙初版』柴田昌吉、子安峻、明治になってあらわれた最初の大辞典で後世への影響大。詳細は岩崎克巳『柴田昌吉伝』豊田実『日本映画史の研究』にくわしくある。@2人の英学者によって、『附音挿図英和字彙』がでる。日本で最初の本格的な英和辞典といってもよい(イ 1998: 74)。この本は種本があり、それは香港で1866-69年にかけて刊行されたロブシャイトの『英華字典』である。森岡健二の調査によれば、見出し語の47.2%は、『英華字典』と同じ訳語をもっている(イ 1998: 75)。

1873年(明治6年):前島密は、「学制御施行ニ先ダチ国字改良相成度卑見内申書」を右大臣岩倉具視と文部卿大木喬任に提出して、「其音符字(仮名字)ヲ用テスルニ在ルベシ」と主張した。(川澄 1978:18-9)

1873年2月-1974年5月:前島密は「まいにち ひらかな しんぶんし」という平仮名の新聞を発行した(イ 1998: 32)。

1874年(明治7年)3月:西周は『明六雑誌』第一号で日本語の表記にローマ字を使用することを唱えた(川澄 1978:19、資料5「洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論」)。

1874年(明治7年)5月:清水卯三郎は『明六雑誌』第七号に「平仮名ノ説」で平仮名をもちいて日本語を書くべきとの主張した。川澄編 1978:19(資料7「平仮名ノ説」)@清水は科学入門の訳書『ものわり の はしご』を仮名文であらわしていた。元素→おほね 空気→ほのけ 酸素→すいね 水素→みずね 炭酸→すみ の す 、である(イ 1998: 35)

1875年(明治8年)6月:国字改革論者に対する反論は黒川真頼『洋々社談』第2号「皇国の言語を西洋の言語に改め文字も亦西洋の文字に革むるときは彼是相通して便利ヨシトイフ説アリ然れども言語は天地を金容(←この2文字を一字にしたもの)造るセシ高皇産霊神神皇産霊神の作りテ与ヘシモノナレバ人の所為ニテハ更フルコト能ハス」と述べている。 川澄編 1978:74(資料9「言語文字改革ノ説ノ弁」) 

1876年:旧約聖書の翻訳委員が選ばれ、1887年に翻訳完成

1876年(明治9年6月):クラークが来日、札幌農学校の教頭になり、月給600円であった。

1876年(明治9年):ベルツの明治9年6月26日の『日記』の中で、「着いてから5日で、すぐ生理学の講義を始めましたが、学生たちの素質はすこぶる良いようです。講義はドイツ語でやりますが、学生自身はよくドイツ語がわかるので、通訳は実際のところ単に助手の役目をするだけです」と記している。

1877年(明治10年):東京医学校は東京大学医学部となる。

1877年(明治10年):明法寮学校は法学校となる。(教師はフランス人のブスケとボアソナードである。)

1878年(明治11年):東京大学の政治学及理財学科に哲学者フィノロサが招聘される。彼はアメリカ人だが、ドイツ哲学が得意であった。

1879年(明治12年):学校令が発布、外国人教師の数が減り、日本の教育の自立化が進んだ。

1879年(明治12年)8月:神田孝平は、『東京学士会院雑誌』第一編第一冊に、「邦語ヲ以テ教授スル大学校ヲ設置スヘキ説」を説き、日本語を用いて、日本人が教授する大学校を速やかに設立する必要を述べた。その要旨は、今日のように外国語を用いて教育が行われていれば、外国人教師の給料その他の莫大な経費がかかる。外国語を習得するのも容易ではないから、学業の達成も遅く、深く広い学問を身につけることが困難である。もり日本語で教育がおこなわれれば、教師の給料は少なくてすみ、学業もすみやかに、深くかつ広く達成できる。川澄 1978:12 ○しかし今日から見てかなりのんきに考えている点がある。たとえば「教科書ナキトキハ...翻訳書往々之アリ其アル分ハ之ヲ用ヒ、其ナキ者ハ姑ラク口授ニテ弁スヘシ教員口授シ生徒筆受シ随テ浄書シ随テ整頓スレハ遂ニ良好ノ教科書ト為ルヘキナリ」と言語の新語作成の問題点等には気づいていない。川澄 1978:92(資料14神田孝平)この神田の説に対して、当時東京大学綜理であった加藤弘之は同じ『東京学士院雑誌』の中で、「専ラ英語ヲ以テ教授ヲナスト雖モ此事決シテ本意トスル所ニアラス全ク今日教師ト書籍トニ乏キカ為メニ姑ク已ムヲ得サルニ出ルモノニシテ、将来教師ト書籍倶ニ漸々具備スルニ至レハ、遂ニ邦語ヲ以テ教授スルヲ目的トナスノハ」必然であると述べている。川澄1978:93(資料15 加藤弘之妄評)○御雇外国人教師は「世界に相場の無」い高額な給料を取っていたが、政府はあくまでも知識・技術の提供者として利用したのであって、明治の半ばを過ぎて、日本が学問・技術において御雇外国人の助力を必要としなくなると、情け容赦もなく彼らを切り捨ててゆくのである。

1881年(明治14年):政府は明治14年ころから一貫して、日本人は大学では日本語によって教授するように支持している。中山(1978:59)

1881年(明治14年):東京医学校において、外科学のシュルツエ(W.Schultze)からスクリバが後を継ぐ。(三好1986:174)

1882年:『英和字彙第2版』@柴田昌吉、子安峻によって、『増補訂正英和字彙第二版』がでる(イ 1998: 74)

1882年(明治15年):矢田部良吉が『東洋学芸雑誌』の第7、8号に「羅馬字ヲ以テ日本語ヲ綴ルノ説」を発表して、ローマ字の普及を図るべきとした。「日本ノ文字ハ此ノ如ク難キヲ以テ、其学生ハ貴重ナル時日ヲ空シク、読書綴文ニ費シテ、実地ノ学識ヲ得ル甚遅シ 」川澄編 1978:20;74(資料10「羅馬字ヲ以テ日本語ヲ綴ルノ説」)

1882年(明治15年):文部省「官費海外留学生規則」以来、東京大学卒業生を留学させて、帰国後御雇い外人に代わって、大学で教える、というコースがはっきりしてきた。

1882年:仮名文字運動として、「かなのとも」「いろはくわい」「いろはぶんくわい」が結成され、翌年の7月にこれらの3会が合併して、「かなのくわい」が結成された(イ 1998: 36)。

1885年:ローマ字運動として、羅馬字会が創立された(イ 1998: 36)。

1885年:高田早苗は『中央学術雑誌』第10号に、「英語ヲ以テ日本ノ邦語ト為ス可キノ説」を発表している。(渡辺 1983: 69)

1886年:帝国大学に博言学科が設置される。

1886年(明治19年):児童の初等教育就学率46%である。サンソム(下:p.220)

1886年:物集高見(かなおくわい・評議員)は『言文一致』という論説を刊行する(イ 1998: 53)。

1887年:チェンバレンが「言文一致GEM-BUN ITCHI」を発表する(イ 1998: 53)。

1887年:チェンバレンが『日本小文典』を文部省から刊行する(イ 1998: 53)。

1887年(明治20年):二葉亭四迷が『浮雲』で言文一致を実行した。これは、漢文訓読体の支配権から脱却するためであった(イ 1998: 22)

1887年頃:物集高見が帝国文科大学教授として活躍して、国語という述語をはじめて作った、と息子の物集高量がいっているとのこと。(田中1985: 110)

1888年:『和訳英字彙』島田豊纂訳、これは第三期の辞書で、辞書は英華辞書の影響を抜け出し、現代語訳に近づいてくる。

1888年:山田美妙「言文一致論概略」を発表する。彼は前年に『武蔵野』という言文一致体小説を書いて著名になっていた(イ 1998:59)。

1889-91年:大槻文彦が独力で『言海』を編纂する。その後のあらゆる日本の国語辞典の範となった(イ 1998: 83)。

1894年6月:上田万年は三年半に及ぶヨーロッパ留学を終えて帰国すると、ただちに帝国大学教授に任命され、博言学講座を担当することになる(イ 1998: 118)

1896年(明治29年):児童の初等教育就学率61%になる。サンソム(下:p.200)

明治34年:ベルツは明治34年の日記の中で、「学生はますますドイツ語がよく分からなくなるばかりだから、授業も以前ほどはもう楽しくない。できることなら、すぐ辞職したい(トク・ベルツ編 1979:上232)」と不満を洩らしている。○資料日本英学史2(p.35)によれば、明治33年9月20日の日記と記載されているが、原訳にあたり、これは間違いと判明。

1900年:原敬は「漢字減少論」を述べている(イ 1998: 40)。

1900年:国語政策の淵源は1900年に発足した国語調査会にあります。それはさまざまな変遷を経て2000年に国語審議会が廃止されるまで100年間続きました。

1902年:1902年に示された国語調査委員会の基本方針は次のようなものでした。
一、文字ハ音韻文字(「フォノグラム」)ヲ採用スルコトヽシ仮名羅馬字等ノ得失ヲ調査スルコト
二、文章ハ言文一致体ヲ採用スルコトヽシ是ニ関スル調査ヲ為スコト
三、国語ノ音韻組織ヲ調査スルコト
四、方言ヲ調査シテ標準語ヲ選定スルコト
上記のうち第2項から第4項までは標準語の制定に焦点が当てられています。日本中でだれもが使える話し言葉を作り上げ、それによって漢文直訳体の文章を改めてわかりやすい口語体の普通文にしていくことが大きな課題となっていました。言い換えれば、現在私たちが日常的に使っている日本語というのは、この時期にその基盤が作られた人工言語であるということになります。

1902年:日本における表音主義の中心となる留学帰りの上田万年が、表音主義に基づき、漢字を排除した日本語を創るべきだと文部省に積極的に働きかけ、文部省が国語調査委員会を発足させた(水村2009:183)。

1906年(明治39年):児童の初等教育就学率95%になる。サンソム(下:p.200)

1915年:『英和大辞典』井上十吉編、第四期の辞書であり、訳語はほとんど現代語である。

1919年:北一輝が『日本改造法案大綱』を書く。その中で、日本国民の大苦悩は日本の言語文字のはなはだしく劣悪なる事にあるので、エスペラント語を第2国語として採用する。そして50年後に、それを第1国語とする。(大島義夫、宮本正男 1987: 51)

1933: 日本語を国家語とする表現については、それはStaatsspracheというドイツ語からの翻訳であって、保科孝一がこの年の「国家語の問題について」という論文の中で用いた例がはじめてであろう。(田中1985: 108)

1934年:斎藤秀一(さいとうひでかつ)がローマ字教育を実践した。ガリ版刷りの雑誌『文字と言語』を計13号まで(34年9月から38年5月)発行した。(浜田ゆみ 1997:348)

1936: この時の柳田国男の文章の中に、「国語という言葉は、それ自身新しい漢語である。是に当る語は、古い日本語には無いやうに思府」とあって、その時代の知識人には「国語」は新漢語という語感が維持されていたことがうかがえる。(田中1985: 110)

1937年6月:斎藤秀一(さいとうひでかつ)が「国際ローマ字クラブ」をつくり、全文エスペランドの雑誌『Latinigo』を第3号まで出した。(浜田ゆみ 1997:348)

1938年6月:左翼言語運動事件がおこり、大島義夫、鬼頭礼蔵などが検挙された。(浜田ゆみ 1997:349)

1942年:戦時中に「ニッポンゴ300」では、300語弱の生活語で「アナタホンヨムカ」「ワタシホンヨム」のような表現を使って普及させようとしたという。助詞・助動詞を少なくして簡略化した文法である。(井上2001: 155)

1946年4月:志賀直哉は昭和21年4月の『改造』において、次のような日本語廃止フランス語採用論を唱える。 「外国語に不案内な私は、フランス語採用を自信を以って言うほど、具体的に分かっているわけでもないが、フランス語をおもったのは、フランスは文化の進んだ国であり、小説を読んで見ても何か日本人と通ずるものがあると思われるし、--中略--そういう意味でフランス語が一番良さそうなきがするのである」

戦後まもなく:尾崎行雄(咢堂:がくどう)は会うひとごとに、「日本が民主国家になるためには、国語を英語にしなければだめだ、日本語という幽霊を退治することがなによりも大事だ」と言っていたのです。(鈴木孝夫 1995 『日本語は国際語になりうるか』講談社 p.221)

1958年:鶴見俊輔が東京言語研究所で「日本語と国際語」と題する講演をしている。「国際語というのは、国際的に通用する言語のことで、世界の人がみな同じひとつの言語をしゃべる場合の世界語とは違う。」と述べる。(渡辺 1983: 71)

1979年:「簡約日本語」というのは、1979年3月号の『月刊言語』の「簡約日本語のすすめ」という論文で野元菊雄氏が提唱したものである。

1983年:中曽根内閣が「留学生受10万人計画」を発表する。このころの10倍の外国人留学生を21世紀初頭までに日本に受け入れるという方針を示す。(なお、具体的には、1983年8月の「21世紀への留学生政策に関する提言」と1984年6月の「21世紀への留学生政策の展開について」の2つの提言を示す)

1984年:日本語能力試験が始まる。国際交流基金と日本国際教育協会(現、日本国際教育支援協会)により、日本語を母語としない人の日本語能力を測定して認定する試験である。受験者は全世界で、7000人程度であった。(2011年度は、全世界で61万ほどに広がる)

1985年:大学に日本語教育主専攻・副専攻の課程が設けられる。

1985年:文部省から日本語教育機関へ日本語教師の資格として420時間以上という受講時間数が示される(1988年に当時文部省学術国際局から発表された「日本語学校運営のガイドライン」において日本語教師の資格として420時間以上の日本語教育に関する研修を受講したものという条件が付される)。

1986年:日本語教育能力検定試験(Japanese Language Teaching Competency Test)が始まる。

1988: 野元氏は国立国語研究所の所長になり、1988年に主要な事業の一つとして掲げたことから一躍世間の注目を浴びるようになった。

1988年11月:上海事件がおこる。中華人民共和国の上海市に設けられている日本の総領事館に「就学ビザ」発給を求める就学ビザ申請者が、大挙押し寄せた事件である。

1988年12月23日:文部省は「日本語教育施設の運営に関する基準」を発表し日本語学校の整備に着手した。

1989年5月9日には「日本語教育振興協会」(日振協)が設立され日本語教育施設の審査・認定等を行うこととなった。

1990年:入管法改正される。多くの日系の人が南米からくる。彼らへの日本語教育が意識されるようになった。

1992年:『簡約日本語の創成と教材開発に関する研究』という報告書が出された。

2002年:日本留学試験(日留試)が始まる。それによって、私費外国人留学生統一試験(私費統)が廃止される。

2004年1月:日本語学会は,日本語研究の進展を願って,1944年に「国語学会」として設立され,2004年1月に「日本語学会」に改称しました(1)。日本語を研究対象とする研究者,および日本語に関心を抱く人々を会員として運営されています。

2010年:日本語能力試験は新しく改訂された。2010年(平成22年)の改定で、N1-N5の5段階になった。2010年(平成22年)7月はN1-N3レベルのみ。

2010年(平成22年)12月以降は全レベルを実施している。「N」は「Nihongo(日本語)」「New(新しい)」を表している。なお、それまでは、1級から4級までの4段階であったが、改訂となった。


(1)国語学会とするか日本語学会とするかでの議論に関しての意見は以下のようである。HPからとる。http://wwwsoc.nii.ac.jp/jpling/meisyo/atukai.html
《改称に賛成するもの》
(ア) 日本語を対象とする言語学という意味で,「日本語学」がふさわしい。「国語学」の「国語」は国家の言語の意であろうが,現在の日本語研究は多くの場合国家の存在を前提としたものではない。
(イ) 日本語研究が多くの外国人によっても行われるようになった現在,「国語学」という国際的に通用しにくい名称が不適当になっている。
(ウ) 日本語教育に関わる日本語研究の分野,あるいは現代語研究の分野では「日本語学」を,歴史的研究の分野では「国語学」を使う傾向が強くなりつつあり,「国語学」という名称がかつて有していた包括性が失われてきている。
(エ) 現に進行している日本語研究の細分化を克服するためには,日本語研究の全域を覆う学会の存続が必要であり,それには旧来の「国語学会」の名称を維持するよりも,新たに「日本語学会」の名称を採用することが望ましい。
(オ) 近年,大学等では専修・専攻名および教科目名として「日本語学」を採用するところが増えている。また今度,科学研究費の分野の再編があり,細目名の中で「国語学」→「日本語学」という改称があった。
(カ) 大学生を含む一般人から見て,「国語学」という名称は,小・中・高の教科としての「国語」と結びつきやすく,誤解を生じやすい。
 《改称を批判するもの》
(ア) 学の名称として,文献学的な日本語研究には「国語学」を,言語学的な日本語研究には「日本語学」を当てるべきものであり,学会の名称としては,前者が「国語学会」に,後者が「日本語学会」に対応する。したがって,単純に「国語学会」を「日本語学会」に改称すべきではない。
(イ) 「国語」が政治的であるように,「日本語」も十分政治的である。たとえば,「大日本帝国」が直接支配した地域で通用すべき言語の名称としては「国語」が,それ以外の「大東亜共栄圏」における諸地域で通用すべき言語の名称としては「日本語」が使われたという歴史がある。安易な改称は,そのような問題の所在を曖昧にする。
(ウ) 「国語学会」を「日本語学会」と呼び変えることによって,「国学」の流れを受ける「国語学」の良き伝統を捨てることになる。
(エ) 「日本語学」は従来の「国語学」との差異化を目指して成立した学の名称であり,その「日本語学」を冠して「国語学会」が「日本語学会」と改称するのは,そのような「日本語学」の側の努力を無視するものである。
(オ) 「日本語学」という名称も,必ずしも包括的であるとは言いがたい。

日本の言語計画の歴史は概略としては、次のことが言える。
(1)明治・大正期には、欧米語にならって文字・表記・文章を簡略化しようとする合理主義の立場からの改革案が出される。伝統を重んじる立場は反対して、両者の対立がある。
(2)昭和初期は国体擁護の立場に立つ伝統重視派が容易に立つ。
(3)戦後は合理派が勢力を得る。
(4)1960年代から、急進的な改革に対して反省がなされ、再び伝統重視の意見が取り入れられるようになる。

東京語が各地の方言を取り入れているので、一番中立的である。

当初は京都の言葉が権威ある標準語とされていたが、次第に明治の10年代後半から20年代初頭にかけて、言文一致運動が最初の興隆期を迎えた時期と「東京語」の主導権が次第に認められた時期が一致しているのは偶然ではない(イ 1998: 61)。

国語の理念は、日清戦争を頂点とする明治20年代の精神状況を土壌にして生まれた(イ 1998: 86)。

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